うつ病 トレンド
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2025.12.10 10:00
:0% :0% (30代/男性)
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渋谷区のこの施策、8年以上を現地でゴミ拾いしてゴミだらけの街を見続け、一時期は区の内政や癒着企業の実態(一時期働いてた)を見てきた身とすると結論として
『パッと見では真っ当な主張に見せながら、区長周りがまた上手く責任転嫁したな』
と思ってます。
長くなりますが如何に綴ります。
最初に言っておくと「店舗に責任が無い」と言いたいのではなく、『区(主に区長周りの官民派閥)が一切支援をせずに殆どの責任を店舗側に押し付ける主張をしている』ことに対する批判です。
批判のポイントは大きく2つ
①問題ありきのビジネスにはメチャクチャ積極的
②問題が起きない仕組み作りはメチャクチャ消極的
①について
渋谷区のポイ捨て惨状が「これは倭国か!?」と思う状態なのは何となく知ってる人もいますが、区はSDGsや環境美化のイベント開催やPRや癒着企業による対処に年間に億なんて安いレベルの巨額を投じています。
予算を見ても「何でこれにそんな額が出るの!?」と思うやり過ぎな投資であったり、問題ありきで仕事を回せる事業者には相場以上の金額を渡しています。
SDGsブームを追い風に「効果的な事業による問題解決」より『問題に取り組んでる姿勢』による利益循環が渋谷区や区長周りの癒着企業ではお馴染みになっています。
②について
区の問題ありきのビジネススタイルは区長の大手広告代理店とのパイプや税金無駄遣いにも程がある巨額の広告費で美談しか大きく報道されませんが、区政内の議員には「そんなのより問題の根本解決」を願う人も多く、区長にも問題が起きない施策を提案しています。
そこで区長側が主張したのは「ゴミの持ち帰りの推奨」です。これまた多額の予算でPR。
実際にそれができたら理想ですが区議会でも指摘されてるように「限界がある」です。
区議会では当然批判もありますし、渋谷駅周辺の「公共のゴミ箱設置」を求める声もあります。
しかし区長は「それぞれが責任を持つべき」という主張で区は責任を負う姿勢や支援は皆無。
それでいながら問題が起きれば①のような取り組みはメチャクチャ積極的に行うわけです。
今回の店舗側へのゴミ箱設置の義務化も同じ構図。
持ち帰り同様に主張自体は真っ当に見えますが、責任だけ押し付けて何も支援しないのは暴論です。
ゴミ問題がこれだけ収拾がつかなくなってきてるのは区が問題ありきのビジネスにお熱で問題解決を放置し続けた責任もあります。
実際、コンビニやテイクアウト飲食店のゴミを店内で消費するケースより店外で消費する方が明らかに多い。その点で言えば、この世の全てのゴミはどこかの店や業者から排出されるものです。
もちろん店側にも責任はある。しかし地域の土台を支える行政も同様に考え動く事案。
公共ゴミ箱もある程度の設置が必要だし、店舗側へのゴミ箱義務化も「店舗に責任を押し付けるだけはなく、区も支援など協力する姿勢を示すべき」と訴える議員もいます。
しかし区長は公共ゴミ箱も支援も「その予定はありません」の一点張りです。
これだけ問題を起こさないことには還元しないのに、問題が起きた際のビジネスにはどんだけ使うんだ?という話ですね。
何でこうなるのかというと、
これだけ問題ありきの事業やPRを常態化したら『問題が止まればビジネスも止まる』ということ。
上記①に書いた取り組みは一見華やかでも問題解決には殆ど効果を成していません。
ポイ捨てや落書きへの対処事業も再発が毎日のように起こるのでイタチごっこです。
ずっと渋谷区の街を見てる私からすると「寧ろ悪化してないか?」とすら思います。
渋谷区全体で見たら、数十億に及ぶ事業費を無駄に献上してるとこもあり、殆どが『法的には事業委託だがやってることはほぼ賄賂』みたいな構図があり、それで固定の支持があれば得する政治家もいる。
最近はフローレンス事件が話題になってますが、明らかにおかしい金の使い道やヤバい事業は数知れず。
私は20代半ばにたまたま一労働者として関わった事業はその恩恵をモロに受けてる企業であり、表では正義の味方を気取りながら裏では「億の助成金ヤッホー」であり呑み会に呼ばれては2時間その話や自慢話を聞かされてました。
そんなマトモじゃない事業コミュニティはパワハラなんかも珍しくなく、私は鬱病を発症して4年ほど前に去っています(というかパワハラ隠蔽のために追い出された)。
最後に渋谷区の店舗内にはほぼゴミ箱は配置されており、公共ゴミ箱の配置や罰則強化に力を入れなければ、ゴミ問題は問題ありきのビジネススタイルも含めてほぼ変わらないでしょう。
今回の条例改正の目的は
『店舗側に責任の大半がある』
という主張の拡散。
例にも漏れず、今施策も“全国初”という点を強調しながら広告屋を動かしたと思われる報道のされ方。
最初は観光客、次は店舗。
