エルサレム トレンド
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2025.12.20 07:00
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作家の仕事は「正しいことを伝える」ではなく「正しいとされていることを疑う」ことだし、「権力者の側に立つ」ではなく「排除されている側に立つ」ことではないのか?
この人は、村上春樹さんのエルサレム賞受賞時のスピーチ「壁と卵」を、きっと読んでもいないだろう。作家なのにね。
知念実希人氏が謝罪「人間性の問題」 https://t.co/djKaLSXnNZ December 12, 2025
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早い時期に、人は神の教えられた正しいことをすっかり忘れてしまっていた。そして、自分らの判断でこれが良いと決めていた。ダビデもその周りも無知になっていた。長い年月の間に、人々は自分に都合よく生きていた。
この行列を組織し、先導し、神の箱を普通の牛車に乗せた者たちは、中東の社会慣習と自分たちの目に正しいと思われたことを、神の明文化された戒めを吟味したり考慮したりすることもしませんでした。ただ実行、倣っただけなのです。
そして、これはダビデ王にとって恥ずべき失敗です。さらに、特に崇拝者の一人にとって致命的なものです。
しかし、この冒険においてダビデが犯した軽率な行為はこれだけではありません。ラビたちは、この最初の試みにおいて、契約の箱をエルサレムに運ぶ試みに関わったすべての人々の態度が完全に間違っていたと語っています。そして、この最初の試みと、はるかにうまくいった2回目の試みを表すヘブライ語の言葉の対比にも、このことが反映されています 。5節を見てください。そこにはこうあります。
「ダビデとイスラエルの家は皆、主の御前で糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。」
サムエル記下 6:5 新共同訳
キーワードは「祝う」で、ヘブライ語では 「サハク」です。 「サハク 」とは、笑う、からかう、陽気に騒ぐ、冗談を言う、そして一般的に軽薄にふざけることを意味します。
聖書の読者が、この語がパーティーの雰囲気という意味で使われていることを理解していれば、「祝う」と訳すことは間違いではありません。しかし残念ですが、異邦人の聖書翻訳者の中には、この語をひどく誤解し、楽器に結びつけて「イスラエルの家は楽器を「演奏した」(サハク)と訳す人がいます。これは意味を完全に歪めます。
12節から始まる、ダビデが箱をダビデの町に運ぶ2回目の試み(成功した試み)では、次のように語られています。
「神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。」
サムエル記下 6:12 新共同訳
この箇所で重要な言葉は「喜びをもって」で、ヘブライ語では「 シムチャ」です。 「シムチャ」という言葉は 、ユダヤ教の会堂で年間のトーラー朗読の終わりに 「シムチャ・トーラー」と呼ばれる儀式で祝われることから、皆さんにも馴染みがあるかもしれません。「シムチャ」は内なる喜び、心の喜びのことを表すのです。そしてこれは、キリスト教徒が「主にある喜び」と呼ぶものに似た感覚です。それは、騒々しいパーティー、宴会気分とは対照的に、敬虔で崇敬すべき喜びです。だから、神の箱を運ぶ二度目の試みには、適切な敬意が伴っていたのです。
特に1960年代からは、キリスト教においては、畏敬の念から神への心地よい親しみへと移行しようとする一貫した努力がなされてきたように思います。今では、パーティー仲間のような、笑顔で善良なイエス、私たちの軽率な行動に目をつぶり、目をそらして心配するなと諭す祖父のような父、そして具体的な導きや矯正、聖なる啓示よりも、温かく心地よい感情を与えてくれる聖霊がいます。多くの良書がキリスト教のこの比較的近年の進化を記録していますが、残念ながら、その目的は主に教会の座席を埋め、教会の資金を増やすことに集中していたのです。
神のイメージを、私たちの条件でより好感の持てる、より親しみやすいものに変え、信者の神に対する義務を、毎週の礼拝に出席し什一献金を納めることに限定するという戦略が取られたのです。これは、子供たちを教育システム内で昇進させるために基準を下げる傾向が強まっている、公立学校における現代の教育観とよく似ています。 December 12, 2025
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