公共性 トレンド
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2025.12.17 19:00
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伊藤さんの映画が被害者的であるとかジャーナリスト的であるとか、そんなラベルを云々する必要はまったくないと思うし、個人的すぎて公共性がないとかに至ってはいったい何を言っているんだというしかない。個人的なことは政治的なことである、という言葉を思い出すべき。 December 12, 2025
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不便なら都会来ればいいし、都会来ないなら地方交付税交付金国庫支出金、公共性の高い企業がやってるボランティア赤字全部断ってほしい。地方から上京してきた若者のバイト代はその若者のためにあるべきで、なんにも行動せずにグチグチ言ってるだけの田舎の人間がたかんないでほしい。 December 12, 2025
公共性がどうとか冷たいとか理屈こねてないで、好きなものに2000円ぽっち払えるやろ。1試合2000円とかでもなく、月額よ?どんだけ金ないのよこいつら。 https://t.co/TIUJkjY8mP December 12, 2025
WBCは、野球の世界一を決めるという公共性こそが大会の権威とブランド価値の源泉だ。Netflix独占配信は、その価値を棄損し、WBCやMLBをNetflixへコンテンツを提供するだけの下請け業者へと貶める。五輪やW杯で同じことをしたら、どうなるかは明白だ。 https://t.co/8jVHfXhpax December 12, 2025
#プロボノ 3・4話
公共性の高い案件だからこそどうしても結末はファンタジーになってしまうのは避けられないけれど、ドラマだからこそ誰かを救って欲しいという気持ちもある。救うのは子供だけでなく親である母だという観点もよかったな。せめてドラマでは奇跡を信じたい。 https://t.co/U1T5siGgxq December 12, 2025
伊藤詩織さんの映画は、被害者らしい被害者像がすごく描かれている映画だと思いました。詩織さんが自分をどう描きたいかがよく伝わってくる映画だというのが感想です。
ケアされないままでいる、誰もケアしてくれない社会の中で、みんなが敵に思えて、自分を認めて欲しいと思っている。暴力にさらされ
た人がそう思うようになっていくことはよくあることで、当然ともいえる反応で、修正前の映像ではよりそれを感じました。
事実がどこにあったかではなく、自分がどう思ったかを描いた「日記」なんだ、と。
この映画が公共性のあるものだとは思いません。
映画では許可されていない映像や事実を歪曲して捉えられかねない表現があり、人権侵害が元弁護団から指摘されてきました。
そこに詩織さんが向き合わないまま、初日のアフタートークでは、元弁護団から事実に基づかない発信がなされているとか、話し合いを拒否されたと主張していることは驚きました。
実際には元弁護団から、映画の修正や海外で継続されている無修正版について度々説明を求められていたのを無視して、公開まで返答しなかったからです。
映画を見て、被害を訴える側が声をあげることで攻撃される、あなたは悪くないと誰も言ってくれない、そういう社会に対する絶望感が、ああいう表現を詩織さんにさせているんだと思いました。特に、修正前のバージョンではそれを感じました。
許可されていない人の顔や発言を、準備の上隠し撮りされたものを、いくつも自分のために利用していたからです。
詩織さんは映画では、ジャーナリストとしてこれを公表すると語っていました。しかし、初日のトークイベントでは、これは映画監督として作ったのでジャーナリズムとは違うと言っていました。話を変えています。
それなのに、映画に「公共性がある」とも言っていてめちゃくちゃなのですが、ジャーナリストとして、監督として、被害当事者として、どの立場から映画を作ったとしても、他の誰かの人権を傷つけたり、その指摘に誠実に向き合わなくていいということにはならないです。
元弁護団からの質問に答えないまま倭国公開に踏み切ったこと、また海外では無修正版を流し続けていることは問題であり、残念です。
詩織さんは指摘されている問題、自身の加害者性に向き合う必要があるし、周りの人はそこから目を背けることではなく、向き合うことをサポートするべきで、それが真の人間関係だと思います。
自分のすべてをいいねと言ってくれる人しか周りに置きたくないという時期があることも理解しますが、
私は、出会う少女たちが、もし同じことをしていたら、もし人を尊重しないことがあれば、相手が性暴力の被害者であっても、未成年の少女たちであっても指摘します。
でも今は、それに向き合える状態ではないのだろうと思いました。自分のしたことから目を背けると決めたのだとトークイベントを見て思いました。向き合うためには、社会や他者や自分への信頼や安心感など、そのために必要なものがないと難しいため、仕方ないのかもしれません。
そういう状態の当事者を、十分なケアがないままこれまで、これだけ前に出してもてはやしてきた、ヒロインとして、ジャーナリストとして盛り立ててきたメディアと社会の責任もあると思います。
映画の中でも、「当事者に無理をさせたくない」、頑張らせないようにしたいという、他の国の支援者の発言が取り上げられていました。
詩織さん自身も語っているように、自分はジャーナリストだと思うことで、そこに救いを求めるようにして、自分に向き合わないようにしていたといいます。それが今も続いているのだと思います。
私は、この映画に公益性があるとは思いません。詩織さんが、「自分が救われたかったから作った」と言えたらいいのに、と思いました。
だからと言って誰かの人権を踏み躙っていいわけではないけれど、自分のためにやったんだと言えばいい。その上で責任を取ればいいのに、これをジャーナリズムだと言ったり、いち被害者としてと言い換えたり、映画監督として作ったなどと、都合よく話を変えていくのは本人のためにもならないと思います。
自分のことをわかってほしかった、公共のためでなく自分のためだった、それを言えた時に、また自分の傷や状態と向き合って回復の一歩を踏み出せると思うのです。それを言わせない社会の持ち上げ方にも、問題があると思います。
社会の求める理想の被害者像やヒロイン像が、彼女を自分に向き合えなくさせていると思います。
そこに被害当事者がすがらなくても良いように、それだけのサポートがある社会にしなければと思っています。
望月さんの番組では、もう少し詳しく話しています。 December 12, 2025
伊藤詩織さんの映画には公共性がないと断言したり、もともとの人間性に関わることなのだと思いましたと言ったり。
境界線を踏み越えてませんか?
伊藤詩織さんに投影されてるモノと向き合えると良いですね。 https://t.co/jtGLkFFWkr December 12, 2025
はい、だから今になって、フェミニストを自認する人達が伊藤詩織さんの映画は個人の日記であり、ジャーナリズムではない、公共性のある映画ではない、と言い出しているのが、とても奇妙に映ります。
「個人的なことは政治的なこと」は、人権を考える上で核になる考え方であるはず。 https://t.co/Tt2iF3zKnH December 12, 2025
面白判決
公共性認められるんだと思って松尾先生の名誉毀損本を確認したら、しっかり書いてあった。それにしてもこの収録裁判例の数の多さよ。 https://t.co/SArIccZZQi https://t.co/5uQRfR0lfK December 12, 2025
「事実がどこにあったかではなく、自分がどう思ったかを描いた「日記」なんだ、と。 この映画が公共性のあるものだとは思いません。」
仁藤氏のこの評価はほんとに正しいのだろうか?
これだと、世間の一般大衆が見るべき映画ではないと言ってるに等しいのではないか?
私は見るべき作品だと思うが。 https://t.co/HXgwpjxVAy December 12, 2025
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