区は今後も責任の一端すら負うことは最後の最後まで避けるでしょう。 December 12, 2025
80RP
僕が鬱病になってわかったこと。
出来れば、すべて読んでください。
SNSで活動してきたから、とにかくみんなに伝えることに意味がある。
って思って文章にします。
もし近くで苦しんでいる人がいたら、
ただ、甘えてる奴だなんて思わず、力になってあげてください。
なぜ僕がそうなったかは、多層的に重なった出来事がきっかけでした。
深くは伏せますが、
・度重なるペットの死
・仕事(音楽制作)という自分のアイデンティティの崩壊
・友人の死。
・大切に思った人からの度重なる裏切り行為と、暴行と暴言
でした。
今は自分の周りで起きた出来事も感情も文章にし、意味を付けて、
自分の中ですべて納得しています。
※詮索などの返信、投稿などは控えてください。
それなのに、急に泣き出したり、無感情になったり、突然出来なかった分の仕事を取り返そうと頑張ったり。
急な吐き気で全部吐いてしまったり、
ただただ苦しくてうずくまることしか出来なくなったり。
急に涙が出なくなって、無感情になったり。
これは、本当に心の問題なんじゃない。
「脳の病気なんだ。」
「脳の仕組みが壊れているんだ。」
って気が付きました。
このストレス要因が多い世の中で、
多くの人が精神的につらい思いをして、それがきっかけに脳の仕組みが壊れているんだ。
ということです。
時々目にする、
「鬱はメンタルが弱い人がなる病気なんだ。」
「病んでる暇があるからうつ病になるんだよ。」
なんて言葉は嘘です。
違うんです。
人それぞれ、育った環境も、性格も、
容姿も、地位も、金銭的なことも、生活環境も、周りの環境も。
すべて違って、
「ストレスを受け止める器の量も質も全く違います。」
だから、うつ病は、その人自身が「今」
受け止めきれる容量を超えたストレスや出来事が原因で、脳の仕組みを壊してしまう病気なんです。
僕は両親だって元気だし、
戦争だって経験していないし、
美味しいものを食べられるお金もあるし、
いいお家に住んでるし、
それだけでましだろ??
って思われても構いません。
ただ、この一年。
僕の器では受け止めきれない量と質のストレスで脳が壊れてしまいました。
僕は死にたくてその思考が止まらなくなった時、まだ生きなきゃいけない。
って思えて、友達に連絡をしてそばにいてもらいました。
この文章を書いてる3時間前までは震えが止まらなくて、吐きそうで、突然泣いて。何も出来ない。って叫んでいました。
でも、こうやって文章にしています。
どうしても伝えなきゃいけないんだ。
って思いました。
もしこの文章を読んでいるあなたの近くで、うつ病でなくても、なにか苦しんでいる人がいる、動けない人がいる。
泣いてる人がいる。命を絶とうとしている人がいる。
そうだとしたら、あなたは、あなたを捨ててまで行動する必要はありません。
あなたが壊れるまで助ける必要はありません。
あなたが受け止められる器の大きさ分だけ、その人の苦しみを分けてもらってください。
支えてあげてください。
友達だから。恋人だから。結婚しているから。仕事だから。
色々な状況で、「自分が全部うけとめなきゃいけない。」
って思いこんで、自分の大きさの器じゃ受け止めきれなくて、その器すら壊しながらも頑張り続ける人がいるのも知っています。
知ったような気になってるだけかもしれません。
それでも、僕はあなたに伝えなきゃいけない。って思いました。
一人じゃないんです。
誰かを頼っていいんです。
生きてることに意味があるんです。
僕は、きっと明日も、「壊れた脳」が勝手に僕の体を支配して、泣きます。震えます。死にたいって叫びます。
でも、僕は生きていなきゃいけないってぜったい思い続けます。
僕を必要としてくれる人がいる。
ってずっと心で唱え続けています。
こんな綺麗ごとじゃ片づけられないほどに、僕が経験した出来事じゃ比にならないほど、複雑で自分ではどうしようもなくて、神様は不公平だなんて思う人もいると思います。
人は理屈じゃ受け入れられない。理解できないことに「神」という名前を付けて納得しようとしているんだって思っています。
「愛」なんて言葉はまさにその象徴だと思います。
でも、それでいいんです。
納得できるなら、感情や出来事に名前を付けていいんです。
あなたの気持ちが楽になるなら、なんだっていいと思います。
ただ、その弱みに付け込む悪い奴らもたくさんいます。
だから、そんな時は「自分は今、脳は壊れているんだ。」
って思い返してください。
そして、誰かに助けを求めてください。
この文章が、どこかで苦しむ人や、
苦しんでいる人が近くにいる多くの人の目に触れて、
少しでも回復してくれることを願っています。
少しでも救ってあげようと思える人が増えることを願っています。
“僕は生きています!” — kain December 12, 2025
35RP
火曜日に投稿した漫画です。
現在発売中の『僕がうつ病の時に読みたかった本 完全リメイク版』に掲載されています!🐱
うつ病の体験談の他に脳の仕組み、思考のクセ、心理学なども触れています!
