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2025.12.09 00:00
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考察する若者たち
ほんとは届いた発売日に読みたかったんだけど、ジェンガのごとく積み重なった積読本の容積を減らすことを優先した結果
分厚い本から取り掛かり、つい新書は後回しになってしまい。
本の解説は上手な人がやってくれているので、それはお任せするとして、三宅香帆さんの本を一通り読んでいるものとして
点と点を繋ぎ合わせる力がほんとうにすごいと思います
東浩紀さんの言葉を引用したかと思えば、魚豊の漫画からセリフは切り取るし、ビジネス書も古典も縦横無尽に引っ張りだされてます
批判と考察
萌えと推し
ループから転生
自己啓発から陰謀論(ホリエモン 、ひろゆき)
やりがいから成長
メディアからプラットフォーム
ヒエラルキーから界隈
ググるからジピる
自分らしさからいきづらさ
という目次を見るだけで、何故そこが繋がったのか!?と、すごく読みたくなります
圧倒的なインプットの裏付けはもちろん、ご自身で書かれている、言語化技術をちゃんと生かされているんだろうけど
具体を抽象化させて、点をつなげる、というのが抜群に上手だなーと思います
その技術についても1冊書いてほしいし、お話聞いてみたいです December 12, 2025
新潮2026年1月号、東浩紀「書くことと壁」を読みました。東さん自身の過去への悔恨にあふれた「令和人文主義」をめぐる環境の総括。「ゼロ年代批評」の中心で哲学・評論を外へと開き続け、観客を入れ替え続けてきた試みを振り返りつつ、そこではコミュニケーションだけが肥大し、「書くこと」が、紙の書籍が衰退してしまった。いま書くことの場所はどこにあるのかを問います。
面白かったのが「批評っぽい文章」についての態度。ここでは「書くこと」と生成AIに後押しされた「批評っぽい文章」が区別されます。『訂正可能性の哲学』を参照するなら、「書くこと」には訂正可能性があるが、「批評っぽい文章」には訂正可能性がないと言い換えられるでしょうか。
似た問題意識として、てらまっとさんの「誰でも書ける!アニメ批評っぽい文章の書き方」があります。ここでは誰でも書ける=固有名のない批評のフォーマットをいささか露悪的に描きつつ、その営みのなかでのささやかな制作の楽しみを言祝ぎます。
この似たようで違う問題意識は、例えば『いま批評は存在できるのか』のなかの「「別の仕事をしつつ休日に批評を書き、ときどき文学フリマで同人誌を売るぐらいでも十分に批評家と言えるんじゃないですか」と言われたら、それはもちろん肯定するしかない。でも、そんなところに優秀な若いひとが集まってくるのかと問われれば、やはり来ないと思う。」という発言のなかにも現れているように思う。果たして批評は、人文は、週末の制作の楽しみだけでやっていけるのか。 December 12, 2025
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