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気候変動
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2025.12.18 23:00
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ネットゼロの達成を遅らせると、地球は今後1000年間、極端な熱波に見舞われる可能性があります (2025/12/4)
https://t.co/yLTp8Ukd9c
新たな長期気候モデルによると、世界のネットゼロ達成が遅れると、熱波が今後何世紀にもわたって悪化し続けることが明らかになりました。
「これは特に赤道に近い国々にとって大きな問題です。これらの国々は一般的に気候変動への脆弱性が高く、ネットゼロ達成が2050年以降に遅れると、現在の観測記録を破るような熱波が少なくとも年に1回、またはそれ以上の頻度で発生することが予想されます」とキング博士は述べました。
猛暑は排出量のピーク後も長期間続きます
今回の研究結果は、世界の排出量が実質ゼロになる時期が遅れるほど、熱波がより高温になり、より長期化し、より頻繁に発生することを示しています。研究者たちはまた、南極海の長期的な温暖化が、ネットゼロ達成後も熱波を悪化させ続ける可能性があることも発見しました。
1000年間のシミュレーション全体を通して、研究チームは熱波の有意な減少を観測しませんでした。それどころか、熱波は少なくとも1000年間、産業革命以前の水準を上回ったままでした。一部の地域では、2050年以降にネットゼロが達成されたとしても、数世紀にわたって熱波の激しさがさらに増しました。
ネットゼロ達成でも即時の緩和は期待できません
筆頭著者であるオーストラリア国立大学のサラ・パーキンス=カークパトリック教授は、"今回の結果はネットゼロの達成によって将来の世代の気候条件が改善し始めるという仮定に疑問を投げかけるものだ"と述べました。
「今回の結果は憂慮すべきものですが、未来を垣間見ることができ、効果的で永続的な適応策を計画・実施することを可能にします」とパーキンス=カークパトリック教授は述べました。
「恒久的なネットゼロに向けて迅速に前進することが依然として極めて重要です。遅くとも2040年までに世界全体でネットゼロを達成することが、熱波の深刻さを最小限に抑えるために不可欠です。」
適応と迅速な排出削減の緊急性
キング博士は、今回の研究結果が、地域社会を熱波から守るために即時の排出削減と大規模な適応計画の両方を必要とすることを浮き彫りにしていると述べました。
「熱波の際に人々を涼しく健康に保つための公共インフラ、住宅、医療サービスへの投資は、ネットゼロ安定化の早期段階と後期段階とでは、規模、コスト、必要な資源の点で大きく異なる可能性が高いでしょう。この適応プロセスは数十年ではなく、数世紀にわたる作業となるでしょう」。 December 12, 2025
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東浩紀さんの新刊めちゃオモロい。古来より「平和」は定義が揺れてきた。自己都合の定義も氾濫してきた。定義の決定版は今も存在しない。そこに東さんが議論の出発点を持ってきた。その主要素は「考えないこと」である。本書は「考えないこと」の地平から平和の新たな可能性を開く野心的試みである。以下に概説したい。→
平和とは、実は「考えない時」に感じられるものである。本書のタイトルに「愚かさ」とあるが、「平和」と「愚かさ」はまさに「考えない」という点で共通している。というか、両者は表裏一体である。
現代は戦争や紛争にしても気候変動や人権の問題にしても、「もっと調べろ」「もっと知れ」「もっと賢くなれ」という圧が凄まじい。もちろん、考えることには価値がある。ただ一方で、「考えないでいられる」「平和ボケでいられる」という世の中を想像してみてほしい。ぶっちゃけ、深く考えなくても済む社会は、それはそれで平和なのではないかと思えるだろう。政治のことも争いのことも熱心に考えなくていい時代、それが平和の要素として重要ではないかと東さんは問う。
当然の話だが、全員が全員、考えなくていいという訳ではない。平和時においても安全保障について考える必要はあるし、武力の備えを充実させる人も必要だ。軍人や外交官、国際政治の専門家までもが思考停止するのは危うい。
これを踏まえた上で、この時点で東さんが注目していることを示そう。それは、「考えないこと」を許す社会の在り方である。考えなくてもいいことを考えない、それがより広く許容される社会が実現するなら、その社会は相当に平和だと言えるかもしれない。もちろん、本書でも平和と戦争が対比的に出てくる。「考えないこと」だけで平和という観念を肉付けすることは難しい。
