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江戸城
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2025.12.05 14:00
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四谷須賀神社。新宿区須賀町。
四谷総鎮守。男坂は『君の名は。』のラストシーンで登場する事で世界的に有名です。
10月より授与を開始した「桜の切り絵御朱印」と今年より授与開始の「重ね御朱印」を頂きました。
切り絵御朱印は男坂や鳥居と桜をデザインした美しい御朱印。桜色でデザインが施された台紙付きです。桜のデザインだったので春から開始していたのかと思いきや10月から開始したそうです。オリジナルのクリアファイル付き。初穂料1,300円。
重ね御朱印は左上に鳥居がデザインされた透明感のある薄い紙が重なったもの。稲を青海波のような形にデザインしてあって縁起が良さそうです。こちらもオリジナルのクリアファイル付き。初穂料700円。
男坂は『君の名は。』のラストシーンやキービジュアルにも登場する事でとても有名。そのため海外の方からは都内の人気観光スポットになっていて連日多くの人が聖地巡礼に訪れます。
この日もひっきりなしに外国人観光客が多数。某国の観光客がいないので多少は落ち着いてるかなと思いきやなんのその。世界中から人々が集まります。それだけ『君の名は。』世界的に人気だったという事ですね。映画公開からもう9年経ちますがまだまだ人気です。
男坂を譲り合いながら撮影していましたら素敵なサプライズが発生。外国人観光客のカップルが男坂でプロポーズ。男性側が跪いて指輪を渡して大成功。その場が沸きました。末長くお幸せに。
こうした『君の名は。』の聖地となり映画が大ヒットした事から今ではアニメ関係者たちからの崇敬が大変篤い事で知られます。新作TVアニメ、劇場版アニメなどが公開前には制作スタッフなど関係者が大ヒット祈願に訪れる事が恒例に。過去に載せた事もありますが『鬼滅の刃』『呪術廻戦』などなど大ヒットしたアニメはどれも須賀神社で大ヒット祈願と絵馬の奉納もしています。もちろん新作の無限城編の時も同様に。アニメ好きにとっては聖地です。
そんな須賀神社。創建年代は不詳ですが創建当時は一ツ木村(赤坂)の清水谷にあった鎮守「稲荷社」が起源であると伝わります。当時は赤坂という四谷とは全然違う場所にあったお稲荷様でした。
江戸時代に入ると寛永十一年(1634)に江戸城に外濠を設置することになります。一ツ木村を含む麹町地区のエリアが江戸城の外濠普請の対象となったため対象範囲の寺社は立ち退きを余儀なくされ、旧麹町地区のほとんどの寺社はこの四谷に集団移転したため当社も遷座します。
寛永十四年(1637)になると倭国橋大伝馬町の名主・馬込勘解由が徳川将軍家より四谷一帯を賜ります。寛永十八年(1641)に「神田明神」境内に祀られていた大伝馬町の産土神・牛頭天王を四谷のお仮屋横丁付近に小祠を造り祀りました。
寛永二十一年(1644)になると参拝者が余りに多かったため寺社奉行に願い出て「稲荷社」(当社)と合祀。「稲荷社」に「天王社」が合祀されたため「稲荷天王合社」と呼ばれ、とりわけ牛頭天王への信仰が強かった事で「四谷天王社」と呼ばれる事も多くなっていきます。これが今の須賀神社のベースです。
牛頭天王(ごずてんのう)とは倭国における神仏習合の神さまです。釈迦の生誕地に因む祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神とされたため牛頭天王を祀る信仰を祇園信仰(ぎおんしんこう)と称します。
総本社は祇園祭でも知られる京都の「八坂神社」。神道ではスサノオと習合したため明治の神仏分離後の神社では御祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)に改められたところが殆どです。
明治になり神仏分離となると社号を「須賀神社」に改称します。社号の「須賀」とは、御祭神のスサノオが出雲国の簸の川の上流でヤマタノオロチを退治した際に「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と述べ、宮居を創立したという故事が由来になっています。そのため全国の須賀神社はスサノオを祀っている事が殆どです。
ぜひ参拝してみて下さい。
#限定御朱印 December 12, 2025
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【湯島・上野】『東京古道散歩』著者といく地形と古地図で読み解く5つの神社、江戸城の鬼門ラインへ!
