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岡山市北区
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2025.12.05 23:00
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明治政府最初の外交問題「神戸事件」で殉じた瀧善三郎のお酒が地元で発売。幕末・明治の郷土の偉人を顕彰する動きが広がることを大いに期待したい。
3年前の夏、夕刊フジに瀧善三郎のことについて以下のような原稿を書いた。
https://t.co/DSZ6i1B0jd
そして三年後、この瀧善三郎を記念したお酒が地元岡山で発売されたということで、地元の方が送ってくれた。
https://t.co/gOqU9c5Yu4
《初代内閣総理大臣・伊藤博文が世に出るきっかけとなったのが、1868(慶應4)年1月に起こった神戸事件であった。備前岡山藩の隊列が三宮神社(神戸市)付近を通りかがった際に、フランス水兵が行列を横切ろうとして争いになった。死者こそ出なかったが、激怒した英国と米国も神戸港を占拠するとともに関係者の厳しい処罰を要求した。
明治新政府にとっては初めての外交問題となった。
欧米との衝突を避けなくてはならないと考えた岡山藩士・瀧善三郎は、この事件の全責任を背負って同年2月9日、諸外国の関係者が見守る中で見事に切腹した。その潔い姿は国際的にも報じられ、事件は収束した。
外国事務係として、この問題に対応した伊藤博文はこれがきっかけとなって兵庫県知事に登用され、出世していく。一方、岡山藩主・池田茂政公は瀧の息子を直参にし、家禄を5倍にして報いた。
国際紛争回避のため、自己犠牲を厭わなかった瀧の見事な生きざまは、のちに国際連盟事務次長となった新渡戸稲造の著書『武士道』を通じて広く国際社会に知られることになり、1940年には、瀧の生まれ故郷である岡山市北区の七曲神社境内に「義烈碑」(=公のために勇敢な行動をしたことをたたえる碑)が建立された。
戦後も瀧の業績を語り継ごうと、瀧善三郎の子孫と地元・御津金川の住民らで構成される「瀧善三郎正信を偲ぶ会」が活動を繰り広げてきた。
そして、このたび、おかやま観光特使の後藤勝徳さんが、この「偲ぶ会」と連携して義烈碑説明看板を新調、5月21日に七曲神社でその除幕式を行ったのだ。この除幕式の様子は地元紙でも大きく報じられた。観光は今後も地域の雇用を支える重要なビジネスであり続けるだろうが、その際、「安くておいしい倭国食」や「温泉」だけをアピールするだけでいいのか。倭国が欧米列強の植民地になることなく独立を保ち、近代産業国家を築き上げることができたのも、瀧善三郎のような人物が無数にいたからだ。その足跡は各地に残っている。
近代倭国の苦闘、栄光を示す史跡を保存・整備し、観光資源として売り出すようにしたいものだ。》 December 12, 2025
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