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気候変動
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2025.12.19 02:00
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イーロン・マスク氏、20年以内に仕事は選択制になり、すべての人に「普遍的高所得」がもたらされると予測
「AIとロボット工学の進歩により、働くことが選択制になる時代が到来します。まるで自分の庭で野菜を育てたり、お店に行って野菜を買ったりできるようになったのと同じです。」
UBIは世界経済フォーラムのグローバリストのアジェンダです。結構です…UBIを「普遍的高所得」にリブランドするのは、「地球温暖化」を「気候変動」にリブランドするようなものです。
(単なるベーシックインカムではなく)普遍的な高所得が実現するでしょう。
誰もが最高の医療、食料、住居、交通手段、その他あらゆるものを享受できるようになります。持続可能な豊かさ。
ロボットが働く人の代わりをするようになったら、失業した人はどのように生活を維持するのか???
イーロン・マスク氏、AIの「豊かさの時代」における「ヒューマノイドロボット」への警告
Xのオーナーであるイーロン・マスク氏は木曜日、AIの未来は「豊かさの時代」となり、ユニバーサル・ベーシックインカムではなく「ユニバーサル・ハイインカム」が実現すると予測したが、人間を追いかけてくる可能性のある「ヒューマノイドロボット」の存在についても警告した。
マスク氏は、英国ブレッチリー・パークで開催された世界初のAIサミットの後、リシ・スナック英首相との会談でこの発言を行った。
SpaceXとTeslaのCEOであるマスク氏は、ロンドンで行われたスナック英首相との個別会談で、「仕事は必要なくなる」時が来ると述べた。
そして、仕事は「個人的な満足」のために仕事を求める人だけのためのものになるだろう。
すごーい December 12, 2025
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ネットゼロの達成を遅らせると、地球は今後1000年間、極端な熱波に見舞われる可能性があります (2025/12/4)
https://t.co/yLTp8Ukd9c
新たな長期気候モデルによると、世界のネットゼロ達成が遅れると、熱波が今後何世紀にもわたって悪化し続けることが明らかになりました。
「これは特に赤道に近い国々にとって大きな問題です。これらの国々は一般的に気候変動への脆弱性が高く、ネットゼロ達成が2050年以降に遅れると、現在の観測記録を破るような熱波が少なくとも年に1回、またはそれ以上の頻度で発生することが予想されます」とキング博士は述べました。
猛暑は排出量のピーク後も長期間続きます
今回の研究結果は、世界の排出量が実質ゼロになる時期が遅れるほど、熱波がより高温になり、より長期化し、より頻繁に発生することを示しています。研究者たちはまた、南極海の長期的な温暖化が、ネットゼロ達成後も熱波を悪化させ続ける可能性があることも発見しました。
1000年間のシミュレーション全体を通して、研究チームは熱波の有意な減少を観測しませんでした。それどころか、熱波は少なくとも1000年間、産業革命以前の水準を上回ったままでした。一部の地域では、2050年以降にネットゼロが達成されたとしても、数世紀にわたって熱波の激しさがさらに増しました。
ネットゼロ達成でも即時の緩和は期待できません
筆頭著者であるオーストラリア国立大学のサラ・パーキンス=カークパトリック教授は、"今回の結果はネットゼロの達成によって将来の世代の気候条件が改善し始めるという仮定に疑問を投げかけるものだ"と述べました。
「今回の結果は憂慮すべきものですが、未来を垣間見ることができ、効果的で永続的な適応策を計画・実施することを可能にします」とパーキンス=カークパトリック教授は述べました。
「恒久的なネットゼロに向けて迅速に前進することが依然として極めて重要です。遅くとも2040年までに世界全体でネットゼロを達成することが、熱波の深刻さを最小限に抑えるために不可欠です。」
適応と迅速な排出削減の緊急性
キング博士は、今回の研究結果が、地域社会を熱波から守るために即時の排出削減と大規模な適応計画の両方を必要とすることを浮き彫りにしていると述べました。
「熱波の際に人々を涼しく健康に保つための公共インフラ、住宅、医療サービスへの投資は、ネットゼロ安定化の早期段階と後期段階とでは、規模、コスト、必要な資源の点で大きく異なる可能性が高いでしょう。この適応プロセスは数十年ではなく、数世紀にわたる作業となるでしょう」。 December 12, 2025
東浩紀さんの新刊めちゃオモロい。古来「平和」は定義が揺れてきた。自己都合の定義も氾濫してきた。定義の決定版は今も存在しない。そこに東さんが議論の出発点を持ってくる。主要素は「考えないこと」である。本書は「考えないこと」の地平から平和の可能性を開く野心的試みだ。以下概説したい。→
平和とは、実は「それについて考えない時」に感じられるものである。平和について考える必要がない時に平和が結実する。本書のタイトルに「愚かさ」とあるが、「平和」と「愚かさ」はまさに「考えない」という点で共通している。というか、両者は表裏一体である。
現代は、戦争や紛争にしても気候変動や人権の問題にしても、それぞれコミットする際に「もっと調べろ」「もっと知れ」「もっと賢くなれ」という圧が強くかかってくる。もちろん、考えることには価値がある。ただ一方で、「考えないでいられる」「平和ボケでいられる」という世の中を想像してみてほしい。ぶっちゃけ深く考えなくても済む社会は、それはそれで平和なのではないかと思えるだろう。政治のことも争いのことも熱心に考えなくていい時代、それが平和の要素として重要ではないかと東さんは問いかける。
