阿弥陀如来 トレンド
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2025.12.01〜(49週)
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阿弥陀如来
人生の目的が
見えなくなったとき
少し長い時間の流れで
考えてみることも大事☘️
焦らなくても大丈夫
人と違う生き方でも
それはあなたらしさの証
生き方も、性格も、考え方も
人それぞれでいいのです
そのままのあなたで
愛される存在です🌈
#開運館 #アリオ西新井
#エソラ池袋 https://t.co/PJKAn8G9FW December 12, 2025
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【12月28日(日)まで開催】
半蔵門ミュージアムでは、特集展示「阿弥陀仏 ―おわす・みちびく・あらわれる―」を、12月28日(日)まで開催しています。お見逃しなく。
https://t.co/sD4A4MAW92
本展示では、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来(あみだにょらい)に注目します。
修理を終え初公開となる阿弥陀如来立像(平安時代 12世紀)は、量感を控えた肉身部や、両脚間に集まるY字形の衣文を浅く刻む表現など、平安時代後期の様式が濃厚です。一方でややつり上がった目元、 わずかに張り出した肩や膨らみのある腹部の造形には、新たな時代の胎動が感じられます。
鎌倉時代に入り浄土宗や浄土真宗など浄土教系の仏堂の本尊として数多く造像されるようになりましたが、平安時代に遡る作例は貴重です。
是非ご覧ください。
【入場無料】特集展示「阿弥陀仏 ―おわす・みちびく・あらわれる―」
会期:2025年9月13日(土)〜12月28日(日)
開館時間:10時〜17時30分
休館日:毎週月曜日・火曜日
※その他、臨時休館あり December 12, 2025
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【京都・即成院/阿弥陀如来及び二十五菩薩像(藤原)】阿弥陀如来を中心とする計26体の群像で本堂のひな段4段に安置している。菩薩像の多くは楽器を演奏する姿で表され亡者を極楽浄土へ導くさまを表現している。絵画像は多いが彫像は大変珍しい。 https://t.co/bURkacmvNU December 12, 2025
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【三重・慈恩寺/阿弥陀如来立像(平安初期)】慈恩寺本堂に祀られる像高161cm檜一木造の本尊。開祖行基作という伝承が残る量感溢れる阿弥陀像。文部省の職員が同寺の薬師如来を調査しに行った所、阿弥陀如来が見出されたというエピソードが残る https://t.co/VPRJuyt61L December 12, 2025
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日蓮図顕の文字曼荼羅~「我常に此の娑婆世界に在って説法教化する永遠の仏の姿」
日蓮が数多く顕した曼荼羅本尊の中でも特大なのが、静岡県沼津市の岡宮光長寺に所蔵される「弘安元年(1278)太才戊寅十一月廿一日」顕示、「優婆塞藤太夫日長」授与の曼荼羅(御本尊集57)です。寸法は「縦234.9㎝×横124.9㎝」もあり、大小の紙が28枚継ぎとされてきましたが、原井慈鳳氏の論考「二十八紙大漫荼羅に関する研究(一)」(桂林学叢 第27号 平成28年)では29枚継ぎであることが解明されていますので、現在では「二十九枚継曼荼羅」と呼ぶべきでしょうか。
「甲州南津留郡小立村妙法寺に護持せられたもので、同村の渡辺藤太夫に授与したまうところ」の曼荼羅にして、後に岡宮光長寺に納められたと伝承されていますが、大きな持仏堂を擁する在地の有力者が法華経を受持し、その邸宅が地域の弟子檀越等、大人数が集う法華伝道の道場となり、このような大型の曼荼羅が授与されたのでしょう。弘安年間に至る日蓮一門の教線拡大を示しているように思います。
また、弘安元年(1278)11月21日といえば、あの建治年間末(1276)から弘安初期(1278)にかけての大疫病が山を越えた頃でもあります。多くの人々が亡くなり、自らもいつ感染してしまうかもしれない恐怖と不安の日々。妙法を信受し、それらを乗り越えて生きていることを実感する人々の喜びはいかほどのものだったか。そのような一門のこころと祈りの結晶が、大きな曼荼羅として顕されたのではないでしょうか。
