明治時代 トレンド
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2025.12.09 00:00
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福井県越前市のある団体が「ホツマツタヱ」を地域おこしに活用しようとして大炎上しているんですが、この問題を掘り下げると「倭国人の課題」が見えてきたのでシェアします。
そもそもホツマツタヱが何故「偽書」として扱われているのか?その理由をまとめると、
①ホツマツタヱの最古の写本が1775年(江戸時代)に確認されているが、それ以前のものは確認されていない→古事記の最古の写本は1371年
②漢字以前に作られたとされる「神代文字がなかった」という前提
③古代倭国には存在しなかった(とされる)言葉が一部混入している
そして、何よりもホツマツタヱ=偽書説を決定づけたのが、
④古代倭国は現在の「五母音」ではなく「八母音」だったはずなのに、ホツマツタヱは五母音で構成されている
こういった理由から、国文学者の佐佐木信綱が「これは偽書や!」と判断したわけですが、近年になってホツマツタヱを偽書として決定づけた「上代特殊仮名遣(八母音説)」自体が否定されてしまったんです(ここを説明すると長くなるのでご自身で調べてみてください)
なので、本物か偽物とか言い切る前に「もう一回再考する必要性がある書物」だと言えるわけです。
ちなみに、SNSでは「古事記=正史」という前提で議論されていることが多いですが、そもそも古事記は作られてから1000年ほど偽書として扱われてきました。
実は古事記の地位が上がったのは、本居宣長が作った「古事記伝」が発表されてからなんです。これはホツマツタヱが発見されてから10年後に制作され始めた書物なんですが、本居宣長は神代文字否定派で、弟子筋にあたる平田篤胤は神代文字の存在を主張していました。
つまり、古事記そのものが「後世に見直された結果、正史扱いされた」書物ってことですね。
結局、その当時の権力層が「これが正しい」と言ったものが正しいってことになるんですが(その後の明治時代以降の流れ的にも古事記はピッタリな書物だった)
何よりも僕がこの投稿で伝えたいことは、そろそろ「偽書か真書か」という二項対立自体を見直すべきじゃないかって話なんです(ここが冒頭の課題)
というのも、古事記も倭国書紀も複数の資料を編纂し、政治的意図のもとに取捨選択された「編集物」だからです。
そして、その過程で排除された伝承が、別のルートで伝わっていた可能性を最初から否定する理由はないはずです。
例えば、創建から1000年以上経つ神社の由緒の中には(有名なところだと廣田神社)、記紀ではなく、ホツマツタヱに書かれた内容と紐づくことが多くあります。そういった伝承は古事記や倭国書紀には書かれてないことがほとんどです。
それこそ、かつては伊勢神宮ですら祀ってた瀬織津姫の存在を完全スルーしている記紀に対し、ホツマツタヱはガッツリと記録してる(この内容も各地に残る神社の由緒と一致)
書物を個人の妄想だけで書いたというのは、よくある現代人の発想で、古代の歴史的資料のほとんどが各地の伝承を集めた「編纂物」であるという視点を持つと、もう少し倭国の歴史の可能性の幅が広がるかもしれませんね。
そうして見ていったら倭国の歴史はさらに深くて、ビックリするくらい面白くなるんですわ!ってことでこれからのTOLAND VLOGもよろしくお願いします🔥 December 12, 2025
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「八紘一宇」について、その思想的な背景、戦時中の利用、そして戦後の扱いに至るまで、さらに詳しく深掘りします。
1. 思想的起源と田中智学
この言葉の出発点は、『倭国書紀』にある神武天皇の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」という詔(みことのり)です。これは「世界中を覆って一つの家のような社会を築こう」という、倭国建国の理想を示す言葉でした。
しかし、「八紘一宇」という四字熟語自体は、明治時代に日蓮主義の宗教家である田中智学の造語です。田中智学は、日蓮の教えに基づき、天皇を中心とした倭国の「国体」(国家体制や民族的な特質)こそが世界を平和に導く普遍的な原理であると考え、その理想を表現するためにこの言葉を作りました。
田中智学の当初の思想は、宗教的な信念に基づく「道徳的な世界統一」を目指すもので、必ずしも武力侵略を意図したものではありませんでした。
2. 戦時中の変質とスローガン化