当然の話だが、全員が全員考えなくていいという訳ではない。平時においても安全保障について考える必要はあるし、武力の備えを充実させる人も必要だ。軍人や外交官、国際政治の専門家までもが思考停止するのは危うい。
これを踏まえた上で、まず東さんが注目していることを示そう。それは、「考えないこと」を許す社会の在り方である。考えなくてもいいことを考えない、それがより広く許容される社会が実現するなら、その社会は相当に平和だと言えるかもしれない。もちろん、本書でも平和と戦争が対比的に出てくる。「考えないこと」だけで平和という観念を肉づけするのは難しい。
そのため東さんは、平和の端的な表現として「戦争がない状態」というシンプルな見方から議論を説き起こす。ただ、東さんは「戦争がない状態」というよりも「戦争が欠けている」状態という言い回しを使って議論を始める。
ここでいう「欠け」が何なのかが重要である。それは、軍事力にまつわるものや政治戦略に関するものというよりも、「戦争について考えない」「考えないことが許される」という思考の欠如を前景化させる言葉だ。繰り返しっぽくなるが、東さんの言葉を引用したい。「平和の本質は戦争をしないことにあるのではない。戦力を放棄することにあるのでもない。戦争について考えないことが許されることにある」
逆に、戦時においては「考える」ことが推奨される。というか社会的に強制される。考えざるを得なくなる。そして、かつての平和は「悪を野放しにしていた能天気な時代」といったかたちで再解釈される。戦時の敵となった国とも昔は仲良くしていただろうが、それも「上っ面の平和だったのだ」と再解釈される。その状況下では、たとえば敵国の人と結婚しようとする人は、全力で止められてしまうだろう。が、よく考えてみてほしい。以前はおそらく、その外国人(現在は敵国人になってしまったが、それ以前はそういう認識がなされなかった人)との婚姻関係において、相手が外国人であるかどうかはあまり問題にならなかったはずだ。むしろ、「どこの国の人か」で結婚相手として相応しいかどうかをジャッジしたら、不純なこととして受け取られかねないくらいである。そこには、「どこの国の人か」を結婚の障害にしてはならないという社会的合意がある。
これを受け、東さんは「ぼくは、そのような政治的な思考停止の領域についての合意の広がりこそが、ある社会が平和と呼ばれるべきか否かを判断するうえで重要な指標になるべきだと考える」(( )は引用者)と述べる。
もう、ここまででも十分おもしろい。
だが、東さんはここからさらに面白くなる。
上記の平和観には危うさもある。平和を平和たらしめるには、ある種の弱点を抱え込まなければならないと東さんは言う。それは、みなが平和だと思っていた「かつての時代」について、「じつはあの時は平和ではなかった」という人が現れた際に、平和観を更新せざるを得なくなるという弱点だ。
たとえば、一部の人たちが平和だと感じていたその当時に、人知れず虐げられていた人たちがいたとする。その人たちの搾取構造の上にかつての平和が築かれていたとしたらどうか。虐げられていた人たちがレジスト的なアクションを起こした場合、過去の平和は否定され、新たな平和観を組み直さなければならなくなる。過去を再解釈し、現代に通じる一貫した思考を再編集しなければならなくなる。その「訂正可能性」をきちんと確保することが平和にとって不可欠だと東さんは指摘する。
平和を享受している人たちは、平和について思考停止になっているだろう。平和について考えなくていいくらい安泰だからだ。そして、考えない人たちは、知らぬ間に人々を虐げ、その人たちに害をなすだろう。そのため、被害者たちはめちゃくちゃ悩み、思考する。思考させられる。そして、「じつはあの時は平和ではなかった」と語りだす。この「じつは」という論理を使うのは、多くはやはり弱者であり、被害者である。それを無視して、無理やり過去からの思考の一貫性を保とうとしたら、それは平和ではなくなる。
この意味で、「平和は本質的に加害の可能性に結びついている」のである。
ぼくらは平和を語り続ける際に、常に「じつは平和ではなかった」と抗議され、訂正される可能性を考慮しなければならない。むしろこの訂正可能性に開かれることこそが平和の要件だと言える。
「戦後長いあいだ、平成初期のあたりまで、倭国は冷戦体制と経済成長に支えられて高水準の平和を達成していた。社会の隅々にまで『考えないこと』が広がっていた。しかしその果実を享受し消費社会を謳歌することができた人々は、じつのところ世代や性差や階級で限られていた。それゆえ、21世紀に入ると、さまざまな立場、特に若い世代から告発が相次いだ。いま昭和を振り返るとき、彼らの声を無視することは許されない。繰り返すが、平和ボケが平和ボケでいられることはとても貴重なことである。しかしそれは告発を無視してよいことを意味しないのだ」
また、そういった声を受容するには、ある種の忘却が必要である。「平和を維持するためには正義ではなく忘却が必要だ」というカール・シュミットの議論を引き合いにだして東さんは総括する。それこそ、過去を水に流す的な態度が必要な場面もあるだろう。
その際、ぼくらは再び過去を忘れるという仕方で考えることを止める方向に進む。
これが平和の定義の出発点である。
本書は「考えないことを考える」。「考えないこと」の価値を考える。そこから開始して平和観を構築していく。これが、説得的に平和を肉づけするのだから興味深い。
ぜひ、本書を読んで確認してみてほしい。
東浩紀@hazuma『平和と愚かさ』ゲンロン@genronedit December 12, 2025
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