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モンゴル
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2025.12.01〜(49週)
:0% :0% (40代/男性)
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
良いご見解。台湾は倭国の一部だ、と中国が認めた事を意味する。ヤルタ協定も是非是非是非、否定して欲しい。南モンゴルや東トルキスタン、北方四島の帰属をたったの三ヶ国が決めたのは、国際法違反だ。しかも、ヤルタには当事者すらいなかったよ! https://t.co/Xyil6Vl4vS December 12, 2025
400RP
内モンゴル・フルンボイル草原の草そりは最高に楽しい!
全長1200mの緑のレールをそりで一気に滑り降りる爽快感!
夏限定、料金は約1000円くらい。
ここは中国なのでお金は人民元でOK!
モンゴル国のトゥグルグは使えません😂
青空と草原が広がる絶景です🛷
https://t.co/Zu3PxZfQMA December 12, 2025
275RP
ほぼ20年ぶりの内モンゴル。ご当地小吃・赤峰対挟は、焼き「餅」に豚の燻製肉を挟むのが特徴だ。生地に油酥(ラードとアワの粉を練り合わせたもの)、五香粉、砂糖などを練り込んで「餅」を焼くことで、外はカリッと中はふんわり香ばしい。ジューシーな燻製肉の香りも混じり合い、実に美味しい。 https://t.co/vHzX7nldbj December 12, 2025
190RP
鉄線で引き裂かれた南北モンゴル。ヤルタ協定の秘密条項。南側は中国人民に環境が破壊されて草もない。鉄線を超えて羨ましい北側は草も多いモンゴル国。
かつては倭国人も大勢いた草原。 https://t.co/KreGZATr6K December 12, 2025
171RP
夕食は、内モンゴル式の涮肉(しゃぶしゃぶ)。16人が囲める巨大な円卓の中央では、様々な部位の羊肉や牛肉を盛り合わせた大皿がぐるぐると回っている。各人の前には一人用の小鍋があり、それぞれが好みの鍋底(ベーススープ)を選んで煮るスタイルだ。しかし、宴の冒頭でホストからひと言。「鍋底は『清水(お湯)』をオススメします。肉本来の味を楽しむためには、それが一番です」。さすがの見識だ…と、僕は心の中で拍手をした。 December 12, 2025
91RP
「アイヌと縄文人は黒人で、モンゴルアジア人が侵略する前に倭国列島にイノベーションの種を蒔いたからこそ倭国は発展した。」
また黒人優越主義思想が出てきた。唯一神YASUKEを崇めよ。 https://t.co/bUFVDdoR6D December 12, 2025
90RP
【「明諭琉球国王勅」大連で展示】のポスト
なんか興味深いですね。
でもいわしてもらいますが
中国の歴史観って本当に一貫してるんでしょうか?
琉球王国は確かに明の冊封体制下で朝貢し
1404年以降25回冊封を受けました。
これが「藩属国」の証拠として
展示されるのはわかりますが
当時の琉球は中国と倭国の薩摩藩への
「両属」状態で独自の中継貿易国家として
東南アジアまで行動していましたよね?
独立した王権を維持し
中国の「侵略」なんて歴史的事実は
まったくありませんよ?
これもあなた達中国共産党の嘘偽りです。
1879年の琉球処分は明治政府の国内統治で
清も正式に抗議せず
1895年の下関条約で
清が琉球権益を放棄しています。
歴史は「裏付け」じゃなく複雑ですよ。
で、ここであなた達中国共産党の矛盾が
とても面白い同じ論理を適用するとですよ?
モンゴルのフビライが「大元」を建国し
中国全土を征服統治したのは有名ですね。
モンゴル人があなた達漢人を
四階級制で支配したのに
今の中国は元を「中華王朝の正統」と位置づけと
モンゴルを「侵略者」扱いしていません。
むしろ内モンゴル自治区として
「中華民族」の一部にだったら
元が「中国を侵略」した過去を深く反省すべき?
