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大げさ
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2025.11.22 01:00
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コンタック総合研究所
「風邪による発熱では男性の方が休養をとるまでにより我慢をする傾向にあり、37度台で休む判断をする回答は女性にやや多いです」
👩男って少しの熱で大げさにアピールするよね、女性は39度でも普通にするのに
👩🦰👩🦰👩🦰ほんそれ❣️
分かりやすいのはお前らの性根の醜さです https://t.co/dsw0KQcyYC https://t.co/hLDM2YbFx2 November 11, 2025
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Xでレトロゲームのポストを投稿するようになって1年半、最も驚いたことは「アーケードゲーマー人口は家庭用機のプレイヤーよりも少ない」ということでした。
そんなの当たり前だよと思うでしょう。しかしゲーセン野郎である私にとってアーケードゲームはゲームの中心であり頂点だったのです。(続く)
私の中では、ゲームは全てアーケードを中心に回っていました。私は、みんな多かれ少なかれゲーセンに行っていて、アーケードゲーマーはマジョリティだと思い込んでいたので、驚いたのです。
愚かですよね。
そんなに考えなくてもアーケードゲーマーの人口が少ないのは自明の理なのに。
アーケードの黄金期は80年代〜90年代、まずこれで世代がグッと限られます。そして80年代半ばまでは不良も多く、行きたくても行けなかったり、自らゲーセンを避けていた方もいたはずです。
ゲームは家庭用機で十分という方は沢山いたでしょうし、あるいはゲームは好きだけどゲーセンのアクションやシューティングは苦手という方もいたでしょう。
アーケードゲーマーはマジョリティではない。
Xで呟けば呟くほど、その当たり前の事実に直面せざるを得なかったのは驚きでもあり、大げさかもしれませんがショックでもありました。
そしてそれは同時に、本当に様々なゲームライフがあって、皆さんがそれぞれのゲームライフを満喫しているということを知る機会でもありました。要は、私の視野は非常に狭かったのです。
しかし、だからといって私がゲーセンに行かなくなることは絶対に無いでしょう。
「家庭用機の性能がアーケードゲームを追い越した、家でもアーケード以上のゲームが楽しめる、だからゲーセンに行く必要は無くなった」という言説がゲーセン衰退の主な理由に挙げられることがあります。そして恐らくそれは正しいのだろうと思います。
しかし、私はそういったことをただの一度も思ったことはありません。
家庭用機でのゲームを愛している多くの方々と同様に、私はゲームセンターでのゲーム体験を心底愛しているからです。
我が家には様々なゲーム機とゲームがあります。しかし、私が最も愛するゲーム体験は、家では決して出来ません。
ゲームセンターだけが、それを私に与えてくれるのです。
筐体や基板を買えばいいじゃない?
理屈ではそうなんですけど、それとはまたちょっと違うのです。
全く面倒くさいですよね。
ゲーム下手くそなのに(笑)
#ゲームセンター November 11, 2025
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彼女の気持ちを放ったらかしにしたままでも、関係は勝手に続いていくと思っている人って、正直かなり多いんですよね。でもそれって、「水もやらずに花が咲く」と本気で思っているのと同じくらい、現実からずれている感覚だと思います。
付き合っていると、「もう付き合ってるんだから大丈夫でしょ」「言わなくても分かってるでしょ」と安心してしまう瞬間がある。でもその安心が続くと、いつの間にか“手をかける”ことをやめてしまう人がいます。連絡が雑になったり、気持ちを確認しなくなったり、感謝や労いの言葉が減ったり。でもそれって、相手の心を土にして、その上に何も与えずにただ立っているだけなんですよね。
