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労働組合
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2025.12.19 15:00
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@zundamotisuki 東京高裁で反社団体と認定された関西生コンのことを「すごいいい労働組合」と言っている時点で終わってます https://t.co/kHStsjeHw4 December 12, 2025
【今週の一冊:ハンナ・アーレント著『全体主義の起源3:全体主義』(1951)】
<まえがき>
◎われわれがいつもそうではないかと疑っていたが今でははっきりしたのは、この体制は決して「一枚岩的」ではなく、「諸機能を意図的に輻輳させ、重複させ、並置させた構造」を持っていること、このグロテスクなまでに無定形な構造はナチ・ドイツに見られるのと同じ指導者原理——いわゆる「個人崇拝」——によって維持されていること、この特殊な統治の執行部門は党ではなく警察であって、警察の「作戦行動は党機関の規制を受けていなかった」こと、この体制が幾百万となく殺したまったく無実の人々、ボリシェヴィキの用語では「客観的な敵」と呼ばれた人々は、自分たちが「犯罪なき犯罪者」であると知っていたこと、初めの頃の体制の敵——政府要人の暗殺者、放火犯、盗賊など——とは区別されるこの新しいカテゴリーこそ、ナチのテロルの犠牲者が示した行動のパターンからよく知られているのと同じ「完全な受動性」を示した人々であること、 などである。大粛清の間の「相互の密告の洪水」が、国の経済的・社会的繁栄にきわめて大きな災厄をもたらしたと同じ程度に、全体主義の支配者の強大化にとってはきわめて効果のあるものだったことは、以前から疑う余地のないことだったが、ただわれわれに今になってようやくはっきり分かったのは、スターリンがどれほどの周到さをもってこの「密告の不吉な連鎖を働かせる」ように仕向けたかということである。
★無定形な構造、個人崇拝、執行部門は党ではなく警察、犯罪なき犯罪者、完全な受動性、密告の洪水
<第10章:階級社会の崩壊>
p.3
◎一般には全体主義運動の性質を、特殊にはその指導者の名声の特質を最も特徴的に示しているのは、それらの運動や指導者が驚くほどすぐに忘れられ、驚くほど容易に他のものに取って代わられ得るこ とである。[…]彼の生存中は彼の魅力に捕われない者はひとりとしてなかったと言われながら、敗北と死の後には彼は完全に忘れられて、戦後ドイツのネオ・ファシストやネオ・ナチのグループにおいてさえ何らの役割も演じていない。[…]もし全体主義的な性格とかメンタリティとかいうものがあるとすれば、この融通無碍な転向の能力と連続性の欠如こそ、疑いもなくその最たる特徴だからである。
★全体主義の運動や指導者は驚くほどすぐに忘れられる
p.6
◎全体主義運動の参加者たちが外部の者や敵対者に加えられた犯罪に動揺を感じないのは、モッブのメンタリティを考えればいかにも自明のことである。だが決して自明だと言えないのは、犯罪の被害者が自分たちの運動のメンバーであってもやはり同じ犯罪讚美、あるいは少なくとも同じ冷淡さを示すこと、そしてついには、共産党の歴史に無数の例があるとおり、自分自身が犠牲者となった場合でも運動の信奉者は確信を揺るがされはしないことである。全文明世界がモスクワ裁判にあれほどの衝撃を受け混乱させられたのは、犠牲者が検察側のよき協力者としてあらわれ、「自白」の中で検事のでっちあげをさらに上塗りしていたからにほかならない。
★自分が犠牲者になっても確信は揺らがない
p.11
◎大衆は共通の利害で結ばれてはいないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する個別的な階級意識をまったく持たない。「大衆」という表現は、人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるかのために、人々がともに経験し、ともに管理する世界に対する共通の利害を基盤とする組織、すなわち政党、利益団体、地域の自治組織、労働組合、職業団体などにみずからを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。潜在的には大衆はすべての国、すべての時代に存在しており、たとえ高度の文明国であってもたいていは住民の多数を占めている。ただ彼らは通常の時代には政治的に中立の態度をとり、投票をせず政党に加入しないことで満足しているのである。
ファシズム運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の興隆に特徴的な点は、これらの運動が政治的にはまったく無関心だと思われていた大衆、他のすべての政党が馬鹿か無感覚で相手にならないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。
★全体主義運動では大衆からメンバーをかき集めた
p.12
◎全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、特にヨーロッパ的な政党制度の信奉者が後生大事にしていた二つの錯覚の終わりを意味した。その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心をもつ市民でもあり、全員がかならずいずれかの政党に組織されるというところまでは行かなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくともその政党によって自分も代表されていると感じている、という錯覚である。ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主政のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主政国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数派しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。全体主義運動が叩き潰した第二の錯覚は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性も持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり、民主政という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているにすぎず、民主政は明確な意志表示をする組織された公的諸機関に依存しているのとまったく同じに、意志表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。
★民主主義者の錯覚の終わり:①実際には少数者が支配している、②政治に非積極的な人たちが黙って我慢していることで成り立つ
p.21
◎階級構造の瓦解とともに、これまで各政党の背後に立っていた無関心な潜在的多数派は、絶望し憎悪を燃やす個人からなる組織されない無構造の大衆へと変容した。これら個人を結び合わせた唯一のものは、全員に共通の一つの洞察だった。すなわち、古きよき時代の再来を望む政党員の希望は満たされないだろうし、いずれにせよ自分たちがその再来を経験することはまずあるまい、それゆえ、これまで共同体を代表していた人々、最も明晰な発言力と最も多くの情報を持つ共同体員として尊敬されてきた人々は、本当は道化であって、本物の愚鈍さから、あるいは詐欺師らしい卑劣さから、他の者すべてを奈落の底に突き落とすべく既成の諸権力と手を結んでいた、と彼らは見たのである。
★今も同じ状況になりつつある…?
