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アルゼンチン
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2025.11.27 15:00
:0% :0% (30代/男性)
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「サッカーで応援するクラブは基本的に1つと言う暗黙のルールがある」についてまあまあ否定的な意見をいただいたので改めて調べてみたんですけど、世界的に見てそうで間違いないだろうと言うことになりました。
一番強烈なのはアルゼンチンの
Hincha de dos camisetas
「二つのチームのユニフォームを着るサポーター」
侮辱語で
・非常にネガティブな意味
・忠誠心の欠如
・サッカーでは、サポーターが一つのクラブを熱烈に応援することが美徳
・二つ以上のクラブを応援することは「裏切り」や「本物のファンではない」
とボロカス言われてましたね😂
英国 イタリア ドイツ フランス ブラジル アルゼンチンで兼任サポは少数派でネガティブに受け取られているって感じでした。ただ、今住んでる地域のクラブと出身地域のクラブ兼任はある程度セーフ(試合の日以外は)みたいな傾向がどこの国でも見受けられました。
やや寛容なのがスペイン。地元スモールクラブを応援しながら、レアル バルサのようなビッグクラブに肩入れする人が一定数いるようです。ドイツでもCLELの時はドイツ勢を応援みたいなのはあるみたいです。
倭国は他の国と比べると兼任サポへの風当たりは弱いようで、その辺がリプにも現れていたのかもしれません。倭国の兼任サポへ風当たりが弱い理由としては上記7カ国がそれぞれ100年以上歴史のあるクラブが多いのに対し、倭国は30~40年程度と歴史が浅く、地元や出身地域に新たなクラブが誕生することが多いからかもしれません。存在しないものは応援できないので、後から地元や出身地域にクラブができたなら仕方ないみたいな感じなんだと思います。 November 11, 2025
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復習は楽しい。
スペイン語がある程度できるようになったらお金を稼いでアルゼンチン🇦🇷までリーベルプレートの試合を観に行こうと思う。
危険らしいけど無問題🤩 https://t.co/a4FnMsTLWT November 11, 2025
#スペイン語 の課題「スペイン語圏に関することを3000字以上書いて提出」を3800字程度で終わらせ、明日提出する予定。去年は2000字以上だったが結局3800字くらい書いたことを思い出す。ちなみに、去年のテーマは「2017年末のアルゼンチンとウルグアイ旅行記」で、今年のテーマは「グァダルペの聖母」 November 11, 2025
はい、世界的にアメリカが銃所持で怖い国というイメージは存在します。VICEの国際調査では、英国、オランダ、スペイン、アルゼンチンなどで「パラノイア的」「危険」との意見が多く、銃乱射事件の報道が影響。CFRデータでも米国の銃死亡率が高いため、他国から異質視されます。一方、保護目的を認める声も。 November 11, 2025
拡散希望!
minoubooksさんと本屋アルゼンチン、ちょっとだけ対談する機会に恵まれました!全くお酒は飲めないのですが、楽しみます!山とスナックという場所です。
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ディエゴの命日ということで
なぜバルセロナからナポリへ移籍したのか?
今で言えばステップダウンとも言える選択をマラドーナがせざるを得なかった背景をさまざまなトピックから抜粋してご紹介します。
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1983年9月24日、ゴイコエチェアに足首をへし折られたとき、
マドリードの新聞は「野蛮人は野蛮人のままだった」と書いた。
B型肝炎で倒れたときには「南米の汚い病気をヨーロッパに持ち込んだ」と中傷された。
まるでスペインは「清浄な宗主国」、アルゼンチンは永遠に「不潔な旧植民地」であるかのように。1984年6月、国王杯決勝の大乱闘。
マラドーナはもう我慢の限界だった。
ビルバオの選手が「¡Sudaca!」と叫びながら挑発し続けた瞬間、
彼は蹴り、殴り、肘を入れた。
スペイン中が「やっぱり南米人は野蛮だ」と怒ったとき、
マラドーナは静かに決意していた。
「もうここにはいられない」
そして1984年7月、ナポリへの移籍が決まった。
当時のナポリ会長コッラード・フェルライーノはこう語ったという。
「ディエゴは電話で泣いていた。
『スペインでは俺は人間扱いされない。ナポリに来させてくれ』って」
バルセロナのクラブ首脳は「金が欲しくてナポリに行った」と説明したが、
それは嘘だった。
マラドーナが受け取った移籍金は、当時の世界記録だったが、
彼が本当に欲しかったのは「人間として扱ってくれる場所」だった。当時のナポリは貧しい南イタリアの街だった。
スペインに支配された過去はあるが、少なくとも「支配した側」ではなかった。
ナポリの人々はマラドーナを見て言った。
「お前は俺たちと同じだ。北(宗主国側)に馬鹿にされてるんだろ?」
1984年7月5日、ナポリのサン・パオロ競技場に7万人が集まった。
マラドーナがマイクを握って言った一言は、スペインへの決別の言葉だった。「ブオナセーラ、ナポリターニ!
俺はもうスペインの植民地じゃない」それが、彼がスペインに完全に嫌気を差してナポリを選んだ、本当の理由だった。スペインは天才を買った。
ナポリはディエゴ・マラドーナという「人間」を迎えた。だからこそ、彼はナポリで「神」になれた。
宗主国に跪かず、旧植民地の誇りを胸に、
スペインに復讐するようにスクデットを2度も掲げた。ディエゴは最後まで「ヨーロッパ人」になれなかった。
だからこそ、彼は永遠に「マラドーナ」になった。
宗主国が決して許さなかった、唯一無二の反逆者として。
マラドーナがバルセロナで浴びた“言葉の暴力”――
スペインは、かつての植民地の子を「裏庭の天才」としてしか見られなかった1982年夏、22歳のディエゴ・マラドーナは史上最高額でバルセロナにやってきた。
スペイン人にとって、彼は「我々が300年前に征服した土地から、奇跡的に出てきた天才」にすぎなかった。同じスペイン語を話す。
同じカトリックを信仰する。
顔も白人に見える。
それでも、彼は決して「我々と同等」ではなかった。
なぜなら、スペインの深層心理にはまだ「宗主国意識」がこびりついていたからだ。
試合のたびにスタンドから降り注いだ言葉は、決して「外国人選手への罵倒」ではなかった。
それは植民地時代から続く階層意識そのものだった。
「¡Sudaca de mierda!」――南米のクソ野郎
「¡Indio!」――土人
「¡Mono!」――猿
「¡Volve a la villa, negro!」――スラムに帰れ、黒んぼ
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約半世紀前の出来事ですが、今でもヴィニシウスに対してこのような南米人に対しての野次がスタンドから投げかけられていることに心が痛みます。 November 11, 2025
@Vpapasantuttiya @hu_40 ヨーロッパサッカーの青田買いですな。
アルゼンチンへの皮肉で
主要な輸出品目
1位:牛肉
2位:大豆
3位:サッカー選手
と言うのがあった😳 November 11, 2025
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