ジャーナリズム トレンド
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2025.12.14 18:00
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>ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。
朝日新聞「違うぞ。報じたい事だけ報じて都合が悪い事は報道しない自由を行使する、それがジャーナリズムだ」 https://t.co/Nw1HHc5eK9 https://t.co/DXSWZX2rQV December 12, 2025
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伊藤詩織さんの映画は、被害者らしい被害者像がすごく描かれている映画だと思いました。詩織さんが自分をどう描きたいかがよく伝わってくる映画だというのが感想です。
ケアされないままでいる、誰もケアしてくれない社会の中で、みんなが敵に思えて、自分を認めて欲しいと思っている。暴力にさらされ
た人がそう思うようになっていくことはよくあることで、当然ともいえる反応で、修正前の映像ではよりそれを感じました。
事実がどこにあったかではなく、自分がどう思ったかを描いた「日記」なんだ、と。
この映画が公共性のあるものだとは思いません。
映画では許可されていない映像や事実を歪曲して捉えられかねない表現があり、人権侵害が元弁護団から指摘されてきました。
そこに詩織さんが向き合わないまま、初日のアフタートークでは、元弁護団から事実に基づかない発信がなされているとか、話し合いを拒否されたと主張していることは驚きました。
実際には元弁護団から、映画の修正や海外で継続されている無修正版について度々説明を求められていたのを無視して、公開まで返答しなかったからです。
映画を見て、被害を訴える側が声をあげることで攻撃される、あなたは悪くないと誰も言ってくれない、そういう社会に対する絶望感が、ああいう表現を詩織さんにさせているんだと思いました。特に、修正前のバージョンではそれを感じました。
許可されていない人の顔や発言を、準備の上隠し撮りされたものを、いくつも自分のために利用していたからです。
詩織さんは映画では、ジャーナリストとしてこれを公表すると語っていました。しかし、初日のトークイベントでは、これは映画監督として作ったのでジャーナリズムとは違うと言っていました。話を変えています。
それなのに、映画に「公共性がある」とも言っていてめちゃくちゃなのですが、ジャーナリストとして、監督として、被害当事者として、どの立場から映画を作ったとしても、他の誰かの人権を傷つけたり、その指摘に誠実に向き合わなくていいということにはならないです。
元弁護団からの質問に答えないまま倭国公開に踏み切ったこと、また海外では無修正版を流し続けていることは問題であり、残念です。
詩織さんは指摘されている問題、自身の加害者性に向き合う必要があるし、周りの人はそこから目を背けることではなく、向き合うことをサポートするべきで、それが真の人間関係だと思います。
自分のすべてをいいねと言ってくれる人しか周りに置きたくないという時期があることも理解しますが、
私は、出会う少女たちが、もし同じことをしていたら、もし人を尊重しないことがあれば、相手が性暴力の被害者であっても、未成年の少女たちであっても指摘します。
でも今は、それに向き合える状態ではないのだろうと思いました。自分のしたことから目を背けると決めたのだとトークイベントを見て思いました。向き合うためには、社会や他者や自分への信頼や安心感など、そのために必要なものがないと難しいため、仕方ないのかもしれません。
そういう状態の当事者を、十分なケアがないままこれまで、これだけ前に出してもてはやしてきた、ヒロインとして、ジャーナリストとして盛り立ててきたメディアと社会の責任もあると思います。
映画の中でも、「当事者に無理をさせたくない」、頑張らせないようにしたいという、他の国の支援者の発言が取り上げられていました。
詩織さん自身も語っているように、自分はジャーナリストだと思うことで、そこに救いを求めるようにして、自分に向き合わないようにしていたといいます。それが今も続いているのだと思います。
私は、この映画に公益性があるとは思いません。詩織さんが、「自分が救われたかったから作った」と言えたらいいのに、と思いました。
だからと言って誰かの人権を踏み躙っていいわけではないけれど、自分のためにやったんだと言えばいい。その上で責任を取ればいいのに、これをジャーナリズムだと言ったり、いち被害者としてと言い換えたり、映画監督として作ったなどと、都合よく話を変えていくのは本人のためにもならないと思います。
自分のことをわかってほしかった、公共のためでなく自分のためだった、それを言えた時に、また自分の傷や状態と向き合って回復の一歩を踏み出せると思うのです。それを言わせない社会の持ち上げ方にも、問題があると思います。
社会の求める理想の被害者像やヒロイン像が、彼女を自分に向き合えなくさせていると思います。
そこに被害当事者がすがらなくても良いように、それだけのサポートがある社会にしなければと思っています。
望月さんの番組では、もう少し詳しく話しています。 December 12, 2025
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ドキュメンタリー映画は法廷でもなく、両論併記が求められるジャーナリズムでもありません。
