公共性 トレンド
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2025.12.19 03:00
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伊藤さんが関係者全方位に対して信頼関係を失うようなことをしていて、実際映画に出ている人たちの権利や感情を侵害したことは明らかだと思いますが、その侵害の程度をどう評価するのかという点で人によって見解が分かれているんだと思ってます。
一つはサバイバーである伊藤さんなのだから、そのような不義理や信頼関係を毀損するようなことであっても、ある程度は免責あるいは考慮されるべきと考える立場。
もう一つはサバイバーであっても倫理や信頼関係が優先されるのが当たり前であると考える立場。(そこまでに至る複雑な経緯や文脈をあえて省略して)ざっくり言えば、この両者の対立なのだと思いますね。そしてそれこそが海外メディアが「倭国でだけ起きているこの論争」に関心を持たない最大の要因でもあるのでしょう。
自分が言いたいのは、その違いやアウトかセーフのライン――自分が人生において何を大事にしているのかということを判断するためには実物の映画を見ないとダメだということです。観た上で自分がどっち寄りの立場なのか、0/100でないグラデーションの中で、自分はどこの立ち位置にいるのか考えることが何よりも肝要。そしてそうした機会を多くの人に提供することには少なくない公共性・公益性がある(結果的にもたらされている)と思います。 December 12, 2025
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論点をずらしたコメントがついているので補足すると、個人的な映画だから公共性がない、という意味ではなく、私は、この映画に詩織さんの主張する公益性があるとは思いません。被害者がどんな孤独や辛さを経験するのかを表していてそれを知るという意味では理解できますが、
問題とされた映像の使用などについて、そしてこの映画について、公のためでなく、詩織さんが、「自分が救われたかったから作った」と言えたらいいのに、と思いました。 December 12, 2025
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伊藤詩織さんの映画は、被害者らしい被害者像がすごく描かれている映画だと思いました。詩織さんが自分をどう描きたいかがよく伝わってくる映画だというのが感想です。
ケアされないままでいる、誰もケアしてくれない社会の中で、みんなが敵に思えて、自分を認めて欲しいと思っている。暴力にさらされ
た人がそう思うようになっていくことはよくあることで、当然ともいえる反応で、修正前の映像ではよりそれを感じました。
事実がどこにあったかではなく、自分がどう思ったかを描いた「日記」なんだ、と。
この映画が公共性のあるものだとは思いません。
映画では許可されていない映像や事実を歪曲して捉えられかねない表現があり、人権侵害が元弁護団から指摘されてきました。
そこに詩織さんが向き合わないまま、初日のアフタートークでは、元弁護団から事実に基づかない発信がなされているとか、話し合いを拒否されたと主張していることは驚きました。
実際には元弁護団から、映画の修正や海外で継続されている無修正版について度々説明を求められていたのを無視して、公開まで返答しなかったからです。
映画を見て、被害を訴える側が声をあげることで攻撃される、あなたは悪くないと誰も言ってくれない、そういう社会に対する絶望感が、ああいう表現を詩織さんにさせているんだと思いました。特に、修正前のバージョンではそれを感じました。
許可されていない人の顔や発言を、準備の上隠し撮りされたものを、いくつも自分のために利用していたからです。
詩織さんは映画では、ジャーナリストとしてこれを公表すると語っていました。しかし、初日のトークイベントでは、これは映画監督として作ったのでジャーナリズムとは違うと言っていました。話を変えています。
それなのに、映画に「公共性がある」とも言っていてめちゃくちゃなのですが、ジャーナリストとして、監督として、被害当事者として、どの立場から映画を作ったとしても、他の誰かの人権を傷つけたり、その指摘に誠実に向き合わなくていいということにはならないです。
元弁護団からの質問に答えないまま倭国公開に踏み切ったこと、また海外では無修正版を流し続けていることは問題であり、残念です。
詩織さんは指摘されている問題、自身の加害者性に向き合う必要があるし、周りの人はそこから目を背けることではなく、向き合うことをサポートするべきで、それが真の人間関係だと思います。