二十八(九)紙大漫荼羅の次に大きな曼荼羅は、静岡県三島市玉沢の妙法華寺に伝来する伝法御本尊(御本尊集101)です。「弘安三年(1280)太才庚辰十一月 日」の顕示、「釈子日昭伝之(しゃくし・にっしょう・でんし)」の授与書きがあり、寸法は「197.6×108.8㎝」で12枚継ぎ。
三番目が千葉県松戸市平賀の本土寺にある「二十枚継曼荼羅」(御本尊集18)で「189.4×112.1cm」の寸法、紙が20枚継がれています。顕示年月日は記されていませんが、文永11年(1274)5月24日の「法華取要抄」との関連から、文永11年頃に顕されたのではないかと推測されています。
素朴な疑問として、「日蓮はどのようにして、これら大きな紙に御本尊を顕したのだろうか?」というものがありますが、原井慈鳳氏は前出論考中で、『倭国には古来、大画面を描く絵師が絵画製作時に用いた裁物板にも似た「糊板(のりいた)」(乗板)と称する用具がある。これを応用すれば疑問は解けよう。筆者はその状態を図試してみた』として図面により、日蓮が曼荼羅を顕す様子を示されています。
「二十九枚継曼荼羅」を拝した人によると、あまりに大きすぎて本堂に奉掲しきれず、曼荼羅下部は巻いたままであったそうです。「伝法御本尊」と「二十枚継曼荼羅」は私も拝しましたが、その巨大さと筆勢に圧倒されるというか胸が熱くなる衝撃と共に、『日蓮が顕した曼荼羅は永遠の仏・久遠実成の釈尊が教導する姿そのものではないか』と、ひとり宗教的達観の世界に浸り、法悦に包まれたことが数年たった今でも実に鮮明です。
それは保田妙本寺に所蔵される「文永十一年太才甲戌十二月 日」顕示、万年救護本尊(御本尊集16)を拝した時も同じで、『妙法に照らされ、妙法に包まれた温かみを感ずる時』であったように思います。
法華経・見宝塔品第11から始まる虚空会の儀式に倣ったのが日蓮図顕の文字曼荼羅の相貌ですが、そもそも日蓮は何ゆえに、文字曼荼羅を図顕したのでしょうか?
ここで目を転じて、「平家物語」の「巻第十 熊野参詣」を確認してみましょう。
寿永3年(1184)2月、一ノ谷の戦い前後に逃亡した平維盛(たいらのこれもり・平清盛の嫡孫、平重盛の嫡男)は高野山で出家した後、熊野三山(くまのみやま)に参詣します。その模様が次のように描写されています。
維盛(これもり)一行は歩みを進めるうちに日数も重なり、岩田河へとさしかかった。
川の流れを見ていると、「この川の流れを一度でも渡る者は、悪業・煩悩、無始以来の罪障が消えるのであろう」と、頼もしく思われる。
一行は本宮に参詣し、証誠殿(しょうじょうでん)の御前で端座して長い読経を捧げ、お山の様を眺めていると、心にも言葉にも尽くせぬ有りがたいものに感じられた。神仏の衆生擁護の大慈悲は霞のように熊野山にたなびき、並ぶことなき霊験あらたかな神明は音無河の宮に垂迹されている。法華経を修行するこの地では神仏の感応は月の輝きのように遍く、六根より起こる罪を懺悔するこの庭では妄想が露ほども生じない。証誠殿で祈念をするうちに浄土への往生は確かなものとなり、どうして頼もしくないということがあろうか。
実に「古典文学の真髄を顕している名文」だと思いますが、熊野本宮の主神は家都美御子神(けつみこのかみ)で、その本地は阿弥陀如来。平維盛は証誠(阿弥陀如来の真実・誠であることを証明する)殿で、阿弥陀如来に祈願していたわけです。
このように平安から鎌倉時代にかけて、ある人は釈迦如来像、ある人は薬師如来像、ある人は大日如来像、そして千手観音像、如意輪観音像、弥勒菩薩像、阿弥陀如来像へと手を合わせる・・・
仏菩薩像が常識であった鎌倉時代の仏教界にあって、明恵や親鸞の名字本尊以来というべきか、日蓮は文字で書かれた曼荼羅を本尊としたのですから、まさに「本尊を文字で顕したことは仏教界の常識を打ち破る宗教的一大画期」ではなかったでしょうか。
さて、日蓮が文字曼荼羅を図顕した動機ですが、「法華勧奨・妙法弘通のかたちとして」「一切衆生皆成仏の大願を曼荼羅に込めた」等色々と思い浮かびますが、日蓮は永遠の仏にして根本仏たる久遠実成の釈尊を尊信して弟子檀越を教導した「久遠仏直参信仰の導師・日蓮」ですから、日蓮が曼荼羅を顕したのは、末法の世における『我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり』(法華経如来寿量品第十六)の当体として曼荼羅を顕した。また、曼荼羅は『我常に此の娑婆世界に在って説法教化する永遠の仏の姿を示すもの』ではなかったか、と考えるのです。