ぜひお手に取って新感覚の書籍を楽しみながら読んでください!🐱✨🦊✨ https://t.co/ORCwxYdZjG December 12, 2025
1RP
前世紀は「免疫学の時代」だった。免疫学は「他性」に対する免疫反応によって特徴づけられる。
しかし今日では、他性は差異に取って代わられている。知的な言説は過去の言説を引きずるから、このような根本的なパラダイム・チェンジを的確に捉えることができないでいる。
ビョンチョル・ハン『疲労社会』(横山陸訳 花伝社)で著者が論じていることのコンセプトは、「他性の時代から差異の時代へ」ということであり、一見すると「モダンからポスト・モダンへ」という旧態依然とした図式に見紛うのだが、論者が企てているのはポスト・モダンの論考でありがちだった「差異との戯れの称揚」ということではない。むしろ、新しく出現した「差異を自己搾取する構造」からの脱却に焦点が絞られた議論が展開されている。
まず、「免疫学の時代」とは、どのような時代だったのか。著者が論じている件を引く。
「前世紀は免疫学の時代であった。それは、内と外、敵と友、自己と他者が明確に区別された時代であった。東西冷戦もこうした免疫学の図式に基づいていた。いやそれどころか、全盛期の免疫学的なパラダイム自体が、一貫して冷戦のボキャブラリーによって、つまり物事をまったく軍事的に考える傾向によって支配されていた。免疫学的な行為は、攻撃と防御という発想によって規定されている。免疫学的に物を考える傾向は、生物学的なものだけでなく、社会的なものにまで広がり、社会全体を規定するレベルにまで達している。それにもかかわらず、この考え方は正しく理解されていない。防御とは、あらゆる異質なものに対する防御を意味する。免疫学的な防御の対象は、異質性そのものである。たとえ異質な他者が絶対的な意図をもたず、何の危険もないとしても、この異質な他者はその<他性>のために排除されるのである。」
「異質な他者が、その<他性>のために排除される」ーこれが前世紀的な世界像を特徴づける図式だった。
<他性>への不適切なほどの恐れーファシズムも民族主義も、言わば免疫機能が暴走する自己免疫疾患として捉えられる。
先に書いたように、言説は過去の言説を参照して編集される。だから、現在の政治的言説にも、いまだ、この免疫学的な図式に基づいた言説は多い。
だが、現在の社会がはらむ真にリアルな問題は、もはやこうした図式で捉えられる問題とは、パラダイムが異なっている、と論者は主張する。「しかしこんにち、他性は差異に取って代わられている」。
「差異は、免疫反応を引き起こさない。差異はポスト免疫学的であり、それどころかポスト近代的であり、それはもはや病因ではない。免疫学的なレベルで見ると、差異とは、<同質なもの>である。差異には、激しい免疫反応を引き起こす、いわば異質性の棘が欠けている。異質性はその鋭さを失って、消費の決まり文句に変わってしまう。異質なものは、エキゾチックなものに成り下がってしまう。そして、エキゾチックなものは、観光客に旅される。観光客や消費者は、もはや[異質なものに対して激しい拒絶反応を示す]免疫学的な主体ではない。」
論者は、免疫性の根本的な特徴を「否定性の弁証法」である、と論じるー「免疫学的に他なるものとは、私の内部へと侵入し、私の固有性を否定しようとする否定的なものである。もしこのとき、私の固有性がこの他なるものの否定性を否定できなければ、私の固有性はこの他なるものの否定性によって滅ぼされてしまう。つまり、私の固有性は他なるものの否定性を否定することを通じて、この他なるものにおいて自己を主張する」。
SNSやオールドメディアでまき散らされている言葉の多くは、こうした「他なるものの否定性を否定することを通じた私の固有性の主張」であり、だから、その本質において攻撃的であり、且つ、さらにその裏には、世界や他者に対する恐れがべったり張り付いている。しかしそのすべてがどこか茶番めいた、アクチュアルさを欠いたものに感じられるのは、その免疫学的な図式自体が、前世紀的なものであり、現在の真の問題を捉えることに失敗しているからではないか。
論者は、例えばうつ病、注意欠陥多動症(ADHD)、燃え尽き症候群(BS)といった症状に現れる現代的な問題の根には、免疫学的な他性の欠如、むしろ同質的なものの過剰、肯定の過剰が関わっているという。
