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2025.12.01〜(49週)
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毎日新聞の書評、今回は鈴木結生『携帯遺産』をとりあげております。作中には古今東西の文学作品が千紫万紅のごとく鏤められていますが、そのなかにひっそりと顔を覗かせていると思しきは……。
(書評抜粋)
大江健三郎の『キルプの軍団』は読むことについての小説である。ディケンズと、ドストエフスキーと、旧約聖書の「イサクとアブラハムの物語」が、高三男子の人生と、人生の「読み方」を変えていく。
主人公のオーちゃんはディケンズの『骨董屋』を読みこみ、叔父と意見を述べあうことで、ときに自らの生を組みなおし、逆に、実人生のエッセンスをもとに、小説や旧約聖書を幾度も解釈しなおす。これは鈴木の『携帯遺産』の構造そのものなのである。
今週の本棚:鴻巣友季子・評 『携帯遺産』=鈴木結生・著 | 毎日新聞 https://t.co/QLRaKcS247 December 12, 2025
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映画監督
伊丹十三の遺書
ワープロ文字🤣w
人生最後の遺書が
なぜ手書きでない🤣w
伊丹十三は
脚本家、随筆家でもある
ノーベル文学賞作家
大江健三郎は
伊丹十三の義理の弟
たぶん殺害したあと
誰かがワープロで遺書🤣w
. https://t.co/2N3qAJGd4R December 12, 2025
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文章の雰囲気、共通点あるかはわかりませんが、パッと思いつくところで、伊坂幸太郎、伊藤計劃、中村文則、佐藤究、小川哲、大江健三郎、ガルシア=マルケス、中上健次、『皇国の守護者』、『ドラキュラ紀元』辺りの温度感が好きですね
俯瞰してる感じや乾いた感じがある気がする December 12, 2025
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李恢成さんに最後にお会いしたのは、中沢さんに誘われて出席した大江健三郎さんのお別れ会(2023年9月13日)でした。https://t.co/i5oihNSf0z 李さんの『地上生活者』(6部)は1冊しか読めていません。 https://t.co/YXr7tXk41l December 12, 2025
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松本清張(1909-1992)が倭国共産党の強い支持者だったことは事実であり、それが彼が存命中に文化勲章を受章できなかった最大の理由だと、ほぼ確定的に言われています。以下にその背景と経緯を深掘りします。
1. 松本清張と倭国共産党の関係
•1950年代後半~1970年代にかけて、清張は倭国共産党の機関紙「アカハタ」(特に日曜版)に多数の評論・エッセイを寄稿。
•1962年には共産党の「民主主義文学論争」にも積極的に参加し、党の文化方針を擁護する立場を取った。
•1972年の総選挙では、共産党の公認候補(東京8区・山内功)を応援する街頭演説まで行っている(これは非常に珍しい事例)。
•本人は「清張通史」などの伝記でも、本人が「私は共産党に近い」と公言していたことが複数証言されている。
•ただし、正式な党員だったという証拠はなく、いわゆる「同伴者」(シンパ)という位置づけだった。
2. 文化勲章と「政治的タブー」
文化勲章は天皇陛下から直接授与される倭国最高の文化栄誉で、選考には文化庁→文部科学省→内閣府→宮内庁というルートを経るため、政府・宮内庁の意向が極めて強く働きます。
•清張は1970年代から何度も候補に挙がっていた(1976年、1980年、1985年など)。
•しかし毎回「政治的理由」で落とされたと、当時の文化庁関係者や選考委員が後年に証言している。
•特に宮内庁側が「共産党シンパに天皇から勲章を渡すのは問題」という強い拒否反応を示していたと言われる。
•同時代に文化勲章をもらった作家(川端康成、三島由紀夫、谷崎潤一郎、大江健三郎など)と比べ、清張の政治的スタンスだけが明確に左翼寄りだった。
3. 死後の急展開
•1992年8月4日、清張が82歳で死去。
•わずか3ヶ月後の1992年11月3日(文化の日)に、没後即座に文化勲章が決定・親族に授与された。
•これは異例のスピードで、明らかに「生前は政治的理由で渡せなかったが、死んだらもう問題ない」という判断だったことを示しています。
•当時の宮内庁長官・風岡典之が「存命中は難しかった」と周囲に漏らしていたという証言もある(『文藝春秋』1993年1月号など)。
4. 本人の反応と皮肉
清張自身は生前、文化勲章に強い未練はなかったと周囲に語っていたが、1970年代に週刊誌の取材でこう答えています。
「文化勲章なんて、もらっても着る背広がないよ(笑)」 (実際はかなり皮肉った言い方だった)