写真左は伝法御本尊の授与書き「釈子日昭伝之_______」
右は熊野三山の那智大社 December 12, 2025
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永遠の仏・久遠実成の釈尊と日蓮の久遠仏思想における意義
鎌倉時代における日蓮(1222–1282)の思想形成において中心的役割を果たした「久遠実成の釈尊」概念を、妙法蓮華経(以下、法華経)解釈と宗教実践の双方の視点から検討してみましょう。とりわけ法華経如来寿量品第十六に説かれる久遠仏思想が、日蓮においてどのように現実的救済の枠組みとして再解釈され、文字曼荼羅の御本尊への専修題目を通じて具現化されたのかを確認したいと思います。
1 日蓮と久遠仏思想
日蓮は、倭国中世における法華経信仰の最も急進的・実践的な担い手の一人です。彼は法華経を唯一絶対の正法にして最第一の経典(※1)、かつ教主釈尊出世の本懐と位置付け(※2)、その中心思想として「久遠実成の釈尊」(以下、久遠仏)を信仰の根幹に据えます(※3)。久遠仏思想は単なる形而上学的存在論ではなく、日蓮の仏教観・社会観・権力観の根幹にして(※4)、熱烈な法華勧奨と妙法弘通、それによる迫害(日蓮的には法難)を乗り越える精神的支柱でした。
2 久遠実成の釈尊の教義的背景
「久遠実成」とは、法華経「如来寿量品第十六」において説示される、釈迦が歴史的存在を超えて久遠の昔にすでに成仏していたという教義です。ここで描かれる釈迦は、インド史上のガウタマ・シッダールタとしてのブッタ(目覚めた人)ではなく、衆生済度のために経典世界に現れた永遠の仏にして根本仏としての存在です。 この思想は、初期仏教の釈迦観を大きく超えるものであり、大乗仏教における仏身論の発展、特に三身説における法身(ほっしん・永遠不滅の真理そのもので仏の根本的な実体)、報身(ほうじん・悟りを開いた仏がその功徳によって得た姿、衆生を救済する働きを持つ)、応身(おうじん・衆生を救うために様々な姿で現れる仏)の解釈とも密接に関わるようになります。
3 日蓮における久遠仏信仰の意義付け
日蓮は自身を「法華経の行者」と称し(※5)、久遠仏の「使者」として法華経と肝心たる南無妙法蓮華経を弘通する使命を自覚し(※6)、その実践に身命を捧げました。彼にとって久遠仏は、歴史的に遠い過去に成仏しただけの存在ではなく、現今も衆生と共に在り説法教化を続ける現実的な仏(※7)であり、三界の国主(※8)でもあったのです。
日蓮は「曽谷入道殿許御書」(文永12年[1275]3月10日)で、「大覚世尊、仏眼をもって末法を鑑知(かんち)し、この逆・謗の二罪を対治せしめんがために、一大秘法を留め置きたもう。・・・中略・・・その時に、下方の大地より未見今見の四大菩薩を召し出だしたもう。いわゆる上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩なり。この大菩薩、各々六万恒河沙の眷属を具足す。形貌・威儀、言をもって宣べ難く、心をもって量るべからず。・・・中略・・・その時に、大覚世尊、寿量品を演説し、しかして後に十神力を示現して、四大菩薩に付嘱したもう。その所嘱の法は何物ぞや。法華経の中にも、広を捨てて略を取り、略を捨てて要を取る。いわゆる、妙法蓮華経の五字、名・体・宗・用・教の五重玄なり」と記述しています。
ここから「四大菩薩(上行菩薩)たる日蓮が久遠仏より付属を受けた一大秘法・南無妙法蓮華経である」ことが理解できます。さらには自己が初めて図顕した文字曼荼羅の御本尊も、「今この御本尊は、教主釈尊、五百塵点劫より心中におさめさせ給いて」(新尼御前御返事 文永12年[1275]2月16日)、「日蓮図顕の大本尊は久遠仏から付属された大本尊であり上行菩薩日蓮が弘宣するのである」(万年救護本尊讃文・趣意 文永11年[1274]12月図顕)と意義付けています。
このような日蓮の宗教的達観の真髄ともいえる教示は、一般的には日蓮が創出したように理解されている南無妙法蓮華経の題目と文字曼荼羅の御本尊が、実は「久遠仏の胸中から日蓮へと付属された南無妙法蓮華経の題目と御本尊である」「南無妙法蓮華経の題目と御本尊は久遠仏の胸中を源流とする」という理解を促します。
これら日蓮の教説を勘案すると「日蓮法華の信仰」とは、題目を唱える信仰者をして久遠仏へと直参させる「久遠仏直参信仰」であったといえるでしょう。日蓮一代教説の真意は「久遠仏直参信仰の確立」にして、久遠仏の使いとして上行菩薩の使命を全うした日蓮は「久遠仏直参信仰の導師」だったといえるのではないでしょうか。