最初は彼女のほうも「最近忙しいのかな」「たまたまだよね」と自分に言い聞かせてくれるかもしれない。でも、気持ちを置き去りにされる時間が続くと、そのうち「もう言っても無駄なのかな」と感じ始めてしまう。そうなると、彼女の中で何かが少しずつ枯れていくんです。派手に喧嘩するわけでもなく、ドラマみたいな修羅場になるわけでもなく、ただ静かに、でも確実に。
水やりって、大げさなことじゃないと思うんです。高いプレゼントとか、特別なイベントとかじゃなくて、「最近どう?」って聞くことだったり、「いつもありがとう」って伝えることだったり、落ち込んでいるときにちゃんと話を聞くことだったり。そういう小さな行動の積み重ねが、相手の気持ちをちゃんと潤してくれる。
逆に、それを怠っているのに、「なんで急に冷たくなったの?」「どうして距離を置きたがるの?」と驚くのは、ある意味ちょっとズレているんですよね。相手は急に変わったわけじゃなくて、ずっとサインを出していた可能性がある。ただ、それに気づかなかっただけ。
関係って、付き合った瞬間がゴールじゃなくて、そこからがスタートなんだと思います。相手の気持ちを“当たり前”として扱い始めたときから、その関係は少しずつ不安定になっていく。花だって、水をあげ続けないと枯れてしまうのと同じで、恋愛も、ちゃんと手をかけ続けないと、その美しさは保てないんですよね。
だから、「もう付き合ってるから大丈夫」じゃなくて、「付き合っている今だからこそ大事にする」という意識を持てるかどうか。そこが、関係が長く穏やかに続くか、それともある日ふと終わってしまうかの分かれ目になるのかもしれません。 November 11, 2025
2RP
@chun_55 (私は翻訳ツールを使っています)
アカギはアニメでは時々キャラっぽくなかったり、ちょっとおかしなところもあるけど、彼の大げさな反応や仕草はとても可愛くて魅力的ですwwww November 11, 2025
巧巳の覚悟がすごく見えた回だったなぁ。
表現は大げさかもしれないけど、もう巧巳は世界中が敵になったとしても、澪(眞希)の味方でいるって決めてるんだ。
なんかちょっと巧巳に恐怖を覚えるくらい覚悟決めてたし、別人みたいな表情してた。(もう将生として見れない、一瞬も)
#ドラマひと夏 November 11, 2025
@kuisinbody リエムさん、ありがとう!ちょっと大げさに書いちゃった💦そうなんだよね、会わなくても、これだけ長くやりとりしてるとどんな人かってなんとなくわかってくるよね! November 11, 2025
ここからは完全に後日談。
まあ、正直、私が弱ったときに一番最初に離れてゆくのがUD/SF INFJであることなど、生まれる前から判っていた。
だからこそ、前半の3日間にあれほど全力で集中の限りを尽くした。111年などという大げさな数字は、そもそもの最初から、"数日"の婉曲のつもりだった(サイコパス(いま今更って言ったやつ、もうココス行く金ないから、俺の部屋のテンピュールのたっかーいマットレスの上で朝まで正座(略取誘拐罪-性犯罪)))。
こ の オ レ 様 が ❕❕❕❕❕
このTwitter上の一挙手一投足、すなわち1ツイートどころか1文どころか1文字どころか1句読点どころか1改行どころか1半角スペースの隅々に至るまで、何の計画も計算も計略も謀略も策略も戦略も、そして戦術もなしに、無自覚に行動しているなどと、
〘 本 当 に 思 う の か ? ? ? ? ? 〙
だとしたら、それは、裏切りだな(爆(嘘))
ただミスったなというのは、その子の前に離れていった子が、役割上あまりにも重要であり、またこのアカウントがまだ真っ白なアイコンで、名前も・とか〘』とか怪しすぎる初期段階から、本当に毎日毎日、時間がない中、きっと俺のありえない長文投稿を隅々まで読み、そして何より、本質の本質を完全掌握してくれていただろうこと、そして、誇張のための不用意な表現を用いてしまったことたったひとつが、最終的に彼女の自尊心を、誤解させてしまったことの結果ではあっても、深く傷つけてしまったであろうことで、我ながら相当取り乱してしまい、それらに対処するための懺悔の連投が、「強さ」を求め、自分だけを見ていて欲しい二人目の子の自尊感情と自己価値感とを抉るという玉突き事故に、さすがの私も事前に予測し計算し尽くしておくことができなかったということだ。(まってここまででたったの一文、頭おかしいって、厳しいって(今もとからって言ったやつ以下略)(ほんとは読点うつのだるいんだけど、それだとさすがにワタシと同じように人間やめたニンゲンしか読解できないため、便宜的に、やむを得ず打っている次第))
