ジャーナリズム トレンド
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2025.12.17 23:00
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@karyn_nishi 倭国の主要メディアは、第4の権力として政府自民党と癒着一体化して見て見ぬ振り。主要メディアが、政府を常に監視し、問題があればそれを国民に知らせて批判するというジャーナリズム本来の使命を果たしていれば、悪の巣窟自民党などとっくの昔に崩壊していたはず。https://t.co/28i241SHwJ December 12, 2025
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この事件を「遠い国の政治犯の話」として片付けてはいけません。なぜなら、ジミー・ライ氏の裁判で突きつけられているのは、彼の有罪無罪ではなく、自由社会における「安全」の定義そのものが書き換えられたという事実だからです。
一般の方にも納得せざるを得ない「3つの決定的な論点」があります。
1. 「言論」が「結託」にすり替えられた
彼が問われている「外国勢力との結託」という罪。これを聞くとスパイ行為を想像するかもしれませんが、実際に行われたのは「新聞を発行し、海外メディアや政治家に現状を訴える」という、民主主義国なら当たり前のジャーナリズムやロビー活動です。
ペンを持ち、意見を言うだけで「国家の敵」と認定され、70代の彼が獄中死すら覚悟せねばならない。これは法の支配(Rule of Law)が消滅し、法を武器に反対派を排除する「法による支配(Rule by Law)」が完成した決定的な証拠です。
2. 国際条約の形骸化
「これは香港の内政問題だ」という主張がありますが、法的には誤りです。香港の自治は「中英共同声明」という、国連にも登録された国際条約で2047年まで保証されていました。
この約束が反故にされたということは、今後その国とどんな国際契約を結んでも、都合が悪くなれば一方的に破棄され得るという、世界経済への強烈な警告でもあります。
3. 何を失ったのか
世界が見ているのは、ライ氏がどんな罪を犯したかではありません。一人の老人を閉じ込めなければ体制を維持できないほど、彼らが「自由な言論」を恐れているという事実です。
香港は、ジミー・ライ氏という人物を裁いたのではなく、かつて世界に誇った「司法の独立」と「自由な魂」を自らの手で埋葬してしまった。
この判決は、その死亡診断書として歴史に記憶されることになるはずです。 December 12, 2025
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電通の3期連続赤字というニュース、単なる一企業の不調だと思って読み飛ばしていませんか。
実はこれ、倭国の報道インフラの「余命宣告」でもあります。
ご指摘の通り、時事通信は「本業の儲け」である営業損益が20年以上も赤字(慢性的な赤字垂れ流し)という、通常の民間企業ならとっくに退場している状態です。それでも彼らが倒産しなかった理由はただ一つ。戦前の「同盟通信社」解体時に分かれた兄弟である「電通」の大株主として、莫大な配当金を受け取り続けてきたからです。
つまり、倭国のジャーナリズム(時事・共同)は、自らの記事で稼いだ金ではなく、兄弟(電通)が稼ぐ広告マネーにおんぶに抱っこで生き延びてきたのが実態です。これを「経営」と呼べるのかは甚だ疑問ですが。
その「頼みの財布」である電通が、海外M&Aの失敗と減損で3期連続の最終赤字に沈みました。財布の中身が空になれば、当然そのスネをかじっていた親族への仕送りも止まります。
共同通信の地方支局リストラも、時事通信の役員報酬カットも、一時的な節約ではありません。
「広告屋がニュース屋を養う」という、戦後倭国のメディアを裏で支えてきた不健全な互助システムが、ついに寿命を迎えたという明確なサインです。配当という点滴を外されたとき、自力で呼吸できない組織がどうなるか。答えは誰の目にも明らかでしょう。 December 12, 2025
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ドキュメンタリー映画は法廷でもなく、両論併記が求められるジャーナリズムでもありません。
NHKの影響で、「すべてのドキュメンタリーはNHKのようでなければならない」と考える人が多いのではないかと感じます。
テレビと映画のドキュメンタリーは、通常性質が大きく異なります。 https://t.co/YIrOrw44p1 December 12, 2025
@karyn_nishi ちかんですらも耐えなければならないこの国で、権力者と癒着した加害者相手に性被害を訴えることがどれほど難しいか、そこから見ないとダメですよ。
トラウマ治療も遅れていて、トラウマへの認識も不十分な国です。
ドキュメンタリーは、必ずしもジャーナリズムである必要はないです。 December 12, 2025
@yuka_dondondon 花博を中止にしたら、
マスコミが儲からないから、
奴らがジャーナリズムを殴り捨てても、
世の中がファシズム化しようとも、
問題点は全て丸っと隠すと思う。 https://t.co/k2qbY38Pbj December 12, 2025
12/20(土)川澄慎人チャンネル登録50人記念、初配信・初ライブを開催したいです!
