空海 トレンド
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2025.11.20
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空海に関するポスト数は前日に比べ59%減少しました。男性の比率は12%増加し、本日も40代男性の皆さんからのポストが最も多いです。前日は「倭国」に関する評判が話題でしたが、本日話題になっているキーワードは「兵庫県」です。
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関西広域連合で兵庫県から防災取組み推進の提案、それは大きな空海山の下で自然の困難大震災をも乗り越てきた、兵庫県民の努力と想いの表れ。
知事が全てのあなたに見せたい、災害や流行病にも負けない、あなたの想いを叶える強く美しく豊かな国。心温かい応援が兵庫県を、関西を強い国へ躍動させる。
#さいとう知事ありがとう
#兵庫の躍動を止めない November 11, 2025
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これは誤りでありコドモの屁理屈
国府中国も蒋経国までは一つの中国原則であり、中華人民国と国交を締結した国とは即時断交していた。
その上で蒋経国時代まで、国府中国は、大陸反攻ドクトリンを国是としていた。
国連から追放されたのも蒋介石が二重代表案を拒否するなど一つの中国原則に固執した為に国連脱退の予定であった。結果、アルバニア決議で代表権は中華人民共和国にあり、中華民国追放となった。
一つの中国原則を取り下げたのは、90年代の李登輝であり、これによって台湾独立の選択肢が生じた。結果、中南海は、一つの中国原則と台湾は中国領のふたつからの逸脱をさせない為に占拠への軍事威圧を行うなど00年頃の台湾海峡危機に到った。このとき、合衆国が空母打撃群を台湾海峡に遊弋させて軍事的威圧をした為に中南海は手を引いた。このときの教訓から中国は、空海軍の近代化と大軍拡を25年間で成し遂げた。結果、局地的パワーバランスは、中国優位となっている。
1980年までに世界のほぼすべての国は、倭国を含め一つの中国原則を形式的ないし実質的に認めており且つ中国の唯一の政府は中南海であるとして中華人民共和国と国交を締結していたのので90年代の李登輝による一つの中国原則取り下げは、国内はともかく、外交上手は完全に手遅れ。
故にお金欲しさに中台と国交をウロウロしている太平洋諸国の一部は例外として世界の国々は、倭国も含めて中華民国と言う国の存在を認めていない。
台湾は、中国の領土であり、中国を統治するのは、中華人民共和国であると言う扱いを世界の殆どの国がしている。
台湾は、国ではなく中国の一地方であるが、施政権を持っているのは中華民国政府であり、それを国家承認できないので経済代表部を相互において経済交流を行っている。
Q:台湾は国か?
A:台湾は中国の領土であり、中国を代表するのは、中華人民共和国である。
このうえで曖昧戦略をとってきたし今後も曖昧戦略をとるのが世界の殆どの国。故に台湾独立など支持しない。理由は簡単で台湾独立の動きがあれば中国が分離主義者による内乱として人民解放軍を台湾に投入するから。
そのようなことになったらどうするかを曖昧にするのも極めて当然の外交の基本。
高市はそれを破壊したので世界から白眼視され、馬鹿にされ、軽蔑される。そして、中国政府は、内政干渉を行い且つ、軍事侵攻の予告をしたとして極めて強い外交上の緊張を生じている。
そうであるから、台湾政府も台湾市民も高市と倭国が余計な迷惑行為をしていると煙たがっている。
コドモの屁理屈では、台湾に放火するだけ。 November 11, 2025
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大きな空海山に抱かれた兵庫県は自然の困難を乗り越え実りの恵みを継いできた歴史。知事県政は速やかな漁業者支援でその営みを未来へ繋ぎ躍動させる。
また播磨灘の牡蠣に美味できる、全てのあなたの心にある美しく豊かな兵庫県に。知事県政への心温かい応援は全てのあなたの想いを叶える。
#さいとう知事ありがとう
#兵庫の躍動を止めない November 11, 2025
5RP
嘘を本当だと思わせることは難しい。しかし真実は簡単に理解できるhttps://t.co/r5UVIhJz8I
神社と山と空海と悪魔教
https://t.co/ypOtRLedKa
真言密教も奈良大仏も天照大神も巡り巡って一つの輪
https://t.co/HROQPdpZz7
葬式をしない人々が急増https://t.co/C2Gq5ghK51
#狩野英孝
#葬式仏教 https://t.co/UhIAdHxF3Z https://t.co/AS1kUMbt53 November 11, 2025
4RP
【ご当地すこん部の楽しい解説】
①地域:香川県
②モチーフ:讃岐うどん
③簡単な解説:あっさりしたダシとコシのある麺が特徴の讃岐うどんは、定義として「香川県内で製造されたもの」「手打、手打式のもの」「熟成時間2時間以上」など色々ある。讃岐地方はかつて降雨量が少なく米の生産が難しいこともあったため、代わりに麦を作ってなんやかんやでうどんへと発展した。うどんの発祥は諸説あるが、歴史でよく聞くあの空海が中国から製法を持ち帰って倭国に伝えたという伝説も。本当であればなんというマニアックな知識欲👏 November 11, 2025