あとシンプルに演技性PD中等度〜重度だった。ICD-11に遅ればせながら、私のアタマの中でもすでにPD理論は、妄想性や反社会性などコアなものを含めほとんど解体されており、油断した、というより、忘れてた。
演技性の性的誘惑・挑発に乗ることは、禁忌である。
彼ら彼女ら自身、自分が異性を誘惑していることはかなり高度に無自覚的・無意識的であり、相手が誘惑に屈して性的欲望を顕にしたその瞬間に、ひどく深く傷つくという、とんでもなくパラドキシカルな病態を抱えているためだ。
真の意味で「地雷」なのは、境界性でも自己愛性でもなく、演技性、そしてなにより、妄想性である。この2種は能く併発する。理由は、書き始めたらもう2000字かかるので、だるいからここには書かない。反社会性は、先天的要素、というより"素養"が必須項目としてDSM-VにもPD内で唯一明記されており、もう地雷とかそういう次元ではない(ブーメラン(は?(カミングアウト(戦略的自己カイジざわざわ…))))
とりま、今日一日(濃い!!しかもあと1/3も残ってるの信じらんない♡にたい!!そしてゼリーを買うお金とココスへ征くお金がもう无い!!!!!)の、顛末という顛末は、こんなかんじでし田丸硝太郎🫡🤍🪽
今日はさすがになっがーーーい投稿が多いよね。みんな疲れたよね。明日土曜だからって夜ふかししないでちゃんと規則正しく眠ってね。みんなが安心して眠れるように、おれはここでまだまだ朝まで書き続け関わりつづける4👼🤍🪽 November 11, 2025
強い言葉、大げさな言葉って、まあ5000兆円ほしいなんかがそうだけど、ありえなさが面白みを帯びるので、やっぱり面白くはあるんだよな。だからじっくり味わうもんじゃないSNSって媒体だと、お手軽に受けちゃう。 November 11, 2025
いや、別に“全部の埃をゼロにする”みたいな極論の話じゃないですよ。
自分が言ってるのは、トイレットペーパーをむき出しで上に置くと埃がつきやすいから、それが嫌なだけっていう、すごく限定的な話なんです。
確かに皿やコップも使う前に軽く洗い直すくらいの“自分の中の習慣”はあります。
ただ今回の話は、『残り少ないロールを上に置く置かない』っていう生活動線の話なので、そこを“大げさに全部の行動へ拡大されても違うんだよな…”って感じなんですよね。
あくまで単に、“自分はむき出しで置くのが好きじゃないタイプ”ってだけで、それ以上の意味はないです。 November 11, 2025
これに関しては本音を書きます。
私は、歌枠の感想を書いているので、しばしば「褒めすぎ」「大げさすぎ」というご意見がDMやマシュマロで飛んできます。なので、この手の話題には熱量が高いので、長文をお許しください(いつもだろって言わないで!
マロ主さんが「下手なものを上手いというのはありなのか」と思う背景には、たぶん 「上手い」という言葉を技術の評価として純度高く扱いたいという気持ちがあるのだろうと思います。
頑張って積み上げてきた人が正当に認められるべきだ、という感覚かもしれません。
でも、歌の上手い要素って音程以外にも相当あって、大部分が人それぞれの好みによるものです。
それを、どこからが上手いか、なんていうのを線引きは難しいし、不毛ではないでしょうか。
あなたが上手いと思っているシンガーに、「高音域キレイー!」って感想を言ったら
横から「それアリアナ・グランデの前で同じこと言えんの?」と言われたらどうでしょうか。
極端ですけど、そういうことです。
音程の正確さも、表現の温度も、曲の解釈も、ブレないグルーヴも、そして自分の個性も。
全部成立させるのは、驚異的なことです。トップシンガーはヒラリとやってのけます。だからこそ彼ら彼女らはトップシンガーなのです。
自分の声で、曲に自分の想いを重ねて、
なんとか表現を届けようとする瞬間。