田中智学が造語した「八紘一宇」が社会思想として広く利用されるようになったのは、大正時代以降、特に昭和期に入ってからです。
•軍国主義との結びつき: 当時の軍部は、この言葉を「神の国である倭国がアジア諸国を率いる」という意味に解釈し、倭国の海外進出や侵略戦争を正当化する大義名分として利用しました。
•「大東亜共栄圏」の標語: 「大東亜共栄圏」の建設というスローガンと結びつき、「倭国が盟主となってアジアを欧米列強の植民地支配から解放し、一つの家族のように共存共栄する」という名目で、広範な軍事行動が推進されました。
•国民精神の動員: 昭和15年(1940年)の紀元2600年記念事業などを通じて、この言葉は国家主義的な国民精神高揚の象徴となり、国民は戦争遂行に積極的に協力するようになりました。
当初の宗教的な理想は薄れ、武力による世界支配の象徴へと変質していったのです。
3. 戦後の禁止と現代の論争
終戦後、「八紘一宇」は歴史的評価が決定的に変わりました。
•GHQによる禁止: 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、国家神道や軍国主義、過激な国家主義を想起させるとして、公文書での使用を禁止しました。
•「平和の塔」への改称: 宮崎市にある「八紘一宇の塔」は、戦後「平和の塔」と改称され、東京オリンピックの聖火リレーの起点になるなど、平和の象徴として位置づけられました。
現在、倭国の主要な国語辞典では、「第二次大戦期、倭国の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と説明されています。
しかし、現代においても、この言葉の解釈を巡る議論は続いています。一部の保守的な論者や団体は、本来の「倭国建国の精神」や「人類普遍の道徳的原理」としての側面を強調し、戦前の解釈を否定的に捉える戦後の通説に異議を唱える見解も存在します。
「八紘一宇」は、一つの言葉が持つ意味が、時代の変遷や政治的な背景によっていかに大きく変化しうるかを示す、複雑で象徴的な事例と言えます。 December 12, 2025
1RP
政府は結婚前の旧姓使用を法制化する法案提出。
倭国は明治時代から「妻は夫と同氏、妾は彼氏(夫とは呼ばない)と別氏」と決めていましたが、福島瑞穂議員が「妾は別氏」を「妻は別氏」と30年前に改竄。デマが蔓延しています。 https://t.co/9VEnlyO6VL December 12, 2025
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「八紘一宇」について、その思想的な背景、戦時中の利用、そして戦後の扱いに至るまで、さらに詳しく深掘りします。
1. 思想的起源と田中智学
この言葉の出発点は、『倭国書紀』にある神武天皇の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」という詔(みことのり)です。これは「世界中を覆って一つの家のような社会を築こう」という、倭国建国の理想を示す言葉でした。
しかし、「八紘一宇」という四字熟語自体は、明治時代に日蓮主義の宗教家である田中智学の造語です。田中智学は、日蓮の教えに基づき、天皇を中心とした倭国の「国体」(国家体制や民族的な特質)こそが世界を平和に導く普遍的な原理であると考え、その理想を表現するためにこの言葉を作りました。
田中智学の当初の思想は、宗教的な信念に基づく「道徳的な世界統一」を目指すもので、必ずしも武力侵略を意図したものではありませんでした。
2. 戦時中の変質とスローガン化
田中智学が造語した「八紘一宇」が社会思想として広く利用されるようになったのは、大正時代以降、特に昭和期に入ってからです。
•軍国主義との結びつき: 当時の軍部は、この言葉を「神の国である倭国がアジア諸国を率いる」という意味に解釈し、倭国の海外進出や侵略戦争を正当化する大義名分として利用しました。
•「大東亜共栄圏」の標語: 「大東亜共栄圏」の建設というスローガンと結びつき、「倭国が盟主となってアジアを欧米列強の植民地支配から解放し、一つの家族のように共存共栄する」という名目で、広範な軍事行動が推進されました。
•国民精神の動員: 昭和15年(1940年)の紀元2600年記念事業などを通じて、この言葉は国家主義的な国民精神高揚の象徴となり、国民は戦争遂行に積極的に協力するようになりました。
当初の宗教的な理想は薄れ、武力による世界支配の象徴へと変質していったのです。
3. 戦後の禁止と現代の論争
終戦後、「八紘一宇」は歴史的評価が決定的に変わりました。