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講座では「仏教入門」としては『ブッダのことば』を読んでいますが、2026年からは「倭国仏教入門」も始めます。第一回は「法然」です。飛鳥・奈良時代、最澄・空海から考えることもできるのですが、この国で広く仏教と民衆つながったのは法然以降だと思うのです。https://t.co/4958NaMoDT November 11, 2025
3RP
人生がしんどい日に効く行動。
・みぞおちを30秒ゆっくりなでる
・心臓に手を当て深呼吸を10回
・机の上だけ綺麗にする
・神社で愚痴を思い切り吐く
・不安を紙に書き出してみる
・お笑いを見ながら誇張して笑ってみる
・好きな人の声を1分だけ聴く
・今日できたことを1個書き出す
・誰かに目を見て「ありがとう」って言ってみる
・マッサージに行く
・塩風呂かサウナに入って汗を流す
・空海さんに手紙を書く
・成田山の護摩祈祷を受ける
・信頼できる人に吐き出す
・今週も「よく頑張った」と自分の頭を撫でてセルフハグ
しんどい日に必要なのは、
『前に進む勇気』じゃなくて、
自分を回復させるやさしさ。
ひとりの夜に、そっと保存しておいて。 November 11, 2025
2RP
奈良市と西安市が長く友好都市関係にある事はあまり知られていない。
約1300年前、奈良・平安-中国の唐時代、文化や技術の発展を夢見て多く人が学び、阿倍仲麻呂・空海・最澄等の偉人が誕生した。そんな良き時代の歴史を妄想しながら私は両国の古都を歩き、今後も旅を続ける。
#奈良
#西安 https://t.co/WjhNIhVcmX November 11, 2025
1RP
@fQNc7gAM1SUUyZe 大変恐縮ですが、一人じゃ勉強出来ないから塾に行きたいと言う子供に似た考え方ですね。
御書も、釈迦についてや、空海や他の僧について、自分で読む方が、遥かに効率的に正確な知識を得られますよ。学会の解釈だと、史実と違う事が多くて驚きます。
他人の解釈より、自分で本質を掴み取りましょう。 November 11, 2025
1RP
法樂寺
(ほうらくじ)大阪市東住吉区山坂1-18-30
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法隆寺
(ほうりゅうじ)生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
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法華寺
(ほっけじ)奈良市法華寺町882
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マ行
霊場名称住所詳細
松尾大社
(まつのおたいしゃ)京都市西京区嵐山宮町3
詳細
松尾寺
(まつのおでら)舞鶴市松尾532
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摩耶山天上寺
(まやさんてんじょうじ)神戸市灘区摩耶山町2-12
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曼殊院
(まんしゅいん)京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
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三井寺
(みいでら)大津市園城寺町246
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御上神社
(みかみじんじゃ)野洲市三上838
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水間寺
(みずまでら)貝塚市水間638
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水無瀬神宮
(みなせじんぐう)三島郡島本町広瀬3-10-24
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湊川神社
(みなとがわじんじゃ)神戸市中央区多聞通3-1-1
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三室戸寺
(みむろとじ)宇治市莵道滋賀谷21
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妙法院
(みょうほういん)京都市東山区妙法院前側町447
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室生寺
(むろうじ)宇陀市室生78
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ヤ行
霊場名称住所詳細
薬師寺
(やくしじ)奈良市西ノ京町457
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八坂神社
(やさかじんじゃ)京都市東山区祇園町北側625
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吉田神社
(よしだじんじゃ)京都市左京区吉田神楽岡町30
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善峯寺
(よしみねでら)京都市西京区大原野小塩町1372
詳細
霊場名称住所詳細
霊山寺
(りょうせんじ)奈良市中町3879
詳細
六波羅蜜寺
(ろくはらみつじ)京都市東山区五条通大和大路上ル東
詳細
ワ行
霊場名称住所詳細
海神社
(わたつみじんじゃ)神戸市垂水区宮本町5-1
詳細
役行者霊蹟札所会