そこには、あらゆる体裁やキャラ付けを超えてにじみ出るものがあります。
特に一発勝負の歌枠やライブでは。
そこに歌のいちばん深い美しさがあると私は思います。
ご本人が意図していなくたって、リスナー側が歌を通じて受け取った何かがある。自分の推しならなおさら。
それが「上手かった」「よかった」に凝縮されていると私は思います。
ただの技術評価じゃない、もっと多層的な言葉だと思います。だから言ってもいいと思います。(曲間にそんな具体的にコメント打つのはそもそも難しい)
ここからは少し視点を変えて、個人的な感情。
上手い下手を論じる時って、結局どこかで誰かと比べているところから生まれますよね。
原曲の歌手だったり、他のプロだったり、界隈のトップだったり。はたまた自分だったり。
歌枠や歌みたそのものが、
原曲が存在して、
同じ曲を多くの人が歌うという
比較されやすい構造の上に成り立っているから、
どうしても比較される。
まず影を落とすのは原曲です。
原曲の完成度、そしてそれを歌うプロのシンガーは強烈な磁場を持ち、「正解」として鎮座します。
それを再現できること自体は素晴らしい技術です。
厳格な比較対象として突き詰めてしまったら、
「一番上手に原曲のモノマネができる人が上手いのか?」
「カバーとして歌う意味って?」
ってなりませんか。
原曲を唯一の物差しとして歌を評価すると、
その人が今日どういう声で、どういう感情で歌ったのかというライブならではの一度きりの部分が、抜け落ちてしまいます。
そしてトップ層との比較。
はっきり言って、こういう「技術の課題」は、 歌っている本人が一番よくわかっています。
歌うたびに、痛感しているでしょう。
現在地も、理想も、そのギャップも、全部シンガーの中にあります。
それでも歌という表現を選ぶ人がいる。
自己表現でも、集客でも、気楽なコンテンツの1つでもなんでもいい。
どんな立場でも、その人なりの向き合い方があって、技術で悩む人、空気感で悩む人、声で悩む人、 思うように歌えなくて悩む人を何度も見てきました。
そんな人たちの歌を、理想との比較だけで測ってしまったら、見えなくなるものがあまりに多いと思うのです。
そしてこれは、私がずっと抱えている違和感でもあるのですが、歌を聴いて評価することと、誰かの基準に当てはめて点数をつける採点は、本来まったく別物だと思うのです。
歌って、本来は受け取った温度や、その瞬間に心が動いたかどうかで響くものなのに、いつの間にか、原曲や理想像と照らし合わせて点数化するほうが正しい評価のように扱われることがあります。
コンテンツを出している以上評価されるのは当然ですし、感想が生まれるのも自然です。
でも、評価という名で採点だけを押しつけられると、
その歌が本来まとっていた空気感や息づかいが、急に平坦になってしまう気がするんです。
そして何より、おそらく基準になっている「自分の好きな歌声」を、他人の採点材料に使うなんて、あまりにも悲しい。
私はそう思います。
比較の物差しに囚われるほど、
技術的な整合性や理想との差分ばかりが前に出て、
歌が本来持っていた奥行きや余白に、視線が届かなくなる。
せっかく今ここにしかない、唯一の歌が目の前にあるのに、正解と照らし合わせたものしか受け取れない。
セルフオーディションしたいならそれも1つの楽しみ方。シンガーだって、上に登ろうとすれば苛烈な競争が待っています。
でも、それは取り組む側の世界観で、聴く側として受け取るのは、シンガーの「今、ここ」でしかない歌。そこで、どんなに歌唱技術やあるべき論について講釈を垂れられても、自分が感動したことは誰にも否定できない。
それをバカ舌というのならそれでもいい。
嘘や全肯定とは違うと思っています。
いいと思ったことを相手に渡す。
そういう想いで、私は感想を書いています。 November 11, 2025
大前提として、神社やお寺は、人の暮らしと共にある場所。遠足でお弁当を食べたり、縁側に腰掛けておしゃべりしたり、そんな記憶を持つ人も多い。聖域だから触れるなではなく、人が集いながら敬意を払う場所であることが、倭国の信仰のやわらかさでもある。だから、座ることや休むことそのものが悪いわけじゃない。問題は、どこで、どう座るかなんじゃないかな?
