明治時代 トレンド
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2025.12.11 19:00
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【 #ブラタモリ 川崎大師へ】
明治時代、川崎大師参詣を目的につくられた鉄道のおかげで、川崎の町は大きく発展していきます。
「初詣」の習慣と、鉄道の意外な関係&京浜急行大師線に乗ります。今回鉄分濃いめです。
13(土)夜7:30[総合]
▼見どころを読む▼
https://t.co/omGYNSgPED December 12, 2025
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最近はスピーディーになったとも言われるブラタモリですが、川崎大師(2回)は久々に大ネタです!😎
・江戸時代、徳川将軍の参拝をきっかけに、厄よけ人気が高まった→どこまで踏み込むか?翌日はべらぼう最終回
・川崎大師の名物と、鉄道の意外な関係とは?→関係者も知らない大ネタ
これは楽しみで夜も眠れません😎
《予告全文》
今回は、初詣の時期を前に、2週連続で「川崎大師」の秘密に迫ります。
厄よけで有名な、神奈川県の川崎大師。
お正月には、数多くの参拝客でにぎわう倭国有数の初詣スポットです。
江戸時代、徳川将軍の参拝をきっかけに、厄よけ人気が高まったって…一体どういうこと?
本堂から外に出ると、Uターンしている謎の参道…その驚きの理由とは!?
明治時代、川崎大師参詣を目的につくられた鉄道のおかげで、
川崎の町は大きく発展していきます。
お正月の「初詣」の習慣と、鉄道の意外な関係とは?
京浜急行大師線に乗って、終点へ。
昔の廃線跡にある鉄道部品の工場に、タモリさん大興奮!
さらに川崎大師の名物と、鉄道の意外な関係とは?
ぜひご覧ください! December 12, 2025
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福井県越前市のある団体が「ホツマツタヱ」を地域おこしに活用しようとして大炎上しているんですが、この問題を掘り下げると「倭国人の課題」が見えてきたのでシェアします。
そもそもホツマツタヱが何故「偽書」として扱われているのか?その理由をまとめると、
①ホツマツタヱの最古の写本が1775年(江戸時代)に確認されているが、それ以前のものは確認されていない→古事記の最古の写本は1371年
②漢字以前に作られたとされる「神代文字がなかった」という前提
③古代倭国には存在しなかった(とされる)言葉が一部混入している
そして、何よりもホツマツタヱ=偽書説を決定づけたのが、
④古代倭国は現在の「五母音」ではなく「八母音」だったはずなのに、ホツマツタヱは五母音で構成されている
こういった理由から、国文学者の佐佐木信綱が「これは偽書や!」と判断したわけですが、近年になってホツマツタヱを偽書として決定づけた「上代特殊仮名遣(八母音説)」自体が否定されてしまったんです(ここを説明すると長くなるのでご自身で調べてみてください)
なので、本物か偽物とか言い切る前に「もう一回再考する必要性がある書物」だと言えるわけです。
ちなみに、SNSでは「古事記=正史」という前提で議論されていることが多いですが、そもそも古事記は作られてから1000年ほど偽書として扱われてきました。
実は古事記の地位が上がったのは、本居宣長が作った「古事記伝」が発表されてからなんです。これはホツマツタヱが発見されてから10年後に制作され始めた書物なんですが、本居宣長は神代文字否定派で、弟子筋にあたる平田篤胤は神代文字の存在を主張していました。
つまり、古事記そのものが「後世に見直された結果、正史扱いされた」書物ってことですね。
結局、その当時の権力層が「これが正しい」と言ったものが正しいってことになるんですが(その後の明治時代以降の流れ的にも古事記はピッタリな書物だった)
何よりも僕がこの投稿で伝えたいことは、そろそろ「偽書か真書か」という二項対立自体を見直すべきじゃないかって話なんです(ここが冒頭の課題)
というのも、古事記も倭国書紀も複数の資料を編纂し、政治的意図のもとに取捨選択された「編集物」だからです。
そして、その過程で排除された伝承が、別のルートで伝わっていた可能性を最初から否定する理由はないはずです。
例えば、創建から1000年以上経つ神社の由緒の中には(有名なところだと廣田神社)、記紀ではなく、ホツマツタヱに書かれた内容と紐づくことが多くあります。そういった伝承は古事記や倭国書紀には書かれてないことがほとんどです。