https://t.co/GV6ysdkhUX
役行者の遺徳と修験道の世界により多くの人々に触れていただき、その目指す所をご理解いただくべく、役行者ゆかりの寺院が集まって、この「役行者霊蹟札所会」を結成するはこびとなりました。
それは、平成の世における、新たな修験道の出発でもあります。
https://t.co/VCxrcUDOen
札所会について
役行者(えんのぎょうじゃ)とは、大峰山(おおみねさん)においては蔵王権現(ざおうごんげん)を、葛城山(かつらぎさん)においては法起菩薩(ほうきぼさつ)を感得され、山岳抖藪(さんがくとそう)の実践行を通じて得られたという神通力によって、人々を済度した在家の修行者として信仰されてきた人です。
倭国古来の山岳信仰に、役行者に代表される山林修行者たちによって、仏教や道教・儒教など外来の宗教が結びつけられ、次第に組織・体系化されたのが、「修験道(しゅげんどう)」です。
その精神と実践は、理源大師聖宝(しょうぼう)や智証大師円珍(えんちん)をはじめ、累代の修験の祖師と仰がれる仏教者達によって伝承され、今に至る1300年の長きにわたって伝えられてきました。
修験道の開祖としての役行者への信仰は、その長い歴史において、50年ごとに御遠忌法要などを執りおこなうことによって盛り上がってまいりましたが、それがそのまま修験道の歴史でもあったと申せましょう。
ただし、その歴史は、決して平穏なるものであったわけではなく、中世後期以来、修験の組織は、聖護院を中核とする天台系の本山派修験道と、醍醐寺を中核とする真言系の当山派修験道の二つに分かれ、互いに競合して相争うなど円満でない時代もありました。
明治維新を迎えると、明治政府から神仏分離政策にともなう「修験道廃止令」が1872年に発布されたことにより、全国各地の修験道組織は解体を余儀なくされ、修験道寺院も次々と廃寺の憂き目に遭いました。
そして、それにともない人々の修験道への信仰も衰退していったのです。
しかしながら、さる平成13年、役行者神変大菩薩1300年御遠忌を機として、修験教団たる真言宗醍醐派総本山醍醐寺・本山修験宗総本山聖護院・金峯山修験本宗総本山金峯山寺の三つの本山が一堂に会し、御遠忌合同大法要を、山上ヶ岳の大峯山寺本堂において厳修。
さらにこの機会をもって、役行者の遺徳と修験道の世界により多くの人々に触れていただき、その目指す所をご理解いただくべく、役行者ゆかりの三十六寺社が集まって、この「役行者霊蹟札所会」を結成するはこびとなりました。
それは、平成の世における、新たな修験道の出発でもあります。
このサイトで紹介されております「役行者霊蹟札所巡礼」は、その一つの表現であります。
皆様が、役行者ゆかりの寺々、山々を巡り、その遺徳に触れ、大自然を道場とした山岳抖藪の実践行を共有され、霊蹟札所を巡られることは、修験道の長い歴史に新たなる一ページを加えるものと確信しております。
役行者霊蹟札所会
役行者霊蹟札所総会
去る令和三年六月二十五日、紀州根來寺湊御殿において、役行者霊蹟札所総会が開催されました。
総会では小松新会長・大塚副会長・近藤副会長など新役員の就任等が審議され、承認されました。
また、今期の総会法要は例年行われてきた平和祈願祭ではなく、時勢を鑑みてコロナ感染症疫病退散祈願会として執行し、根來寺一山修法による護摩供で、役行者霊蹟札所会疫病退散の御札を製作し、開眼いたしました。
この御札は、一字院に三体配布し、各加盟寺社で一年間、札所会として疫病退散の祈念することを決定いたしました。
新・旧会長挨拶
今般、以下の通り就任いたしました。
役行者尊の御霊威にあやかり、誠に微力ではございますが、これよりは当札所会の円滑な運営と更なる充実の為に全力を尽くしてまいります。
何卒、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
会長:法樂寺住職 小松光昭
副会長:千光寺住職 大塚静弘
副会長:神峯山寺副住職 近藤孝道
役行者霊蹟札所会 会長 小松光昭
平成二十三年より三期十年間に亘り、皆様のお力添えのもと役行者神変大菩薩顕彰に勤めてまいりましたが、今後は若い世代に引き継いでいただくことと相成りました。
これまでのご懇情いに感謝申し上げと共に、今後も相変わらませず当札所会発展の為にお力添え賜ります様、宜しくお願い申し上げます。
前会長:七宝瀧寺貫主 東條仁哲
前副会長:泉州松尾寺住職 高岡保博
前副会長:金峯山寺長臈 田中利典
役行者霊蹟札所会 旧会長 東條仁哲
三十六寺社紹介
https://t.co/E0T8E6I0oW
ここでは、役行者霊蹟札所となっている三十六の寺社のそれぞれご紹介しております。
以下に挙げている画像、または寺社名をクリックすると、各寺社の簡単な縁起や交通情報、GoogleMapを利用した周辺地図など、個別にご紹介しているべージを表示します。
画像:きんぷせんじ
金峯山寺
奈良県
画像:にょいりんじ
如意輪寺
奈良県
画像:ちくりんいん
竹林院
奈良県
画像:さくらもとぼう
櫻本坊
奈良県
画像:きぞういん
喜蔵院
奈良県
画像:ぜんぷくじ
善福寺
奈良県
画像:だいにちじ
大日寺
奈良県
画像:とうなんいん
東南院
奈良県
画像:ほんざんじ
本山寺
大阪府
画像:おおみねさんじ
大峯山寺
奈良県
画像:りゅうせんじ
龍泉寺
奈良県
画像:すぎょうじ
菅生寺
奈良県
画像:きっしょうそうじ
吉祥草寺
奈良県
画像:せんこうじ
千光寺
奈良県
画像:ほうざんじ
寶山寺
奈良県
画像:りょうせんじ
霊山寺
奈良県
画像:まつおでら
松尾寺
奈良県
画像:ちょうごそんしじ
朝護孫子寺
奈良県
画像:むろうじ
室生寺
奈良県
画像:おおのじ
大野寺
奈良県
画像:しょうごいんもんぜき