p.23
◎19世紀の初頭以来、多くのすぐれた歴史家や政治家が大衆時代の到来を予言してきた。前世紀の半ば以来、大衆心理学に関して厖大な書物があらわれ、民主政と独裁、モッブ支配と暴政の間の親近性についての、古代にはきわめてよく知られていた古い教えをありとあらゆる形で述べ立ててきた。疑いもなくヨーロッパの政治学者たちは、少なくともヤーコプ・ブルクハルトとニーチェ以後は、デマゴーグと軍事的独裁の台頭についても、迷信、軽信、愚行、残虐の跋扈についても準備ができていたはずである。これらの予言は今やすべて現実となった。しかしたいていの予言がそうであるように、それらは予言者が予期しなかった仕方で実現したのである。彼らがほとんど予見していなかったこと、もしくはその本来の結果について正しく見通せなかったことは、徹底した自己喪失というまったく意外なこの現象であり、自分自身の死や他人の個人的破滅に対して大衆が示したこのシニカルな、あるいは退屈しきった無関心さであり、そしてさらに、抽象的観念に対する彼らの意外な嗜好であり、何よりも軽蔑する常識と日常性から逃れるためだけに自分の人生を馬鹿げた概念の教える型にはめようとまでする、彼らのこの情熱的な傾倒であった。
★大衆時代到来の予言は的中したが、徹底した自己喪失という現象は予期できなかった
p.25
◎ヨーロッパの大衆は、すでにアトム化していた社会の解体によって成立した。この社会においては、個人間の競争とそこから生ずる見捨てられている状態の問題を一定の限度内に抑えていたものは、各個人は生まれると同時に一つの階級に属し、成功や失敗とは関わりなくその階級を故郷として終生そこに留まるという仕組だけだった。大衆社会の中の個人の主たる特徴は残酷さでも愚かさでも無教養でもなく、他人との繋がりの喪失と根無し草的性格である。人々がかつての出身階級における経験を拠りどころに新しい生活を築き得る程度に、国民国家の階級社会に記憶を通じて強く結びつけられていた間は、彼らはファナティシズムやショーヴィニズムの色の特別に濃いナショナリズムに迷い込んだ。まさにナショナリズムこそ、あらゆる階級対立を超えて国民を統一する接着剤だったからである。しかしまさにこの点において、彼らはいわば時代遅れだった。そのことを全体主義運動の指導者は非常によく知っていたから、このナショナリスティックな「旧弊」を考慮に入れて、初めのうちは重要な妥協をしたのである。大衆のナショナリスティックな感情をプロパガンダに利用したという点では、全体主義の指導者の態度は19世紀のデマゴーグの態度と変わらない。だがこの両者の違いは、前者は自分ではナショナリストではなく、またナショナリスティックなプロパガンダ路線を必要最低限以上に続けようとは思っていなかった点にある。
p.31
◎ヒトラーが崩壊しアトム化しつつある社会の中にまず一つの運動を起こすことによって全体的支配を準備したように、スターリンはまずそのような崩壊しアトム化した大衆をつくり出すことによって全体主義的な独裁を準備した。スターリンがこのためにとった方法は、インターナショナリズムの名において新しい少数民族を、階級なき社会の名においてソ連の新しい諸階級を絶滅したことだった。彼はまず、各民族の代表機関として機能していたソヴィエトがまだわずかながら持っていた権力と威信を清算することから始めた。
★アトム化、他人との繋がりの喪失、根無し草的性格
★階級社会の功罪
p.32
◎農民層の清算は戦争よりも革命よりも内戦よりも血なまぐさいものとなり、まことにロシア史の最も凄惨な章をなすことになった。[…]たった1年の間にウクライナだけでも、追放された人の数を含めないでも、なんと800万の人間の生命が失われたのである。30年代のはじめには農民層と中間層は「死滅」し、死者にも追放者にもならずに済んだ者は、国家権力に対抗し得るいかなる集団的連帯もいかなる手段も存在しないことを学んだのだった。自分の家族の生命も自分自身の運命も、市民としての仲間たちとは何らの関係も持たず、一人一人が絶対的な孤立無援の状態に置かれ、いかなるときにも権力の意のままに扱われ得る存在となったのである。革命の中で生まれた農民の階級意識は今やふたたび絶滅させられた。集団農場に追い込まれた絶望した個人の群の中では、誰が党の手先か分からないため、すべての人間は相互に不信の目を向け合い、この人々がふたたび集団としての意識を築き上げるまでには一世代以上もの時を必要としたのだった。
