ジャーナリズム トレンド
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2025.12.17 21:00
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電通の3期連続赤字というニュース、単なる一企業の不調だと思って読み飛ばしていませんか。
実はこれ、倭国の報道インフラの「余命宣告」でもあります。
ご指摘の通り、時事通信は「本業の儲け」である営業損益が20年以上も赤字(慢性的な赤字垂れ流し)という、通常の民間企業ならとっくに退場している状態です。それでも彼らが倒産しなかった理由はただ一つ。戦前の「同盟通信社」解体時に分かれた兄弟である「電通」の大株主として、莫大な配当金を受け取り続けてきたからです。
つまり、倭国のジャーナリズム(時事・共同)は、自らの記事で稼いだ金ではなく、兄弟(電通)が稼ぐ広告マネーにおんぶに抱っこで生き延びてきたのが実態です。これを「経営」と呼べるのかは甚だ疑問ですが。
その「頼みの財布」である電通が、海外M&Aの失敗と減損で3期連続の最終赤字に沈みました。財布の中身が空になれば、当然そのスネをかじっていた親族への仕送りも止まります。
共同通信の地方支局リストラも、時事通信の役員報酬カットも、一時的な節約ではありません。
「広告屋がニュース屋を養う」という、戦後倭国のメディアを裏で支えてきた不健全な互助システムが、ついに寿命を迎えたという明確なサインです。配当という点滴を外されたとき、自力で呼吸できない組織がどうなるか。答えは誰の目にも明らかでしょう。 December 12, 2025
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@karyn_nishi 倭国の主要メディアは、第4の権力として政府自民党と癒着一体化して見て見ぬ振り。主要メディアが、政府を常に監視し、問題があればそれを国民に知らせて批判するというジャーナリズム本来の使命を果たしていれば、悪の巣窟自民党などとっくの昔に崩壊していたはず。https://t.co/28i241SHwJ December 12, 2025
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この事件を「遠い国の政治犯の話」として片付けてはいけません。なぜなら、ジミー・ライ氏の裁判で突きつけられているのは、彼の有罪無罪ではなく、自由社会における「安全」の定義そのものが書き換えられたという事実だからです。
一般の方にも納得せざるを得ない「3つの決定的な論点」があります。
1. 「言論」が「結託」にすり替えられた
彼が問われている「外国勢力との結託」という罪。これを聞くとスパイ行為を想像するかもしれませんが、実際に行われたのは「新聞を発行し、海外メディアや政治家に現状を訴える」という、民主主義国なら当たり前のジャーナリズムやロビー活動です。
ペンを持ち、意見を言うだけで「国家の敵」と認定され、70代の彼が獄中死すら覚悟せねばならない。これは法の支配(Rule of Law)が消滅し、法を武器に反対派を排除する「法による支配(Rule by Law)」が完成した決定的な証拠です。
2. 国際条約の形骸化
「これは香港の内政問題だ」という主張がありますが、法的には誤りです。香港の自治は「中英共同声明」という、国連にも登録された国際条約で2047年まで保証されていました。
この約束が反故にされたということは、今後その国とどんな国際契約を結んでも、都合が悪くなれば一方的に破棄され得るという、世界経済への強烈な警告でもあります。
3. 何を失ったのか
世界が見ているのは、ライ氏がどんな罪を犯したかではありません。一人の老人を閉じ込めなければ体制を維持できないほど、彼らが「自由な言論」を恐れているという事実です。
香港は、ジミー・ライ氏という人物を裁いたのではなく、かつて世界に誇った「司法の独立」と「自由な魂」を自らの手で埋葬してしまった。
この判決は、その死亡診断書として歴史に記憶されることになるはずです。 December 12, 2025
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@cXjvalBLJOcU2ug わからせ、グルーミングに収まらない者はとことん叩き潰し、世論をミスリード。
これはジャーナリズムじゃない。要らん自己検閲もしくはプロパガンダに足突っ込んでる。何かに取り憑かれているのでなければ依頼を疑いたくもなるというもの。
こわいよね。 December 12, 2025
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場内にいる人たちが啜り泣くところではひとつも泣けなかった。それはジャーナリズム倫理のもとで生きる自分が今は強いからだと思う。
どんなに辛いことがあっても、stagedされてたり許諾なかったりとなれば、やはり100では共鳴できない December 12, 2025
そんでもって、もしドキュメンタリーがジャーナリズムではないという理由が、ドキュメンタリーが主観的真実を表現するもので、表現が客観的真実と主張するものではないという点にあるのであれば、伊藤さんの映画で表現されていることが客観的真実であるかのように話を進めるのはやめてください。 December 12, 2025
山崎エマ監督の
公立小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画の手法。
観る人が観たらわかる。
カメラはありのまま映す。
断定せず、観る者に委ねる。
これがとても巧い!