また、死の数年前には「もらえなくても別に構わない。私の小説が残ればそれでいい」と達観した発言も残しています。
結論
松本清張が存命中に文化勲章をもらえなかったのは、ほぼ100%「倭国共産党の強力な支持者・シンパだったこと」が原因です。
死後3ヶ月で勲章が出たという異例の経緯が、その「政治的タブー」の決定的証拠と言えます。
これは戦後倭国の文化史において、非常に象徴的な「赤狩りの残滓」のエピソードとして、今でもよく語り継がれています。 December 12, 2025
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富田ララフネ『Θの散歩』
Θが産まれてからしばらくはQも仕事を休んでいて、その間、Θに関することはすべてふたりで分け持っていたから、私も長い本を読む時間がいくらかあったし、長い文章を書く時間だってあったけれども、Θが三か月になり、Qは仕事に戻って、それからはほとんど一日中、私とΘはふたりきりで、本を読む時間もなくなった。もちろん本なんて読まなくてもいいのだが、本当は読みたい。
Θが昼寝でもしてくれればその合間に本を読めるはずだった。しかしΘは昼間、うちでは一切眠らず、眠る代わりにやがて泣き、散歩に連れ出さない限り、泣き止むことがなかった。Θはいくら泣いてもまだ涙は出ない。私は本を読む時間をなんとか捻出したかった。
それで絵本を読み聞かせる代わりに、大江健三郎『燃えあがる緑の木』の冒頭を読み聞かせた。特に理由もなかったが、Θが産まれて以降、私は大江健三郎ばかり読んでいた。
装画 大河原愛
デザイン 木庭貴信+岩元萌(OCTAVE)
https://t.co/V6QjoNhlZX December 12, 2025
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御守りの長い列に並びながら「Θの散歩」を読んでる。実家の父の本棚に大江健三郎の全集があったことを思い出しました。それから20代前半に友だちから「死者の奢り」の文庫本を貰ったのだけど、それは結局読まないままどっかにいってしまった。今が読むときなのかな December 12, 2025
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ふと、大江健三郎がノーベル文学賞を取ったときのことを思い出す。そこで氏は、これを機に自分の本がもっと多くの人に読まれればと語っていて、そこに自分は書き手の純粋さを感じたのだけれど、今にして思えば、そこの読むに込めた意味もまた物理的な問題ではなかったのかもな、と。 December 12, 2025
大江健三郎のエッセイを読みながら、自分の国語力の無さに落胆してしまった。どれもそんなに難しい表現じゃないはずなんだけど、ちょっと長めで込み入った一文になると、どうもしんどい。それでもせっかく最近染みるようになった作家なのだから読んでいきたいところで。 December 12, 2025
坂口安吾は、“何か”の紛い物に逃げる作家たちを激しく批判した。
倫理でも、道徳でも、イデオロギーでもない。
彼が求めた“何か”は、もっと深いところにある。
彼が『堕落論』で書いたように、
人間は「紛い物」に惑わされず、ただ“何か”を探し続けねばならない——。
大江健三郎は、初期には“社会の圧迫”を描き、
のちにはその圧迫そのものに対して“反撃”しようとする物語を書いた。
しかし彼自身が
「牧歌的な作家ではいられない」
「現実生活の研究に進む」
と言ったとき、安吾と大江の歩みは深いところで重なり始める。 December 12, 2025
本当にこれは悪口ではないのですが佐多稲子の小説は文章がメカニカルというか、エンタメっぽい機能的な文体なんだけど、とにかく話運びと描写がおもしろいんだよな、十五年前は『くれない』の色気の無さに数頁で放り出したのだが、大江健三郎が賞賛したのもうなずける、すごい作家だ December 12, 2025
@277_hiro こんばんは!
仰る通りですね。大江健三郎は批判者も多かった作家ですが、それでも自分が書くべきことを考え抜いて書き抜いた作家だと思います。
講談社文庫版!表紙も印象的ですね、、、!私はまだ持っていません、、、
はい、ここから、後に続く作品に繋がっていくと感じます。 December 12, 2025
精神的に、そこに帰依しているのだろうと思われます。
私は大江健三郎さんの作品を読んだことはありませんが、彼が生まれ育った四国の田舎と沖縄との間に何らかの共通点を見出したというなら、無理のない話だろうというのが私の率直な感想です。
#倭国人として December 12, 2025
@2018_apc ノーベル文学賞が喉から手が出るほど欲しいのだろうか?ノーベル文学賞は大江健三郎など(極)左に与えられる賞。村上春樹はノンポリのイメージが付いてしまっているから、ここから反体制的スタンスを取るには相当過激なことを言わなければならないのか… December 12, 2025
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