★凄絶な農民層の清算、アトム化
p.34
◎労働者階級の清算の過程は農民層の場合より緩慢に進み、それほどの血を見ることもなかった。それが終わったのは1938年、労働手帳が導入されたときである。労働者は労働手帳なしにはロシアでの労働も旅行も食糧購入もできなくなり、この手帳には職務上の活動に関する記録が詳細に記入されるのである。これによって全労働者は、一切の自由を剝奪された強制労働者の巨大な群に変えられてしまった。
★デジタルID…
p.37
◎◎暴君や独裁者は、臣民の平等、つまり階層間の差異をなくし、社会的・政治的なヒエラルヒーの確立を防ぐことが、彼らの支配の不可欠の前提であることをつねに知っていた。あるギリシャの暴君が自分の支配方法を麦畑に譬えて説明し、すべての麦の穂先を同じ高さに切り揃えると言ったという話が伝えられているが、これはすべての暴君や専制君主の知恵の最終的結論を示すものにほかならない。しかしこのような平等では全体的支配にとっては不充分である。なぜなら、この平等は臣民間の非政治的な関係をすべて考慮の外に置き、家族の繋がりとか共通の文化的関心などを放置しているからで ある。これでは人間を単に相互に切り離すだけで完全に見捨てられた状態におとしいれはしない。全体的支配はその目的を実際に達しようとするならば、「チェスのためにチェスをすることにももはやまったく中立性を認めない」ところまで行かねばならず、これとまったく同じに芸術のための芸術に終止符を打つことが絶対に必要である。全体主義の支配者にとっては、チェスも芸術もともにまったく同じ水準の活動である。双方の場合とも人間は一つの事柄に没入しきっており、まさにそれゆえに完全には支配し得ない状態にある。ヒムラーがSS隊員を新しい型の人間として定義して、いかなる場合でも「それ自体のために或る事柄を行なう」ことの絶対にない人間と言ったのは間違っていない。 チェスをする者はチェス盤によってもう一人の人間と繋がっており、チェス盤は対局者双方の共通世界の一部として、二人を敵味方に分けると同時に結合している。このような共通の世界が完全に破壊され、内部に何らの相互関係を持たない大衆社会、単に孤立しているばかりでなく、自分自身以外の何者にも頼れなくなった相互に異質な個人が同じ型にはめられて形成する大衆社会が成立したときはじめて、全体的支配はその全権力を揮って(ふるって)何ものにも阻まれずに自己を貫徹し得るようになる。全体的支配の観点から見れば、たとえばチェスのためのチェスにのみ関心を持つような道楽者の社会は、土地の耕作以外に関心のない農民に比べて危険と障害の程度がごくわずかに少ないというだけで、基本的な差はない。耕作のために耕作すること——これこそ全体主義的独裁の許し得ないところなのだ。チェスをする者がもはやチェスのためにチェスをするのではなくなったとき、チェス盤は共通の世界の一部としての性格をただちに失ってしまう。それは目的のための手段と化し、そしてこの手段は、恣意的に設定される変更可能な目的によっていつ何どき破壊されるかもしれぬ手段なのである。
階級や集団の清算に必ず先行して行なわれたロシアの粛清裁判は、無構造の「階級なき社会」だけでなくアトム化した大衆社会をも創出するという目的に奉仕している。このことは技術的には、告発がどの場合も個々の該当者だけでなく、彼の普通の人間関係に含まれるすべての人間、つまり家族、友人、仕事上の同僚、知人のすべてを巻き込むことによって達成される。"guilt by association”という原理は秩序ある法の裁きをたちまちにして破壊してしまうという理由だけからしても、この原理はあらゆる恣意的な暴力支配にとってきわめて好都合であることは充分に知られている。
★支配には臣民の平等が必要
★チェスのためにチェスをしない、いかなる場合でもそれ自体のために或る事柄を行わない