デザキ監督がドキュメンタリー映画を能動的なアートや芸術の文脈と言ったのもわかる。
ジャーナリズムは何のためにあるのか。 December 12, 2025
色々な人が出てきて対話するんだけど、揺らいだり葛藤したりはせず、最初のストーリーが一度も疑われず最後まで行く。検察の言う「証拠がない」が、そのとおりじゃん、と思わせる内容で、客観性や検証や懐疑が一切なくて、ジャーナリズムであれば適性が疑われて仕方がない December 12, 2025
👆吉田純子さんのように、せめて可能な範囲なりでも先端を見極めようとする方いて下さると心強い…ジャーナリズム先端めにいる筈が「古楽」と聞くや2000年前後くらいで止まってる有名人番付前提の話で知ってる態を装う(なぜ最先端の現状を確認しにかないで大丈夫と思えるのか…)とか、よくあるので。 December 12, 2025
『Black Box Diaries』について見ないことには何も言えないので、まずは見やすいようにしてもらいたい。ジャーナリズムか否かみたいな論で批判してるのを見るけど、ドキュメンタリー映画の必須条件じゃないと思いますけどねえ。 December 12, 2025
望月衣塑子の「(BBDは)酷い映画、観なくていい」発言こそ、ジャーナリストの資質が問われる大問題。
ジャーナリズムの役割は市民の知る権利の保障。
多様な視点からの判断を尊重する姿勢
を放棄し、同業者の作品を全否定ひ我々の話だけ聞けという呼び掛けは、もはや言論封殺です。 https://t.co/aeS1O6gaUQ December 12, 2025
@bPnVDwL2oa41227 伊藤さんの映画に公益性があることを認めると、撮影や録音の公開に許可を得てなかった件を突つけなくなるから、伊藤さん1人を悪者にして「あれはジャーナリズムではなく個人の心象記録映画だ」ということにしたいんだろうなと思いました。
そこまで叩いて何を得ようとしているのかさっぱりわからない。 December 12, 2025
当事者の語りに価値を見出しているはずの人たちが、当事者を選別することの矛盾は、単なる暴力装置であり、それは常にジャーナリズムの名のもとに行われてきたことでもある。
わたしは、あなた方の善性を疑っているのではない。知識不足という悲劇が、ただただ悲しいのだ。
https://t.co/Nvcw3XT28g December 12, 2025
オールドメディアが好きなのは
「(与党)権力の腐敗と癒着の物語」
「かわいそう物語」
「キラキラ活躍する女性の物語」
「縁の下の力持ち物語」
「戦争の反省と反戦物語」
「人権尊重の進歩の物語」
「正義のジャーナリズム物語」
正義のジャーナリストたちのリアルの物語はどうなるんだろうね? December 12, 2025
伊藤詩織さんの映画は、被害者らしい被害者像がすごく描かれている映画だと思いました。詩織さんが自分をどう描きたいかがよく伝わってくる映画だというのが感想です。
ケアされないままでいる、誰もケアしてくれない社会の中で、みんなが敵に思えて、自分を認めて欲しいと思っている。暴力にさらされ
た人がそう思うようになっていくことはよくあることで、当然ともいえる反応で、修正前の映像ではよりそれを感じました。
事実がどこにあったかではなく、自分がどう思ったかを描いた「日記」なんだ、と。
この映画が公共性のあるものだとは思いません。
映画では許可されていない映像や事実を歪曲して捉えられかねない表現があり、人権侵害が元弁護団から指摘されてきました。
そこに詩織さんが向き合わないまま、初日のアフタートークでは、元弁護団から事実に基づかない発信がなされているとか、話し合いを拒否されたと主張していることは驚きました。
実際には元弁護団から、映画の修正や海外で継続されている無修正版について度々説明を求められていたのを無視して、公開まで返答しなかったからです。
映画を見て、被害を訴える側が声をあげることで攻撃される、あなたは悪くないと誰も言ってくれない、そういう社会に対する絶望感が、ああいう表現を詩織さんにさせているんだと思いました。特に、修正前のバージョンではそれを感じました。
