ギリシア語 トレンド
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2025.12.08〜(50週)
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倭国にはラテン語・ギリシア語の専門家はいても、ラテン語やギリシア語教授法については教わることがないので手探りでやっていると思います。私自身も最初人に教えたことはありませんでしたが、生徒さんにラテン語・古代ギリシア語をゼロから講読レベルまでコーチングさせていただき、自信がつきました December 12, 2025
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『春冰』第三号が届きました!今年も力作です!!私は、ヤコヴィドゥさんのポントス・ギリシア語詩の翻訳を5歌、オウトゥチュさん(オルハン・ケマルの息子さん)のトルコ語詩を8歌訳して投稿しました。両方ともとても好きな作品で、お二人と関わることができて本当に嬉しいです。ぜひお読みください! https://t.co/KAOtZ3Lg7b December 12, 2025
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好きになるのは自分の意思だと言われるけれど、「よし、この人を好きになろう」と決めて好きになった人って、正直そんなにいないと思います。気づいたら引っ張られていて、忘れようとしてもなかなか忘れられない、あの感じを國分功一郎さんは『中動態の世界』で説明します。
・國分功一郎さんは『中動態の世界』で、古代ギリシア語には「能動」と「中動」の対立があったと説明します。「する/される」ではなく、「外側で終わる行為」か「自分の内側が行為の場所になるか」で分けていたそうです。
・「好きになる」「尊敬する」はまさに中動態の例として挙げられます。自分が主体ではあるけれど、相手に引き出される気持ちがあって、ほとんど受動に近い。でも、誰かに強制されているわけでもない。
・歩くことだって、自分の意思で全部コントロールしているわけではありません。昔の倭国のナンバ歩きのように、習慣や身体の構造に強く縛られています。「右手の第2関節を何度曲げるか」なんて、いちいち考えていません。
・それでも私たちは、「自分の純粋な意思でやったかどうか」で行為を区別しがちです。やりたくなかったのに銃で脅されてやったら受動、自分からやると決めたら能動。その分かりやすさで、刑法や日常の責め方が組み立てられています。
・國分さんはこの単純さに疑問を投げます。意思というのは過去や環境に影響されていて、ゼロから突然わき上がる「純粋な出発点」なんかではない。意識がはっきりしているということは、それだけ周囲から影響を受けているということだからです。
・にもかかわらず「君が選んだんだろ」「自己責任でしょ」と言われるとき、そこには「中動態的な部分」が丸ごと抜け落ちています。自分が場所になってしまっている部分、選んだというよりも、そういうふうになってしまった部分です。
・中動態を持ち込むことは、「じゃあ何もかも他人のせいだ」という開き直りではなく、「本当にどこからが自分の選択と言えるのか」を慎重に考え直すきっかけになります。自分を責めすぎる人にとっても、他人を簡単に責めてしまう人にとっても。
・私たちの行為は、能動か受動かの二択では説明しきれないところで揺れています。「自分の中で起こっていること」をどう扱うかを考えるとき、中動態という言葉がそばにあるだけで、自分にも少し優しくなれる気がします。
「全部自分の意思だ」と言い切れない行為を、どう言葉にするか。中動態の話は、そのあいだにあるグラデーションを見せてくれる一つの手がかりなのかもしれません。 December 12, 2025
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12月9日は砂田恭佑先生の「古典ギリシア語初級講読」第6回でした。今回も引き続き『オデュッセイア』の講読に取り組みました。ペネロペという有名人が出てきたほか、写本によって異なる箇所などについても先生の説明を伺いながら、なぜそのような形になっているのかを考えました。 December 12, 2025
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”文法的には複数形だが、意味は単数”という用法は、希臘語にも倭国語にもある。七十人訳の邦訳者が、「ギリシア語訳聖書の読者にそれが理解されたかどうかは不明」と註しているのは、いささか負け惜しみのようでいただけないが、これらの複数形が素直に受け取れないという意味では、指摘は正しい。 https://t.co/MoCyvhvmeG December 12, 2025
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本当に何回も言って申し訳ないのですが、イタリア語版の🦌歌うますぎ(細かい表現が半端ない)ので聞いて欲しい。
あとイタリア語だとあらすたぁじゃなくて、アラストール読みなのほんといい。
ギリシア語で『復讐者』の意味で、地獄の刑執行官の魔神なのですけども
S3以降、名前関わってきたりする? December 12, 2025
NHKカルチャーセンターのサイトを見てみると、ギリシア語講座はある。サンスクリット講座はある。が、ラテン語講座がない。そして、中つ国のエルフ語講座はあった。シンダリンなのかクエンヤなのかはわからないが、てか、まあ、たぶん両方か。いやそこじゃなくて、ラテン語がなかった。 December 12, 2025
先週1週間は出かけてて今週も具合が悪かったりタイミングが悪く「ばけばけ」が観られなかったから、松江で当時350円で買った小泉八雲生誕150年の「若き日の小泉八雲」と没後100年記念出版のマンガ
「小泉八雲・倭国の面影」の2冊を読んだ。ギリシアのレフカダ島の名は古代ギリシア語で彷徨うという意味 December 12, 2025
aura
/ˈɔː.rə/ (noun) = アウラ;霊気、オーラ;唯一的な現前性・雰囲気
📘 例: The live performance had an aura that no recording could capture.