そのため東さんは、平和の端的な表現として「戦争がない状態」というシンプルな見方から議論を説き起こす。ただ、東さんは「戦争がない状態」というよりも「戦争が欠けている」状態という言い回しを使って議論を始める。
ここでいう「欠け」が何なのかが重要である。それは、軍事力にまつわるものや政治戦略に関するものというよりも、「戦争について考えない」「考えないことが許される」という思考の欠如を前景化させる言葉だ。東さんは述べる。「平和の本質は戦争をしないことにあるのではない。戦力を放棄することにあるのでもない。戦争について考えないことが許されることにある」
これとは逆に、戦時においては「考える」ことが推奨される。というか社会的に強制される。そして、かつての平和は「悪を野放しにしていた能天気な時代」といったかたちで再解釈される。戦時の敵となった国とも昔は仲良くしていただろうが、それも「上っ面の平和」だったのだと再解釈される。その状況下では、たとえば敵国の人と結婚しようとする人は、全力で止められてしまうだろう。しかし、よく考えてみてほしい。以前はおそらく、その外国人(現在は敵国人になってしまったが、それ以前はそういう認識がなされなかった人)との婚姻関係において、相手が外国人であるかどうかはあまり問題にならなかったはずだ。むしろ、「どこの国の人か」で結婚相手として相応しいかどうかをジャッジしたら、不純なこととして受け取られかねないくらいである。そこには、「どこの国の人か」を結婚の障害にしてはならないという社会的合意がある。
これを受け、東さんは「ぼくは、そのような政治的な思考停止の領域についての合意の広がりこそが、ある社会が平和と呼ばれるべきか否かを判断するうえで重要な指標になるべきだと考える」(( )は引用者)と述べる。
もう、ここまででも十分おもしろい。
だが、東さんはここからさらに面白くなる。
上記の平和観には危うさもある。上記の平和を平和たらしめるには、ある種の弱点を抱え込まなければならないと東さんは言う。それは、みなが平和だと思っていた「かつての時代」について、「じつはあの時は平和ではなかった」という人が現れた際に、平和観を更新せざるを得なくなるという弱点だ。
たとえば、一部の人たちが平和だと感じていたその当時に、人知れず虐げられていた人たちがいたとする。その人たちの搾取構造の上にかつての平和が築かれていたとしたらどうか。虐げられていた人たちがアクションを起こした場合、過去の平和は否定され、新たな平和を組み直さなければならなくなる。過去を再解釈し、現代に通じる一貫した思考を再編集しなければならなくなる。その「訂正可能性」をきちんと確保することが平和にとって不可欠だと東さんは指摘する。
平和を享受している人たちは、平和について思考停止になっているだろう。そして、考えない人たちは、知らぬ間に人々を虐げ、その人たちに害をなすだろう。が、その時代にあっても被害者的にされている人たちはめちゃくちゃ悩み、思考している。思考させられている。そして、「じつはあの時は平和ではなかった」の「じつは」という論理を使うのは、多くはやはり弱者であり、被害者である。それを無視して、無理やり過去からの思考の一貫性を保とうとしたら、それは平和ではなくなる。
この意味で、「平和は本質的に加害の可能性に結びついている」のである。
そしてぼくらは、平和を語り続ける際に、常に「じつは平和ではなかった」と抗議され、
訂正される可能性を考慮しなければならない。むしろこの訂正可能性に開かれることこそが平和の要件である。
「戦後長いあいだ、平成初期のあたりまで、倭国は冷戦体制と経済成長に支えられて高水準の平和を達成していた。社会の隅々にまで『考えないこと』が広がっていた。しかしその果実を享受し消費社会を謳歌することができた人々は、じつのところ世代や性差や階級で限られていた。それゆえ、21世紀に入ると、さまざまな立場、特に若い世代から告発が相次いだ。いま昭和を振り返るとき、彼らの声を無視することは許されない。繰り返すが、平和ボケが平和ボケでいられることはとても貴重なことである。しかしそれは告発を無視してよいことを意味しないのだ」
また、そういった声を受容するには、ある種の忘却が必要である。「平和を維持するためには正義ではなく忘却が必要だ」と、カール・シュミットの議論を引き合いにだして東さんは総括するが、それこそ過去を水に流す的な態度が必要な場面もあるだろう。
その際、ぼくらは再び、過去を忘れるという仕方で考えることを止める方向に進む。
これが平和の定義の出発点である。
本書は、「考えないことを考える」、「考えないこと」の価値を考える。そこから始めて平和観を構築していく。これが、説得的に平和を肉づけするのだから興味深い。
ぜひ、本書を読んで確認してみてほしい。
東浩紀@hazuma『平和と愚かさ』ゲンロン@genronedit December 12, 2025