なぜ湯島に「神田明神」が?
東京を代表する学問の神様「湯島天神」
なんと大きな穴が御神体という
「穴稲荷」まで
往古の聖地は台地のキワにあり!
古地図を片手に、
5つの古社を読み解きます December 12, 2025
@eru0709m 『萬延聞書』は井伊大老が桜田門外で襲撃されてから江戸市中でどんなパロディや不謹慎な噂話が流布したかを記録しています。
「桜田門から帰った駕籠を開けてみたら、こりゃどう(胴)だ」「江戸城の大堀端に野次馬がさっとう(砂糖)餅」など、現代のXのネタ投稿よりレベル高いエピの多いこと! December 12, 2025
赤城神社。新宿区赤城元町。
「穴八幡宮」と共に牛込総鎮守。神楽坂駅からすぐ近く。かつては赤城大明神として信仰を集めました。
久しく参拝していなかったなと思って履歴を遡ってみると約5年ぶりの参拝です。御朱印を頂きました。現在は書き置きのみとの事。
授与品には故・水木しげる氏デザインのゲゲゲの鬼太郎(ちゃんちゃんこ御守)は災いを避ける厄除け御守や目玉のおやじ御守が人気です。かつて当社へヒット・安全祈願に来た水木しげる氏が自らデザインした御守で素敵なのでぜひ。
そんな赤城神社は正安二年(1300)に創建と伝わります。上野国(現・群馬県)赤城山麓の大胡(おおご)の豪族・大胡彦太郎重治が牛込に移住。本国の総鎮守である赤城大明神の御分霊を勧請して創建したといいます。
赤城信仰(あかぎしんこう)とは群馬県の赤城山を神体山とする信仰で赤城山そのものに対する山岳信仰です。関東を中心に「赤城神社」を約300社ほど見る事ができます。里宮として「二宮赤城神社」、赤城山腹の「赤城神社(三夜沢)」、赤城山頂の「赤城神社(大洞)」が総本宮と推定されています。
創建以後、赤城信仰の中心である上野国(現・群馬県)以外では、最も著名な「赤城神社」として崇敬を集めていきます。
寛正元年(1460)には江戸城を築城した太田道灌により牛込台(現在の飯田橋駅の南側)に遷座。弘治元年(1555年)には大胡宮内少輔により現在地に遷座。創建に関わった大胡氏の末裔とされた人物で地名から牛込氏を名乗っていました。
江戸時代に入ると天和三年(1683)に江戸幕府によって江戸大社に列せられます。当社は牛込総鎮守として信仰を集め「江戸の三社」とも称される程に崇敬を集めました。
牛込は江戸時代は大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域で伝統ある山の手の住宅街。古代に牛の牧場があり牛が多くいたことから、「牛」が「込」(多く集まる)に由来。現在の新宿区北東部。神楽坂・市谷・早稲田などの一帯が牛込地区に該当します。
そんな大社として崇敬を集めた赤城神社。神仏分離、そして戦後になると地域の鎮守といった趣きの神社になっていきます。かつては赤城幼稚園という幼稚園を境内に併設していまして、自分が初めて訪れた時は園児の賑やかな声が聞こえてきたのを覚えています。(2008年に閉園)
現在のようなモダンで美しい境内になるのは平成二十二年(2010)のこと。「赤城神社再生プロジェクト」によって神社が再興されたことによります。この再生プロジェクトを主導したのが三井不動産レジデンシャル。
神社と分譲マンションやホールやギャラリーなどを建設するという再生プロジェクト。約70年もの長期プロジェクトで昨今の神社運営の厳しさなども含んだ事情と先を見据えた興味深い内容となっています。
当時の神社運営で抱えていた問題は以下の通り。
・昭和三十四年(1959)に造営された社殿(旧社殿)が老朽化によって耐震性能を向上した新しい社殿を建築する必要性。
・資金面で神社を支えてた赤城幼稚園が少子化により閉園。
・奉納や寄付も減少するといった運営上の諸課題。