賽銭箱の前でスマホに没頭するって、あたしは違和感がある。ひろゆき風にいえば、あたしの違和感は、それってあなたの感想ですよね?ってなる。
でもね、賽銭箱の動画でも、こういう食べ放題のマナー問題の動画でも、多くの人がモヤモヤしたのは、まさに賽銭箱の真正面で、何人もがスマホに夢中になっている構図だったり、食べ放題をいいことに周りの人への迷惑を考えない暴挙だったりするからなんじゃないかな?
賽銭箱の前は、本来、「お願いします」と頭を下げる場所、「ありがとう」と手を合わせる場所。その祈りの一等地を、占拠してゲームやSNSに没頭していたら、あとからお参りに来た人はどう感じるかな?
「別に誰にも迷惑かけてないじゃん」という人もいるよ、神様信じてるなら、人が座ってても賽銭入れて手を合わせれば良いって人もいるだろね。
でもね、場の空気や他人の気持ちに想像力を伸ばすと、ここだけは、ちょっと遠慮しておこうかというブレーキが自然とかかるはずなんだよね。
それってあなたの感想でしょ?って言われても、それを昔の倭国語では分別、今風に言えばリテラシーと呼ぶ。
寛容さと無関心は、似ていてまったく違うと思う。
今の倭国は、人の自由を尊重しようという言葉の下で、ときどき「注意したら負け」「気にした方が神経質」という空気になりがち。
神社や寺でビールを飲んでも平気な人もいれば、「さすがにここではやめてほしい」と感じる人もいる。
その価値観の揺らぎを見て見ぬふりをすることは、寛容ではなく無関心。
寛容さとは、本来とても手間のかかる態度なんだよね。
相手の背景を想像し、自分も少し我慢し、お互いに気持ちよくいられる落としどころを探すこと。
「でかい迷惑かけてないなら、何でもOK」にしてしまうこととは、真逆の行為。
もしこの光景が増え続ければ、神社や食べ放題はきっとこうなります。
「ここでの飲食禁止」「賽銭箱前で座ってスマホ禁止」「長時間座り込み禁止」「サーモン1人当たり10枚以上は禁止」「肉は一回に何グラムまで」「他のお客様が食べれなくなるような取り方は禁止」とかね。
注意書きと監視カメラとロープだらけの、息苦しい聖域になってしまう。
本当は、そんなものを書かなくても、何となくここまでは良くてここまではダメって分かる社会の方が、ずっと豊かだよ。
そのために必要なのは、法律でも条例でもなく、一人ひとりの「ここはやめておこう」の想像力だと思う。
共に生きる神社を守るのは、私たち。
寺社は、観光地であり、地域の寄り合い所であり、祈りの場所。その多面性こそが、倭国の信仰のやさしさであり、強さです。
だからこそ、神社にお邪魔させてもらっている、という気持ちを忘れないこと。
祈りの動線や、そこで手を合わせる人への配慮を持つこと。
「ここはちょっと違うよね」と感じたら、自分から一歩引くこと。
そんな小さなマナーが積み重なって、神社と人が自然に共存する風景が守られていくんじゃないかなーって思います。
スマホをしまって、賽銭箱の前を一歩あける。
みんなが食べれる程度にして、バランスよく取り皿に乗せてビュッフェを楽しむ。
たったそれだけで、その場の空気は驚くほど変わります。
神さまやマナーを大げさに持ち出さなくてもいい。
せめて「神社や食べ放題のお店を訪れる誰かの、静かな一分間」のために、一人ひとりができる遠慮を、もう一度思い出したい。
まあ、これってあたしの感想なので、どう思うかはその人次第だよ。
いろんな人がこれを見たときに、しらねーよ、なげーよ、ポエマー乙で終わるのもいいし、そーかもねで終わるのも自由。自分たちが自分たちの良いって未来を自分の主観と感想で、選べば良いし、守れば良いと思います。 November 11, 2025
大げさじゃなく、今日ほんとにこのTikTokに救われたー😭
遅番ばかりで休みもなく、休憩時間も少なく、つらいつらいつらいーって思ってたところのこの動画で、横尾さんのターンから始まってることに心も躍って元気でた!
最後のアドリブっぽいところでも☺️な気持ちになれたし、また明日から頑張れる◎ https://t.co/mpyPam7WUv November 11, 2025
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