因果関係 トレンド
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2025.12.20 07:00
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ハーバード大学とMITの研究により、LLMが「科学者のように話す」ことはできても、「科学者のように考える」ことはできないという衝撃的な事実が明らかになりました。
論文では、単なる知識量ではなく、仮説立案から実験、結果解釈、信念更新までの「科学的発見ループ」そのものを検証しています。
その限界と課題を3つのポイントにまとめました。
1. 科学的発見ループの脆弱性
LLMはもっともらしい仮説を提案するのは得意ですが、その後の検証と修正のプロセスが極めて脆いことが判明しました。表面的なパターンに過学習し、実験結果に基づいて自説を修正する能力が欠けています。
2. 思考の誤り
証拠が矛盾していても誤った仮説を捨てられず、正当化しようとする傾向があります。また、相関関係と因果関係を混同したり、実験が失敗した際に説明をハルシネーション(捏造)したりする問題も確認されています。
3. 決定的な結論
既存の推論ベンチマークの高スコアは、実際の科学的発見能力とはほとんど相関しないことが示されました。「科学的知能」と「言語的知能」は別物であり、現在のAIはまだ前者を獲得していません。 December 12, 2025
10RP
【山上裁判結審】
動機は“教会への恨み”
標的は“安倍元総理”
この時点で
因果関係は切れてる。
それを
「宗教が悪いから起きた暗殺」
に再構成したのがメディア。
これは事実検証じゃない。
物語づくり。
世論を煽り、政府を動かし、
無実の宗教を潰しにいった3年半。
これを
「報道」と呼ぶのは無理がある。
国家ぐるみの印象操作。 December 12, 2025
2RP
永山則夫の時は鑑定医が物凄く生育歴を重視した
心ある鑑定書を書いていたが
裁判官も検察も「生育歴と事件との因果関係が不明」とし劣悪な生育歴、子供虐待が裁判結果には
反映されなかった
船田高裁は生育歴を重視し無期懲役にしたが
最高裁で死刑になった
永山則夫のこの結果が現代に反映されている December 12, 2025
【誤る】「ビニール製チョコチップ」を園児130人あまりに食べさせるミス 京都のこども園
https://t.co/VdtAMCJ8IV
食品サンプルなどに用いられるチョコチップを、職員が食用と誤ってケーキにのせ、3歳から5歳の園児133人と職員4人が食べたという。帰宅後に園児3人が腹痛を訴えたが、因果関係は不明。 https://t.co/dl0orO54Dd December 12, 2025
@ZP7EYkgAWw70668 そうですね。私が電話した時も、
とりあえず聞くだけ〜
みたいな感じ
香害や化学物質過敏症なんて大したことではないと思ってそう
医者でも、香害が嫌なら自分(香害で困っている人)が使わなきゃ問題ないと言った奴も
因果関係が明確じゃないからという言い訳で合成洗剤やめない宣言したり
アフォです December 12, 2025
んなゴミ理屈、量刑に反映させたら、どんな屁理屈でもテロを正当化できる事になりますね。
1. 伯父の発言内容
山上被告の伯父は、事件によって旧統一教会の被害者救済が進んだという「社会的な結果」を重視しています。彼は、この「社会的意義」を量刑に反映させるべきであり、事件のおかげで多くの信者が救われたと主張。
2. テロリズムの正当化という危うさ
この主張は、非常に危険な「テロの正当化」に直結するという点。
・暴力の有効性を認めるリスク
「言葉や選挙よりも、暴力の方が社会を動かすのに効果的だ」というメッセージを社会が追認することになり、民主主義の根底を揺るがします。
・模倣犯の誘発
「目的が正しければ、あるいは良い結果が出れば暴力も許される」という前例を作ることは、さらなる暴力を招く「暴力の連鎖」に繋がります。
3. 核心:因果関係と評価の分離
今回の事件における最も重要な整理は、「繋がり(因果関係)」と「評価(正当化)」を明確に分けるべきだという点です。
・結果論に過ぎない
事件と社会変化の間に「繋がり」があるのは事実ですが、それはあくまで事後的な「結果論」です。
・事実と価値判断の区別
「事件をきっかけに問題が解決に向かった」という
事実(現象)を認めることと、「だからその犯罪は評価されるべきだ」という価値判断(正当化)
は、厳格に切り離さなければなりません。
・法治主義の原則
司法は「行為そのものの違法性」を裁くものであり、その後にたまたま生じた「思わぬ副作用」によって罪の重さが左右されるべきではありません。
【暴力は一番簡単な現状変更の力技】
民主主義や法的手続きは、対話、説得、合意形成という膨大な手間と時間を必要としますが、暴力はそのプロセスをすべて「短縮」し、強制的に他者の注意を引き、現実を動かしてしまいます。
なぜ、その「力技」を社会が認めれば破綻に向かうのか、改めてその危うさを掘り下げてみます。
1. 「対話のコスト」を拒絶する誘惑
民主主義的な手続きは、非常に「コスト(労力)」がかかります。
・反対者との議論
自分の意見を通すために、反対する人々を説得しなければなりません。
・妥協点の模索
100%の望みが叶わなくても、社会全体の利益のために譲歩が必要です。
・ルールの遵守
選挙や司法など、決められた手順を踏まなければなりません。
暴力は、
これらの面倒なプロセスをすべて「力技」で踏みつぶし、一瞬で現状を破壊します。その「手軽さ」こそが、絶望や怒りを抱えた個人にとっての最大の誘惑になります。
暴力=楽
2. 「力技」が支配する社会の末路
もし社会が「暴力による現状変更」を一度でも正当な手段(あるいは有効な手段)として認めてしまえば、誰もが「議論」という時間のかかる方法を捨て、「力」を行使するようになります。
・声の大きさ=暴力の強さ
議論の正しさではなく、誰が一番強い力(暴力)を行使できるかで物事が決まるようになります。
・相互不信
誰もがいつ「力技」を仕掛けられるか分からないため、社会から安心感が失われます。
3. 歴史が証明する「力技」の代償
歴史を振り返れば、暴力による現状変更(クーデターやテロ)が一時的に問題を解決したように見えても、その後に続くのは、より強い力による弾圧や、終わりのない報復の連鎖でした。
伯父の発言にある「結果的に救われた」という視点は、この「力技」の副作用を無視し、表面的な変化だけを称賛してしまっている点に大きな危うさがあります。
「暴力というショートカット(近道)」を選べる社会は、同時に「誰もが暴力の犠牲になり得る社会」でもあります。
この「力技」は、暴力が決して知的な解決策ではなく、
野蛮で原始的な、しかしそれゆえに抗いがたい破壊力を持っている
ものなのです。
結論
「結果的に救われた人がいる」という事実は、殺人と暴力という手段そのものの罪深さを消し去る免罪符にはなり得ません。この一線を守ることは、法治国家が暴力による社会変革を否定し続けるための、譲れない防波堤であるといえます。 December 12, 2025
コミュニティを見てると裁判を起こす気がある人が少なすぎる上に、原因の特定は国や企業に投げようとしている。
倭国では「被害者が因果関係の証明をする」が原則である以上行動するしかない。
裁判事例もほぼなく、原因も未解明である現時点で「公害である」という強い言葉遣いをしていいものなのか。 December 12, 2025
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