NHKの影響で、「すべてのドキュメンタリーはNHKのようでなければならない」と考える人が多いのではないかと感じます。
テレビと映画のドキュメンタリーは、通常性質が大きく異なります。 https://t.co/YIrOrw44p1 December 12, 2025
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では、なぜ主観的なドキュメンタリー映画が重要なのでしょうか。
それは、従来のジャーナリズムでは得られない、現実世界の問題に対する別の視点を私たちに提供してくれるからです。
ドキュメンタリー映画は、誰かが体験したことを「見る」だけでなく、「感じる」ことをも可能にしてくれます。 December 12, 2025
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ですから、『Black Box Diaries』を裁判の証拠をすべて示していないと批判したり、ジャーナリズム倫理に反すると言ったりすることは、そうした人々がドキュメンタリー映画の本質を理解していないことを示しています。 December 12, 2025
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とりあえず資料を読みましょうね良識ある皆さん。
私は資料読まんと空気読んで何かほざく連中のレベルに堕しはせんわ。井戸端会議のフェミニズムにもジャーナリズムにも侮蔑しかない。資料を読むことは私からお前らへの抵抗だ。
https://t.co/XMflWgy4yQ December 12, 2025
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メディアの人からタダで話聞かせろみたいな申し出が最近3つくらいあったけどやるわけないよ。こっちは商売だから、世の中がよくなるとかジャーナリズムの意義とかは知らんわ。お金をもらえなければ何もしませんし、そんなに資本主義経済が嫌いなら北朝鮮に移住するか山奥にコミューンを作ればいい December 12, 2025
TVに出てるキャスターが自分のことをジャーナリストだとか言ってるのを見ると反吐が出る。局が許可したことしか流せないからスポンサーに不都合なニュースは一切放送されない。よくそれでジャーナリストなどと言えるものだ。ジャーナリズムのなんたるかを勉強し直して欲しいものだわ。 December 12, 2025
Liked on YouTube: "仁藤夢乃さんに聞く!/なぜ今、必要なのか「女性人権センター建設プロジェクト」スタート/伊藤監督のBBDを観て「仲間が『いる』と思った私、『いない』と感じた詩織さん」/「ジャーナリズム」と人権" via https://t.co/enFuFN61hN December 12, 2025
地方紙を見て「なぜこのような小さな情報をニュースにするのだろう?」と疑問を持たれたことがあるPRパーソンは、以下の本がおススメです。解像度が変わって、記者との向き合い方も変わると思います。
『シビック・ジャーナリズムの挑戦』
寺島英弥 著
https://t.co/0OwedtR0bi December 12, 2025
鈴木エイト氏の見解は、結果的に被告人の主観的語りを過度に尊重し、犯罪行為の合理的検証を曖昧にしている点で看過できません。
山上被告が語る「偶然」「運命的だった」という表現は、犯行後に形成された自己物語であり、それ自体が事実認定の根拠になるものではありません。
刑事裁判において重要なのは、被告の内心の“感じ方”ではなく、客観的行動と事前準備の積み重ねです。
実際には
・長期にわたる標的探索
・複数回の下見
・武器の自作と改良
・警備状況の観察
という明確な計画性と意思の継続が認められています。
それを「偶然を運命と感じたパーソナリティ」で説明してしまうのは、加害行為の主体的責任を心理物語にすり替える危険な解釈です。
また、櫻井義秀教授の「運命的に捉える傾向」という指摘も、人格傾向の説明にすぎず、犯行の正当化や動機の合理化にはなりません。
人格傾向があることと、実際に引き金を引いた責任は、司法上まったく別次元の問題です。
MBS清水記者が述べた
「なぜ安倍元総理でなければならなかったのか判然としない」
という違和感は、むしろ多くの国民が共有する健全な疑問です。
それにもかかわらず、鈴木氏は
「偶然を必然・運命と感じた」という被告側の語りを重ねることで、
結果として
・犯行の政治性
・標的選択の合理性
・メディアによる単純化された物語構築
といった重要論点を覆い隠しています。
報道や評論がなすべきなのは、
被告の“感じ方”を物語として補強することではなく、
事実と責任を切り分け、暴力が正当化されない社会的線引きを明確にすることです。
「偶然」「運命」という言葉を多用する語りは、
意図せずとも
テロ行為を不可抗力的な悲劇へと変換してしまう危うさを孕んでいます。
その点において、鈴木エイト氏の今回の投稿は、
ジャーナリズムとして極めて問題があると言わざるを得ません。 December 12, 2025
原田眞人監督が遺した作品をどう評価するか、あるいは氏がどのような生き方を選択してきたのか。そうした詮索に先立ち、まずは敬意をもってその訃報に接したい。氏は私の人格形成に少なからぬ影響を与えるほどの業績を残し、私自身もまた原田監督が歩んだ映画ジャーナリズムの延長線上に立っている。 December 12, 2025