聖護院門跡
京都府
画像;だいごじ
醍醐寺
京都府
画像:かぶさんじ
神峯山寺
大阪府
画像:ほうらくじ
法楽寺
大阪府
画像:せんしゅうまつおでら
松尾寺
大阪府
画像:しっぽうりゅうじ
七寶瀧寺
大阪府
画像:ひろかわでら
弘川寺
大阪府
画像:かんしんじ
観心寺
大阪府
画像:てんぽうりんじ
転法輪寺
奈良県
画像:せんじゅうじ
千手寺
大阪府
画像:てんりゅういん
天龍院
大阪府
画像:こうほうじ
興法寺
大阪府
画像:ねごろじ
根来寺
和歌山県
清荒神清澄寺
兵庫県
画像;すまでら
須磨寺
兵庫県
画像;いぶきさんじ
伊吹山寺
滋賀県
三十六寺社マップ
https://t.co/f25ucnW4Ho
ここでは、二府四県にまたがって点在している、役行者霊蹟札所の分布図を、ご紹介しております。
札所それぞれの詳細な位置情報、ならびにアクセス方法などは、三十六寺社紹介の各寺社それぞれを紹介するなかに記載しておりますので、そちらをご参照下さい。
修験道とは何か
https://t.co/TwzOkxiyCc
修験道とは
修験道は、山を聖域と見、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得、その力によって自他の救済を目指そうとする山岳信仰の宗教です。
このようなことから、修験を「山伏(やまぶし)」と言うこともあります。
修験との名称は、その字の如く、「修行して験力を顕す道」であるということから名づけられたものです。
修験道は、自然の中でも特に「山」を神聖視してきた倭国人古来の山岳信仰に、インドの宗教である仏教や、中国の宗教である道教や儒教など、外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道や陰陽道、民間信仰などまでが取り入れられ、次第に形成されてきました。
修験道の教義や世界観、修行方法は、ほとんどの場合仏教、とりわけ密教のものが取り入れられており、そのため仏教や密教についての知識がなければ、まず修験道を理解することは出来ません。
しかし、では「修験道=仏教」かというと、そうとは言えません。
これは、中世より修験道を伝えたのが、役行者のような在俗の者だけではなく、仏教僧のなかでもとりわけ密教僧が主体であったためです。
よって、「修験道は仏教の一部」と見なされる場合が多く、修験道を仏教の修行法の一つとして考えられています。
修験道とは、倭国古来のきわめて漠然とした宗教的心情を、主に仏教の思想体系によって整理し、さらにその他の宗教をも換骨奪胎して形成されてきた「倭国独自の宗教」である、と捉えるのが妥当かもしれません。
修験道の歴史
修験道は、7~8世紀に大和葛城山で活動していた呪術者、「役小角(えんのおづの)」によって開創されたと伝承されています。
もっとも、現実には、役小角が当初、具体的にどのような思想を持ち、どのような修行を行っていたかは、ただ葛城山の中に住んで呪術を駆使していることが知られているだけで、詳しいことはわかっていません。
そして、そのような役小角は、弟子の讒言により島流しに処されたことが伝えられています(『続倭国記』)。
又、奈良中期から末期にかけて、仏教僧の中に山林修行を行う者が多数現れます。
平安期初頭に密教が倭国に伝えられると、修験道は、主に密教の僧侶による主導のもと、仏教のなかでも特に密教の体系的な思想と修行法を導入した、「仏教の一派」「仏教の修行法の一つ」とも言い得るものになっていきます。
現在、修験道の当山派と本山派という二大流派の派祖として崇められている聖宝と増誉は、それぞれ真言密教僧と天台密教僧なのです。
奈良時代には、国家から危険視されて規制の対象となり、社会からも賤民(せんみん)として扱われさえしていた山林修行者の一部は、真言密教を初めて倭国に伝えた空海や、天台宗の密教を伝えるために唐に渡った、円仁(えんにん)・円珍(えんちん)などによって、密教が隆盛を迎えるようになった平安期になると、貴族達などからむしろその験力、呪力などによる現世利益が期待される存在となり、ある程度の社会的地位が約束されるようになったようです。
鎌倉初期には、必ずしも僧侶でない一般の山林修行者達が、修験道独自の集団を形成していき、次第に神道や陰陽道などさまざまな宗教の思想を取り込みつつ、民衆の支持を集めていったようです。
そしてその修行や活動拠点は、葛城山・大峰山・金峯山・熊野三山だけでなく、富士山・羽黒山・彦山・御嶽山・大山・白山など全国各地に広がりを見せ、それぞれが独自の教義や一定の組織を持つに至ります。
しかし、江戸幕府が開かれると、それら全国各地に展開していた修験者たちは、一部を除いて、真言系の当山派か天台系の本山派の、何れかの派に所属させられることになります。
明治維新を迎えると、国家神道の(「神道とは宗教のような低俗なものでなく、より普遍的科学的な人の道」とする)建前上、神道を含んだ様々な宗教の混淆である修験道は、容認できるものでなかったため、明治元年(1868)から明治5年(1872)にかけての太政官達によって、公式には廃止されます。
しかし、それまで修験道を支持していた人々の信仰や、祭祀などの慣習まで廃することは出来ず、また修験道側も、組織として真言宗醍醐派や天台宗寺門派に属してその命脈を保とうとするなど、なんらかの形で存続します。
そして、昭和の大戦後、修験道諸流は、それぞれが宗教法人格を取得するなどして、一個の独立した宗教として復活することになります。
修験道大結集
年号変わって平成の世となった平成16年7月1日、大峯山・熊野三山・高野山の三つの霊場と、大峯奥駆道・熊野古道・高野山町石道の三つの参詣道が、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界遺産に登録されます。
