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倭国書紀
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2025.12.12 20:00
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桜神宮。世田谷区新町。
「神習教」の本祠。世田谷のお伊勢さん。
12月中に授与の「冬支度御朱印」を頂きました。サンタさんの格好をした可愛らしいペンギンたち。授与所の前に同じようなぬいぐるみが置いてあってとってもキュートです。こちらの御朱印は書き置きのみで1日あたり300枚限定です。
今月の月替わり御朱印は他に御朱印帳に直接頂ける「ポインセチア御朱印」があります。
本日は参拝してみると社殿右手にある屋外神事斎場に人が集まり何やら神事が行われる前の様子。あれ?今日って何か神事のある日だっけ?と思って少し見てみると集まっている皆様、可愛いワンちゃん達を連れている事に気付きます。その後も続々と。
本日12月12日は「ペット七五三 健康長寿祈願祭」を行う日だったようです。時間を分けて2回開催で各回20組限定(要予約制)。ペットはワンちゃんに限らず種類を問わないとのこと。
ペット七五三なんてあったのですね。知りませんでした。どうりで皆様可愛らしいワンちゃん達と一緒だった訳です。
今はペットも飼い主達にとっては家族同然の時代。最近はペット向けの御守も増えていますし御祈願、大祓なんてやる神社も見かけます。ペット七五三も素敵です。
そんな桜神宮は神道十三派の「神習教(しんしゅうきょう)」の本祠(教庁・神殿)とされる古式神道の神社です。
神習教は明治の神官教導職分離の時期に組織された宗教の1つ。明治時代に神道教団として公認された13の教派神道を神道十三派と呼び、そのうちの1つです。
当時の明治政府が「神社の神官は人を教え導いてはならない」という方針を打ち出したため、危機感を抱いた芳村正秉という人物が明治天皇の勅許を得て設立されました。本来の神道の姿に復することを目的としていて、神代より脈々と流れる伝統的な神道的価値観を教義の柱としているため「古式神道」を称します。
造化の神・天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や、「伊勢神宮」の主祭神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)など多くの天津神・国津神を祀り、記紀(古事記・倭国書紀)などを所依の教典としています。
初代管長の芳村正秉は「伊勢神宮」に筆頭禰宜として奉職していた方。伊勢神宮退任の際に、当時の伊勢神宮の祭主であった久邇宮朝彦親王が天照大御神の神霊を御鏡に分霊して授けたと伝わります。この御鏡を御神体としている事から「世田谷のお伊勢さん」とも呼ばれます。
そんな古式神道の神社とされるため参拝方法は二拝四拍手一拝。(拝殿前にも参拝方法の掲示があります)一般的な2回ではなく4回拍手で行います。桜神宮に参拝される方は皆さんその辺を理解していて4回拍手が鳴り響いています。
※「出雲大社」「宇佐八幡宮」などの古社では今も桜神宮と同じく「二拝四拍手一拝」を参拝作法としている事があります。
ぜひ二拝四拍手一拝でお参りしてみて下さい。
#御朱印 #限定御朱印 December 12, 2025
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韓国にも倭国と同様に、火山に対する崇拝や信仰の伝統が存在します。とりわけ済州島の漢拏山は民族の守護神として認識されており、白頭山は民族の聖山としてきわめて神聖な場所とされています。白頭山は民族の安寧と豊穣を祈る象徴的空間であるため、今日でも多くの韓国人が中国側の国境を経由し、巡礼の形で白頭山を訪れることがあります。
歴史的観点から見ると、召文国は邪馬台国と深い関連性を有していたと考えられています。朝鮮半島南部の召文国が新羅の圧迫によって消滅した後、その残余勢力が九州へ移住したという見解も存在します。ただし、この召文国も当時の倭国列島各地に点在していた半島系分国の一つにすぎません。
また、大和政権の起源については、これを古代伽耶系勢力とみなす説が有力です。倭国神話の主要構造も、概ね 古朝鮮(遼河地域)→ 三韓(とりわけ伽耶)→ 倭国列島(大和) という移動経路を反映していると考えられます。天孫降臨神話の淵源は古朝鮮の天符三印(のちに倭国では三種の神器として伝承)に結びつき、アマテラスは召文国系、スサノオは紀元前の百済系、ニニギおよび神武天皇へと続く系譜は伽耶系と推定されています。もちろん、これら一連の流れの根底には「韓」というより大きな文化的基層が存在します。
天皇が十一月二十三日の祭祀において、祝文で「韓神」を奉る旨を唱える伝統や、朝鮮半島の方言的特徴を帯びた古語で女神を呼称する習俗も、同系統性を示唆するものです。
さらに、イザナギ・イザナミが降臨したと伝えられる霧島地域には、「韓国岳(からくにだけ)」という山が存在する点も注目に値します。『古事記』において「カラ(韓)」は朝鮮半島を意味し、「カラ」はすなわち伽耶の古称でもあります。
すなわち、大和とは古代の伽耶系勢力が形成した政権であり、七世紀に百済が滅亡した後には、百済系の人々が列島の指導層を占めるようになったと考えられています。
百済滅亡後、大和が国号を「倭国」へと改称したのも象徴的です。これは当時、百済の別称でもありました。唐の史書には、百済=倭国、高句麗=風谷、新羅=盤桃、倭=扶桑といった別称が記録されています。
これは列島で「倭国」という国号が公式に登場する以前から、百済がすでにその名称で呼ばれていたことを示すものであり、最古の「倭国」表記の一つといえます。
したがって、百済滅亡後に多数の遺民と指導層が列島に移住し、その時期に倭が国号を改めたという事実は、権力層および主導勢力が交代したことを意味しているとも解釈できます。
いずれにせよ、倭国の神々は単一の直系血統で継承された存在ではなく、半島系集団が列島へ渡来する過程で持ち込んだ多様な信仰・物語が融合した結果として理解する方が妥当でしょう。言い換えれば、朝鮮半島から渡来した政治勢力が列島各地に分国を築き、それが次第に中央集権的体制へと統合される過程で、諸々の神話的要素が一つの体系として再編されたものと考えられます。
要するに、倭国古代史の中核を成す相当部分は、朝鮮半島系の移住集団の文化・言語・信仰に基づいて形成されており、これは太古以来、朝鮮半島と倭国列島が密接に結びついていたことを示す重要な歴史的根拠であると言えます。
そして、百済の滅亡を記した『倭国書紀』の天智天皇紀には、次のように記されております。
『今日をもって百済の名が絶えたので、先祖の墓をいかにして往来できようか。』 December 12, 2025
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