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私自身、初めての国会論戦。緊張の連続でした。
参議院厚生労働委員会では、医療法改正の審議を含む議論に臨みました。
質疑では、消化器外科医減少対策、1型糖尿病支援、医療DX推進、がん検診(特に消化器内視鏡検診、肺がんの低線量CT、職域検診データ集約→組織型検診への体制整備)拡充、それから、物価高に苦しむ医療機関の窮状を訴え、診療報酬への反映を強く求めました。とりわけ、予防医療の柱としての栄養療法の拡充は大きな課題。高齢者の低栄養の是正が、入院やフレイルを予防するというエビデンスをもとに、在宅での栄養療法の強化について質疑しました。
また消費者問題に関する特別委員会においても、選挙戦中より訴えた気候変動とフードセキュリティの問題等について質疑を行いました。
引き続き、常会でも取り組み、必ず施策に繋げてまいります。
そして、補正予算。
18.3兆円規模の大きな予算が組まれました。これにも、随所に公明党の提案が反映されました。
物価高対策では、
・来年1~3月に実施する電気・ガス代補助に5296億円
・子ども1人当たり2万円の子育て応援手当として3677億円
・重点支援地方交付金は、総額2兆円
・医療・介護従事者の処遇改善などの「支援パッケージ」に1兆3832億円、中小企業の“稼ぐ力”強化には8410億円等が計上されました。
さらに、税制改正にあたっても、
・0−18歳までの児童扶養控除(仮)+物価連動型の手当拡充
・基礎控除・給与所得控除にも物価連動
・賃上げ税制維持拡充
・奨学金減税
などを提言していく方針です。
政治資金規正法改正、議員定数削減等を巡って、緊張感のある論戦が続きましたが、民主主義の根幹をなす選挙制度改革とあわせて、真剣に議論を重ねてまいります。
応援いただいたみなさま、誠にありがとうございました! December 12, 2025
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有料記事がプレゼントされました! 12月19日 18:36まで全文お読みいただけます
「気候変動は人権の問題」450人が国を訴える 「対策義務に違反」:朝日新聞 https://t.co/6k5q2Fjtld December 12, 2025
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東浩紀さんの新刊めちゃオモロい。古来「平和」は定義が揺れてきた。自己都合の定義も氾濫してきた。定義の決定版は今も存在しない。そこに東さんが議論の出発点を持ってきた。主要素は「考えないこと」である。本書は「考えないこと」の地平から平和の可能性を開く野心的試みだ。以下に概説したい。→
平和とは、実は「考えない時」に感じられるものである。本書のタイトルに「愚かさ」とあるが、「平和」と「愚かさ」はまさに「考えない」という点で共通している。というか、両者は表裏一体である。
現代は戦争や紛争にしても気候変動や人権の問題にしても、「もっと調べろ」「もっと知れ」「もっと賢くなれ」という圧が凄まじい。もちろん、考えることには価値がある。ただ一方で、「考えないでいられる」「平和ボケでいられる」という世の中を想像してみてほしい。ぶっちゃけ、深く考えなくても済む社会は、それはそれで平和なのではないかと思えるだろう。政治のことも争いのことも熱心に考えなくていい時代、それが平和の要素として重要ではないかと東さんは問う。
当然の話だが、全員が全員、考えなくていいという訳ではない。平和時においても安全保障について考える必要はあるし、武力の備えを充実させる人も必要だ。軍人や外交官、国際政治の専門家までもが思考停止するのは危うい。
これを踏まえた上で、この時点で東さんが注目していることを示そう。それは、「考えないこと」を許す社会の在り方である。考えなくてもいいことを考えない、それがより広く許容される社会が実現するなら、その社会は相当に平和だと言えるかもしれない。もちろん、本書でも平和と戦争が対比的に出てくる。「考えないこと」だけで平和という観念を肉付けすることは難しい。
そのため東さんは、平和の端的な表現として「戦争がない状態」というシンプルな見方から議論を説き起こす。ただ、東さんは「戦争がない状態」というよりも「戦争が欠けている」状態という言い回しを使って議論を始める。
ここでいう「欠け」が何なのかが重要である。それは、軍事力にまつわるものや政治戦略に関するものというよりも、「戦争について考えない」「考えないことが許される」という思考の欠如を前景化させる言葉だ。東さんは述べる。「平和の本質は戦争をしないことにあるのではない。戦力を放棄することにあるのでもない。戦争について考えないことが許されることにある」
