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北条時頼
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2025.11.10〜(46週)
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④
「倭国もよくもよくも衰へたこと」(一月二十三日以後、入江杉蔵宛書簡)だ。情けないかぎりだ。
「哀(かな)し哀し」(二月十五日以前、某宛書簡)と、松陰は血涙をしぼった。
このときの松陰の思いは、「星落秋風五丈原(ほしおつしゅうふうごじょうげん)」の歌の一節
「成否(せいひ)を誰(た)れかあげつらふ 一死尽(つ)くしゝ身の誠(まこと)」に通じるものがあるだろう。
戸田先生は、かつて、「五丈原」の歌を青年部に歌わされたが、この歌詞のところにくると涙されるのが常であった。
“無責任な傍観者が何を言おうと、広宣流布は断じてなさねばならない。いったい、だれがそれを成すのか”との思いが、歌詞と二重写しになって胸に迫られたにちがいない。
しかも、戸田先生のもとにはつねに私がいた。
私は「広宣流布」の「こ」の字を口にしたときから、心は決めていた。死も覚悟のうえだった。
そして戸田先生の請願実現のために、走りに走った。
戸田先生も「大作がいるからな」と喜んでくださっていたし、私に一切を託された。
一切を託せる弟子を持つことほど、師にとっての喜びはないし、幸せはない。(拍手)
広宣流布も、また大闘争であり、当然、戦術、戦略というべきものもある。
また、冷徹な情勢分析も絶対に必要である。
しかし、自根本的なものは「師弟の道」である。
その道を外れては、どんな作戦も価値を生まないことを知らねばならない。
■“民衆の決起”こそ革命の原動力
さて、松陰は、明治以後になると、いわゆる「勤王の志士」とたたえられ、軍獄主義などに利用されてきた歴史がある。
しかし、彼が、苦しみの果てにいたった結論は、じつは「民衆による革命」であった。
「草莽崛起(そうもつくっき)」(民草(たみくさ)、民衆の決起……これが松陰の、最後の考えであった。
他人は信ずるに足らず、幕府も諸大名も頼むに足りない。
では、どうするのか。
──民衆である。革命は、民衆に拠るしかない──と。
松陰だけではない。
歴史上、まがりなりにも革命を成し遂げた人物は、やはり民衆に焦点をあてていた。
「草莽崛起、豈(あ)に他人の力を假(か)らんや、恐れながら、天朝(てんちょう)も幕府・吾が藩も入らぬ、只だ六尺の微軀(びく)が入用(にゅうよう)」(四月頃、野村和作宛書簡)
──名もない民衆の決起、もはやそれしかない。どうして他人の力など借りようか。恐れながら朝廷もいらぬ。幕府もいらぬ。わが藩もいらぬ。ただこの六尺の身があればよい──。
もうだれも頼らない。
わが身一身が炎と燃えれば、火は民草に燃え広がろう。権力者などあてにするのは、一切やめだ──と。
民衆は弱いようで強い。いざとなれば権力など、ものともしない。怖じない。
無名の民衆の力こそ、革命の真の原動力である。
広布という未聞の大業もまた、無名の庶民によって、たくましく切り開かれてきた。(拍手)
松陰が、この「民衆決起」の考えにいたった発端は、どこにあったか。
それは、日蓮大聖人の戦いであった。
彼は書いている。
「余(よ)が策(さく)の鼻(はな)を云(い)ふが、日蓮鎌倉の盛時(せいじ)に當(あた)りて能(よ)く其の道天下に弘む。北條時頼(ほうじょうときより)、彼(か)の髠(こん)(=髪をそられた罪人のこと。ここでは日蓮大聖人を指す)を制すること能(あた)はず。實行(じっこう)刻苦(こっく)尊信(そんしん)すべし、爰(ここ)ぢや爰ぢや」(同書簡)
──この戦略を思いついた発端は、日蓮(大聖人)は鎌倉幕府の勢いの盛んな時に、よくその教えを天下に広めた。権力者である執権の北条時頼でさえ彼を制することができなかった。
この事実から考えついたのだ。「実行」と「刻苦」と。
苦しみつつ実践に生きることは尊ぶべきであり信ずるべきである。肝心なのはここだ、ここだ、──と。
この「民衆決起論」は、やがて弟子たちに受け継がれ、近代倭国の扉をこじ開けるテコになる。
いわば、日蓮大聖人の、権力をもものとしない「民が子」としての戦いが、時代を超えて松陰に飛び火し、明治維新の淵源をもつくっていったのである。(拍手)
こうした手紙を書いた半年後、松陰は江戸で処刑される。
門下の衝撃は大きかった。
「仇を報わでは」と、皆、泣いた。
そして、師の手紙や遺文を集めた。
それぞれが、ばらばらに持っていたものを結集し、皆で学んだのである。
そこで、初めて弟子たちは松陰の真意を知った。
「これが、わが師の心であったのか」──。
その思想の深さ、慈愛の大きさ。
あらためて自分たちが師を知ることのあまりに少なかったことを悔いた。
松陰は遺言に言う。
「諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、爲(た)めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如(し)かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」(十月二十日、諸友宛、「諸友に語(つ)ぐる書」) November 11, 2025
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一方倭国では北条時頼が執権につき、対抗勢力の族滅までも辞さない苛烈なまでなやり方で自身に権力を集中させ、モンゴル帝国の侵攻に備えた海軍の設立や法度の制定など、倭国という国家への統一へと進めていく。時頼がその覚悟を決めるのが、妹である檜皮姫の死なんだよな。クビライとはだいぶ対照的だ November 11, 2025
②北条氏の三つ鱗は 二等辺三角形が基本
建長寺のものは きれいな正三角形で、少し違います
じゃあなぜ三つ鱗?
理由はシンプルで、
👉 建長寺は北条時頼が創建したため、創建者への敬意として付けられた
(=寺紋としての三つ鱗)
という説がもっとも有力。
三つ鱗探しは宝探しのようで楽しい❣️ November 11, 2025
@panphanpun_co 守り隊はがし隊は1回買えばしばらくもつしできたら全部買ってみてほしいな、跡ってなかなか消えないのでね😿お役に立てたならなにより北条時頼~¨̮⃝ November 11, 2025
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