★孤立(孤独)ではなく、見捨てられた状態
p.39
◎誰かが告発されるや否や、彼の友人は一夜にして最も激烈で危険な彼の敵とならざるを得ない。彼の罪を密告し警察と検察側の調書にたっぷり中味を盛り込むことに協力することで、われとわが身の安全を守ることができるからである。一般に告発はありもしない犯罪について行なわれるのだから、間接証拠をでっち上げるためにはまさにこの友人たちが必要とされる。粛清の大波が荒れ狂っている間は人々が自分自身の信頼性を証明する手段はただ一つしかない。自分の友人を密告すること、これである。そしてこれは、全体的支配および全体主義運動の成員から見ればまことに正しい尺度であって、ここでは事実、友人を裏切る用意のある者のみが信頼に足る人間である。疑わしいのは、友情その他一切の人間的な紐帯なのだ。[…]およそ友人を持つほど危険なことはない、それも、友人との間に知らず知らずのうちに親密さが生まれてうっかり本心を洩らす危険があるからではなく、自分が危地に立ったときその自分を破滅させることに最大の関心を持つのは自分と最も親しく結ばれた人間にほかならないからである、と。
★友人を持つほど危険なことはない…
p.40
◎ロシア大衆社会のアトム化は、結局のところ、徹底的な、最後の最後まで一貫して遂行される警察的方法にのみ負うている。この方法は比較的平穏な時期にあっても一人一人の人間を救いのない見捨てられた状態の雰囲気で締めつける。このような雰囲気は、ときたま起こるだけの時間的に限られた破局によっては決して生み出され得ないものである。
全体主義運動はアトム化され孤立させられた個人の大衆組織であり、その成員からは他の政党や運動と比べると前代未聞の献身と「忠誠」を要求し、しかもそれを手に入れることができる。[…]運動は全人類を組織しようとしているというイデオロギーに基づく主張だけで完全に事足りる。なぜなら、この主張を真に受ければ誰しも、全面的な「忠誠」の要求を満たさなければ自分は将来の人類そのものから締め出されると考えるからである。[…]全面的な「忠誠」は運動が機能するための本質的な心理的基本条件の一つである。そしてこの「忠誠」もまた、絶対的孤立の中の個人、つまり家族、友人、朋輩、知人などとのいかなる繋がりも世界における確かな足場を保証してくれなくなった個人によってのみ果たされ得る。全体主義運動の成員にとっては、自分がおよそこの世界に存在し一つの場所を占めているのは、ひとえに自分が党に加わっているおかげであり、党が自分に与える任務のおかげなのである。
★アトム化した個人→忠誠
p.43
◎ファシズムの目標は実際には単に権力奪取と、一国の国家機構を握るファシストの「エリート」の確立でしかなかった。だが全体的支配は、外側から、つまり国家と暴力装置を通じて支配することだけでは決して満足しない。その特異なイデオロギーと、そのイデオロギーが暴力装置の中で担う役割との中に、全体的支配は人間を内側から支配しテロルを加える手段を発見したのである。この意味では、全体的支配は支配と被支配の間の区別を廃棄している。[…]全体主義の指導者は実際のところ、彼に指導される大衆の代表にすぎない。彼は臣民に対し恣意的な意志を暴君のように押しつける権力に飢えた個人ではない。代表としての彼はいつでも取り替えがきく。
★ファシズムと全体主義の違い
p.48
◎◎1914年、エリートたちは自分たちが馴染んできた全世界と全文明が「鋼鉄の嵐」(エルンスト・ユンガー)の中で崩れ去るのを期待して、欣喜雀躍、戦争に赴いた。彼らの詩は、トーマス・マンがいちはやく指摘したように、祖国の勝利ではなく「浄化者」「救済者」そのものである戦争を謳っていた。「がらくた文化」からの解放こそ彼らの願いだった。この15年ほど後にナチのある党員が「文化という言葉を聞くだけで俺は銃を構える」と宣言したのは、前線世代が出陣のときにすでに抱いていたのと同じ気分を彼なりに表現しただけのことである。