これとは逆に、戦時においては「考える」ことが推奨される。というか社会的に強制される。そして、かつての平和は「悪を野放しにしていた能天気な時代」といったかたちで再解釈される。戦時の敵となった国とも昔は仲良くしていただろうが、それも「上っ面の平和」だったのだと再解釈される。その状況下では、たとえば敵国の人と結婚しようとする人は、全力で止められてしまうだろう。しかし、よく考えてみてほしい。以前はおそらく、その外国人(現在は敵国人になってしまったが、それ以前はそういう認識がなされなかった人)との婚姻関係において、相手が外国人であるかどうかはあまり問題にならなかったはずだ。むしろ、「どこの国の人か」で結婚相手として相応しいかどうかをジャッジしたら、不純なこととして受け取られかねないくらいである。そこには、「どこの国の人か」を結婚の障害にしてはならないという社会的合意がある。
これを受け、東さんは「ぼくは、そのような政治的な思考停止の領域についての合意の広がりこそが、ある社会が平和と呼ばれるべきか否かを判断するうえで重要な指標になるべきだと考える」(( )は引用者)と述べる。
もう、ここまででも十分おもしろい。
だが、東さんはここからさらに面白くなる。
上記の平和観には危うさもある。上記の平和を平和たらしめるには、ある種の弱点を抱え込まなければならないと東さんは言う。それは、みなが平和だと思っていた「かつての時代」について、「じつはあの時は平和ではなかった」という人が現れた際に、平和観を更新せざるを得なくなるという弱点だ。
たとえば、一部の人たちが平和だと感じていたその当時に、人知れず虐げられていた人たちがいたとする。その人たちの搾取構造の上にかつての平和が築かれていたとしたらどうか。虐げられていた人たちがアクションを起こした場合、過去の平和は否定され、新たな平和を組み直さなければならなくなる。過去を再解釈し、現代に通じる一貫した思考を再編集しなければならなくなる。その「訂正可能性」をきちんと確保することが平和にとって不可欠だと東さんは指摘する。
平和を享受している人たちは、平和について思考停止になっているだろう。そして、考えない人たちは、知らぬ間に人々を虐げ、その人たちに害をなすだろう。が、その時代にあっても被害者的にされている人たちはめちゃくちゃ悩み、思考している。思考させられている。そして、「じつはあの時は平和ではなかった」の「じつは」という論理を使うのは、多くはやはり弱者であり、被害者である。それを無視して、無理やり過去からの思考の一貫性を保とうとしたら、それは平和ではなくなる。
この意味で、「平和は本質的に加害の可能性に結びついている」のである。
そしてぼくらは、平和を語り続ける際に、常に「じつは平和ではなかった」と抗議され、訂正される可能性を考慮しなければならない。むしろこの訂正可能性に開かれることこそが平和の要件である。
「戦後長いあいだ、平成初期のあたりまで、倭国は冷戦体制と経済成長に支えられて高水準の平和を達成していた。社会の隅々にまで『考えないこと』が広がっていた。しかしその果実を享受し消費社会を謳歌することができた人々は、じつのところ世代や性差や階級で限られていた。それゆえ、21世紀に入ると、さまざまな立場、特に若い世代から告発が相次いだ。いま昭和を振り返るとき、彼らの声を無視することは許されない。繰り返すが、平和ボケが平和ボケでいられることはとても貴重なことである。しかしそれは告発を無視してよいことを意味しないのだ」
また、そういった声を受容するには、ある種の忘却が必要である。「平和を維持するためには正義ではなく忘却が必要だ」と、カール・シュミットの議論を引き合いにだして東さんは総括するが、それこそ過去を水に流す的な態度が必要な場面もあるだろう。
その際、ぼくらは再び、過去を忘れるという仕方で考えることを止める方向に進む。
これが平和の定義の出発点である。
本書は、「考えないことを考える」、「考えないこと」の価値を考える。そこから始めて平和観を構築していく。これが、説得的に平和を肉づけするのだから興味深い。
ぜひ、本書を読んで確認してみてほしい。
東浩紀@hazuma『平和と愚かさ』ゲンロン@genronedit December 12, 2025
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#気候変動 は、気象兵器で意図的に行われている可能性があります😨
気候変動が怖いから支配者に従うのではなく、支配者たちが気候変動を起こしていることをもっともっとみんなに広めてやろう🐸🍿✊
地球環境を破壊している太陽光発電や風力発電も地球には要りません👋😞 https://t.co/lzmdjyJ5eE https://t.co/Xezip8efiU December 12, 2025
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記録的な養殖牡蠣の不漁は、養殖業者の努力不足や過失ではない。
気候変動による自然災害。
牡蠣の養殖業者は、被災者。
