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燃え尽き
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2025.12.10 14:00
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倭国における「世間体という宗教観」
田舎の両親はなぜ世間の目を気にするのか?
『菊と刀』の現代的読み替えとして、世間体そのものが宗教体系と同じ働きをしているという議論が可能です。
(1)なぜ“宗教”なのか
宗教の要件には以下があります。
・超越的な規範(教義)
・共同体の維持のための儀礼
・不可視の監視者の存在
・逸脱者への制裁
倭国の「世間」はこの全てを満たします。
#超越的な規範
「そんなことしたら恥ずかしい」
「普通はこうする」
⇒ 出所不明だが絶対視される「共同体の掟」
#儀礼
挨拶、お返し文化、年中行事、御礼のメール
すべてが“儀礼”として振る舞う。
#監視者
“世間”は具体的な人物ではなく、抽象的で遍在する他者。
これは一種の「目に見えない神」に近い。
#制裁
噂、仲間外し、SNS炎上、同調圧力
これらは“宗教的制裁”と同様の機能を持つ。
(2)世間体宗教の心理的作用
#メリット
協調性が高まり、集団としての統合力が強い
争いの回避
マナー・礼儀といった社会的美徳の形成
共同体性の安心感
#デメリット
現代の精神医療では、こちらが大きな課題となる。
過剰適応や燃え尽き(義務が強くなりすぎる)
“みんなから見られている”過剰な被受容不安
罪悪感ではなく“恥”による自己否定
SNS時代の“無限の世間”によるストレス
逸脱=存在の危機 という構造(HSP・発達特性の人は特に脆弱)
「承認欲求」「自己肯定感の揺らぎ」「過剰感受性」「炎上や誹謗中傷」
などの多くは、この“世間体宗教”の心理モデルで整理すると精密に説明できます。
(3)現代的アップデート:SNSと“世間の拡張”
ベネディクトの描いた「世間」は、当時は狭い共同体内のものでしたが、現代ではSNSによって世間が無限化しています。
昔:村で見られている
今:全国・世界で見られている(フォロワーの目)
エコーチェンバー効果で“世間”がより過激に
逸脱者への制裁(炎上文化)は宗教的粛清に近い
したがって現代の倭国人は、
恥→罪→スティグマが連鎖し、精神的負荷が非常に強い社会に生きています。 December 12, 2025
5RP
燃え尽き症候群だったのかな。情緒的消耗感が当てはまってて、後半になると脱人格化。責任感強くプレッシャーを常に感じながら仕事してたが、顧客からの細かい要求事項が難しく、ずっと続くし、為になってる感もなく申し訳なさを感じながら自己肯定感が低下してた。消耗しきったんだなあ December 12, 2025
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ななちゃん~😭😭😭 おはよう~
最初の数日間は、野良でPTを探すだけで本当にかなりのエネルギーを使ってしまって、
正直「ちゃんと練習できた」という実感がほとんどなかった。
その後の2日間も、前から続いていた睡眠不足の影響で、
自分としてはあまり良い調子じゃなかった
昨日は最後の日だったので「ここで一度全力で行こう」と思って挑戦して、
運が良くて、ずっとTFモードを挑戦していたPTの方たちが、
最後にHMをやるために人数が足りなくなって、ちょうど私が補充で入る形になって…。
一番希望が見えていた回で、2-3最後の無力化ギミックがどうしても削り切れず、
みんな「もう燃え尽きたね…」という感じで解散になりました。
はぁ……カゼロス、本当に疲れますね。
今のLost Ark正直前より明らかにプレイヤーが減っている気がして、
やっぱりレイドのプレッシャーが大きすぎるのと、作業感が強いのが原因なのかな・・・
4幕くらいの難易度はちょうど良いと感じているんですが、
終幕のHMはちょっとやりすぎというか……
ノーマルとの差がかなり大きくて、特に2-2と2-3が一番しんどい・・・ December 12, 2025