全く、と言っていいほど、YouTubeでの活動をして来ないまま、2025年が終わろうとしていますが、土曜日は、割と時間がありまして、ほろよい、白のサワーで喉の渇きを潤わせながら、
初のライブ配信をしようかな?と、
思っています。
駿河屋と本人訴訟をしていますが、法的に問題の無い範囲で、かつジャーナリズムとして、表現の自由として、加えて、生配信の内容が訴訟や、弁護士会の綱紀委員会内容に影響を与えない範囲で、
話したりすることもできるかな?と思います。
あとは、趣味や恋愛、哲学や思想について、ざっくばらんに雑談できたらよいかな?と思っています。
ありがたいことに、作成動画0ですが、チャンネル登録15人いただいていますので、あと「35人」チャンネル登録してくれたら、生配信やります。詳細は、50人になったら、考えます。
よろしくお願いいたします。
https://t.co/4kYLLDR3Va
#川澄慎人 #生配信 December 12, 2025
望月衣塑子の「(BBDは)酷い映画、観なくていい」発言こそ、ジャーナリストの資質が問われる大問題。
ジャーナリズムの役割は市民の知る権利の保障。
多様な視点からの判断を尊重する姿勢
を放棄し、同業者の作品を全否定ひ我々の話だけ聞けという呼び掛けは、もはや言論封殺です。 https://t.co/aeS1O6gaUQ December 12, 2025
『サンデー毎日』武田砂鉄氏連載でコスチュチェンコ『私の愛するロシア』(高柳聡子訳)が取り上げられました。
「(ジャーナリズムは)その時々の権力と一体化してしまう。著者の筆致は決してロシアだけを意識しているわけではない」
戦争する国が誰を切り捨てるか、倭国で今読まれてほしい本です。 https://t.co/vtfBnlCmOv December 12, 2025
伊藤詩織さんの映画は、被害者らしい被害者像がすごく描かれている映画だと思いました。詩織さんが自分をどう描きたいかがよく伝わってくる映画だというのが感想です。
ケアされないままでいる、誰もケアしてくれない社会の中で、みんなが敵に思えて、自分を認めて欲しいと思っている。暴力にさらされ
た人がそう思うようになっていくことはよくあることで、当然ともいえる反応で、修正前の映像ではよりそれを感じました。
事実がどこにあったかではなく、自分がどう思ったかを描いた「日記」なんだ、と。
この映画が公共性のあるものだとは思いません。
映画では許可されていない映像や事実を歪曲して捉えられかねない表現があり、人権侵害が元弁護団から指摘されてきました。
そこに詩織さんが向き合わないまま、初日のアフタートークでは、元弁護団から事実に基づかない発信がなされているとか、話し合いを拒否されたと主張していることは驚きました。
実際には元弁護団から、映画の修正や海外で継続されている無修正版について度々説明を求められていたのを無視して、公開まで返答しなかったからです。
映画を見て、被害を訴える側が声をあげることで攻撃される、あなたは悪くないと誰も言ってくれない、そういう社会に対する絶望感が、ああいう表現を詩織さんにさせているんだと思いました。特に、修正前のバージョンではそれを感じました。
許可されていない人の顔や発言を、準備の上隠し撮りされたものを、いくつも自分のために利用していたからです。
詩織さんは映画では、ジャーナリストとしてこれを公表すると語っていました。しかし、初日のトークイベントでは、これは映画監督として作ったのでジャーナリズムとは違うと言っていました。話を変えています。
それなのに、映画に「公共性がある」とも言っていてめちゃくちゃなのですが、ジャーナリストとして、監督として、被害当事者として、どの立場から映画を作ったとしても、他の誰かの人権を傷つけたり、その指摘に誠実に向き合わなくていいということにはならないです。
元弁護団からの質問に答えないまま倭国公開に踏み切ったこと、また海外では無修正版を流し続けていることは問題であり、残念です。
詩織さんは指摘されている問題、自身の加害者性に向き合う必要があるし、周りの人はそこから目を背けることではなく、向き合うことをサポートするべきで、それが真の人間関係だと思います。
自分のすべてをいいねと言ってくれる人しか周りに置きたくないという時期があることも理解しますが、
私は、出会う少女たちが、もし同じことをしていたら、もし人を尊重しないことがあれば、相手が性暴力の被害者であっても、未成年の少女たちであっても指摘します。
でも今は、それに向き合える状態ではないのだろうと思いました。自分のしたことから目を背けると決めたのだとトークイベントを見て思いました。向き合うためには、社会や他者や自分への信頼や安心感など、そのために必要なものがないと難しいため、仕方ないのかもしれません。
そういう状態の当事者を、十分なケアがないままこれまで、これだけ前に出してもてはやしてきた、ヒロインとして、ジャーナリストとして盛り立ててきたメディアと社会の責任もあると思います。
映画の中でも、「当事者に無理をさせたくない」、頑張らせないようにしたいという、他の国の支援者の発言が取り上げられていました。
詩織さん自身も語っているように、自分はジャーナリストだと思うことで、そこに救いを求めるようにして、自分に向き合わないようにしていたといいます。それが今も続いているのだと思います。
私は、この映画に公益性があるとは思いません。詩織さんが、「自分が救われたかったから作った」と言えたらいいのに、と思いました。
だからと言って誰かの人権を踏み躙っていいわけではないけれど、自分のためにやったんだと言えばいい。その上で責任を取ればいいのに、これをジャーナリズムだと言ったり、いち被害者としてと言い換えたり、映画監督として作ったなどと、都合よく話を変えていくのは本人のためにもならないと思います。
自分のことをわかってほしかった、公共のためでなく自分のためだった、それを言えた時に、また自分の傷や状態と向き合って回復の一歩を踏み出せると思うのです。それを言わせない社会の持ち上げ方にも、問題があると思います。
社会の求める理想の被害者像やヒロイン像が、彼女を自分に向き合えなくさせていると思います。
そこに被害当事者がすがらなくても良いように、それだけのサポートがある社会にしなければと思っています。
望月さんの番組では、もう少し詳しく話しています。 December 12, 2025
「ドキュメンタリー映画はジャーナリズムの厳格な倫理規範に縛られるものではない。ここで強調したいのは、ドキュメンタリー映画はジャーナリズムではないという点である」
Dezakiさんが言っているこのことは映画として大事な点。
リベラルっぽい人でも、理解できない人はいる。それが大観すると反動になっているのに気づかなかったり。 December 12, 2025
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