被災者を助けずに観光コンテンツを磨き上げるとか意味不明。順番むちゃくちゃ。しかもそのための寄付金募集の名前が「播磨灘の牡蠣応援プロジェクト」。羊頭狗肉な寄付金詐欺。 December 12, 2025
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@Yomiuri_Online 訴えは“却下”されるだろうが、我々国民側も #SDGs 沿った日常生活に努めなければならない🌡️
#温室効果ガス
#地球温暖化
#気候変動
#海水面上昇 December 12, 2025
「太陽光の反射が少なく、出ていく長波放射が追いつかず、より多くの熱吸収につながり、地域的および地球規模の温暖化がさらに加速します。予想通り」
倭国メディアも、こういう角度の報道を是非頑張って欲しい。無理だろうと思うけど。
#気候変動 https://t.co/XjnCmnwbjn December 12, 2025
東浩紀さんの新刊めちゃオモロい。古来「平和」は定義が揺れてきた。自己都合の定義も氾濫してきた。定義の決定版は今も存在しない。そこに東さんが議論の出発点を持ってきた。主要素は「考えないこと」である。本書は「考えないこと」の地平から平和の新たな可能性を開く野心的試みだ。以下に概説したい。→
平和とは、実は「考えない時」に感じられるものである。本書のタイトルに「愚かさ」とあるが、「平和」と「愚かさ」はまさに「考えない」という点で共通している。というか、両者は表裏一体である。
現代は戦争や紛争にしても気候変動や人権の問題にしても、「もっと調べろ」「もっと知れ」「もっと賢くなれ」という圧が凄まじい。もちろん、考えることには価値がある。ただ一方で、「考えないでいられる」「平和ボケでいられる」という世の中を想像してみてほしい。ぶっちゃけ、深く考えなくても済む社会は、それはそれで平和なのではないかと思えるだろう。政治のことも争いのことも熱心に考えなくていい時代、それが平和の要素として重要ではないかと東さんは問う。
当然の話だが、全員が全員、考えなくていいという訳ではない。平和時においても安全保障について考える必要はあるし、武力の備えを充実させる人も必要だ。軍人や外交官、国際政治の専門家までもが思考停止するのは危うい。
これを踏まえた上で、この時点で東さんが注目していることを示そう。それは、「考えないこと」を許す社会の在り方である。考えなくてもいいことを考えない、それがより広く許容される社会が実現するなら、その社会は相当に平和だと言えるかもしれない。もちろん、本書でも平和と戦争が対比的に出てくる。「考えないこと」だけで平和という観念を肉付けすることは難しい。
そのため東さんは、平和の端的な表現として「戦争がない状態」というシンプルな見方から議論を説き起こす。ただ、東さんは「戦争がない状態」というよりも「戦争が欠けている」状態という言い回しを使って議論を始める。
ここでいう「欠け」が何なのかが重要である。それは、軍事力にまつわるものや政治戦略に関するものというよりも、「戦争について考えない」「考えないことが許される」という思考の欠如を前景化させる言葉だ。東さんは述べる。「平和の本質は戦争をしないことにあるのではない。戦力を放棄することにあるのでもない。戦争について考えないことが許されることにある」
これとは逆に、戦時においては「考える」ことが推奨される。というか社会的に強制される。そして、かつての平和は「悪を野放しにしていた能天気な時代」といったかたちで再解釈される。戦時の敵となった国とも昔は仲良くしていただろうが、それも「上っ面の平和」だったのだと再解釈される。その状況下では、たとえば敵国の人と結婚しようとする人は、全力で止められてしまうだろう。しかし、よく考えてみてほしい。以前はおそらく、その外国人(現在は敵国人になってしまったが、それ以前はそういう認識がなされなかった人)との婚姻関係において、相手が外国人であるかどうかはあまり問題にならなかったはずだ。むしろ、「どこの国の人か」で結婚相手として相応しいかどうかをジャッジしたら、不純なこととして受け取られかねないくらいである。そこには、「どこの国の人か」を結婚の障害にしてはならないという社会的合意がある。
これを受け、東さんは「ぼくは、そのような政治的な思考停止の領域についての合意の広がりこそが、ある社会が平和と呼ばれるべきか否かを判断するうえで重要な指標になるべきだと考える」(( )は引用者)と述べる。
もう、ここまででも十分おもしろい。
だが、東さんはここからさらに面白くなる。
上記の平和観には危うさもある。上記の平和を平和たらしめるには、ある種の弱点を抱え込まなければならないと東さんは言う。それは、みなが平和だと思っていた「かつての時代」について、「じつはあの時は平和ではなかった」という人が現れた際に、平和観を更新せざるを得なくなるという弱点だ。