@kumaotteruyo 動物園でしか熊を見たことがないであろう連中の、ポエムやら誹謗中傷やらの垂れ流しに、いい加減辟易していたところです。
今年の漢字にもなってしまったことですし、冷静かつ客観的なジャーナリズムに期待しています! December 12, 2025
【カンボジア・タイ国境紛争の深層⑤】(全5回)失地回復の亡霊とメディアの責任――沈黙は共犯である
歴史、法、そして政治。あらゆる側面から浮き彫りになったのは、隣国タイが抱える深い病理です。本稿では、彼らを突き動かす動機と、私たち国際社会がとるべき姿勢について提言します。
▪️ 戦勝記念塔の影:失地回復のトラウマとスケープゴート戦略
タイ政府が現在強硬姿勢をとる背景には、国内の政治的不安定さを隠すためのナショナリズム扇動(スケープゴート戦略)があるという指摘がなされています。
この戦略が機能してしまう象徴的な場所が、バンコク中心に聳える「戦勝記念塔」です。この塔は、1941年にタイがフランスとの不可侵条約を破り、カンボジア領内へ侵略して領土を奪ったことを「偉大な勝利」として記念し建てられました。その後、1946年に国際社会の圧力で領土を返還した後も、タイはこの塔を撤去せず、「失われた領土(Siya Dindaen)」の象徴として残し続けました。彼らの脳内地図で、その「失地」とはカンボジアのみならず、ラオスやマレーシア、ミャンマーに及ぶ、かつての帝国的な版図を指しているのです。
この塔が建てられた1940年代、当時のタイ指導部はファシズムに傾倒し、領土拡張を「民族の悲願」として正当化しました。そして2025年の今、塔の前で叫ばれているスローガンは、当時の亡霊そのものです。今年に入っても、この塔の前では保守系政党やナショナリスト・グループが連日大規模なデモを繰り返し、「失地を取り戻せ」「カンボジアに軍事制裁を」と叫びました。彼らは過去の過ちを反省するどころか、それを「栄光」として再生産し、新たな争いの燃料にしているのです。
さらに彼らを増長させているのは、歴史的な「免責」の記憶です。第二次大戦中、倭国と同盟し連合国に宣戦布告したにもかかわらず、戦後は「あれは一部の独走であり、本意ではなかった」として、勝者である米国に取り入る老獪な二枚舌外交(自由タイ運動の利用)によって、彼らは敗戦責任を完全に帳消しにしたのです。
国際法を破っても、外交的な立ち回りで無罪になれた成功体験が、現在のICJ判決無視や、戦争犯罪に等しい爆撃を行っても許されるという、危険な万能感に繋がっているのです。
▪️ 歪んだ歴史教育の代償
前線で撮影された映像には、タ・クラベイやプレアヴィヒアなどの遺跡が砲撃を受ける際、タイ兵士たちが歓声を上げる様子が記録されています。
もし、これらの寺院が真に彼らの主張する「自国の遺産」であるならば、その破壊を祝うという行為は説明がつきません。自国の文化財が損なわれることを喜ぶ所有者は存在しないはずです。この認知的不協和こそが、彼らがその遺産に対して真の精神的なつながりを持っていないこと、そして国家による偏った教育が現場の人間性を蝕んでいることの証左です。
情報を遮断され、歪んだ歴史を信じ込まされているタイ国民もまた、この軍事政権のプロパガンダによる被害者です。
▪️ 結論:ジャーナリズムへの提言
カンボジアは、クアラルンプール平和宣言を尊重し、国際法と外交に基づいた自制的な対応を続けています。
一方的な視点でタイを「被害者」として描く報道は、もはやニュースではありません。それは、法を無視し、合意を破り、力による現状変更を試みる側への加担です。
責任ある国際メディアには、カンボジア側の被害状況や証言(学校への爆撃や装甲車の侵入)に対し、バンコク発の情報と同等の重みを持って取材・検証が求められます。
とりわけ、バンコクの情報空間に潜む「構造的なバイアス」への認識は不可欠です。
タイ政府が長年にわたり国民に植え付けてきた、「アンコール遺跡の建設者は現在のカンボジア人ではない」とする「コーム族神話」や、「失地回復」の歴史観は、現地の情報源やスタッフの間でさえ「疑いようのない事実」として定着しています。ジャーナリストは、現地の「常識」とされるナラティブが、実は高度に構築されたプロパガンダである可能性を考慮し、現地の声だけでなく、客観的な科学的・歴史的根拠(地図、ICJ判決、遺伝学的研究)と照合し事実を特定すべきです。
そして最後に、国際法廷を拒否し、二国間の密室協議に固執しているのがどちら側なのか、その背後にある政治的意図(軍の暴走やスケープゴート戦略)を含めて報じることこそが、メディアの責務です。
カンボジア国民が求めているのは、特定の偏見に彩られていない「真実」そのものです。
もし世界がこの「地図の無視」と「武力による現状変更」を黙認するならば、それは明日の世界のどこかで、新たな侵略を許す前例となるでしょう。カンボジアの訴えは、単なる一国の救済ではなく、国際法の権威そのものを守るための戦いなのです。歴史的な局面において、国際メディアには、その公平性と正確性を保つ責務があるのです。
(完) December 12, 2025
@N1bgOjk0mK99775 @PAGE4163929 当時の倭国のジャーナリズムって凄え厳しかったんじゃないの?それも軍国主義化して軍が管理してた。その情報が出る事で倭国にとって不利と分かっていたから、日清戦争や日露戦争に同行する倭国人は凄え厳重に管理されてたらしい。南京事件なんて最悪なものがあったとして、倭国軍が出すかな。 December 12, 2025
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