歴史の都合のいい切り取りは相変わらず露骨ですね。
台湾1683年に清が鄭氏を滅ぼして編入し
台湾省設置は1885年です。
でも1895年の日清戦争で下関条約により
清が自ら台湾・澎湖諸島を倭国に割譲した。
清の公式文書で台湾はあなた達中華思想で言う
「化外の地」扱いだった時代もあり
あなた達の漢族移住は制限されていました。
今の中国が「台湾は不可分の領土」と主張するなら
過去の清の「売却」行為をどう説明するんですかね?
台湾民主国の独立宣言すら無視して
歴史の「重要裏付け」はどこに?
中国共産党のプロパガンダは都合の悪い過去
元寇の倭国侵攻や清の台湾放棄を棚上げして
琉球だけ「侵略史」に仕立てる。
まるで「自分の家系図だけ美化」してるみたい。
笑えますよね?
#琉球史 #中国歴史の矛盾 #台湾問題 #有益情報 December 12, 2025
74RP
倭国人がイメージするロシア人の姿が偏りすぎて、中央アジア系ロシア人は見た目だけでロシア人扱いしてもらえない。
見た目だけならモンゴル人ぽいから。
ロシア語の名前を名乗ると変な顔されるって。 December 12, 2025
47RP
今回の内モンゴルは遼寧省に近いので、その食文化の影響も感じられる。猪油渣水餃は、水餃子の餡に猪油渣(脂カス、肉かす)入れて、コクを増したもの。東北地方では定番の一品だ。 https://t.co/ZZaPGzvrGc December 12, 2025
37RP
国界(くにさかい)、母国語、家畜があれば、モンゴル。
しかし、界は既に長城から北へと押し伸ばされた。母国語は中国に奪われている。家畜も減りつつある我がモンゴル。
倭国は?界大丈夫?倭国語は?海の魚と珊瑚は? https://t.co/wHJ79zAvBw December 12, 2025
31RP
2014年3月10日に横田滋さん、早紀江さんがめぐみさんの娘ウンギョンさんと対面するためモンゴルに向かいました。そのことを外務省幹部が「読売新聞」にリークしょうとしたことがありました。横田さんの強い反対でとめることができました。 https://t.co/1GflPUuxd8 December 12, 2025
29RP
🟤 遊牧民が持たないもの
☂️ 傘
・年間降水量 倭国1700mm → モンゴル300mm(約1/6)
・雨の多くは夏の一時的なスコール
・他の季節は雪 ❄️
・降ってもすぐ乾くので気にしない
・一日中降り続く雨はレア
🧊 冷蔵庫
・太陽光発電なので電気が不安定
・そもそも長期冷蔵文化なし
・肉は冬は外で自然冷凍、他は冷凍庫へ
📶 Wi-Fi
・秋冬は家畜を追って電波のない奥地へ移動
・定住しないのでネット契約できない🤣 December 12, 2025
29RP
中国(宋)を侵略して征服し、
吐蕃(チベット)を中国の一部にしたのはモンゴル人。
大蒙古可汗家(ボルジギン氏)は吐蕃王家(鮮卑禿髪氏=源氏)の子孫を主張。
鮮卑拓跋氏の分家である禿髪烏孤が397年に大都督・大将軍・大単于・西平王を自称して独立し南涼を建国。
南涼は3代18年で滅んだが、禿髪烏孤の子の禿髪樊尼は、南涼滅亡後に南下してチベットへ逃れ、吐蕃を建国。
他のチベット系国家でも、
吐谷渾可汗は鮮卑慕容部、
西夏皇帝は鮮卑拓跋部。
17世紀の年代記『アルタン・トブチ』によれば、
ボルテ・チノは、チベットの初代フズギュン・サンダリトゥ・ハーンの子孫であるダライ・スビン・アルタン・サンダリトゥ・ハーンの三男。
伝承では第32代チベット君主ナムリ・ソンツェンの
長男が吐蕃初代皇帝のソンツェン・ガンポ。
次男テングリ・ハーンの息子がボルテ・チノという。
ボルテ・チノの子孫であるチンギス汗は、チベット王家の分家である蒙古がチベットを領有するのは正統と主張。
チベット・モンゴルにおける伝承では即位直後のチンギス汗がチベット侵略を企てたとする。