たとえば、一部の人たちが平和だと感じていたその当時に、人知れず虐げられていた人たちがいたとする。その人たちの搾取構造の上にかつての平和が築かれていたとしたらどうか。虐げられていた人たちがアクションを起こした場合、過去の平和は否定され、新たな平和を組み直さなければならなくなる。過去を再解釈し、現代に通じる一貫した思考を再編集しなければならなくなる。その「訂正可能性」をきちんと確保することが平和にとって不可欠だと東さんは指摘する。
平和を享受している人たちは、平和について思考停止になっているだろう。そして、考えない人たちは、知らぬ間に人々を虐げ、その人たちに害をなすだろう。が、その時代にあっても被害者的にされている人たちはめちゃくちゃ悩み、思考している。思考させられている。そして、「じつはあの時は平和ではなかった」の「じつは」という論理を使うのは、多くはやはり弱者であり、被害者である。それを無視して、無理やり過去からの思考の一貫性を保とうとしたら、それは平和ではなくなる。
この意味で、「平和は本質的に加害の可能性に結びついている」のである。
そしてぼくらは、平和を語り続ける際に、常に「じつは平和ではなかった」と抗議され、訂正される可能性を考慮しなければならない。むしろこの訂正可能性に開かれることこそが平和の要件である。
「戦後長いあいだ、平成初期のあたりまで、倭国は冷戦体制と経済成長に支えられて高水準の平和を達成していた。社会の隅々にまで『考えないこと』が広がっていた。しかしその果実を享受し消費社会を謳歌することができた人々は、じつのところ世代や性差や階級で限られていた。それゆえ、21世紀に入ると、さまざまな立場、特に若い世代から告発が相次いだ。いま昭和を振り返るとき、彼らの声を無視することは許されない。繰り返すが、平和ボケが平和ボケでいられることはとても貴重なことである。しかしそれは告発を無視してよいことを意味しないのだ」
また、そういった声を受容するには、ある種の忘却が必要である。「平和を維持するためには正義ではなく忘却が必要だ」と、カール・シュミットの議論を引き合いにだして東さんは総括するが、それこそ過去を水に流す的な態度が必要な場面もあるだろう。
その際、ぼくらは再び、過去を忘れるという仕方で考えることを止める方向に進む。
これが平和の定義の出発点である。
本書は、「考えないことを考える」、「考えないこと」の価値を考える。そこから始めて平和観を構築していく。これが、説得的に平和を肉づけするのだから興味深い。
ぜひ、本書を読んで確認してみてほしい。
東浩紀@hazuma『平和と愚かさ』ゲンロン@genronedit December 12, 2025
2025年 12月17日
埼玉県 熊谷市
最高気温 14.2℃ 14:02
最低気温 0.5℃ 05:58
#最低気温 #天気 #気象 #埼玉県 #熊谷市 #気温 #さむいぞ熊谷 #くまがや #冬日 #真冬日 #極寒日 #猛寒日 #酷寒日 #超寒帯夜 #寒中症 #天候 #気候変動 #二十四節気 #七十二候 #春夏秋冬 #四季 #雑節 #12月17日 #令和 December 12, 2025
東浩紀さんの新刊めちゃオモロい。古来より「平和」は定義が揺れてきた。自己都合の定義も氾濫してきた。定義決定版は今も存在しない。そこに東さんが議論の出発点を持ってきた。その主要素は「考えないこと」である。平和とは考えないことを基とする。本書は、その地平から平和の新たな可能性を開く野心的な試みである。以下に概説したい。→
平和とは、実は「考えない時」に感じられるものである。本書のタイトルに「愚かさ」とあるが、「平和」と「愚かさ」はまさに「考えない」という点で共通している。というか、両者は表裏一体である。
現代は戦争や紛争にしても気候変動や人権の問題にしても、「もっと調べろ」「もっと知れ」「もっと賢くなれ」という圧が凄まじい。もちろん、考えることには価値がある。ただ一方で、「考えないでいられる」「平和ボケでいられる」という世の中を想像してみてほしい。ぶっちゃけ、深く考えなくても済む社会は、それはそれで平和なのではないかと思えるだろう。政治のことも争いのことも熱心に考えなくていい時代、それが平和の要素として重要ではないかと東さんは問う。
当然の話だが、全員が全員、考えなくていいという訳ではない。平和時においても安全保障について考える必要はあるし、武力の備えを充実させる人も必要だ。軍人や外交官、国際政治の専門家までもが思考停止するのは危うい。
これを踏まえた上で、この時点で東さんが注目していることを示そう。それは、「考えないこと」を許す社会の在り方である。考えなくてもいいことを考えない、それがより広く許容される社会が実現するなら、その社会は相当に平和だと言えるかもしれない。もちろん、本書でも平和と戦争が対比的に出てくる。「考えないこと」だけで平和という観念を肉付けすることは難しい。
