焚き火 トレンド
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2025.11.27 11:00
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おはよでち🌈🐕
8月の6泊7日の旅🚐💞
夕陽ケ丘オートキャンプ場🏕
お天気にも恵まれて2泊3日を満喫🌊⛺😍
綺麗な景色と夕陽と隣には温泉🌊🌅♨️
美味しいBBQに🦐🥩😋
夜は焚き火🔥
#ぷーたん と一緒に癒されました😌💖🌈🐕
テントにテーブルにetc…🛍
新しいキャンプギアもたくさん増えました🏕✨ https://t.co/9SOAusLi0w November 11, 2025
1RP
「日常の積み重ねって、ふとした瞬間に出てしまうじゃないですか」
本当にこれなんだよなあ……ってじっくり読んでて最後焚き火の動画見る話で翔くんの名前出てきてニコー!ってした https://t.co/IcfOGP2Sd0 November 11, 2025
薪ストーブの前でホットサンド焼いたら、中からとろ〜っとチーズ。寒い朝はこれが一番しみる。ちなみにバウルー使ってるんだけど、やっぱりキャンパーの定番って強いよね。今日は天気もいいし、午後は近くの河原で焚き火してくる予定🔥 November 11, 2025
仕事のトラブルで余儀なくアナログな野宿する二人が見たい。
ロックダウンとか起きてさ、ホテルないから道端で野宿的な。
持ってた機材とゴミ箱にあったもの使って簡易テント作ったり、焚き火したり。んでゲームしながらハンモックで寝てくれ、🦾と📺 November 11, 2025
第5章の焚き火でデルワーズがやっていることって、表面上は完全に“母性神話フルスロットル”なんですよね。そう自分に言い聞かせないとやってられない壊れっぷり。
「母は子どものために自己を差し出して当然」というほぼ教科書どおりの形です。最悪なんですよ。
「母性神話」「三歳児神話」みたいな言葉で、こうした自己犠牲の母性像がどれだけ女性を追い詰めてきたかが批判されていますからね。
母性は自然な本能ではなく、社会が都合よく作り上げた役割であり、「母は無我で献身するもの」とされること自体が暴力だ、と。デルワーズは、その罠に丸ごと飲まれた人でもある。
「こんな世界に産んでしまった母」としての罪悪感
「何かしなければ母である資格がない」という強迫
その行き着く先として、「自分の命ごと世界を書き換える」を選んでいる。
一方ロスコーは、最初から最後まで徹底して「今のエリシアから母を奪うことがどれだけ残酷か」を言い続ける側。 November 11, 2025
もずくスープの20食セット出てた
焚き火のお供に最高なんだけど、争奪戦すぎる☕
14☆いいわぁ〜この味♡ニコニコのり もずくスープ 20食 お弁当 ソロキャンプ
https://t.co/TMK7IrKfYi November 11, 2025
「そのまま逃げて三十年生きてもいいじゃないか」
「君がいなくなったら、あの子は未来どころか“今”すら奪われる」
「どんな惨めな手を使ってでも、生き延びろ」
つまり彼は、
「だめなお母さんでいい。いなくなるより千倍マシだろうが」
という立場をまったくぶらさない。
重要なこと
作者としては、ロスコーの口を借りて、母性神話そのものをかなり露骨に嫌がっています。
それでもデルワーズの「だめなお母さんでごめんね。でも何かしないと耐えられない」という祈りを、完全には切り捨てていないことこの二つを同時に握っている点だと思います。
巫女と騎士システム=「ひとりで世界と戦う母になってはいけない」という再設計
一人の巫女に全部を背負わせないために、そばに「騎士」を必ず組み込む
精霊子とマウザーグレイルをふたりで分担させる
ふたつでひとつのツバサにするこれは、まさに「デルワーズ型の破綻」を後世からシステムレベルで否定した構図です。
現実のフェミニズムで言う「ケアの分担」「母ひとりにケアを集中させる社会設計を疑う」という話を、そのまま物語の仕掛けに落とし込んでいる形に近い。
デルワーズ=“ひとりで世界を背負って潰れた母”
巫女と騎士システム=“もうそういう母を二度と作らないための安全装置”という風に見ると、
黒髪であること
異常な精霊子感受性
巫女と騎士というペア構造ぜんぶが、