このアカウントは現在藍月すりっぷさんやPCの話と配信やTRPGの感想とFAの RPを主に行っています
好きな歌ってみたは私は最強、新人類、ファイアダンス
好きな卓は柊紀家、ぷりんすテロリスタ、藍月いおりンゴの一日、きりっぷシスダブ、このぷんすかが燃え尽き果てるまでetc
対戦よろしくお願いします December 12, 2025
前世紀は「免疫学の時代」だった。免疫学は「他性」に対する免疫反応によって特徴づけられる。
しかし今日では、他性は差異に取って代わられている。知的な言説は過去の言説を引きずるから、このような根本的なパラダイム・チェンジを的確に捉えることができないでいる。
ビョンチョル・ハン『疲労社会』(横山陸訳 花伝社)で著者が論じていることのコンセプトは、「他性の時代から差異の時代へ」ということであり、一見すると「モダンからポスト・モダンへ」という旧態依然とした図式に見紛うのだが、論者が企てているのはポスト・モダンの論考でありがちだった「差異との戯れの称揚」ということではない。むしろ、新しく出現した「差異を自己搾取する構造」からの脱却に焦点が絞られた議論が展開されている。
まず、「免疫学の時代」とは、どのような時代だったのか。著者が論じている件を引く。
「前世紀は免疫学の時代であった。それは、内と外、敵と友、自己と他者が明確に区別された時代であった。東西冷戦もこうした免疫学の図式に基づいていた。いやそれどころか、全盛期の免疫学的なパラダイム自体が、一貫して冷戦のボキャブラリーによって、つまり物事をまったく軍事的に考える傾向によって支配されていた。免疫学的な行為は、攻撃と防御という発想によって規定されている。免疫学的に物を考える傾向は、生物学的なものだけでなく、社会的なものにまで広がり、社会全体を規定するレベルにまで達している。それにもかかわらず、この考え方は正しく理解されていない。防御とは、あらゆる異質なものに対する防御を意味する。免疫学的な防御の対象は、異質性そのものである。たとえ異質な他者が絶対的な意図をもたず、何の危険もないとしても、この異質な他者はその<他性>のために排除されるのである。」
「異質な他者が、その<他性>のために排除される」ーこれが前世紀的な世界像を特徴づける図式だった。
<他性>への不適切なほどの恐れーファシズムも民族主義も、言わば免疫機能が暴走する自己免疫疾患として捉えられる。
先に書いたように、言説は過去の言説を参照して編集される。だから、現在の政治的言説にも、いまだ、この免疫学的な図式に基づいた言説は多い。
だが、現在の社会がはらむ真にリアルな問題は、もはやこうした図式で捉えられる問題とは、パラダイムが異なっている、と論者は主張する。「しかしこんにち、他性は差異に取って代わられている」。
「差異は、免疫反応を引き起こさない。差異はポスト免疫学的であり、それどころかポスト近代的であり、それはもはや病因ではない。免疫学的なレベルで見ると、差異とは、<同質なもの>である。差異には、激しい免疫反応を引き起こす、いわば異質性の棘が欠けている。異質性はその鋭さを失って、消費の決まり文句に変わってしまう。異質なものは、エキゾチックなものに成り下がってしまう。そして、エキゾチックなものは、観光客に旅される。観光客や消費者は、もはや[異質なものに対して激しい拒絶反応を示す]免疫学的な主体ではない。」
論者は、免疫性の根本的な特徴を「否定性の弁証法」である、と論じるー「免疫学的に他なるものとは、私の内部へと侵入し、私の固有性を否定しようとする否定的なものである。もしこのとき、私の固有性がこの他なるものの否定性を否定できなければ、私の固有性はこの他なるものの否定性によって滅ぼされてしまう。つまり、私の固有性は他なるものの否定性を否定することを通じて、この他なるものにおいて自己を主張する」。
SNSやオールドメディアでまき散らされている言葉の多くは、こうした「他なるものの否定性を否定することを通じた私の固有性の主張」であり、だから、その本質において攻撃的であり、且つ、さらにその裏には、世界や他者に対する恐れがべったり張り付いている。しかしそのすべてがどこか茶番めいた、アクチュアルさを欠いたものに感じられるのは、その免疫学的な図式自体が、前世紀的なものであり、現在の真の問題を捉えることに失敗しているからではないか。