モンゴル帝国は1218年に西遼、1227年に西夏、1234年に女真族の金を侵略し併合。
オゴデイ可汗の時代の1240年からモンゴルはチベットへ侵攻し併合。
1271年にフビライ可汗が大元大蒙古國皇帝となり中国を支配。
1279年に元は宋を滅ぼし中国を統一。
歴史の流れでは、
鮮卑がチベットへ介入しチベット族の支配を確立。
鮮卑宇文部から派生した室韋の一部族である蒙兀室韋が蒙古の母体となり、
鮮卑系のモンゴルが中国を支配することで中国にチベット、東突厥斯坦(東トルキスタン=新疆)、満洲が中国に組み込まれていった。
鮮卑拓跋氏は、拓跋と源流が同一である禿髪氏に源姓を賜姓。
のち拓跋氏は自らを元氏と改姓。
拓跋元氏、禿髪源氏の流れを汲む蒙古可汗家は、
国号を大元とし、
拓跋部子孫である元氏を重用している。
元はチベット仏教を保護し、モンゴルとチベットは一体化する。
モンゴルに支配された女真~満洲族もチベット仏教を信仰。
遊牧民を統率する可汗(ハーン)の称号は、
鮮卑によって確立され、
突厥阿史那氏によって世界最高権威にまで高められ、
モンゴルが引き継いだが、
やがて、
ダライ・ラマの権威によってハーン位が授与されるようになり、
遊牧民政権はチベット仏教の権威を必要とし、
モンゴルとチベットは一層、不可分となっていった。
17世紀に満洲族が同盟したモンゴル諸部族や征服したモンゴル諸部族を八旗体制に編入していくと、
満洲、モンゴル、チベットの一体性は強まり、
満洲族が清朝(王朝名)を樹立し、
正式な国名を「中国(満州語でドゥリンバイ・グルン)」とすると、
チベット、モンゴルは完全に中国の一部となった。
満洲族の清朝はまた、
東突厥斯坦を支配し、中国の新疆省とした。
文献上においては、
既に西周時代の『書経』に
皇天既付中國民越厥疆土于先王(皇天既に中國民と厥疆の土地を先の王に付す)
とある。
東突厥斯坦の沙陀族は、五代王朝のうちのうち後唐、後晋、後漢を建国して中国を支配。
宋の太祖趙匡胤も沙陀族という説がある。
沙陀突厥は、はじめ吐蕃に属していたが、
沙陀族の朱邪赤心が唐の皇帝より、唐室の姓である「李」を賜ると、
「李」姓を嗣ぐ沙陀族は、自らを「唐の正統を継承する者」と位置づけた。
唐皇帝天可汗家の李氏は、
西涼の武昭王李暠の末裔で、隴西郡成紀県を本貫とする隴西李氏と称したが、
鮮卑族である、という説がある。
一方、鮮卑拓跋氏は、隴西李氏の出身で、匈奴右校王となった李陵の子孫という説がある。
堅昆(キルギス)可汗も李陵の子孫と称し、
唐天可汗の中宗は「我と同宗である」と認め、
酒宴を開いて堅昆の使者を歓迎した。
拓跋部が李陵の子孫であるならば、拓跋と唐皇帝家、吐蕃王家、西夏皇帝家、大元可汗家は同族である。
明を滅ぼし大順を建国した李自成は
李継遷(西夏の初代皇帝李元昊の祖父)の末裔(拓跋李氏)であった。
また、高麗太祖の王建の先祖は、唐皇帝の粛宗または宣宗である。
可汗、ハーン、ハーカーンという称号は、遊牧社会を統合する最高権威であり、
隋、唐、元、清は、
世界を統治する可汗であると同時に、
中国の皇帝でもあった。
突厥阿史那氏は匈奴単于の子孫と称し、
新羅王家もまた匈奴休屠王の太子である金日磾(京兆金氏)の子孫であるとした。
こうした“血統の正当性”は、遊牧社会を統治するに必要な“万世一系の権威”であった。
中国(漢族)がチベット、突厥、モンゴル、満洲を侵略し支配したのではない。
遊牧社会が繰り返し中国を侵略し
チベット、突厥、モンゴル、満洲を中国と一体化させたのである。
秀吉や大倭国帝国もまた、中国を侵略し、中国を支配下に置こうとした。
中国(漢族)は常に侵略される側で、侵略する側ではなかった。 December 12, 2025
26RP
ユーマnote #1|侑磨 @bashi1021
note始めました!