これを期に、全国各地の修験道諸派を集結して「修験道大結集(しゅげんどうだいけつじゅう)」が催され、世界の平和を祈ると共に、今後も修験道が社会で活動を展開し、共に発展していくことを確認しあいました。
修験道は、倭国古来の、そして現代にも息づく宗教であり、倭国文化の一端を担う存在でもあるのです。
開祖 役行者(えんのぎょうじゃ)
https://t.co/fOKpTDudkj
役行者とは
写真:役行者坐像(大峯山寺蔵)
「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは、7~8世紀に奈良を中心に活動していたと思われる、修験道の開祖とされている人物です。
「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われ、またほかに「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの呼び名があります。
役行者が、7~8世紀に実在したことは確かなようですが、生没年など詳しいことは不明です。
もっとも、伝説の多くは、舒明天皇六年(634)1月1日に大和国茅原にて生まれ、大宝元年(701)、68歳の時に「没した」のでなく、「昇天した」としています。
いずれにせよ、この世の人でなくなった、ということでしょう。
「役優婆塞」とは、平安初期に成立したと目されている『倭国霊異記』における役行者の呼び名です。
優婆塞(うばそく)とは、サンスクリット「upāsaka(ウパーサカ)」の音写語で、「在家仏教信者」を意味する言葉です。
役行者は、僧侶ではなく、在家仏教信者として修行した人です。
このサイトでもっぱら使っている「役行者」という呼称は、平安期に入ってから使用されだしたもののようです。
それ以前の奈良時代には、「役君小角」と一般に呼ばれていたようですが、詳細は不明です。
「神変大菩薩」とは、盈仁(えいにん)法親王がつとめられた「役行者一千百年御遠忌」を機に、聖護院門跡に三年間仮御所を置かれいた光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)です。
諡号とは、僧侶や貴人などの死後に、その生前の行いを尊んで朝廷から贈られる名です。
さて、役行者にまつわる伝説は、大変多く残されており、それらが記された書物なども数多く伝わっています。
それら伝説のなかで、役行者は、不思議な力を駆使して空を、野山を駆けめぐり、鬼神を自在にあやつった人とされています。
伝説には、奇想天外にすぎて、現代的には到底信じがたいようなものが多くあります。
しかし、いずれにせよ、役行者とは、数々の不可思議な事績をのこした偉大な修行者、修験道の開祖として崇められてきた存在です。
しかし、そのように伝説に彩られた役行者ですが、それが実在の人物であったことを確認できる正史と言われる史料は、非常に限られています。
いや、たった一つで、しかもわずか数行でしかありません。平安初期に編纂された、『続倭国紀(しょくにほんぎ)』にある記述がそれです。
『続倭国紀』にみる役行者
「文武天皇三年五月丁丑」
役君小角(えんのきみ しょうかく) 伊豆島ニ流サル。
初メ小角葛城山(かつらぎさん)ニ住シ呪術ヲ以テ称サル。
外ノ従五位下韓国連廣足(からくにのむらじ ひろたり)焉ヲ師ト為ス、後其ノ能ヲ害(そね)ミ、讒(ざん)スルニ妖惑ヲ以テス。
故ニ遠島ニ配セラル。
世ニ相イ伝エ言ク。
小角能ク鬼神ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用ヒザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス。(原漢文)
〈訳文〉
文武天皇3年(699)5月24日、役君小角が伊豆島に流された。
小角は葛城山に住み、呪術をよくすると、世間の評判であった。
従五位下の韓国連廣足という者が、当初この小角を師と仰いでいたが、その能力をねたんで、(役小角が)人々に妖言を吐き惑わしていると朝廷に誹謗中傷した。
そのため、(小角は)遠島の刑に処せられたのである。
世間の噂では、小角は巧みに鬼神を使役して、水を汲んだり薪を採らせ、もし(鬼神が)命令に背くようならば、たちまち呪術によって身動きがとれないようにしてしまう、などと言われている。
ここからわかることは、「鬼神を使役できると世間で噂されている、葛城山に住む行者の役君小角が、従五位下というかなり高い官位にあった弟子の告発で島流しにあった」ということだけです。
正史からは、役行者の人となり、生い立ちや思想などはまったく知ることが出来ません。
しかも、役行者が流刑に処せられたのは事実としても、その業行は、あくまで「世間の噂」でしかありません。
宗教者が社会を「妖惑」するのは、いつの世も為政者にとって、とても危険なことです。
例えば「僧尼令」でも、社会を妖惑する行為を第一条にて禁じています。
正規の僧尼でも、これを行うものは処罰されたのです。
役行者のように、山に住んでいる「在俗の者」がこれを行うのは、なおさら危険とされて配流されたのは当時として当然と言えるでしょう。
役行者に関連して、正史から知られることは、ただこれだけのことです。
『倭国霊異記』にみる役行者
次に挙げるのは、史料ではなく、あくまで説話集です。
同じく平安初期に、『続倭国紀』にやや遅れて成立したとされる、薬師寺の僧景戒(きょうかい)によって編纂された倭国最古の説話集、『倭国現報善悪霊異記』いわゆる『倭国霊異記(にほんりょういき)』です。
この上巻に、当時の世間一般が流通していたであろう、役行者にまつわる説話が収録されています。