•GHQによる禁止: 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、国家神道や軍国主義、過激な国家主義を想起させるとして、公文書での使用を禁止しました。
•「平和の塔」への改称: 宮崎市にある「八紘一宇の塔」は、戦後「平和の塔」と改称され、東京オリンピックの聖火リレーの起点になるなど、平和の象徴として位置づけられました。
現在、倭国の主要な国語辞典では、「第二次大戦期、倭国の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と説明されています。
しかし、現代においても、この言葉の解釈を巡る議論は続いています。一部の保守的な論者や団体は、本来の「倭国建国の精神」や「人類普遍の道徳的原理」としての側面を強調し、戦前の解釈を否定的に捉える戦後の通説に異議を唱える見解も存在します。
「八紘一宇」は、一つの言葉が持つ意味が、時代の変遷や政治的な背景によっていかに大きく変化しうるかを示す、複雑で象徴的な事例と言えます。 December 12, 2025
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「八紘一宇」について、その思想的な背景、戦時中の利用、そして戦後の扱いに至るまで、さらに詳しく深掘りします。
1. 思想的起源と田中智学
この言葉の出発点は、『倭国書紀』にある神武天皇の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」という詔(みことのり)です。これは「世界中を覆って一つの家のような社会を築こう」という、倭国建国の理想を示す言葉でした。
しかし、「八紘一宇」という四字熟語自体は、明治時代に日蓮主義の宗教家である田中智学の造語です。田中智学は、日蓮の教えに基づき、天皇を中心とした倭国の「国体」(国家体制や民族的な特質)こそが世界を平和に導く普遍的な原理であると考え、その理想を表現するためにこの言葉を作りました。
田中智学の当初の思想は、宗教的な信念に基づく「道徳的な世界統一」を目指すもので、必ずしも武力侵略を意図したものではありませんでした。
2. 戦時中の変質とスローガン化
田中智学が造語した「八紘一宇」が社会思想として広く利用されるようになったのは、大正時代以降、特に昭和期に入ってからです。
•軍国主義との結びつき: 当時の軍部は、この言葉を「神の国である倭国がアジア諸国を率いる」という意味に解釈し、倭国の海外進出や侵略戦争を正当化する大義名分として利用しました。
•「大東亜共栄圏」の標語: 「大東亜共栄圏」の建設というスローガンと結びつき、「倭国が盟主となってアジアを欧米列強の植民地支配から解放し、一つの家族のように共存共栄する」という名目で、広範な軍事行動が推進されました。
•国民精神の動員: 昭和15年(1940年)の紀元2600年記念事業などを通じて、この言葉は国家主義的な国民精神高揚の象徴となり、国民は戦争遂行に積極的に協力するようになりました。
当初の宗教的な理想は薄れ、武力による世界支配の象徴へと変質していったのです。
3. 戦後の禁止と現代の論争
終戦後、「八紘一宇」は歴史的評価が決定的に変わりました。
•GHQによる禁止: 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、国家神道や軍国主義、過激な国家主義を想起させるとして、公文書での使用を禁止しました。
•「平和の塔」への改称: 宮崎市にある「八紘一宇の塔」は、戦後「平和の塔」と改称され、東京オリンピックの聖火リレーの起点になるなど、平和の象徴として位置づけられました。
現在、倭国の主要な国語辞典では、「第二次大戦期、倭国の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と説明されています。
しかし、現代においても、この言葉の解釈を巡る議論は続いています。一部の保守的な論者や団体は、本来の「倭国建国の精神」や「人類普遍の道徳的原理」としての側面を強調し、戦前の解釈を否定的に捉える戦後の通説に異議を唱える見解も存在します。
「八紘一宇」は、一つの言葉が持つ意味が、時代の変遷や政治的な背景によっていかに大きく変化しうるかを示す、複雑で象徴的な事例と言えます。 December 12, 2025
@yoshirin100 沖縄は海外にも長寿で知られた。1990年の琉球大学の調査では長寿者も牛乳を飲み、豆腐、青菜は他の地域より多い。労働は厳しく黒糖をよく食べた。昔は薩摩芋が主食だが明治時代から小麦の麺も食べた。植物油の油炒めもよく食べた。食べ過ぎた人が悪いだけで、食品を病気の原因とするのは間違い。 December 12, 2025
第11章3話更新しました!