同質性の過剰とは、システムを脅かす外部の暴力性ではなく、システムそれ自体がはらんでいる暴力性であり、排他的な暴力性ではなく、包摂的な暴力性である。
否定性を媒介にした免疫学的な主体においては、規律(ディシプリン)が何よりも重要になる。規律社会において支配的なのは「してはならない」という禁止、そして「すべき」という当為だ。
しかし現代の社会においては、禁止、命令、規則の否定性に基づいた規範から、人はますます解放されていく。それに取って代わるのが、計画(プロジェクト)、自発性(イニシアチブ)、動機づけ(モチベーション)だ。
現在は、前世紀的な規律社会に取って代わって、現代的な「能力社会」が、問題を生み出すようになっているのである。
前世紀的な規律社会の否定性が生み出したのは、禁止や命令に従わない者としての狂人や犯罪者だった。それに対して現在の能力社会が生み出すのは、計画、自発性、動機づけを自己訓練できない者としての、うつ病患者と無能な人間なのである。
「うつ病とは、第一に、何かを為すことに疲れ、できることに疲れた状態である。うつ病の個人は、何もできないと訴える。だが、こうした訴えることができるのは、できないことは何もないと信じている社会だからこそである。
もはや何もできないということができる、こうした事態が行き着く先は、破壊的な自己批判や自虐である。能力の主体は、自分自身と戦っている。そしてこの内面化された戦いの負傷兵が、うつ病患者である。うつ病とは、肯定性の過剰に苛まれた社会の病理である。それは、自分自身と戦う人類を反映している。」
さて、本書の理路をすこしはみ出すが、私はうつ病患者とは、「現代社会の圧と誤った戦い方をした結果の負傷兵」だと捉えている。
現代社会は、主にグローバリズム化された市場の力によって、<他性>が<差異>に還元されることにより、生産=消費主体としての自己訓練を促される社会だ。
その社会が強いてくる自己訓練に対して否定性をもって対するのがうつ病患者だ。だが、本当は、この社会が強いてくる自己訓練への誘いに乗らなければいいだけなのではないか。
前世紀が「幻想の他性に対する免疫疾患」としてファシズムや狂気を生んだとすれば、今世紀は「自己による過剰な自己の搾取」が問題になっている。
今世紀のレジスタンスの形は、だから、自己訓練を否定するのではなく、自己訓練を生産性から解き放つことなのではないだろうか。
つまり、生産性の観点からは無意味なこと、無駄なことに心血を注いでいく。社会化された価値を否定するのではなく、社会化されることがない主観的な価値ーその内在性の次元に意識を向けていくこと。
この本の最後に、どちらかというと否定的なニュアンスで書かれている「この生が一切の超越を脱ぎ捨て、たんなる生の内在へと還元される」という事態を、むしろ積極的に価値づけていくことが必要とされているのではないだろうか。 December 12, 2025
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前世紀は「免疫学の時代」だった。免疫学は「他性」に対する免疫反応によって特徴づけられる。
しかし今日では、他性は差異に取って代わられている。知的な言説は過去の言説を引きずるから、このような根本的なパラダイム・チェンジを的確に捉えることができないでいる。
ビョンチョル・ハン『疲労社会』(横山陸訳 花伝社)で著者が論じていることのコンセプトは、「他性の時代から差異の時代へ」ということであり、一見すると「モダンからポスト・モダンへ」という旧態依然とした図式に見紛うのだが、論者が企てているのはポスト・モダンの論考でありがちだった「差異との戯れの称揚」ということではない。むしろ、新しく出現した「差異を自己搾取する構造」からの脱却に焦点が絞られた議論が展開されている。
まず、「免疫学の時代」とは、どのような時代だったのか。著者が論じている件を引く。