🇯🇵 和訳: そのライブ演奏には、どんな録音でも捉えきれないアウラがあった。
✅ ポイント:
・哲学・美学では、ウォルター・ベンヤミンが用いた概念で「唯一性」「一回性」「その場での現前性」を指す。
・複製・再生・生成が容易になるほど、逆説的に「アウラをもつ体験/存在」の価値が浮かび上がる。
・AI時代の文脈では、「負けうる存在」「不可逆な時間を引き受ける存在」としての人間性と強く結びつく。
💬 定義:
A distinctive, non-reproducible presence or quality that emerges from uniqueness, immediacy, and lived experience.
🧠 語源メモ:
"aura" はラテン語 "aura"(そよ風・息・空気)に由来し、さらにギリシア語 "αὔρα / aura"(軽い風、漂う気配)へ遡る。
語根は印欧祖語 *h₂weh₁-(吹く・風が動く)とされ、「触れられないが確かに感じられるもの」を意味していた。
本来は物理的な「風」だった語が、次第に「人や場を包む不可視の気配」「現前の気」を表す抽象概念へと拡張した点が重要。
📈 レベル: C1–C2(哲学・芸術・批評語彙)
✒️ コロケーション:
carry an aura / lose its aura / sense of aura / aura of authenticity
📘 類義語:
presence, atmosphere, authenticity, singularity, irreproducibility December 12, 2025
3年前までギリシア語を学ぶことで、教会の兄弟姉妹が緊張していた。リーダーたちでさえ原典で新約が読めてなかったのに、若い子が少しでも読めるとものすごく気まずい空気になっていた。信仰がしっかりしてない私が教会で大きくなると、トラブルが多発するのではないか?そのように警戒されていた。 December 12, 2025
3年前に教会を探して、ギリシア語語が読める人が多いところがよい、とすごく願っていた。今の教会では、小さな神学校の校長先生がいて、ヘブライ語とギリシア語の専門家で、他に欧米の神学校ギリシア語を学んでいた宣教士も数人いる。私はやっと自由に呼吸できるようになった😭 December 12, 2025
ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
コリント人への手紙 第一 1章24節
(質問)
通常、「召された者たちにとっては、キリストは神の力、神の知恵です。」となるような気がしますが、この文章は少し倭国語的に変なような気がします。ギリシャ原語はどうなっていますか?
(回答)
この「新改訳2017」の倭国語訳は、倭国語として少し独特な倒置的表現(あるいは体言止めに近い形)になっていますね。
結論から申し上げますと、ギリシア語の原文において、この24節は「独立した文章ではない」という点が最大の理由です。
なぜこのような訳になっているのか、ギリシア語の文法構造から紐解いてみましょう。
1. ギリシア語原文の構造
この24節を理解するには、その前の23節から文が続いていることを知る必要があります。
【ギリシア語の構成】
23節:
私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます(…中略…)
24節:
しかし、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリスト(を)です。
ギリシア語では、名詞の「格(てにをは)」が明確に区別されます。
* 23節の動詞:
「宣べ伝える(ケーリュッソメン)」
* 23節の目的語:
「キリストを(クリストン/対格)」
* 24節のキリスト:
「キリストを(クリストン/対格)」
つまり、24節の「キリスト」は、文法上は「主語(キリストは~である)」ではなく、「目的語(キリストを~)」のままなのです。
2. 直訳するとどうなるか
原文の構造をそのまま倭国語に置き換えると、以下のようになります。
(23節)
私たちは、ユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かなことである十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。
(24節)
しかし、ユダヤ人であれギリシア人であれ、召されたその人たちにとっては、神の力であり神の知恵である(その同じ)キリストを(宣べ伝えているの)です。
3. なぜ「~であるキリストです」という訳なのか
もし、「キリストは神の力、神の知恵です」という文章(主語+述語)にすると、ギリシア語では「主格(クリストス)」を使わなければなりません。
しかし、パウロ(著者)はここで意図的に、23節の「宣べ伝える」という動詞の目的語として24節を続けています。
* 新改訳2017の意図:
原文が「目的語(対格)」であることを尊重し、かつ倭国語として文を終わらせるために、「~(という性質を持つ)キリストです」という、「キリスト」という存在そのものを強調して提示する形をとったと考えられます。
4. 他の翻訳との比較
