芥川龍之介 トレンド
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2025.11.28 04:00
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ドクター・中松の戦後80年所感(その39)
そして8月15日、拡声器が鳴って、全員は第二種軍装を付け練兵場に集合すべしというスピーカーが鳴った。第二種軍装とは、夏用の正式な正装である。そして練兵場に集まると、天皇陛下のお言葉が流れてきたが、東京から遠い舞鶴なのでラジオがよく聞こえない。
終わった時も上官が「陛下が今おっしゃったように今後も頑張れ」と、私達全員もこれからもっと頑張るぞということで、倭国が負けたなど一切思ってなかった。
そして翌日からひきつづき猛訓練が続いた。私は海軍に入って関心したことは、その教授陣が立派であるということであった。例えば文学では芥川龍之介が教授だし、理化学についても民間のレベルより遥かに高いレベルの授業だった。しばらくして民間の舞鶴の街の方から、どうやら倭国は戦争に負けたんじゃないかという噂が入ってきた。
そこで海軍機関学校は何をやったかというと、猛烈な勉強を始めたのである。ただちに座学の勉強、物理、化学、国学、地理学その他、すべてに渡って猛烈な量と猛烈な深さで連日の座学が行われた。ここらへんもやはり、海軍の教育レベルの高さであろう。
つまり、これから海軍をやめてシャバに行くには、さらにもっともっと深い教養をつけさせ倭国を支える人材を育成するという方針だったと思う。
そして、私はハンモックNo.1の証明書と学習証明書をもらって舞鶴駅から東京に向かったのであるが、残念ながら貨車しかなくて、貨車に乗って、しかも運悪く雨が降ってきて、一晩中、雨に濡れながら東京に着いた。
そして、久しぶりの我が家について、玄関をノックすると私の母が出てきた。私は母に言った。「ただいま帰りました。」と敬礼すると母は驚いた顔で私を見上げて「どなたさまですか」と言った。
それもそうだろう。出発の時に75cmしかなかった胸囲が108cm以上の巨大な体になって、大男となって、ヌッと玄関から入ってきたのであるから。
家に入って廊下を甲板掃除と見立てて、一生懸命、縁側を磨いて綺麗にした。しかし舞鶴から東京まで貨車で一晩中雨に打たれたせいもあって、赤痢にかかったらしく、急遽、近くの海軍病院に入院することになった。
これが私の終戦の日の、終戦の頃の、そして故郷に復員した日の状況である。
ところで私の家のそばの柿の木坂にアメリカ帰りの祖父が家を建てたのである。この祖父は私のためにボートを浮かべる池を庭に作ってくれたり、それから私のつくった飛行機を一緒に飛ばしに行ったりしてくれたのだが、真珠湾攻撃で親戚全員が祖父の家に集まって、勝った勝ったと言って、喜んだときにその祖父はぽつりと「倭国は負けるよ」ということを言った。祖父が長年アメリカに住んでいた経験から言ったのだろう。
その後、祖父が亡くなり、私の復員後祖母が亡くなった。終戦の後で霊柩車もなく、私が祖母の遺体をリヤカーに積んで、私がリヤカーをひいて火葬場まで祖母を運んで行った。そして、昔から飛行機を一緒に飛ばしに行ってたい従兄弟の文也ちゃん(東大医学部卒業の医師)も一緒についてきた。そうすると向こうから水兵が五、六人、ざわざわと話しながら歩いてきた。そして、すれ違おうとしたとき、私はとっさに「敬礼せんか」とその水兵たちにかけ声をかけて、その水兵たちは一斉に挙手の敬礼をした。その時、私の胸には将校生徒の錨のマークが光っていた。
つまり、何を私が言わんとするかというと、終戦後、何か月も経っているのに、倭国の軍律、軍の規律はまだ残っていて、いかに倭国の軍隊は規律があったかということを私はしっかりと感じたのである。
(つづく) November 11, 2025
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「あばばばば / 芥川龍之介」
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女はもう「あの女」ではない。
度胸の好い母の一人である。
#ふみよみ #朗読 #芥川龍之介 #あばばばば https://t.co/xYACj3vGJu November 11, 2025
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