「前世紀は免疫学の時代であった。それは、内と外、敵と友、自己と他者が明確に区別された時代であった。東西冷戦もこうした免疫学の図式に基づいていた。いやそれどころか、全盛期の免疫学的なパラダイム自体が、一貫して冷戦のボキャブラリーによって、つまり物事をまったく軍事的に考える傾向によって支配されていた。免疫学的な行為は、攻撃と防御という発想によって規定されている。免疫学的に物を考える傾向は、生物学的なものだけでなく、社会的なものにまで広がり、社会全体を規定するレベルにまで達している。それにもかかわらず、この考え方は正しく理解されていない。防御とは、あらゆる異質なものに対する防御を意味する。免疫学的な防御の対象は、異質性そのものである。たとえ異質な他者が絶対的な意図をもたず、何の危険もないとしても、この異質な他者はその<他性>のために排除されるのである。」
「異質な他者が、その<他性>のために排除される」ーこれが前世紀的な世界像を特徴づける図式だった。
<他性>への不適切なほどの恐れーファシズムも民族主義も、言わば免疫機能が暴走する自己免疫疾患として捉えられる。
先に書いたように、言説は過去の言説を参照して編集される。だから、現在の政治的言説にも、いまだ、この免疫学的な図式に基づいた言説は多い。
だが、現在の社会がはらむ真にリアルな問題は、もはやこうした図式で捉えられる問題とは、パラダイムが異なっている、と論者は主張する。「しかしこんにち、他性は差異に取って代わられている」。
「差異は、免疫反応を引き起こさない。差異はポスト免疫学的であり、それどころかポスト近代的であり、それはもはや病因ではない。免疫学的なレベルで見ると、差異とは、<同質なもの>である。差異には、激しい免疫反応を引き起こす、いわば異質性の棘が欠けている。異質性はその鋭さを失って、消費の決まり文句に変わってしまう。異質なものは、エキゾチックなものに成り下がってしまう。そして、エキゾチックなものは、観光客に旅される。観光客や消費者は、もはや[異質なものに対して激しい拒絶反応を示す]免疫学的な主体ではない。」
論者は、免疫性の根本的な特徴を「否定性の弁証法」である、と論じるー「免疫学的に他なるものとは、私の内部へと侵入し、私の固有性を否定しようとする否定的なものである。もしこのとき、私の固有性がこの他なるものの否定性を否定できなければ、私の固有性はこの他なるものの否定性によって滅ぼされてしまう。つまり、私の固有性は他なるものの否定性を否定することを通じて、この他なるものにおいて自己を主張する」。
SNSやオールドメディアでまき散らされている言葉の多くは、こうした「他なるものの否定性を否定することを通じた私の固有性の主張」であり、だから、その本質において攻撃的であり、且つ、さらにその裏には、世界や他者に対する恐れがべったり張り付いている。しかしそのすべてがどこか茶番めいた、アクチュアルさを欠いたものに感じられるのは、その免疫学的な図式自体が、前世紀的なものであり、現在の真の問題を捉えることに失敗しているからではないか。
論者は、例えばうつ病、注意欠陥多動症(ADHD)、燃え尽き症候群(BS)といった症状に現れる現代的な問題の根には、免疫学的な他性の欠如、むしろ同質的なものの過剰、肯定の過剰が関わっているという。
同質性の過剰とは、システムを脅かす外部の暴力性ではなく、システムそれ自体がはらんでいる暴力性であり、排他的な暴力性ではなく、包摂的な暴力性である。
否定性を媒介にした免疫学的な主体においては、規律(ディシプリン)が何よりも重要になる。規律社会において支配的なのは「してはならない」という禁止、そして「すべき」という当為だ。
しかし現代の社会においては、禁止、命令、規則の否定性に基づいた規範から、人はますます解放されていく。それに取って代わるのが、計画(プロジェクト)、自発性(イニシアチブ)、動機づけ(モチベーション)だ。
現在は、前世紀的な規律社会に取って代わって、現代的な「能力社会」が、問題を生み出すようになっているのである。
前世紀的な規律社会の否定性が生み出したのは、禁止や命令に従わない者としての狂人や犯罪者だった。それに対して現在の能力社会が生み出すのは、計画、自発性、動機づけを自己訓練できない者としての、うつ病患者と無能な人間なのである。
「うつ病とは、第一に、何かを為すことに疲れ、できることに疲れた状態である。うつ病の個人は、何もできないと訴える。だが、こうした訴えることができるのは、できないことは何もないと信じている社会だからこそである。