そのため東さんは、平和の端的な表現として「戦争がない状態」というシンプルな見方から議論を説き起こす。ただ、東さんは「戦争がない状態」というよりも「戦争が欠けている」状態という言い回しを使って議論を始める。
ここでいう「欠け」が何なのかが重要である。それは、軍事力にまつわるものや政治戦略に関するものというよりも、「戦争について考えない」「考えないことが許される」という思考の欠如を前景化させる言葉だ。東さんは述べる。「平和の本質は戦争をしないことにあるのではない。戦力を放棄することにあるのでもない。戦争について考えないことが許されることにある」
これとは逆に、戦時においては「考える」ことが推奨される。というか社会的に強制される。そして、かつての平和は「悪を野放しにしていた能天気な時代」といったかたちで再解釈される。戦時の敵となった国とも昔は仲良くしていただろうが、それも「上っ面の平和」だったのだと再解釈される。その状況下では、たとえば敵国の人と結婚しようとする人は、全力で止められてしまうだろう。しかし、よく考えてみてほしい。以前はおそらく、その外国人(現在は敵国人になってしまったが、それ以前はそういう認識がなされなかった人)との婚姻関係において、相手が外国人であるかどうかはあまり問題にならなかったはずだ。むしろ、「どこの国の人か」で結婚相手として相応しいかどうかをジャッジしたら、不純なこととして受け取られかねないくらいである。そこには、「どこの国の人か」を結婚の障害にしてはならないという社会的合意がある。
これを受け、東さんは「ぼくは、そのような政治的な思考停止の領域についての合意の広がりこそが、ある社会が平和と呼ばれるべきか否かを判断するうえで重要な指標になるべきだと考える」(( )は引用者)と述べる。
もう、ここまででも十分おもしろい。
だが、東さんはここからさらに面白くなる。
上記の平和観には危うさもある。上記の平和を平和たらしめるには、ある種の弱点を抱え込まなければならないと東さんは言う。それは、みなが平和だと思っていた「かつての時代」について、「じつはあの時は平和ではなかった」という人が現れた際に、平和観を更新せざるを得なくなるという弱点だ。
たとえば、一部の人たちが平和だと感じていたその当時に、人知れず虐げられていた人たちがいたとする。その人たちの搾取構造の上にかつての平和が築かれていたとしたらどうか。虐げられていた人たちがアクションを起こした場合、過去の平和は否定され、新たな平和を組み直さなければならなくなる。過去を再解釈し、現代に通じる一貫した思考を再編集しなければならなくなる。その「訂正可能性」をきちんと確保することが平和にとって不可欠だと東さんは指摘する。
平和を享受している人たちは、平和について思考停止になっているだろう。そして、考えない人たちは、知らぬ間に人々を虐げ、その人たちに害をなすだろう。が、その時代にあっても被害者的にされている人たちはめちゃくちゃ悩み、思考している。思考させられている。そして、「じつはあの時は平和ではなかった」の「じつは」という論理を使うのは、多くはやはり弱者であり、被害者である。それを無視して、無理やり過去からの思考の一貫性を保とうとしたら、それは平和ではなくなる。
この意味で、「平和は本質的に加害の可能性に結びついている」のである。
そしてぼくらは、平和を語り続ける際に、常に「じつは平和ではなかった」と抗議され、
訂正される可能性を考慮しなければならない。むしろこの訂正可能性に開かれることこそが平和の要件である。
「戦後長いあいだ、平成初期のあたりまで、倭国は冷戦体制と経済成長に支えられて高水準の平和を達成していた。社会の隅々にまで『考えないこと』が広がっていた。しかしその果実を享受し消費社会を謳歌することができた人々は、じつのところ世代や性差や階級で限られていた。それゆえ、21世紀に入ると、さまざまな立場、特に若い世代から告発が相次いだ。いま昭和を振り返るとき、彼らの声を無視することは許されない。繰り返すが、平和ボケが平和ボケでいられることはとても貴重なことである。しかしそれは告発を無視してよいことを意味しないのだ」
また、そういった声を受容するには、ある種の忘却が必要である。「平和を維持するためには正義ではなく忘却が必要だ」と、カール・シュミットの議論を引き合いにだして東さんは総括するが、それこそ過去を水に流す的な態度が必要な場面もあるだろう。
その際、ぼくらは再び、過去を忘れるという仕方で考えることを止める方向に進む。
これが平和の定義の出発点である。
本書は、「考えないことを考える」、「考えないこと」の価値を考える。そこから始めて平和観を構築していく。これが、説得的に平和を肉づけするのだから興味深い。
ぜひ、本書を読んで確認してみてほしい。
東浩紀@hazuma『平和と愚かさ』ゲンロン@genronedit December 12, 2025
2025年 12月16日
埼玉県 熊谷市