ハンカチを噛むって表現、いつから生まれたんだろう。別にメッチャ知りたいって訳じゃないから調べようとも思わないけど、明治時代の文豪とかが生み出したのかな?
#小説投稿
#小説更新
#小説宣伝
#カクヨム
https://t.co/ZhLBnUp2U5 December 12, 2025
別府の観光発展は明治時代からの積み重ねで、米軍に空襲されなかったのも海外まで温泉観光地として知られてたからだけど。市民の知ってる歴史も知らんのかな。
市内の海外出身者がどれだけ地域に貢献してくれてるかも、逆に県外から流入した倭国人の反社が犯罪犯してるのも、市民は知ってんだけどさ。 https://t.co/aiHMFEJnt1 December 12, 2025
門田隆将、山上信吾『媚中』より。
倭国の知識人に染み付いている「汎アジア主義(Pan-Asianism)」。汎アジア主義とは明治時代に倭国人が感染した病気のようなもので、左翼がなぜ「親中」かの根っこでもある。
石破・岩屋もこれで、私もこの2人の外交を見て「(汎)アジア主義の亡霊が蘇ったか」とポストしたのを覚えてる人いるはず。 December 12, 2025
「八紘一宇」について、その思想的な背景、戦時中の利用、そして戦後の扱いに至るまで、さらに詳しく深掘りします。
1. 思想的起源と田中智学
この言葉の出発点は、『倭国書紀』にある神武天皇の「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」という詔(みことのり)です。これは「世界中を覆って一つの家のような社会を築こう」という、倭国建国の理想を示す言葉でした。
しかし、「八紘一宇」という四字熟語自体は、明治時代に日蓮主義の宗教家である田中智学の造語です。田中智学は、日蓮の教えに基づき、天皇を中心とした倭国の「国体」(国家体制や民族的な特質)こそが世界を平和に導く普遍的な原理であると考え、その理想を表現するためにこの言葉を作りました。
田中智学の当初の思想は、宗教的な信念に基づく「道徳的な世界統一」を目指すもので、必ずしも武力侵略を意図したものではありませんでした。
2. 戦時中の変質とスローガン化
田中智学が造語した「八紘一宇」が社会思想として広く利用されるようになったのは、大正時代以降、特に昭和期に入ってからです。
•軍国主義との結びつき: 当時の軍部は、この言葉を「神の国である倭国がアジア諸国を率いる」という意味に解釈し、倭国の海外進出や侵略戦争を正当化する大義名分として利用しました。
•「大東亜共栄圏」の標語: 「大東亜共栄圏」の建設というスローガンと結びつき、「倭国が盟主となってアジアを欧米列強の植民地支配から解放し、一つの家族のように共存共栄する」という名目で、広範な軍事行動が推進されました。
•国民精神の動員: 昭和15年(1940年)の紀元2600年記念事業などを通じて、この言葉は国家主義的な国民精神高揚の象徴となり、国民は戦争遂行に積極的に協力するようになりました。
当初の宗教的な理想は薄れ、武力による世界支配の象徴へと変質していったのです。
3. 戦後の禁止と現代の論争
終戦後、「八紘一宇」は歴史的評価が決定的に変わりました。
•GHQによる禁止: 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、国家神道や軍国主義、過激な国家主義を想起させるとして、公文書での使用を禁止しました。
•「平和の塔」への改称: 宮崎市にある「八紘一宇の塔」は、戦後「平和の塔」と改称され、東京オリンピックの聖火リレーの起点になるなど、平和の象徴として位置づけられました。
現在、倭国の主要な国語辞典では、「第二次大戦期、倭国の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」と説明されています。
しかし、現代においても、この言葉の解釈を巡る議論は続いています。一部の保守的な論者や団体は、本来の「倭国建国の精神」や「人類普遍の道徳的原理」としての側面を強調し、戦前の解釈を否定的に捉える戦後の通説に異議を唱える見解も存在します。
「八紘一宇」は、一つの言葉が持つ意味が、時代の変遷や政治的な背景によっていかに大きく変化しうるかを示す、複雑で象徴的な事例と言えます。 December 12, 2025
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