ここでは、『続倭国紀』に見られなかった、役行者の出自についてなどが若干記されており、いかなる修行を行っていたかを多少描かれています。
むろんこれは説話集ですから、それが事実であったかどうかは別の話です。
「孔雀王の咒法を修持し、異しき験力を得て、現に仙と作りて天に飛ぶ縁 第二十八」
役優婆塞(えんのうばそく)は、賀茂役公(かものえのきみ)、今の高賀茂朝臣(たかかものあそん)といふ者なり。
大和国葛木上郡茅原(ちはら)村の人なり。
生(うまれながら)知り博学一なり。
三宝を仰ぎ信(う)けて業とす。
毎(つね)に庶(ねが)はくは、五色の雲に挂(かか)りて、仲虚(なかぞら)の外に飛び、仙宮の賓と携り、億載(おくさい)の庭に遊び、蘂蓋(すいがい)の苑に臥伏(ふ)し、養性(ようじょう)の気を吸ひ、くらふことをねがふ。
所以(ゆえ)に晩年四十余歳を以て、更に巌窟に居り、葛を被、松を飲み、清水の泉を沐み、欲界の垢を濯ぎ、孔雀の咒法を修習し、奇異の験術を證し得たり。
鬼神を駆使得ること自在なり。(以下略:後述)〈*原漢文〉
〈訳文〉
「孔雀明王の呪法を修め、不思議な力を得て、現世で仙人となって天に飛んだ話 第二十八」
役優婆塞は、賀茂役公、今の高賀茂朝臣の出身である。
大和国葛木の上郡茅原村の人であった。
生まれつき博学でぬきんでており、仏法僧の三宝を深く信じていた。
いつも(彼が)心に願っていたのは、五色の雲に乗って、果てしない空を飛び、仙人の宮殿にいる客人と一緒になって、永遠の楽園や、華の満ちた苑起居してその「気」を得、身心生命を養う事を心掛けていた。
(若い頃からそのようにねがっていたので、)四十歳を過ぎるころには、洞窟で生活するようになり、葛で作った着物を羽織り、松の実を食べ、清らかな湧き水で沐浴するなどして、俗世間の垢を落とし、孔雀明王の呪法を修行して、不思議な力を得たのである。
鬼神を使役することは自由自在であった。(以下略:後述)
原文の全てとその訳文を掲載するのは長くなりすぎるため、省略いたしました。
以上に述べられているのは、役行者は、三宝に帰依する優婆塞あり、その上に道教的、密教的な苦修練行によって不思議な修験の術を得たというのです。
ここでは道教と仏教とが混在しており、なんとも奇妙ですが、これが『倭国霊異記』当時の倭国民族宗教に対する一般的な見方とも考えられます。
これは、いまだ弘法大師空海によって、悟りをその第一目的とする「純密(じゅんみつ)」が、唐からもたらされる以前に行われていた、悟りを第一目的にするのでなく、超自然的能力の獲得をこそ主目的とする「雑密(ぞうみつ)」を、役行者が行っていたとする伝承と見ることが出来るでしょう。
また、修験がまだ正統な密教の影響を多分にうけて「修験道」として成立していない時代の反映とも見ることも出来るでしょう。
さて、以下に、先ほどは長きに過ぎて省略した箇所の、概要だけを示しておきます。
<概要>
この後、孔雀明王の呪法を習得した役行者は、鬼神達に、「金峯山(きんぷせん)と葛城山(かつらぎさん)の間に橋を架けろ」と、(途方もない無理難題を)言いつけます。
鬼神達はそんなことは到底出来ない、と悩み、困り果てます。
そこで、葛城山の一言主(ひとことぬし)という神は、(役行者の無理難題から逃れるため、人にとりついて)「役行者が、文武(もんむ)天皇を抹殺しようとしている」という託宣をさせます。
当然、文武天皇は、役行者を捕縛しようとしますが、役行者は不思議な力があるため容易に捕まりません。
そこで、天皇が役行者の母を捕らえると、役行者は母のために自ら捕縛され、伊豆に流されます。
役行者は、昼は刑罰どおり伊豆でおとなしくしているも、夜になると富士山に飛んで行き、そこで修行する日々を送っていました。
しかし、何者かが再び天皇へ讒言(ざんげん)したため、役行者は今度こそ極刑に処されかけます。
ところが、不思議な出来事があって助かるのでした。
伊豆での生活も3年を過ぎた大宝元年(701)正月、役行者は恩赦(おんしゃ)によって許され、大和に帰ります。
そして、役行者はついに仙人となって、どこか天高く飛んでいってしまうのでした。
この後、倭国の道照(どうしょう)という高僧が、天皇の命によって唐に渡り、そこで五百人の中国僧を前に『法華経』を講義していると、倭国語で問い掛けてくるものがあります。
道照が「誰だ」とその名を問うと、「役優婆塞」という返答があります。
道照は、倭国の聖人に違いないとおもってその声の主を探しますが、ついに見つけることは出来ませんでした。
さて、役行者を讒言(ざんげん)によって流罪にさせた一言主は、いまだに役行者によって呪縛されたまま(『倭国霊異記』編纂当時)だといいます。
以上が、『倭国霊異記』に掲載される役行者の説話です。
この説話の最後は、「役行者があらわした奇瑞はあまりに多く、それらを逐一挙げることは面倒である。ほんとうに仏法の不思議な力は広大で、信仰した者は必ずそれを知ることになるだろう」と結んでいます。
さて、以上はあくまで説話、いわゆる「お話」でありますが、例えば、唐で役行者の声を聞いたという道照は、白雉四年(653)から斉明天皇五年(660)にかけ唐に渡り、かの玄奘三蔵に師事して学んだ高僧で、文武四年(700)に没した人です。
しかし、そうすると、『続倭国紀』の記事にある「699年に役小角が伊豆に流された」と、『倭国霊異記』の「701年(以降)に役小角がどこか天高く飛んでいった」「その後、道照が役行者の声を唐で聞いた」とする話とでは、半世紀ほどの年代的ずれが生じていることがわかるのです。
役行者が「どこかに飛んでいった」ときには、道照はすでに没してこの世に無かったのですから、この話は虚構に過ぎないと言えるでしょう。
また、別の側面から一言すると、そもそも役行者が流罪に処されたのは、鬼神達に対して全く理不尽と言える要求をしたことに起因しており、よって自業自得であったとも言えます。