「観心本尊抄」(文永10年[1273]4月25日)では、「釈尊(久遠仏)、南無妙法蓮華経、日蓮、信仰者の関係」が明示されています。
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我らこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう。四大声聞の領解に云わく「無上の宝珠は、求めざるに自ずから得たり」云々。我らが己心の声聞界なり。「我がごとく等しくして異なることなからしめん。我が昔の願いしところのごときは、今、すでに満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」。妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや。
日蓮は「釈尊(久遠仏)の因行と果徳の二法が妙法蓮華経の五字に具足されている」と教示し、ここにおいて「南無妙法蓮華経即釈尊(久遠仏)・釈尊(久遠仏)即南無妙法蓮華経」が明かされ(※9)、さらに「妙覚の釈尊は我らが血肉なり。因果の功徳は骨髄にあらずや」により、「釈尊(久遠仏)・南無妙法蓮華経・日蓮・信仰者は一体にして不二の境地に至る」という教理が成り立ったといえるのではないでしょうか。これら日蓮の思考と記述は、「日蓮法華信仰における成仏の実相」を明かしたともいえるでしょう。
このように日蓮は、文字曼荼羅の御本尊へ南無妙法蓮華経を唱えることは万人が釈尊(久遠仏)と直接結縁する行為であると意義付けましたが、それは同時に「一切衆生皆成仏道」(すべての生きとし生けるものが、必ず仏の道[仏になる道]を成就する)を理想ではなく現実に可能とする因を説き、創る作業でもありました。
日蓮教説の法華経・題目信仰は、従来のひたすら救済を願うおすがり信仰や、単なる観念的信仰を超え、信仰者個々人が主役として自発的・能動的に法華経信仰を実践することにより成仏が可能というものであり、「久遠仏による救済の新しい、かつ真に現実化する方法論」であったといえるのではないでしょうか。
4 文字曼荼羅の御本尊の宗教的意義
日蓮が顕した文字曼荼羅の御本尊は、南無妙法蓮華経即釈尊(久遠仏)を中心に、法華経に登場する諸仏・諸菩薩・諸天善神が配列されています。これは久遠仏直参信仰の視覚的・象徴的具現であり、信仰者は御本尊を礼拝し題目を唱えることで、南無妙法蓮華経即釈尊(久遠仏)の功徳に浴するとされました(前記「観心本尊抄」等)。
「曼荼羅」という用語とその起源は密教由来といえますが、密教の両界曼荼羅などとは違い、日蓮の場合は中央に文字として南無妙法蓮華経の題目を大きく据えており、南無妙法蓮華経即釈尊(久遠仏)という存在とその力を題目の大書により視覚的、直接的に体現させ、拝する信仰者の「感得」を促すところに独自性と特徴があるといえるのではないでしょうか。
5 社会的背景と教義の実践化
鎌倉時代中期、倭国は天災・飢饉・戦乱など社会的混乱に直面し、国難といえる事態の連続でした。日蓮は、これらの天災地変・国難の原因を正法(法華経)の不信に求め、他宗批判を通じて法華勧奨・妙法弘通を進めています。この過程で度重なる迫害(法難)に遭遇しますが、それらを久遠仏の加護と自らの使命の証と解釈し(※9)、一門の信仰をより一層強固なものにしていきます(※10)。
6 末法の世で「我常在此娑婆世界説法教化」を現実のものとした日蓮の久遠仏直参信仰
日蓮にとって、久遠仏への直参信仰は現世的危機に対する現実的かつ宗教的な解答であり、その教えは「末法における唯一の救済法」として意義付けられたのです。 日蓮の久遠実成の釈尊(久遠仏)観は単なる法華経解釈に留まらず、「唱題成仏の法門」創出、「捨邪帰正」を主眼にしての社会や権力への関わりなど多方面にわたり展開されました。
その思想と取り組みは、「永遠の仏」という形而上学的理念を宗教的に「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」として現実のものとし、末法五濁悪世での一切衆生救済を具体的なものにしたといえるでしょう。そして現代においても日蓮の久遠仏直参信仰は、普遍的救済と現実変革を志向する宗教思想として、一閻浮提を照らす光明の役割を果たしているといえるのではないでしょうか。
※1 法華経最第一
守護国家論 正元元年(1259)
法華経の法師品に釈尊自ら流通せしめて云わく「我が説くところの経典は無量千万億にして、已に説き、今説き、当に説くべし。しかもその中において、この法華経は最もこれ難信難解なり」云々。文の意は、一代五十年の已・今・当の三説において最第一の経なり。八万聖教の中に殊に未来に留めんと欲して説きたまいしなり。