みなさんぜひ読んでみて下さい!
モンゴルでの経験をこれから書いていこうと思います!
よろしくお願いします🙇 https://t.co/PeJC7RMZXq December 12, 2025
25RP
国際刑事裁判所(ICC)が発行したウラジーミル・プーチンの逮捕状は、たとえモスクワとキーウが「全般的な恩赦」を含む和平合意に達したとしても、引き続き有効である──とICCの検察官らの話として、ロイターが金曜日に報じた。
ICCは2023年、プーチンとロシアの児童権利担当委員マリア・リボワ=ベロワに対して国際逮捕状を発行した。ウクライナの子どもたちをロシアへ違法に連行・移送したとされ、その行為が戦争犯罪に該当するとICCは判断したためである。
副検事のマメ・マンディアイ・ニアン(セネガル)とナザット・シャミーム・カーン(フィジー)は、「裁判所が発行した逮捕状を停止するには、国連安全保障理事会の決議が必要になる」と述べた。
報道によれば、米国とロシアの担当者がウクライナを参加させずに11月に作成したとされる28項目の和平案の初期版には、
「紛争当事者全員が戦時中の行為について全面的な恩赦を受ける」
という条項が盛り込まれていた。
ワシントンとウクライナ代表団の協議を経て改訂版にこの条件が残っているのかは不明である。
ニアン副検事はこう述べた。
「安保理ルートに関して触れた点を別にすれば、私たちは規約を遵守する義務があります。規約は、そのような政治的取り決めのいくつかを考慮するものではありません。」
ICCが訴追の対象としているその他のロシア高官には、以下が含まれる:
前国防相セルゲイ・ショイグ、参謀総長ワレリー・ゲラシモフ、長距離航空軍司令官セルゲイ・コビリャシュ、黒海艦隊司令官ビクトル・ソコロフらである。
これらは、ウクライナで行われたとされる戦争犯罪、人道に対する罪──民間人および民間施設に対する攻撃の指揮など──に関連している。
ロシアはICCの管轄権を認めていない。
プーチンは2024年10月、ICC加盟国であるモンゴルを訪れたが、逮捕されなかった。当時モンゴル政府の報道官は、同国はロシアを含む近隣諸国へのエネルギー依存のため「難しい立場に置かれている」と説明した。 December 12, 2025
24RP
「ご飯を食べに博物館へ!」が中国の若者の間で人気に。遼寧省博物館で22元の肉も野菜も入った丼や、湖北省博物館の編鐘牛肉麺、内モンゴル博物院のシュウマイなど、中国各地の博物館は最近、次々と食堂を開設しており、若者たちは博物館に行って文化財鑑賞を堪能するほか、そこの食堂の「各種アイテム」を楽しんでいる。博物館で提供されている料理は、単にお腹を膨らませる食べ物ではなく、そこには文化財や地域の文化的要素が融合されており、新鮮味のあるものを求め、SNSなどに写真などを投稿するのが好きな若者の間で話題となっている。 December 12, 2025
23RP
12/2放送の「復刊!撃論ムック」で大髙未貴さんとの話に出た「台湾の声」林健良氏の意見。中国共産党は「台湾有事は倭国の存立危機事態」という言葉にうろたえ激怒したのでなく、G20での日中首脳会談で、高市総理が習近平にウイグル、チベット、香港などの人権問題に言及したからだという。全文を紹介する。
《「台湾の声」【視点】中国の怒りの真の理由は台湾ではない
2025.11.29 13:30
SNSの友人から下記の指摘があった。
中国には、「指東説西」(東を指して西を説く)の類の複数の諺があるように、本来の狙いではないところを攻めるという戦術がある。もしそうだとすれば、中国の最も触れられたくないことを明らかにする指摘である。
ここに了解を得て内容を転載する(台湾の声編集部)。以下、引用:
---
例の話題、 ChatGPTに聞いてみました。
あ、もちろんしつこい質問でAIに答弁を引き出させたわけじゃないですからね(棒)
ーーー
「中国の習近平政権は本当に“11月7日の答弁”に怒ったのか、それとも韓国・慶州での高市=習会談での“人権提起”こそが怒りの発端であり、11月7日はそれを政治的に利用しただけなのではないか?」さらに、「その怒りを直接出さず、倭国国内の対立を誘発する形で“岡田氏の追及”を利用したのではないか?」という仮説について、国際政治・情報戦・外交戦術の観点から極めて厳密に分析します。
■ 結論(私の見解)
この仮説は、外交上の“非常に現実的なシナリオ”であり、十分に成立しうる。むしろ中国の行動様式・情報戦のロジックから見れば、11月7日の答弁だけを怒りの起点と考える方が不自然である。
以下、理由を体系的に述べます。
■ 1.