もはや何もできないということができる、こうした事態が行き着く先は、破壊的な自己批判や自虐である。能力の主体は、自分自身と戦っている。そしてこの内面化された戦いの負傷兵が、うつ病患者である。うつ病とは、肯定性の過剰に苛まれた社会の病理である。それは、自分自身と戦う人類を反映している。」
さて、本書の理路をすこしはみ出すが、私はうつ病患者とは、「現代社会の圧と誤った戦い方をした結果の負傷兵」だと捉えている。
現代社会は、主にグローバリズム化された市場の力によって、<他性>が<差異>に還元されることにより、生産=消費主体としての自己訓練を促される社会だ。
その社会が強いてくる自己訓練に対して否定性をもって対するのがうつ病患者だ。だが、本当は、この社会が強いてくる自己訓練への誘いに乗らなければいいだけなのではないか。
前世紀が「幻想に他性に対する免疫疾患」としてファシズムや狂気を生んだとすれば、今世紀は「自己による過剰な自己の搾取」が問題になっている。
今世紀のレジスタンスの形は、だから、自己訓練を否定するのではなく、自己訓練を生産性から解き放つことなのではないだろうか。
つまり、生産性の観点からは無意味なこと、無駄なことに心血を注いでいく。社会化された価値を否定するのではなく、社会化されることがない主観的な価値ーその内在性の次元に意識を向けていくこと。
この本の最後に、どちらかというと否定的なニュアンスで書かれている「この生が一切の超越を脱ぎ捨て、たんなる生の内在へと還元される」という事態を、むしろ積極的に価値づけていくことが必要とされているのではないだろうか。 December 12, 2025
1RP
「公共の場で相互に会話せず黙々とスマホをいじる倭国人を見て、 そのバラバラ感が、うつ病の患者どうしの群れに思えたそうです」
その人がそう思ったというだけの話じゃん。 https://t.co/zMTUDKR0q7 December 12, 2025
1RP
@z2JGlidJ9o64036 ありがとうございます🙏
たまたま拾った物です🐸
小さな頃から #ワクチン を
打たせて #自閉症 にしたり
#うつ病 や #不安 な氣持ちにさせて行く😠
全てのワクチン回収を‼️ https://t.co/dYjcOzK3K7 December 12, 2025
うつ病でゴロゴロするパートナーを見て、
「自分ならこうするのに」
「自分はそれくらい耐えられるのに」
と感じてしまいますよね。普段我慢しながら頑張っている人ほど、人が休むことを許せなくなってしまいます。 December 12, 2025
認知機能の低下は鬱病ほか精神障害とかだいそれた感じのことに限らず、日常の誰しもに起こることで、それが長期化したりその日常を侵されたら「当人が困ってい=病気・障害」となるわけで。ショックだけど、だからこそデイケア的な場としての社会があったほうが良いんだよなあ。 December 12, 2025
こんにちは
朝起きて、風呂に入りました
のんびり入って、少しはリラックスできたかな?
今日やりたいことは、
煙草作り
読書
これだけ!
できる!はず
気の向くままに、のんびりします
今日もマイペースで
#鬱病 #うつ病 #パニック障害 December 12, 2025
うつ病の偏見と闘い、そしてうつ病真っ只中にいる方に「頑張らずに休んで欲しい」と願った『分かりやすいうつ病の参考書』Kindleで発売中です。
#うつ病 #Kindle #精神疾患
https://t.co/boHg3TPES8 December 12, 2025
子供は可愛いから頑張れるけど、
普通にお互い笑い合えるパートナーがいる人生がよかったなぁ
貯金も1千万円以上使われ踏み倒され、違法行為され、鬱病に追い込まれる人生ってほんと人生滅茶苦茶にされた。
けど唯一良かったのは、私、1人でも稼げる能力がすごくあるって気づけたこと! December 12, 2025
動画の最後で言われてる、(外傷的な)ダメージも疲労、っていうの、知らなかった。というか気付いてなかった。確かに、そうだよね。私、今日筋肉痛なので疲労してます笑
はらぺこツインズさんが長年患っているうつ病の「重度のうつ病で既に手遅れ」について https://t.co/kgXvQSV4gD @YouTubeより December 12, 2025
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