自分のすべてをいいねと言ってくれる人しか周りに置きたくないという時期があることも理解しますが、
私は、出会う少女たちが、もし同じことをしていたら、もし人を尊重しないことがあれば、相手が性暴力の被害者であっても、未成年の少女たちであっても指摘します。
でも今は、それに向き合える状態ではないのだろうと思いました。自分のしたことから目を背けると決めたのだとトークイベントを見て思いました。向き合うためには、社会や他者や自分への信頼や安心感など、そのために必要なものがないと難しいため、仕方ないのかもしれません。
そういう状態の当事者を、十分なケアがないままこれまで、これだけ前に出してもてはやしてきた、ヒロインとして、ジャーナリストとして盛り立ててきたメディアと社会の責任もあると思います。
映画の中でも、「当事者に無理をさせたくない」、頑張らせないようにしたいという、他の国の支援者の発言が取り上げられていました。
詩織さん自身も語っているように、自分はジャーナリストだと思うことで、そこに救いを求めるようにして、自分に向き合わないようにしていたといいます。それが今も続いているのだと思います。
私は、この映画に公益性があるとは思いません。詩織さんが、「自分が救われたかったから作った」と言えたらいいのに、と思いました。
だからと言って誰かの人権を踏み躙っていいわけではないけれど、自分のためにやったんだと言えばいい。その上で責任を取ればいいのに、これをジャーナリズムだと言ったり、いち被害者としてと言い換えたり、映画監督として作ったなどと、都合よく話を変えていくのは本人のためにもならないと思います。
自分のことをわかってほしかった、公共のためでなく自分のためだった、それを言えた時に、また自分の傷や状態と向き合って回復の一歩を踏み出せると思うのです。それを言わせない社会の持ち上げ方にも、問題があると思います。
社会の求める理想の被害者像やヒロイン像が、彼女を自分に向き合えなくさせていると思います。
そこに被害当事者がすがらなくても良いように、それだけのサポートがある社会にしなければと思っています。
望月さんの番組では、もう少し詳しく話しています。 December 12, 2025
個人的体験だからといって公共性がないとはいえません。個人的体験も普遍性があり公共性に繋がることはある。個人へのインタビューも時代やその場の人の普遍性公共性に繋がるのと同じ。仁藤さんが少女たちの話を聞くのも普遍性、公共性を見出すからでは?だからこそ、伊藤詩織さんの映画をみたいのです https://t.co/QoyAl1fQG9 December 12, 2025
以下の内容は、最初は直レスにしようかと思ったのですが、よく考えてみると公共性があるかもしれないと思い直し、引用RPにさせて頂くことにしました。
Gitと、cvsやSubversion(svn)等それ以前のバージョン管理システムとの最大の違いは、Gitは分散バージョン管理システム(DVCS)であるという点にあります。
したがって、Gitの場合はローカルマシン(WindowsだったりMacだったり、あるいはLinuxだったりw)にgitさえインストールされていれば、コマンドラインからgitコマンドを使うだけで自分のローカル環境の中だけでソースコード等のバージョン管理が出来るのが最大の特徴です。
具体的には、例えば何か新しくプロジェクトを開始したいディレクトリに移動して、そこでBash等のコマンドラインシェルのプロンプトから
$ git init
とすることで、ローカルマシン上で新規にGitのリポジトリを作ることができ、そのディレクトリ(フォルダー)内のファイルを、外部のサーバー等は一切関係なく、ローカル環境だけでバージョン管理できるわけです。
ここまではOKですか?
一方、「社内で(gitではなく)Gitサーバーを立てる」というのは、そのローカルにあるGitのリポジトリを他の人達と共有するために、例えば社内のLAN上にある専用サーバー等に別にGitのリポジトリを作り、そこに対して先程作ったローカルのGitリポジトリの特定ブランチをアップロード(git push)したりあるいはダウンロード(git pull)したり出来るので、それによって他者とのリポジトリ共有が可能になります。
そこがGit(gitコマンド)やMercurial(hgコマンド)等のDVCS(分散バージョン管理システム)と、Subversion(svnコマンド)やcvs等の旧世代のバージョン管理システムとの最大の違いであり、そこを正しく理解することがGitを使いこなす上での第一歩であると思います。
以上の説明でご理解頂けましたでしょうか? December 12, 2025
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