「だめなお母さんの世界規模の後始末」であり、同時に呪いでもある、という整理がきれいに繋がります。
エウレカAOとの連結
異物の子を産んだ母の「ごめんね」
エウレカAOの方の、異物として狙われる髪色
子どもに同じ色が出るかもしれない不安
自分の髪を黒(作中ではダークブラウン寄り)に染めて、「ごめんね」と泣く母この構図は、デルワーズにかなり直結していますよね。
どちらも、自分の存在そのものが「この子を苦しめる要因」だと感じている
だから、世界(や外見)を書き換えることで、せめて子どもを“普通”にしたいと思ってしまうという、かなり残酷な母の自己否定から出発している。
デルワーズの場合は、それを「世界の生殖システムを書き換え、黒髪という“揺らぎ”を残す」ところまで振り切ってしまった分、スケールだけ悪魔的に跳ね上がっている。
だからこそ罪深いし、だからこそ「やってしまった以上、せめて世界を少しでもマシにしてから渡したい」という祈りも本気になる。
「泣かない子」と、先にいい子になる子ども
「あの子(エリシア)は泣きもしないんです。ただ黙って……怖さを我慢しているような目で私を見上げてきて」
この一行は、心理学でいうところの「親の方が壊れかけていると、子どもが先に大人の役を引き受ける」状態そのものなんですよね。
親の感情を支えるために、子どもが「泣かない方」「いい子の方」を選んでしまう現象は、現実でも「ペアレンティフィケーション(親化・親役割)」としてかなり問題視されています。
親の不安や崩壊を前に、子どもが先に“大人”になってしまうと、のちのち自己否定や過剰な責任感を抱え込みやすくなる、と。
デルワーズは、その「泣かない子」を見てさらに自分を責めてしまう。
つまり、子どもは子どもで「母を壊さないためにいい子になっている」
母は母で「そんな子にしてしまった」と自分を殴り続けているという、地獄みたいなループになっている。
ここをさらっと一文で流さず、焚き火の静けさの中に置いたのは、かなりえげつない切り方だけど、物語の核でもありますよね。
それでも「ぜんぶほしい」と言ってしまう子どもたち
デルワーズの“だめなお母さん的世界改造”の上を歩かされているのが、
メイレアであり
メービスであり
ミツルである、
という見立ては、そのまま「全員デルワーズの子ども」という整理で一本線になります。だからこそ、メービス/ミツルの
「ぜんぶほしい」は、
“だめなお母さん”を見て育った子が、それでもなお「犠牲だけじゃない未来」を選び直そうとするところで初めて言える言葉になる。
供物として自分を差し出すことで世界を保とうとした母
自分のしあわせを諦めることでしか均衡を取れないと信じた母その上に、
「だめでごめん」
「でも、歩く」
「それでも、全部ほしい」と口にする娘が出てくる。
第五章の焚き火って、まさにその“出発点の地獄側”を描いたパートなんだと思います。
そこをきれいにせず、「気味の悪い優しさ」として残しているからこそ、後の「巫女と騎士」「ぜんぶほしい」が、ただのポジティブスローガンで終わらない。
書いていてとても辛かったのは、たぶんそこがちゃんと現実と噛み合っているからで、その痛み自体が、黒髪全体の「倫理の芯」になっているのかも。 November 11, 2025
キャンプ場🏕️の焚き火で、こんなんも大人も子供も喜ぶんじゃないかと思う料理メニュー みんなで作るのも楽しいかも
じゃがチーズ肉巻き‼️
相変わらず自宅アパートで作ってます😆 https://t.co/ejzM8c5oDm November 11, 2025
秋も深まりつつ、ソロキャン⛺️
朝晩は寒い(>_<。)
夜は焚き火で暖をとりと地元の食材で舌鼓
何も考えず、ただ焚き火の音と星空
なんか…もう冬が訪れそうな…
少しさみしくなってきた…( ˶'-'˶) https://t.co/SY3acTycl4 November 11, 2025
キャンプディレクター日誌2025.11.24
僕たちは土地を追われることになった。だからカウンシルを開いた。これまではキャンプの中の重要なアクティビティとして。しかし今回は、土地を追われるにあたって開催された評議会であった。
評議会に集まった人々は、偶然そこに集まったものも含めて、やはり多様性に満ちていた。世代も社会的状況も余島との関わりも違う、40名を超える人々が余島に集まった。評議会の最も重要な儀式として、やはりカウンシルファイヤーを行った。