しかし、役行者は一言主神(ひとことぬしのかみ)を呪縛して放置するなど、仏教者として意外とも思える行動に出ていることが描かれています。
が、それでも『倭国霊異記』の中で尊敬の対象とされ描かれているのは、『倭国霊異記』の編者景戒が、役行者の「不思議な力を獲得していた」という伝承をこそ重く見たためでしょうか。
しかし、この『倭国霊異記』の説話が、後代まで語り継がれることとなる、伝説的存在としての役行者の姿を描いた原型となったことは間違いないと見て良いでしょう。
役行者を「役優婆塞(えんのうばそく)」と仏教の在家信者としていること。
仏教と道教との混同がみられること。
『孔雀王呪経』という密教経典に基づくと考えられる、孔雀明王の呪法を行ったとしていること。
富士山で修行したとすること。
仙人となって中国に渡った、などといった点がそれです。
このような『倭国霊異記』に見られる、伝説的存在としての役行者像の原型は、幾多の書物の中に踏襲され、鎌倉・室町・江戸と時代が下るごとに、さらに超人的能力を持った者として描かれていきます。
そしてまた、『倭国霊異記』ではある観点からすると、むしろ「不思議な力で鬼神をも使う呪術者」とも捉えうる人であったのが、後代になるに従い前鬼後鬼を改心させた、あるいは雨乞いの民衆を助けた等の民話が出てきて「人格的にも優れた立派な人であった」と描かれるようになっていき、全国各地で民衆の信仰をより集める存在となっていきます。
当山派祖 聖宝(しょうぼう)
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聖宝とは
画像:聖宝(愛知 林昌院蔵)
聖宝(しょうぼう)とは、平安初期(832-909)に活躍した真言宗の僧侶で、修験道中興の人とされ、当山派修験の祖と仰がれる人物です。
また、「小野流(おのりゅう)」と言われる、真言密教における事相(じそう)の二大流派の一つの基礎を築いた人としても、仰がれています。
俗名は、「恒蔭王(読み不明)」といい、天智天皇の後裔であったと言われています。
聖宝には、宝永四年(1707)に、第113代東山天皇から贈られた、「理源大師(りげんだいし)」との諡号(しごう)があります。
聖宝が生まれたのは天長九年(832)、出生地は諸説あって、はっきりとわかっていません。
大和国(奈良)説がよく挙げられますが、讃岐国(香川)であるとしている伝記(『元亨釈書(げんごうしゃくしょ)』)もあります。
聖宝は、14才で空海の実の弟で十代弟子の一人にも挙げられる、東大寺の真雅(しんが)に従って出家。
いわば空海の孫弟子となります。
以降、南都の諸大寺にて、三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)など顕教を学び、真雅や金剛峰寺の真然(しんぜん)、東寺の源仁(げんにん)から密教を受けて、56才で真言密教の正統な継承者となっています。
また、聖宝は、貞観十六年(874)に、京都山科は笠取山上で、准貞観音(じゅんてい かんのん)と如意輪観音(にょいりん かんのん)を祀る小堂を建立しています。
のちの醍醐寺です。
そして、貞観十七年(875)には、東大寺大仏殿の東南に、薬師堂を創建。
のちの東大寺東南院です。
これら両寺は後代それぞれの地で、政治的に大変な権勢を誇る大寺院となっていきます。
そして、聖宝は、寛平二年(890)に貞観寺(じょうがんじ)座主、同じく寛平六年(894)には、当時の真言宗の最高位たる東寺長者となり、朝廷より僧正位を賜っています。
また、東大寺別当も勤めるなど数々の重席についています。
しかし、延喜九年(909)には諸職を辞して、京都深草の普明寺(ふみょうじ)に退き、ついに同年七月六日、没しています。享年78歳。
山林抖藪の人
世間の喧噪から離れて、静かで得体の知れぬ、時として恐怖すら感じる山奥深くに、必要最低限の物だけを携えて独り分け入り、樹の下や洞窟で寝起きし、そこで冥想して心を清めるという修行。
このような修行を、仏教では「頭陀(ずだ)行」の一つに数えています。
この修行によって行者は、衣食住や名誉・権勢などへの執着のむなしさを知って、これを断ち切り、心を清めるのです。
頭陀とは、「ふりはらう」を原意とする、サンスクリット「dhūta(ドゥータ)」の音写語で、一般に「禁欲生活」の意味に用いられる言葉です。
「抖藪(とそう)」とは、このdhūtaの漢訳語です。
奈良中後期から平安初期にかけ、権力にあまりに近くなりすぎたが為に堕落した僧侶たちの存する教界を嫌い、それが国禁でありながらも山林に入って修行に励む、正式な僧侶や半俗の者が多数あったようです。
中国から倭国に密教を伝えた空海、天台や密教の一部を伝えた最澄など、平安期仏教界の立役者ともいうべきこの龍象も、若かりし頃、栄誉権勢を嫌って深山に身を投じ、頭陀を行じていたことが、彼ら自身の著作から直接知ることが出来ます。
聖宝もまた、その晩年こそ天皇や貴族達の帰依を受け、朝廷から庇護されて、かずかずの重席につくなど、権勢をほしいままにする地位にありましたが、若かりし頃から、南都諸大寺で学問を修めるだけでなく、役行者に心酔して、吉野などにて山林抖藪(さんりんとそう)の行に励んだ、実践修行の人だったのです。
当山派修験の祖
聖宝は、役行者以降途絶えていたと言われる、大峯山(おおみねさん)の入峯(にゅうぶ)修行を、正式に再興しています。
さて、聖宝は、大峯山を「一乗菩提正当の山」であると把えています。
これは、大峯山が「生きとし生けるものが皆等しく悟りに至り得る真実の山」であるという意味です。
この「正当の山」という言葉から、後代に聖宝を祖と仰ぐ修験道の流派は、自らを「当山派」または「当山方」と名づけたのです。