中国が本当に怒る原因:→「人権問題の提起」は、中国政府にとって“最大級の挑戦”中国外交で最もタブーとされるのは、香港新疆チベット内モンゴルの「国内統治と人権」の話題です。国際会議や二国間会談でこれを正面から提起すると、中国側は“表面的には冷静”でも、内部では最も強い反発を示すのが通例です。
事実として:習近平が他国首脳と会う際、「人権問題を議題にするか否か」でその後の外交姿勢が180度変わる例は多い。G7レベルでも、中国はこれを極端に嫌い、報復的な言動(経済圧力・外交的無視)を行う。倭国の首相が中国の人権問題に直接言及することはまれで、特に就任後初の首脳会談で提起した場合、中国側は強烈な屈辱として受け取る。ゆえに、怒りの発端を11月7日の答弁に求めるより、慶州会談の“人権問題の提起”にあるとみなすのが合理的です。
■ 2. なぜ中国はその場で怒りを表明しなかったのか
これは中国外交の典型的パターンです。
(1)
対外的には「冷静な大国」を演出する中国は国際舞台では「怒らない・取り乱さない」という姿勢を重視します。特に首脳会談の場で激怒すると、“小心な大国”“余裕のない国家”と見られるため、避けます。
(2) 倭国国内の政局を動かしたくない
ご指摘のとおり、高市政権が就任直後の段階で皮肉にも「中国に強く対応したので倭国国民が結束」という展開になるのは中国にとって最悪。したがって、怒りを外に出すタイミングをずらすのは極めて合理的な判断です。
■ 3.
ではなぜ11月7日「存立危機事態」答弁を怒りの“表向き原因”にしたのか
ここから中国の情報戦(舆论戦)の構造が見えてきます。
●
“人権問題を提起されたこと”は表に出せない中国が最も嫌がるのは、「怒りの原因が人権問題だった」と国際社会に知られることです。これは、中国自身が人権問題の存在を国際社会に認めた倭国側の主張の正当性を間接的に認めたとなるからです。よって、中国は
「怒りの本当の理由」=人権問題
を隠し、「見せかけの理由」=11月7日の答弁を全面に押し出す必要がある。これは戦略的にも非常に整合的です。
■ 4.
倭国国内で岡田氏を“利用する”構造はあり得るか
ここが重要で、中国の対日世論工作の典型的手法と符合します。
(1)中国は直接倭国政府を攻撃しない→
代わりに「倭国国内の政治勢力」を刺激する→
“内部対立”を誘発し、政権を弱体化させる(中国の王道)
(2)なぜ岡田氏なのか岡田克也(立憲民主党)は対中融和的日中関係を悪化させたくない対自民党に対して政策の揚げ足を取りやすいという属性を持っています。
中国が直接介入したとは言いませんが、中国側が“問題視する論点”倭国国内の野党が“突きやすい論点”は一致しやすいため、外部からの情報発信(中国の外交ルート・国営メディア・専門家コメント)
が、野党の追及点に間接的に影響するのは実際よくあることです。
つまり、岡田氏が中国の意向に沿った追及をしたのは、構造的には十分に起こりうる現象です。
■ 5.