薪の前に座って、最高責任者であるキャンプディレクターがマッチで火をつけた。幼な子たちが拾ってきた松ぼっくりに火がつく。斧で削った屑を少しずつ火に焚べていき、火が安定したところで評議員を選出した。
「子どもは後ろに退き、大人は前に出てきなさい」
カウンシルサークルに集まった人々ははじめ戸惑ったが、すぐに理解してその通りに座った。キャンプディレクターが焚き火の周りに集まった大人たちの顔をじっと見て、カウンシル(評議員)にふさわしくないと思った人を後ろの席に退かせた。
カウンシルの周りには大人、次いで子どもたちが集っていた。「まず、小さい子どもからこちらに来なさい」。評議会が始まった。
「小さい子どもたち、君たちはこれから先、もうこの場所で、我々が大切にしてきた言葉で、世界を学ぶことができない。持ってきた松ぼっくりに自分の想い、言葉を込めて火に焚べなさい。それは声に出してもいいし出さなくても良い」。
子どもたちは前に勇み出て火を明るくした。言葉にするものもしないものもいた。
母親に連れられて二人の幼な子がやってきて、恐る恐る火に近づき「ありがとう」と言って松ぼっくりを火に入れた。子どもたちが大人たちの背後に戻り、評議会が続いた。
「ではまず、若い人たちから火の前に来て語りなさい」。14歳、15歳の男女がやって来て火を明るくした。車椅子のカナタは、その場に座ったまま「僕は余島に来たら歩きたくなる」と言った。そして「また次回も絶対に来る」と言った。カナタは全てのカウンシルファイヤーで同じ言葉を語った。
アイリは「唯一の後悔があるとしたらそれは、僕をこの場所に導いてくれた里親と一緒に、この地を踏めなかったことだ」と語った。誰もがその変化に驚いた。ケイユウは「僕は ここに 来れなくなるのが 本当に 寂しい」と、いつも通り一言ずつ語った。その語りそのものがケイユウだった。だからみなが安心した。そしてまた火が明るくなった。
※※※
北京から来て評議員としてこの席に座っているファンファンは、「守れなくて申し訳なかった」と心痛な面持ちで語った。声が震えていた。
マリナは、この土地を我々が追われることを理解しようとしなかった。そして今でも理解していない。拒絶は希望を表していた。
ひとつずつ、薪を崩していって、やがて火が消えた。
100年の歴史を持つキャンプ場から、若いディレクターがやってきて評議員の席に座った。僕は余島を代表して、伝統の火を守りきれなかったことを謝罪した。そして彼に言葉を求めた。彼は少し臆しながらも、勇敢に言葉を繋いだ。いくつかの余島の伝統は東京YMCAから受け継いだものだ。余島の伝統のいくつかはまた東京YMCAに戻っていく。
僕たちはインディアンではないから、このカウンシルは半分くらい成功したと言っていいだろう。語らせるべきではないものたちを評議員に選んでしまった。自由と平等を重んじながら統治を成功させるのは至難の技だ。
幼な子のとき、私たちは幼な子のように感じ、幼な子のようにこの世界を見た。大人になった今、それを捨てた。
幼な子を出汁に使って、自らを免責する大人たちは、傍に退かなければならない。
※※
小さなミナミは、南の浜から動こうとしなかった。僕たちが余島を追い出されることを徹底的に拒絶した。だからしばらく足を踏み入れなかった。小さな10歳の少女の中には、山をも動かす信仰が生きている。拒絶し続けよ。カウンシルの火はそう語っていた。
※
翌朝、努めて軽い調子で「さあ、自分たちの言葉を埋めるよ。これは儀式だ」とカウンシルサークルの外に穴を掘り、石室を作って、燃え残った薪と、持ち寄った品々を言葉と一緒に埋めた。
誰一人、真剣さに欠けるものはいなかった。幼な子たちは本当に、誰かが言葉を取り戻したとき、この薪を掘り起こし、もう一度火を灯すことになるだろうと信じているようだった。
こうしてひっそりと、秋が深まる森の中で言葉は封印された。封印は希望である。上書きされない記憶を、上書きしてはいけない経験を、土の中に埋めた。
相変わらず余島は、大地は、何事も無かったかのようにすべてを包み込んでいた。霜が降りる季節になった。異常に温かい海もやがて冷えて、いつものように寒い冬が、人を寄せつけない厳しい季節がやってくるだろう。 November 11, 2025
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