善無畏三蔵抄 文永7年(1270)
法華経は一代聖教の肝心、八万法蔵の依りどころなり。大日経・華厳経・般若経・深密経等の諸の顕密の諸経は、震旦・月氏・竜宮・天上・十方世界の国土の諸仏の説教、恒沙塵数なり。大海を硯の水とし、三千大千世界の草木を筆としても、書き尽くしがたき経々の中をも、あるいはこれを見、あるいは計り推するに、法華経は最第一におわします。
本尊問答抄 弘安元年(1278)9月
されば、倭国国、あるいは口には法華経最第一とはよめども、心は最第二・最第三なり。あるいは身・口・意共に最第二・三なり。三業相応して最第一と読める法華経の行者は、四百余年が間一人もなし。まして「能持此経」の行者は、あるべしともおぼえず。
※2 釈尊出世の本懐・法華経
守護国家論
法華経は如来の出世の本懐なるが故に「今、すでに満足しぬ」「今正しくこれその時なり」「しかるに、善男子よ、我は実に成仏してより已来」等と説く。ただし、諸経の勝劣においては、仏自ら「我が説くところの経典は無量千万億なり」と挙げ了わって「已に説き、今説き、当に説くべし」等と説く時、多宝仏、地より涌現して「皆これ真実なり」と定め、分身の諸仏は舌相を梵天に付けたもう。かくのごとく諸経と法華経との勝劣を定め了わんぬ。
聖人御難事 弘安2年(1279)10月1日
仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。その中の大難申すばかりなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。その間の大難は、各々かつしろしめせり。
※3 久遠実成の釈尊(久遠仏)を信仰の根幹に据える
守護国家論
四十余年の権仏の説はこれを信ずべからず。今の法華・涅槃は、久遠実成の円仏の実説なり。十界互具の実言なり。また多宝・十方の諸仏来ってこれを証明したもう。故にこれを信ずべし。
開目抄 文永9年(1272)2月
今、久遠実成あらわれぬれば、東方の薬師如来の日光・月光、西方の阿弥陀如来の観音・勢至、乃至十方世界の諸仏の御弟子、大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩、なお教主釈尊の御弟子なり。諸仏、釈迦如来の分身たる上は、諸仏の所化申すにおよばず。いかにいわんや、この土の劫初よりこのかたの日月・衆星等、教主釈尊の御弟子にあらずや。しかるを、天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。
聖密房御書 文永後期
久遠実成なんどは、大日経にはおもいもよらず。久遠実成は一切の仏の本地。譬えば、大海は久遠実成、魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば、千二百余尊はうきくさの根なきがごとし。夜の露の日輪の出でざるほどなるべし。天台宗の人々、このことを弁えずして、真言師にたぼらかされたり。真言師はまた自宗の誤りをしらず、いたずらに悪道の邪念をつみおく。
※4 久遠仏思想は日蓮の仏教観・社会観・権力観の根幹
守護国家論 正元元年(1259)
また云わく「もしこの法華経を受持・読誦し、正憶念し、修習し書写することあらば、当に知るべし、この人は則ち釈迦牟尼仏を見る。仏の口よりこの経典を聞くがごとし。当に知るべし、この人は釈迦牟尼仏を供養す」已上。この文を見るに、法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、この経を信ずる者の前には滅後たりといえども仏の在世なり。
文永初期「断簡53」
是我有 其中衆生 悉是吾子等云云。この文のごとくならば、この三界は皆釈迦如来の御所領なり。寿量品に云く「我常に此の娑婆世界に在って」等云云。この文のごとくならば、過去五百塵点劫よりこのかた、此の娑婆世界は釈迦如来の御進退の国土なり。(昭和定本p2496)
四条金吾殿御返事(梵音声書)文永9年(1272)9月
釈迦仏と法華経の文字とはかわれども、心は一つなり。しかれば、法華経の文字を拝見せさせ給うは、生身の釈迦如来にあいまいらせたりとおぼしめすべし。 この志、佐渡国までおくりつかわされたること、すでに釈迦仏知ろしめし畢わんぬ。
一谷入道御書 建治元年(1275)5月8日
娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子なり
※5 日蓮は法華経の行者
法華証明抄 弘安5年(1282)2月28日