許可されていない人の顔や発言を、準備の上隠し撮りされたものを、いくつも自分のために利用していたからです。
詩織さんは映画では、ジャーナリストとしてこれを公表すると語っていました。しかし、初日のトークイベントでは、これは映画監督として作ったのでジャーナリズムとは違うと言っていました。話を変えています。
それなのに、映画に「公共性がある」とも言っていてめちゃくちゃなのですが、ジャーナリストとして、監督として、被害当事者として、どの立場から映画を作ったとしても、他の誰かの人権を傷つけたり、その指摘に誠実に向き合わなくていいということにはならないです。
元弁護団からの質問に答えないまま倭国公開に踏み切ったこと、また海外では無修正版を流し続けていることは問題であり、残念です。
詩織さんは指摘されている問題、自身の加害者性に向き合う必要があるし、周りの人はそこから目を背けることではなく、向き合うことをサポートするべきで、それが真の人間関係だと思います。
自分のすべてをいいねと言ってくれる人しか周りに置きたくないという時期があることも理解しますが、
私は、出会う少女たちが、もし同じことをしていたら、もし人を尊重しないことがあれば、相手が性暴力の被害者であっても、未成年の少女たちであっても指摘します。
でも今は、それに向き合える状態ではないのだろうと思いました。自分のしたことから目を背けると決めたのだとトークイベントを見て思いました。向き合うためには、社会や他者や自分への信頼や安心感など、そのために必要なものがないと難しいため、仕方ないのかもしれません。
そういう状態の当事者を、十分なケアがないままこれまで、これだけ前に出してもてはやしてきた、ヒロインとして、ジャーナリストとして盛り立ててきたメディアと社会の責任もあると思います。
映画の中でも、「当事者に無理をさせたくない」、頑張らせないようにしたいという、他の国の支援者の発言が取り上げられていました。
詩織さん自身も語っているように、自分はジャーナリストだと思うことで、そこに救いを求めるようにして、自分に向き合わないようにしていたといいます。それが今も続いているのだと思います。
私は、この映画に公益性があるとは思いません。詩織さんが、「自分が救われたかったから作った」と言えたらいいのに、と思いました。
だからと言って誰かの人権を踏み躙っていいわけではないけれど、自分のためにやったんだと言えばいい。その上で責任を取ればいいのに、これをジャーナリズムだと言ったり、いち被害者としてと言い換えたり、映画監督として作ったなどと、都合よく話を変えていくのは本人のためにもならないと思います。
自分のことをわかってほしかった、公共のためでなく自分のためだった、それを言えた時に、また自分の傷や状態と向き合って回復の一歩を踏み出せると思うのです。それを言わせない社会の持ち上げ方にも、問題があると思います。
社会の求める理想の被害者像やヒロイン像が、彼女を自分に向き合えなくさせていると思います。
そこに被害当事者がすがらなくても良いように、それだけのサポートがある社会にしなければと思っています。
望月さんの番組では、もう少し詳しく話しています。 December 12, 2025
ドキュメンタリー映画は法廷でもなく、両論併記が求められるジャーナリズムでもありません。
NHKの影響で、「すべてのドキュメンタリーはNHKのようでなければならない」と考える人が多いのではないかと感じます。
テレビと映画のドキュメンタリーは、通常性質が大きく異なります。 https://t.co/YIrOrw44p1 December 12, 2025
『あなたが帰ってこない部屋』
短編ドキュメンタリー映画賞ショートリスト選出
Netflixで配信中
銃乱射事件の被害者の部屋を撮ることを通してアメリカの銃社会と向き合った作品
こと更に悲劇性を強調するのではなく、ジャーナリズムの本質に立ち返る姿勢がとてもいい
#第98回アカデミー賞 https://t.co/bRn75sIFKV December 12, 2025
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