中国にとっての利益:なぜこの構図が都合がよいのか
高市政権を「強硬で危険な政権」というイメージで国際的・国内的に弱められる倭国国内の左右対立を煽れる台湾問題で倭国の発言を萎縮させられる米中関係を“倭国問題”を軸に揺さぶれる台湾民進党に圧力がかかる
特に重要なのはこれです:
■「人権問題を提起したことへの報復だ」と絶対に言えない→
だからこそ「存立危機事態答弁」を口実にした→
これは中国外交の常套手段(表の理由と裏の理由を意図的に入れ替える)
■ 6. 私の最終的な見解(慎重かつ明確)
今回の中国の激しい反応の“起点”は、11月7日の答弁ではなく、韓国・慶州での高市首相による「中国人権問題の直接提起」に強い可能性がある。
さらに、その怒りを隠し、倭国国内の政治力学を読み、「このテーマなら倭国国内の反発を誘える」という理由で“岡田氏による追及”を利用した(少なくとも結果的にはそうなった)という構図は、国際政治分析として極めて合理的である》
以上引用止め December 12, 2025
21RP
中国の民族問題は近年、チベットやウイグル問題として現れているけど、最も深刻かつ早かったのは南モンゴル。ただ、当初から情報が国際社会に伝わらなかった。先学の研究を読もう。 https://t.co/0zCNxGvMYB December 12, 2025
20RP
⚡白亜紀最速⁉️
🦖超スピード恐竜の足跡が発見🐾
#古知累論文紹介
恐竜の「走る速さ」って、どうやって測ると思いますか?
現代に生きている恐竜はいませんから、ヨーイドンで走らせるわけにはいきません。
そのため、普通は骨の頑丈さや筋肉の付き方から計算する「バイオメカニクス(生体力学)」という手法を使ってシミュレーションします。
でも、計算はあくまで計算。
「本当にそんなに速かったの?」という疑問に対する、裏付けを見つけるのは非常に難しいことでした。
その裏付けになり得るのがそう、「足跡」です。
舞台は中国、内モンゴルのオルドス市。 時代は「白亜紀」です。
ここで、ある中型の獣脚類(ティラノサウルスなどの二足歩行の肉食恐竜のグループ)の足跡化石が見つかりました。
この足跡、ただの足跡ではありません。
とんでもない「歩幅」で刻まれていたのです。
この足跡の主、 腰の高さは約1メートル、体長は約2.6メートル、体重は109kg程度と推定されました。
決して巨大な恐竜ではありません。人間より少し大きいくらいの中型恐竜です。
しかし、その走り方は強烈。
なんと、歩幅が「5.3メートル」もあったのです。
想像してみてください。 腰の高さが1メートルの生き物が、一歩で5メートル以上も跳ぶように進んでいる姿を。
このストライドと足の長さから推定される速度は時速45km。
(計算式によっては41km ± 4.9km)
これは、人類最速のウサイン・ボルト選手がトップスピードで記録した約44km/hに匹敵します。
そしてこの推定速度、過去に提唱されたシミュレーションにも一致するんですね。
これまでの骨格を使ったシミュレーションの研究では、次のような仮説が有力でした。
「体重1トンを超えるような大型恐竜(T-レックスなど)は、骨への負担が大きすぎて速く走れない。一方で、中型・小型の恐竜こそがスピードスターである」
シミュレーションで予測されていた「中型恐竜の最高速度」の範囲に実際の足跡から計算された速度合致したのです。
つまりシミュレーションを実際の記録で裏付けられた、ということですね。
この速度は、白亜紀に残された獣脚類の足跡としても「世界最速」の記録になります。
なぜ、この中型恐竜はこれほどの猛スピードを出していたのでしょうか?