法華経の行者日蓮 花押
※6 法華経の肝心たる南無妙法蓮華経
撰時抄 建治元年(1275)
彼の大集経の白法隠没の時は、第五の五百歳、当世なることは疑いなし。ただし、彼の白法隠没の次には、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内八万の国あり、その国々に八万の王あり、王々ごとに臣下ならびに万民までも、今倭国国に弥陀称名を四衆の口々に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。
※7 久遠仏は説法教化を続ける現実的な仏
祈禱抄 文永9年(1272)
仏は、人天の主、一切衆生の父母なり。しかも開導の師なり。 同 釈迦仏独り主師親の三義をかね給えり。
法華取要抄 文永11年(1274)5月24日
この土の我ら衆生は、五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり。
一谷入道御書 建治元年(1275)5月8日
梵王の一切衆生の親たるがごとく、釈迦仏もまた一切衆生の親なり。また、この国の一切衆生のためには、教主釈尊は明師にておわするぞかし。父母を知るも師の恩なり。黒白を弁うも釈尊の恩なり。 同 この国の人々は、一人もなく教主釈尊の御弟子・御民ぞかし。
種々御振舞御書 建治2年(1276)八幡社頭の諫言
さては十二日の夜(竜口での斬首刑の夜)、武蔵守殿のあずかりにて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに、わかみやこうじにうちいでて、四方に兵のうちつつみてありしかども、日蓮云わく「各々さわがせ給うな。べちのことはなし。八幡大菩薩に最後に申すべきことあり」とて、馬よりさしおりて高声に申すよう、「いかに八幡大菩薩はまことの神か。…中略・・・さて最後には、「日蓮、今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まず『天照太神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれ』とさしきりて、教主釈尊に申し上げ候わんずるぞ。いたしとおぼさば、いそぎいそぎ御計らいあるべし」とて、また馬にのりぬ。
※8 久遠仏は三界の国主
神国王御書 建治元年(1275)
仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり。三界の諸王は皆此の釈迦仏より分かち給ひて、諸国の総領・別領等の主となし給へり。
※9「南無妙法蓮華経即釈尊(久遠仏)・釈尊(久遠仏)即南無妙法蓮華経」関連遺文
唱法華題目抄 文応元年(1260)5月28日
問うて云わく、ただ題目ばかりを唱うる功徳いかん。 答えて云わく、釈迦如来、法華経をとかんとおぼしめして世に出でましまししかども、四十余年のほどは法華経の御名を秘しおぼしめして、御年三十の比より七十余に至るまで法華経の方便をもうけ、七十二にして始めて題目を呼び出ださせ給えば、諸経の題目にこれを比ぶべからず。その上、法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり。
御衣並単衣御書 建治元年(1275)9月28日
三十二相八十種好の仏よりも法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給いて、仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり、仏の滅後に法華経を信ずる人は「一りとして成仏せざることなけん」、如来の金言なり。
報恩抄 建治2年(1276)7月21日
求めて云わく、その形貌いかん。 答えて云わく、一には、倭国乃至一閻浮提一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし。いわゆる宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏ならびに上行等の四菩薩、脇士となるべし。二には、本門の戒壇。三には、倭国乃至漢土・月氏・一閻浮提に、人ごとに有智・無智をきらわず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。このこといまだひろまらず。一閻浮提の内に仏の滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もおしまず唱うるなり。