他の翻訳を見ると、訳者の苦心が分かります。
○新改訳2017
「…神の力、神の知恵であるキリストです。」
・原文の「名詞(目的語)での提示」を重視。
○新改訳第3版
「…キリストは、神の力、また神の知恵なのです。」
・倭国語として自然な「主語+述語」に意訳。
○新共同訳
「…キリストは、神の力、神の知恵なのです。」
・同様に、読みやすさを優先して主語化。
○岩波訳
「…神の力また神の知恵であるキリスト(を宣べ伝える)。」
・動詞を補って、原文の構造を忠実に再現。
○まとめ
ご質問の「倭国語的に変な気がする」という感覚は、原文の「未完結な(動詞を含まない)文構造」を、倭国語の完全な文として着地させようとした結果生じた違和感だと言えます。
「キリストは~です」と訳しても意味は通じますが、新改訳2017は「私たちが宣べ伝えている中身は、まさにこの『神の力・知恵であるキリスト』その人なのだ」という、対象へのフォーカス(焦点化)を優先した訳と言えるでしょう。(了) December 12, 2025
@BrandonKHill 古典ギリシア語もラテン語も全く理解できぬ「無知無教養の徒輩」ですら、嬉しそうに英語や米語を口にしたがりますネ。
いと、をかし~ ♪
★ ★ ★ December 12, 2025
誰か現代ギリシア語辞典の未使用美品出してるよ!34,000語ってすごいなあ、僕も欲しい(´∀`)
現代ギリシア語辞典 第三版 川原拓雄 著 リーベル出版
https://t.co/jIW6JAZ2mg December 12, 2025
アイデアの語源は
ギリシア語の「イデア」
「理想の姿」という意味です
アイデアとは、理想の世界から
あなたの頭の中にやってくる
まさに理想の考えなのです
あなたも常に理想の姿を
イメージしてみてください
きっと、素敵なアイディアが
浮かぶかもしれません! December 12, 2025
田邊元における
措定判断
setzend Urteil
[ˈzɛtsənt ʊʁˈtaɪl]
ゼッツェント・ウアタイル
純粋経験
と呼ばれる未分化な意識の状態か
ら、どのようにして
〈自我〉と〈対象〉
が分かれて現れるのか
その鍵として田邊が重視するのが
•注意作用
•措定判断
(setzend Urteil
ゼッツェント・ウアタイル
thetisch Urteil
テーティッシュ・ウアタイル)
である。
簡単に言えば注意が向けられるこ
とによってそれまで一体だった経
験の流れが
「見る私」と「見られるもの」
に分裂する
という構図を、当時の
心理学(Wundt)
と新カント派(Riehl)
を使って田邊は説明している
主要概念の整理
1. 純粋経験
•自我/対象がまだ分かれて
いない意識の状態
•例:空をぼんやり眺めてい
るときの「ただ青がある」感じ
•「私が見ている」「空がある」
という区別がない
2. 意識内容
•純粋経験の中で、まだ主観・
客観に分かれていない「中身」
重要なのは
•意識と内容は別物ではない
•意識とは「内容の総称名」に
すぎない
3. 対象(Gegenstand)
•自我に対立するもの
•「私の前に立つもの」として
意識される
•Lipps の定義
「私が内的にそれと向き合ったもの」
4. 注意作用
•意識の中のある部分に
「私が向く」こと
•単なる受動ではなく、内的な
意志活動
•感情(情意)を伴う
5. 措定判断
setzend Urteil
[ˈzɛtsənt ʊʁˈtaɪl]
ゼッツェント・ウアタイル
(哲学的言語の解説
setzend Urteil
[ˈzɛtsənt ʊʁˈtaɪl]
ゼッツェント・ウアタイル
措定判断
内訳
setzend
setzend =
setzen〈置く・定立する〉
の現在分詞
setzen → ゼッツェン
setzend → ゼッツェント
Urteil(判断)
ウーアタイル
(語頭の Ur- は「ウー」、r は喉音)
thetisch Urteil
[ˈteːtɪʃ ʊʁˈtaɪl]
テーティッシュ・ウアタイル
措定判断
内訳
thetisch
語源
ギリシア語 thesis(置く・立てる)
発音
テー(長音)・ティッシュ
Urteil(判断)
同じく ウーアタイル)
感覚的な内容を
「自我に対する対象として
定立する判断」
•「ある!」と立てる働き
純粋経験が分裂する瞬間
注意を向けると、純粋経験が分裂
し、感覚的内容が自我から切り離
されて
「客観的対象」
として定まる
ここで言っているのは
普段ぼんやりしているとき
→ 純粋経験
•何かに「注意」を向けた瞬間 →
•「私」
•「それ(対象)」
が生まれる
このとき働く判断を田邊元は
措定判断
setzend Urteil
[ˈzɛtsənt ʊʁˈtaɪl]
ゼッツェント・ウアタイル
と呼ぶ。 December 12, 2025
通常、なんか、一個は最低、西欧、ま、旧西ローマ帝国の版図、ローマカトリック教会の元々の版図(現在プロテスタントなとこ含む)の現代語は知っていて古典ラテン語(なり古代ギリシア語なり、まあ、もしかしたらサンスクリットでもそうかもしらん)を学ぶので、そうすると、古典ラテン語それ自体 December 12, 2025
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