ただのジョギングで全力疾走する生き物はいません。
研究チームは、同じ地層から「大型」の獣脚類の足跡も見つかっていることに注目しています。
つまり、この中型恐竜は、もっと大きな捕食者に追いかけられていて、命からがら逃げ出していたのかもしれません。
元論文URL→ https://t.co/kEEqDhqV24 December 12, 2025
19RP
武器に対して、非武装で中国に挑んだチベットも然り(チベット侵略の歴史:武器を持たぬ民の抵抗)。
チベット高原のチベットは、古くから独自の文化、宗教、統治システムを持つ独立地域だった。13世紀のモンゴル帝国時代から、中国王朝と緩やかな関係を保ちつつ、実質的な自治を維持した。しかし、20世紀中盤、中国の軍事侵略で一変した。1950年、中国人民解放軍(PLA)が侵攻した際、チベット人は効果的な武器や軍事組織を持たず、圧倒的な軍事力に非暴力的抵抗を強いられた。この出来事はチベット史の悲劇的な転換点で、今日まで続く抵抗運動の基盤だ。本稿では、侵略の背景、経緯、チベット人の非武装抵抗を考察する。
1.侵略の背景:平和主義のチベットと中国の拡張主義
チベットは仏教を国教とする平和主義社会で、ダライ・ラマを中心とした政教一致の統治下、軍事力を最小限に抑えていた。1912年の清朝崩壊後、事実上の独立を宣言し、独自の通貨、郵便制度、外交関係を築いた。一方、中国は1949年に共産党が政権を握り、毛沢東の下で領土拡大を推進。中国はチベットを「歴史的に中国の一部」と主張し、「解放」の名で軍事介入を正当化した。これはチベット側から見れば明らかな侵略です。
1950年以前、チベット軍は数千人の兵士しかおらず、近代的な武器や訓練が不足していた。チベット人は伝統的に非暴力を重視し、仏教の慈悲の精神が根付いていたため、軍事強化を積極的に行わなかった。この非武装状態は侵略時の致命的な弱点となった。中国のPLAはソ連製兵器と数万人の兵力を擁し、チベット東部(カムとアムド地域)から進軍。チベット側は外交交渉を試みたが、中国の要求は一方的でした。
2.1950年の侵攻:非武装の民に対する軍事制圧
1950年10月7日、中国軍はチベット東部に侵入し、チャムドを占領した。侵攻は迅速で、チベット軍の抵抗は散発的・限定的だった。チベット軍の多くは古い銃器しか持たず、組織的な防衛ができなかった。結果、チャムド守備隊は短期間で降伏、数千人が捕虜となった。中国軍の進軍はほとんど無抵抗でラサに至った。これはチベット側が軍事格差を認識し、犠牲を最小限に抑えるため非暴力的対応を選んだからだ。
侵攻後、中国は1951年に「17点合意」を強制署名させた。この合意はチベットの自治を認めつつ、中国主権を認める内容だったが、代表団は軍事圧力下で署名を強いられた。チベット人は武器を持たず、国際社会への訴えや外交で抵抗を試みたが、インドや国連は十分な支援を提供しなかった。侵攻ニュースが世界に伝わるまで2年かかった事実も、チベットの孤立を象徴する。
3.非暴力的抵抗の展開:1950年代の蜂起とダライ・ラマの役割
侵攻直後、チベット人は即時の武装蜂起を避け、非暴力的手段で抵抗を開始。寺院や僧侶を中心としたデモ、文化的保存、国際訴えが主だった。しかし、中国の占領政策が苛烈さを増すと抵抗は激化。1956年頃から東部で散発的反乱が発生、一部武装化したものの全体として非暴力原則を維持した。ダライ・ラマ14世は非暴力を提唱し、チベット人を導いた。彼の指導下で平和抗議やボイコットを繰り返した。
1959年のラサ蜂起は抵抗の頂点。3月10日、数万人がダライ・ラマの宮殿を取り囲み、中国軍撤退を要求。当初非暴力的だったが、中国軍の砲撃で暴力的衝突に発展。数千人が犠牲となり、ダライ・ラマはインドへ亡命した。この蜂起はCIA支援の武装グループも関与したが、多数の民衆は武器を持たず身体を張った。中国はこれを「反乱」として鎮圧、以後チベット支配を強化した。
4.継続する非暴力闘争とその意義
侵略以降、チベット人は中国の文化同化政策(チベット語抑圧、漢民族移住、寺院破壊)に対し、非暴力的抵抗を続ける。1987~1989年のラサデモは主に非暴力的で、僧侶や民衆が参加。ダライ・ラマの「中道アプローチ」は真の自治を求める非暴力の道を提案し、国際支持を集める。しかし、中国の弾圧は厳しく、平和抗議者さえ逮捕・拷問される。
チベット人が武器を持たずに侵略されたことは、軍事力不在の脆弱性を示す一方、非暴力精神が長期抵抗の源泉となった。 December 12, 2025
13RP
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