妙心尼御前御返事(妙の字功徳の事) 建治2年(1276)または建治3年(1277)、5月4日
妙の文字は三十二相八十種好円備せさせ給う釈迦如来にておわしますを、我らが眼つたなくして文字とはみまいらせ候なり。譬えば、はちすの子の池の中に生いて候がように候はちすの候を、としよりて候人は眼くらくしてみず、よるはかげの候をやみにみざるがごとし。されども、この妙の字は仏にておわし候なり。 またこの妙の文字は、月なり、日なり、星なり、かがみなり、衣なり、食なり、花なり、大地なり、大海なり。一切の功徳を合わせて妙の文字とならせ給う。または如意宝珠のたまなり。
※9 久遠仏の加護と自らの使命の証
真言諸宗違目 文永9年(1272)5月5日
日蓮流罪に当たれば、教主釈尊衣をもってこれを覆いたまわんか。去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか。「必ず心の固きに仮って、神の守り即ち強し」等とは、これなり。汝等ゆめゆめ疑うことなかれ。決定して疑いあるべからざるものなり。
開目抄 文永9年(1272)2月
倭国国に此をしれる者、但日蓮一人なり 同 又云はく「数々見擯出(さくさくけんひんずい)」等云云、日蓮法華経のゆへに度々ながされずば、数々の二字いかんがせん。此の二字は、天台・伝教もいまだよみ給はず。況んや余人をや。末法の始めのしるし、「恐怖(くふ)悪世中」の金言のあふゆへに、但日蓮一人これをよめり。 同 当世、法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん
※10 自らと一門の信仰をより一層強固なものに
竜口の斬首寸前の危機から20日ほど経過した日蓮が「転重軽受法門」を著した背景には、文永8年の法難により鎌倉の日蓮一門は壊滅状態となるも、門下の個々人が「過去の誹謗正法による業を転重軽受している過程なのだ」と自覚することにより、法難を他人事ではなく我が事として捉えさせる、そしてともに乗り越えていこう、との強き思いがあるのではないでしょうか。
転重軽受法門 文永8年(1271)10月5日
涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかかる重苦に値い候えば、地獄の苦しみぱっときえて死に候えば、人天・三乗・一乗の益をうること候。 不軽菩薩の悪口・罵詈せられ杖木・瓦礫をかぼるも、ゆえなきにはあらず。過去の誹謗正法のゆえかとみえて、「その罪は畢え已わって」と説かれて候は、不軽菩薩の難に値うゆえに過去の罪の滅するかとみえはんべり December 12, 2025
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【仏ログ】長野県佐久市福王寺 東北の一木像のような荒々しさを感じる巨体の阿弥陀如来。しかし調査の結果、平安ではなく鎌倉時代作らしい。ご当地らしい人間味のある顔つきは仏より人間らしさを感じさせてくれた。 https://t.co/NHB3O5dAuP December 12, 2025
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【快慶と重源】快慶は東大寺大仏再興の大勧進(総責任者)であった重源と関係が深く、東大寺の僧形八幡神坐像、同寺俊乗堂阿弥陀如来立像など、重源関係の造像が多い。 https://t.co/9maVt2Vz0z December 12, 2025
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【仏ログ】山口県山口市の玄答院の阿弥陀如来は270cm丈六坐像。元・深野八幡宮神宮寺本地堂の本尊で現在は本堂の左に客仏の形で祀られる。脇侍に祀られる二天も深野八幡宮より。この地域の鎮守として多くの人に信仰されてきた歴史を感じます。 https://t.co/FQqvq0bvXR December 12, 2025
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東松山にある岩殿観音正法寺にお参りに行ってきました。
大銀杏の黄葉が素晴らしかったです✨
正法寺には千手観音、薬師如来、阿弥陀如来がお祀りされており、其々に技芸上達、病気平癒、両親の御供養を御祈念しました✨ https://t.co/ZppGCng58R December 12, 2025
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・南無寳勝如来 (なむほうしんじらい)⇒むさぼりの心を癒し無限の富を願う