それこそ、かつては伊勢神宮ですら祀ってた瀬織津姫の存在を完全スルーしている記紀に対し、ホツマツタヱはガッツリと記録してる(この内容も各地に残る神社の由緒と一致)
書物を個人の妄想だけで書いたというのは、よくある現代人の発想で、古代の歴史的資料のほとんどが各地の伝承を集めた「編纂物」であるという視点を持つと、もう少し倭国の歴史の可能性の幅が広がるかもしれませんね。
そうして見ていったら倭国の歴史はさらに深くて、ビックリするくらい面白くなるんですわ!ってことでこれからのTOLAND VLOGもよろしくお願いします🔥 December 12, 2025
#ニッポン放送『中村 中じみらじお』にゲスト出演してくださった眞島秀和さんが出演されている、こまつ座『#泣き虫なまいき石川啄木』観劇。
啄木を取り巻く家族や後援者たちは上演のほとんどの時間エネルギッシュで、いがみ合い、泣き、喚き、怒り、叫び、終始罵声が飛び交っているのだけど、一見エネルギッシュに見える暮らしのすぐ裏側にある貧しさが、呪いのように日に日に家族を蝕んでゆく地獄のような時間だった。
ほぼ間借りをしている2階部分だけで芝居が繰り広げられているのが、旅はもちろん、ちょっとした贅沢もなるべくせず、節約して過ごした啄木や母や妻が、あの部屋から遠くへは行けなかったという表現のように感じられた。妻の名前は節子。明治時代、「亡国病」と恐れられた結核が蔓延していて、貧困が命の危機に直結している時代にどんな願いを込めて節子と名付けられたのかを想像する。
“泣き虫““なまいき”とタイトルにはあるけれど啄木はたくましく見えた。現代では鬱病とされる症状に苛まれながらも、自らの傲りや弱さに気付いて改心し、歌や小説を書き続けていた。逃げる場所がなかったから逃げなかったのかも知れないし、もがいても貧しさに敵うわけがなかったのかも知れないけど、志は決して貧しくなかったように思う。
感銘を受けた台詞があって、是非劇場で体感して欲しいのだけど、“終わりが見える頃になってやっと人はするべき事が出来るようになる“という旨の台詞が余りにも鋭くて、自分に置きかえてブッ刺さりました。笑おうが泣き喚こうが変えられない事態に身を置く時、自分ならばそれでも抵抗したいと思った。
一瞬の「一握の砂」の表現や、口減らしの為に旅立つ父の荷物の表現、日記を読み終えた直後、他人が自分の大切な人達に見える表現など、随所に散りばめられたユーモアが後になってじわじわ優しく沁みてくる時間でした。観れて良かった。紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAにて12月21日(日)まで! December 12, 2025
明治時代の兵庫・姫路城
平成5年(1993)12月、姫路城は法隆寺、白神山地、屋久島とともに倭国初の世界遺産に登録されました。
#姫路城 #白鷺城 #城郭 #世界遺産登録日 #写真 #絵葉書 https://t.co/bg1GK6yKlz December 12, 2025
明治時代、江戸時代の人がわざわざ「ここまで津波が来ました」って、石碑を残してくれてるのに、利便性のために、それを無視して住んだのが東倭国大震災の悲劇を産んだ一面はあるので、過去に津波が来た場所に住むのは、やっぱりリスクを自覚しなきゃダメだと思うわ・・ https://t.co/0X38OZEL4v December 12, 2025
\ 1月 城子屋🏯 募集中 /
<残席わずか>
外国人が見た近代の名古屋城
https://t.co/Zfn8kLoEKR
今回のテーマは、外国人が見た近代の名古屋城
明治時代のはじめから終戦直前まで名古屋には多くの外国人が訪れました。
彼らは名古屋のどのような場所を訪れ、どのように見たのか。名古屋城と外国人の接点にも注目しながら、近代を中心に名古屋と外国人の関わりを紐解きます。
開催日時:01月12日(月) 10時00分 ~ 11時30分
先生:吉田達矢 / 名古屋学院大学 国際文化学部 准教授 December 12, 2025
彼は中学校を卒業した後、英語を学ぶために、福岡に行き長崎に行った。本吉家では彼を遠方に出すことを好まなかったのである。若い者は旅に出たがる、 老人はそれを出しともながる、それがそのころの一般のありさまであった。
(堺利彦伝 わたしの兄) #明治時代 December 12, 2025
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