戦前の時代と、その時代を復興しようとするその後の一切の試みとに対するこの凄まじいまでの嫌悪[…]を、単にニヒリズムの爆発とかたづけてしまうのは間違っている。このことは、戦前の上流社会が実際はどんなだったかを考えれば――新たな破局に直面した今日の人々はこの社会を好んで理想的に描いているが――納得がゆくはずである。だがもちろん前線世代は、彼らがみずから精神的父祖として選んだ人々とは明確に異なり、人為的な安泰と、見せかけだけの文化と、看板だけに成り下がった「価値」のこの偽りの世界全体が廃墟と化すのを見たいという切望以外には、ほとんど何の願いも抱いていなかった。[…][徹底的な破壊と混沌と廃墟そのものが、最高の価値の座についたのである。」
彼らの純粋さについては疑う余地はない。この世代のうち、戦争の経験によって戦争への熱狂を醒まされた者は比較的少数でしかなかったという事実がそれを示している。塹壕の生き残りは平和主義者にはならずに、自分たちの経験にしがみついていた。その経験が彼らを周囲の憎むべき確固とした体面の世界から決定的に解放してくれるだろうと期待したからだった。政治的に言えば、彼らは塹壕の四年間の経験の有無が新しい指導者層の形成の客観的な選別基準となることを望んだのである。その際、彼らは過去を理想化しようとする誘惑には屈しなかった。彼らは、機械化時代の戦争が勇気、名誉、男らしさといった騎士道的な美徳を生み得ないこと、そしてそれは絶対的な破壊の経験を与えてくれるほかには、せいぜいのところ人間の慢心を打ち砕いて、人間など巨大な大量殺戮機械の一つの小さな歯車にすぎないことを教えてくれるだけだ、ということを認めた最初の戦争讃美者だった。
★がらくた文化からの解放を望み、戦争は全てを破壊してくれると讃美する
p.50
◎◎大衆化した人間に特有の没我性は、この人々にあっては匿名性への憧れ、純粋な一機能としての歯車になること、いわゆる〈より大なる全体〉に没入することへの憧れとしてあらわれていた——ということはつまり、自分の偽りのアイデンティティを自分が社会の中で演ずべき役割や、与えられた機能とともに消してしまうことに役立つような変化ならば、どんな変化でもいいというのである。戦争は、そこでは個人間の一切の差異が消え失せる最も壮大な大衆行動として経験されたため、今や苦しみすら——伝統的には苦しみとは、各個人を他とは異なった交換のきかない運命が襲うことによって、人間を相互に区別するものであったのだが——「集団的苦しみ」として「歴史進歩の手段」とされてしまった。
★大衆化した人間の没我性、戦争は個人間の差異をなくす
★★苦しみは個々人を区別するものだったが、集団的苦しみになってしまった December 12, 2025
@kitamuraharuo 労働者の処遇や生活改善に取組むべき労働組合が、夫婦別姓に執拗な拘りを見せ家庭内夫婦間制度へ過剰な思想介入を図る事は、プライバシーへの過度な介入や団体による教唆としか感じません
婚姻後の同氏制は、民法第750条および戸籍法第75条においても憲法第24条の法精神に照らし合憲と最高裁判決済み https://t.co/Hh61Zc7SiC December 12, 2025
韓国全国鉄道労働組合が23日午前9時から無期限全面ストライキ突入を表明⚠️
今月11日に一度暫定合意に至りましたが、政府が約束を履行していないとして再びストを予告👀
KTXやITXの運行に支障をきたす場合があるため、旅行者は要注意⚡️
※ソウル地下鉄(ソウル交通公社労働組合)とは無関係です December 12, 2025
しごおわファイブちゃん🎀
今日から本採用なので資料の記入と労働組合の説明を受けて終わり
毎回20時間近い拘束時間だからものすごく短く感じた、終電過ぎの真夜中にいつも帰ってるからなぁ...(営業所まで自転車通勤) https://t.co/aJRGeBbb68 December 12, 2025
あ、最近テレビを見出したけど、テレビを切ることが増えてきたね😚😚
どうせスポンサーのご機嫌取りなんだろうかな🤣🤣
野党コメントに耳を貸す気もないね
支持政党もないし、支持宗派も違うし、労働組合にも入れないからね🤣🤣
寂しい倭国人なのかもね December 12, 2025
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