論者は、例えばうつ病、注意欠陥多動症(ADHD)、燃え尽き症候群(BS)といった症状に現れる現代的な問題の根には、免疫学的な他性の欠如、むしろ同質的なものの過剰、肯定の過剰が関わっているという。
同質性の過剰とは、システムを脅かす外部の暴力性ではなく、システムそれ自体がはらんでいる暴力性であり、排他的な暴力性ではなく、包摂的な暴力性である。
否定性を媒介にした免疫学的な主体においては、規律(ディシプリン)が何よりも重要になる。規律社会において支配的なのは「してはならない」という禁止、そして「すべき」という当為だ。
しかし現代の社会においては、禁止、命令、規則の否定性に基づいた規範から、人はますます解放されていく。それに取って代わるのが、計画(プロジェクト)、自発性(イニシアチブ)、動機づけ(モチベーション)だ。
現在は、前世紀的な規律社会に取って代わって、現代的な「能力社会」が、問題を生み出すようになっているのである。
前世紀的な規律社会の否定性が生み出したのは、禁止や命令に従わない者としての狂人や犯罪者だった。それに対して現在の能力社会が生み出すのは、計画、自発性、動機づけを自己訓練できない者としての、うつ病患者と無能な人間なのである。
「うつ病とは、第一に、何かを為すことに疲れ、できることに疲れた状態である。うつ病の個人は、何もできないと訴える。だが、こうした訴えることができるのは、できないことは何もないと信じている社会だからこそである。
もはや何もできないということができる、こうした事態が行き着く先は、破壊的な自己批判や自虐である。能力の主体は、自分自身と戦っている。そしてこの内面化された戦いの負傷兵が、うつ病患者である。うつ病とは、肯定性の過剰に苛まれた社会の病理である。それは、自分自身と戦う人類を反映している。」
さて、本書の理路をすこしはみ出すが、私はうつ病患者とは、「現代社会の圧と誤った戦い方をした結果の負傷兵」だと捉えている。
現代社会は、主にグローバリズム化された市場の力によって、<他性>が<差異>に還元されることにより、生産=消費主体としての自己訓練を促される社会だ。
その社会が強いてくる自己訓練に対して否定性をもって対するのがうつ病患者だ。だが、本当は、この社会が強いてくる自己訓練への誘いに乗らなければいいだけなのではないか。
前世紀が「幻想の他性に対する免疫疾患」としてファシズムや狂気を生んだとすれば、今世紀は「自己による過剰な自己の搾取」が問題になっている。
今世紀のレジスタンスの形は、だから、自己訓練を否定するのではなく、自己訓練を生産性から解き放つことなのではないだろうか。
つまり、生産性の観点からは無意味なこと、無駄なことに心血を注いでいく。社会化された価値を否定するのではなく、社会化されることがない主観的な価値ーその内在性の次元に意識を向けていくこと。
この本の最後に、どちらかというと否定的なニュアンスで書かれている「この生が一切の超越を脱ぎ捨て、たんなる生の内在へと還元される」という事態を、むしろ積極的に価値づけていくことが必要とされているのではないだろうか。 December 12, 2025
macoさん
こんにちは〜♪
今日🆙あって
びっくり…嬉しい😃
「風の篝火」
ルカ歌で聴いたこと
あります٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
さだまさしさんの歌詞
凄いですねぇ♡
燃え尽ききるように
二人の愛も…🥲
ルカ君の唄声🎤🎶🎸💞
しみじみ聴き入っちゃう
🆙ありがとうございます https://t.co/znXdkEjrXD December 12, 2025
自分一人で完結出来て外に出る趣味をひとつ持つと良いと前にも書いたことがある気がする。旅行でもグルメでもスポーツでも何でも良いけど、外で自分1人が楽しめるものを見つけておくと今追ってるコンテンツが下火になったり関心が薄れてきた時に燃え尽きずに済むのでおすすめ December 12, 2025
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