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韓国の最高裁判断でも、ICJでも「自分の生活がどう脅かされているか」普通の人たちのストーリーを集めていました。法廷外で盛り上げるのが大切です
「気候変動は人権の問題」450人が国を訴える 「対策義務に違反」 https://t.co/LuzrscvqPc December 12, 2025
有料記事がプレゼントされました! 12月19日 16:38まで全文お読みいただけます
「気候変動は人権の問題」450人が国を訴える 「対策義務に違反」:朝日新聞 https://t.co/xWmcf66BG3 December 12, 2025
【発言者:田村智子(倭国共産党)】
・倭国共産党の田村智子議員が、物価高騰対策として消費税減税を財務大臣に求めたが、財務大臣は検討しないと回答した。
・片山大臣は、消費税率引き下げはシステム改修に時間がかかり、物価高対策として迅速性を欠くと説明した。
・政府は、消費税は税収が安定し、現役世代への負担集中を避けられる特徴があり、社会保障財源として活用されていると指摘した。
・政府は、消費税の在り方は社会保障の受益と負担を含め、幅広い観点から考えるべきと主張した。
・田村智子委員は、参議院選挙の審判を踏まえ、自民党・維新の与党協議ではなく与野党協議で消費税減税やインボイス制度廃止を進めるべきと表明。フリーランスの会のアンケート結果を基に、インボイス制度の影響について片山大臣の認識を質した。
・片山国務大臣は、インボイス制度導入後のフリーランスの不満の声を認識していると述べた。
・政府は、免税事業者との取引について、発注側の4分の3が取引をほぼ全て継続し、9割近くが価格を維持している調査結果を示し、制度は定着しつつあると認識した。
・政府は、インボイス制度で悩む事業者が存在することを認め、きめ細かく対応する意向を示した。
・田村智子委員は、インボイス制度による小規模事業者・フリーランスへの影響を指摘し、特に免税事業者の危機を強調。二割特例の延長を求めた。
・片山国務大臣は、自民党税調で小規模事業者の声を聞き、二割特例延長の要望を認識していると述べた。
・政府は、特例の円滑化役割を認めつつ、本来の原則や消費者負担の観点も指摘した。
・政府は、与党税調の議論を見守り、現時点で延長を明言しないとした。
・田村智子議員は、自身のYouTubeチャンネルで二割特例恒久化を主張した片山さつき大臣に対し、インボイス制度廃止と二割特例延長への対応を求めた。また、軍事費GDP比2%達成の財源として赤字国債発行の可能性を指摘し、片山大臣の見解を質した。
・片山大臣は、総合経済対策に軍事費は含まれておらず、「強い経済」実現のための対策だと説明した。
・政府は、NHK討論での発言について特定財源に色はないとし、赤字国債発行の可能性を否定しなかった。
・政府は、GDP比2%達成の財源として歳出改革や決算剰余金活用を挙げ、詳細は今後精査するとした。
・田村智子委員は、自民党政権が歴代できなかったことを次々と進めていると指摘し、防衛国債の財源確保について政府方針を質した。
・片山国務大臣は、防衛力抜本強化のため必要なものを積み上げ、概算要求閣議に向け作成すると説明した。
・政府は、新しいスキームについて現時点で確定的な仕組みや金額は決まっていないとし、今後議論を進め早期に国民に示す意向とした。
・田村智子委員は、財務省が歯止めなき防衛予算増加を避けるべきと主張し、過去総理の認識を問うた。
・片山大臣は、過去総理の反省を認識していると述べた。
・政府は、防衛予算の確定的財源見込みを作成しておらず、海上保安庁船と同様の目的の海上自衛隊船に建設国債を充当開始するとした。
・田村智子委員は、過去自民党政権下で軍事費国債発行に歯止めがあったことを指摘。現在のGDP比3.5%要望やトランプ政権要求を踏まえ、軍事国債発行や大増税の可能性を問題視し、財務金融委員会で過去姿勢を確認し今後の経済対策を議論する意向を示した。
・田村智子議員は、ガソリン・軽油減税の財源について野党提案を尋ね、政府見解を求めた。
・田村智子委員は、沖縄の揮発油税等減税措置による減収額を財務大臣に質問した。
・片山国務大臣は、沖縄の軽減措置による減収額は約40億円程度だと説明した。
・田村智子議員は、沖縄県の物価高騰対策として全国と同じ減税額実現を求めた。
・田村智子議員は、ガソリン税水準を考える上での考慮事項や与野党協議内容を質問し、気候変動対策としてのカーボンニュートラル追求の必要性にも言及した。
・田村智子議員は、ガソリン暫定税率廃止に関する与野党協議を評価しつつ、参議院選挙で示された国民の消費税減税要求に応え、引き続き消費税減税に向けた協議を政府に求めた。 December 12, 2025
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