・南無多寳如来 (なむとほうじらい)⇒飢えたものを救う
・南無妙色身如来(なむめうししんじらい)⇒健康に恵まれる
・南無廣博身如来(なむこうはしんじらい)⇒苦しみから永遠に解き放たれる
・南無離怖畏如来(なむりふいじらい)⇒恐怖から目覚め現実に立ち向かう勇気を与える
・南無甘露王如来(かんろようじらい)⇒綺麗な水で身も心も潤う
・南無阿弥陀如来(なむおみとじらい)⇒極楽浄土への往生の願いが叶う December 12, 2025
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#てらさんぽ
西教寺
#JR湖西線比叡山坂本駅 #神仏霊場 #第百四十八番札所 #御朱印 #阿弥陀如来 #真盛 #明智光秀 #庭園
湖西線18切符の旅 #ケイト旅
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こちらもご覧下さい
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東松山にある岩殿観音正法寺にお参りに行ってきました。
大銀杏の黄葉が素晴らしかったです✨
正法寺には千手観音、薬師如来、阿弥陀如来がご安置されており、其々に技芸上達、病気平癒、両親の御供養を御祈念しました✨ https://t.co/aRWUGdaRsA December 12, 2025
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#正信偈 11
そして、易行道(阿弥陀如来の本願力にお委せする道)は楽な船旅のようである。
阿弥陀如来の御本願を深く信じ続ければ、おのずと即、必ず往生・成仏する位となる。
ただ、平常よく“南無阿弥陀仏”を称え、阿弥陀如来の御本願の大いなる御慈悲の御恩に報ずべし。
と、龍樹菩薩は仰られた。 https://t.co/uekQzLny2v December 12, 2025
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お早うございます。私は、母の介護をしながら働いています。生まれて来られたことに感謝しています。助け合って行くことで四苦八苦を乗り越えて行くことが大事だと思います。法然様の教えに感謝しています。阿弥陀如来様に感謝しています。 https://t.co/8TEn3Bt556 December 12, 2025
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12月1日(月)
おはようございます。
仏教の事よくわからないですが
阿弥陀如来様優しいお顔でした。
素敵なお庭と紅葉も眺める時間
満喫できてありがたかったです🍁
お返しゆっくりですみません。
今週も緩く柔くよろしくです🍵
#京都
#紅葉
#阿弥陀如来 https://t.co/10j43TOO1o December 12, 2025
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今晩は。この世に生まれて来ることができたことに感謝すること。自分だけが苦しんでいる訳ではありません。誰もが苦しんでいます。互いに助け合ってどんな荒波を乗り越えて行くことが大事だと思います。阿弥陀如来様に感謝しています。南無阿弥陀仏。 https://t.co/1kSNeRfO68 December 12, 2025
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報恩の念仏
阿弥陀如来は、
迷いのなかにある私たちを哀れみ悲しまれ、
そのままに救いとるとはたらかれている。
浄土真宗の救いは、
この如来のはたらきを信じる心一つで定まり、
念仏は救われたよろこびが
声となってあらわれ出たものである。
西本願寺 衆徒教師 釋 光雲 December 12, 2025
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【徳川、豊臣、宮家 所縁の西楽寺】
空海の選んだ地、風水的にも最強のパワースポット🔥
西楽寺の歴史と共に、そのエネルギーを感じ、普段は閉まっている扉の奥へとご案内します✨
#西楽寺 #袋井 #静岡 #お寺 #阿弥陀如来 #徳川家康 #豊臣秀吉 #有栖川宮 https://t.co/i5YTVC0Iei December 12, 2025
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