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倭国書紀
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2025.12.19 00:00
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◯百済は倭国の領土乃至属国であり、その王子豊璋らは倭国に人質として来ていた。彼らは勿論倭国語を話していた。
◯新羅の王族である「昔氏」の始祖も倭国から行った(『三国史記』(「新羅本紀(しんらほんぎ)」巻第一)。新羅の建国から仕えた重臣瓠公(ここう)も倭国からいった。
◯「倭は帯方の南に在り。東西は海を以て限りとなし、南は倭と接す。方は四千里ばかり。」(魏志韓伝)。つまり、朝鮮南部は倭国と認識されていた。
◯朝鮮の王族より巨大な前方後円墳が朝鮮南部に多数存在。調べれば、倭国人の墓である可能性が高い。だから、朝鮮は見つかると隠してしまう。
◯「大和朝廷は391年から404年までの間に百済新羅連合軍を撃破し大和の臣民とした」全てに同様の記載あり。
倭国→倭国書紀
中国→広開土王碑
朝鮮→三国史記
◯朝鮮には最近まで文字がなかった。倭国は美しい倭国語が発達していた(その起源は最低でも7000年前といわれる)。倭国人と百済新羅任那辺りの人々は意思疎通ができていた。倭国人が倭国語を喋って朝鮮語など話していた痕跡はゼロ。と、いうことは、朝鮮南部は倭国語を話していたことは確実と言ってよい。
◯遺伝子的に縄文人と古代朝鮮人は相同。つまり朝鮮人は残念ながら縄文人の子孫であり、倭国人の亜流。ただし660年頃以降、中国とモンゴルにやられ、その血が強くなった。 December 12, 2025
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彼らは縄文人の子孫です。そのことは最早遺伝子的に覆しようがありません。また、朝鮮半島南部は当時魏においても倭の領土と認識されていました「韓は帯方の南に在り。東西は海を以て限りとなし、南は倭と接す。方は四千里ばかり。」(魏志韓伝)。百済で話されていたのも倭国語です。当時朝鮮南部は倭国の領土だったのです。
「三国史記」や「倭国書紀」「好太王碑文」に二義を許さぬ程、明記してある。碑文には「(百済新羅を)臣下にした」とある。
だから彼らは倭国でもフツーに話せていた。北九州から出ていった倭国人たちです。
韓国は、「いや、倭国人が朝鮮語を話していたんだ!」と言い出すが、倭国に朝鮮語の痕跡など、ゼロ。なにせ朝鮮にもこの当時朝鮮語を話していた痕跡は私の知る限りない。少なくとも文字はない。
彼らは倭国語を話していたのです。倭国の使節ともフツーにはなしているのだ。 December 12, 2025
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カプセル兵団が年末に行う朗読劇の
【ホツマツタエ】とはなんぞや?
その11
『ホツマツタエ』とは、古事記には描かれなかった、倭国の歴史が記された古伝で、江戸時代に偽書とみなされたが、近年の調査でその判断理由の殆どが当てはまらなくなってきており真偽が分からなくなっている書物です。
古事記だと、土地名が漠然としていて
天津神の神様が住む高天原が九州(もしくは朝鮮等の外国)、国津神が住む出雲の国が島根県、オノゴロ島が淡路島、邇邇芸命が天孫降臨した場所が宮崎の高千穂、山幸彦が鹿児島あたり、神武天皇が宮崎から奈良、和歌山を通って大阪まで来た。
となっており、西倭国がメインの国で東倭国は未開の地かのように描かれている。
しかし、ホツマツタエでは色んな神様達が活躍して神上がり(崩御)した場所に、必ずと言っていい程その神様を祀る神社が建てられており、出てくる地名も今でもしっかりと残っていて全てが合っているのです。
そして時の神皇が宮を立てて政治をした場所が都となり、倭国中を移動しながら、各地に宮を立ててその地を治めて回った事が記されているのです。
そして何より、古事記や倭国書紀には全く出てこない【富士山】が蓬莱山として倭国の中心の様にハラミの宮が置かれて、橘を植えた高天原として描かれ、鹿児島から青森まで支配していた事が書かれ、地図まで作っていたとされています。
そんな知らなかった倭国の歴史を、声優たちの美声で楽しみながら勉強出来る朗読劇やります!!
12/26(金)〜29(月)
三鷹RI劇場
詳細、チケット予約はカプセル兵団ホームページから!
https://t.co/8teCXYC5T5 December 12, 2025
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