これらを一挙に解決するため三井不動産レジデンシャルが提案し当社と共に押し進めたのが赤城神社再生プロジェクトです。神楽坂に在住していた氏子である隈研吾氏が境内デザインなどの設計監修を担当しました。
こうした経緯もあり今のようなカフェも併設されたモダンで美しい神社に生まれ変わりました。今となっては多くの参拝者、外国人観光客なども訪れ人気を博しています。
※ちなみに三井不動産は地域と融合した神社の再興を得意としていてこの後は「成子天神社」の再興、そして集大成ともいえる「福徳神社」の再興も行っています。
今ではドラマや映画などの撮影安全ヒット祈願の神社としてもよく知られるように。絵馬掛を見ると数多くのドラマや映画のヒット祈願の木札が並んでいるのでチェックを。
ぜひ参拝してみて下さい。
#御朱印 December 12, 2025
筑土八幡神社。新宿区筑土八幡町。
牛込東部鎮守の八幡様。
かなり久しぶりの参拝。いつ以来だろうなと思って履歴を辿ったら平成28年(2016)以来でした。約9年ぶりの参拝です。
御朱印は社務所前に由緒書きの中に挟んでいる形になっていました。書き置きのみのセルフ式です。お代は頂いていないとの案内がありましたがお気持ちを賽銭箱へ。(9年前は宮司さんに書き置きを頂きましたがその時もお代はいらないと言われた記憶があります)現在の御朱印は社殿が印刷された用紙を使ったもの。
そんな筑土八幡神社は嵯峨天皇の御代(809年-823年)に創建と伝わる古社です。
その後、伝教大師(最澄)がこの地を訪れた時に神像を彫刻して祠に祀りました。その時に筑紫の宇佐の宮土を取り寄せて礎としたので「筑土八幡神社」と名づけたと言います。
江戸時代になると当社に並ぶように神社が遷ってきます。遷ってきた神社が平将門公を祀る現在の「築土神社」(現・千代田区九段北)です。
これは江戸城外堀拡張によって遷座してきたものでそれ以来は両社が並ぶようにして鎮座していました。
江戸時代の地誌『江戸名所図会』にも両社が並び立っている境内が描かれています。「筑土八幡宮」「同明神社」として描かれていて二社が並び立つ様子が実に分かりやすく描かれています。(境内にその様子の案内板が立っているのでチェックしてみて下さい)
そちらでは同じ境内にありながらもあくまで別々の神社として機能していた様子も窺えます。その証拠にそれぞれ別々に参道、鳥居、神門などが設けられている事が挙げられ実際に氏子地域も違っていました。
そうした両社が並び立つ姿は昭和二十年(1945)の東京大空襲まで続きます。同年の戦災により社殿など多くが焼失。お隣の築土神社も悉く焼失してしまいます。
戦後になると昭和二十一年(1946)に築土神社は再建にあたり千代田区富士見へ遷座。その後、昭和二十九年(1954)に氏子地域である九段中坂の途中にある現在地は遷りました。こうして戦後の復興の中で、300年以上続く隣に並ぶ形での鎮座の形は終わる事となります。
当社は昭和三十八年(1963)に氏子による寄進もあり再建。当社の氏子地域(新宿区津久戸町)に本社を置く建設会社・熊谷組によって社殿が造営されました。
戦火に遭った当社ですが境内には古い石造物は多く残ります。石段途中の鳥居は新宿区最古。享保十一年(1726)に常陸国下館藩主であった黒田直邦によって奉納されたものです。
更に大変珍しい形の庚申塔も。寛文四年(1664)に作られた古い庚申塔で新宿区指定有形文化財。最上部に太陽と月をあしらい桃の木・桃の実・そして二匹の猿をあしらった珍しいもの。庚申塔というと三猿や青面金剛をあしらったものが一般的。こうした姿の庚申塔は自分も見た事がなくとても珍しいです。
拝殿前の一対の狛犬もは文化七年(1810)に奉納と古いです。江戸尾立て、彫りの深い凛々しい狛犬で首筋のラインが力強く実に良い表情。
ぜひ参拝してみて下さい。
#御朱印 December 12, 2025
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