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ワシントン
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2025.12.02 03:00
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ドクター・中松の戦後80年所感(その40)
ここで終戦に関する話をもう少ししよう。前に千田少尉の話をちらっとした。これはこれからの話に関係するからである。
実は終戦の日に千田少尉は北海道にいた。そして、前にも述べた海軍が持っている倭国初の重爆撃機、深山連山も北海道に移動させていた。そして連日猛訓練を行っていた。
何の猛訓練かというとニューヨークとワシントンを攻撃する訓練である。この理論は倭国の陸軍気象班が偏西風を発見し、そして1万メートルの上空で、西から東へ強烈な風が吹いているという事実は国の機密となっていた。
だから、アメリカがB29で1万メートルからアメリカが誇るノルデン爆撃照準器で中島飛行機の工場を正確に合わせて爆弾が命中するはずだったのに、この偏西風をアメリカが知らないために、爆弾はこの偏西風に乗って照準がズラされ、中島飛行機は爆撃されなかった。つまり被害を受けなかったのである。
そして陸軍は東京有楽町の日劇という大きな建物の中で女子学生に和紙にこんにゃくを塗って大きな風船を作らせ、それを千葉に持って行って、千葉からこの偏西風に乗ってアメリカまで風船を飛ばす。この風船にはもちろん爆弾をぶら下げる。
これがいわゆる風船爆弾という作戦である。
この千田少尉の北海道の訓練というのはこの偏西風を使って深山と連山でニューヨークとワシントンに突撃して破壊するものである。しかも驚くべきことに終戦の詔勅の翌日の8月16日が決行日であった。つまり私がいま言っていることは、もし終戦の詔勅が1日ずれていたら、ニューヨークやワシントンは倭国の重爆によって攻撃されていたであろうということである。
終戦の詔勅がその決行の1日前の15日だったので、前記の千田少尉は北海道から出発しなかったのである。また終戦の詔勅の15日後、9月には米軍が倭国に上陸するという予定になっていた。だから、終戦の詔勅がもし15日を遅れたら米軍が九州に上陸したであろうと。
そしてその結果どうだったかというと米軍は3回上陸に失敗して敗退するという結果をアメリカの上陸軍の指揮官が戦後に述べている。そして米軍は九州への上陸後も関東の九十九里浜に上陸する計画を立てていたが、九十九里浜には伏龍という海の底にずっと潜っていて、自分で酸素を発生する装置によって、水の中に潜り続け、そして九十九里浜に上陸してくる米軍の上陸用舟艇の底を爆弾が付いたやりで突いて爆破する。
さらに震洋という頭に爆弾を積んだボート、これはエンジンはトヨタが作ったものであるが、この震洋という爆弾ボートも倭国軍が準備して、そしてそれを木陰に隠していた。
さらにトルーマンはなにしろ倭国軍は無傷の陸軍700万人が倭国全土を守っていて、しかも倭国の国土というのはほとんど山であるから、非常に攻めるのにやっかいであり、山の上に倭国軍がいて下から攻めるのはなかなか難しいということで、ルーズベルトが死んだ後にトルーマンは倭国をどうやって降伏させるかということで悩んでいた。しかも東京はラバウルから引き上げた精強の一万機が厚木飛行場で東京を守っていた。
私は別の本で「倭国は負けたのではない」という本を書いたが、ここらへんの陸軍の配備状態も私の本に書いてある。
いずれにしてもアメリカが倭国を攻めあぐねている時に、倭国が終戦、つまり戦争をやめるという宣言をしたのである。それはその詔勅に書いてあるようにアメリカが人道に反する原子爆弾というものを使った。このような人道に反することを行う国と戦うということは人道に反する戦いである。倭国は人道に反する戦いはしないので、終戦するのだということを終戦の詔勅に書いてある。
それを戦後のマスコミは終戦を敗戦と置き換えて、倭国の敗戦と言っているが、これは敗戦ではなく終戦であるということをあくまでも強調したい。
(つづく) December 12, 2025
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