また、伝説では、寛平七年(895)、聖宝は大峯山中にて、金剛蔵王(こんごうぞうおう)菩薩の姿をとって現れた役行者に出遇い、龍樹(りゅうじゅ)菩薩に引き合わされて、「恵印法流(えいんほうりゅう)」という秘法を伝授されたとしています。
この不思議な伝授は「霊異相承(りょういそうじょう)」と言われます。
「恵印法流」は正式には、「最勝恵印三昧耶法(さいしょう えいん さんまやほう)」といい、当山派修験道の特徴、核心とも言える修行法で、今に伝えられています。 November 11, 2025
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もしその宗派の人が病で行を続けるのが難しくなった時、ストイックな精進を重んじる祖師は「それでも修行を続けなさい」と言い、簡単な行による万人救済を説く祖師は「難しいなら無理しなくても良い」と言い、空海さんは薬を用意して病を治す
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前に大学で聞いたこの話がお国柄ジョークみたいで大好き November 11, 2025
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唯識研究でも非常にお世話になっている竹村先生の『空海と華厳思想』(2025,春秋社)を読んでいる。第一章を読み終えただけだが、なぜ真言では即身成仏と説くのか、空海による華厳が理解よく分かる一冊だと思う。 https://t.co/IkUekusbmP November 11, 2025
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今日は師茂樹教授の「空海と徳一」の講演で川崎大師教学研究所へ🏃🚃
岩波新書の『最澄と徳一』でこの世に
#三一権実諍論 を知らしめた事で有名です。
最澄と徳一がXの如き重箱の隅を突く様なレスポンスバトルの手紙をしていたとは知りませんでした。楽しく拝聴✨
最後は質問タイムが欲しかったです https://t.co/ULNg6WaNWq November 11, 2025
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みなさんご存知の空海が平仮名に採用&ハングル読める人はデーヴァナーガリーも読めるようになります。構造は同じなので。タイ文字も構造は同じ。文法的には倭国語話者はハングルやヒンディー語、モンゴル語、トルコ語なんかが楽なはず。 https://t.co/l8ftA8wLyg November 11, 2025
【根香寺①】
お次は「拝啓、足摺岬にて」に出てくる、高耶さん(今空海)と美玖が訪れた根香寺へ。
根香寺あたりは山の中なので自然がとても豊かで境内歩いてるだけでホッとする感じでした。
そしてこちらも紅葉が綺麗でした🍁
#ミラツア https://t.co/QLm4AziaHH November 11, 2025
【星が落ちてきたと伝わる神社・星田妙見宮(大阪)⛩】
星田妙見宮は、弘法大師・空海がひらいた聖地に建つ神社です。
空海がこの地で佛眼仏母尊の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り、3ヶ所に分かれて地上に落ちました。
現在もこの伝説は当地に残っており、星が地上に落ちた場所として、大切に守られてきたお社です🌠
自然豊かな境内がとても印象的でした🌿
また、古くから七夕のおまつりが行われていて、
来年は創建1210年の大きな節目の年を迎えられるそうです🎋
キラキラ輝く箔押しの紅葉の御朱印も、この時期だけの限定御朱印です🍁
紅葉の赤に流れゆく川の青、そして輝く満月の金色のコントラストがとても素敵です✨
⛩️星田妙見宮の方から⛩️
紅葉限定御朱印:初穂料1200円
授与期間:10月~12月末日まで
(紅葉見頃:11月中旬~12月20日)
「100年後にも神社お寺を残したい」という想いに賛同し、
毎月500円で支えてくださるサポーターの皆さまへの感謝を込めて、全国の神社お寺で、サポーターさんの皆さんの健康や幸せをご祈願しています🙏
今月は、星田妙見宮さんにお願いしました⛩️
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⛩️ 星田妙見宮 アクセス
・JR学研都市線「星田駅」徒歩約20分🚶♀️
・京阪電車交野線「私市駅」徒歩約30分🚶♂️
・大阪方面:第二京阪道路 交野南IC出口より約13分🚗
・京都方面:第二京阪道路 交野北IC出口より約15分🚗
【神社情報】
📍所在地:大阪府交野市星田9丁目60-1
🔎詳細は公式X
@hoshidamyokengu
または公式HPをご確認ください。
御朱印の情報は「ホトカミ 星田妙見宮」で検索🔍
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【ホトカミサポーターについて✨】
いつもホトカミをご利用いただきありがとうございます☺️
ホトカミサポーターさんは、今週4名増えて 584名 になりました🎉
「100年後にも神社お寺を残したい」という想いに賛同し、毎月500円で支えてくださるサポーターの皆さまには、ホトカミ運営からのお礼として、4つの特典をご用意しました🎁
1️⃣ プレミアム検索
御朱印の種類、宗派や神さま・仏さまなど、多彩な条件から寺社を検索できます🔍
2️⃣毎月の幸せ・健康のご祈願✨
ホトカミ運営からサポーターさんへの感謝を込めて、毎月、全国の神社お寺で、サポーターさんの皆さんの健康や幸せをご祈願します🙏
3️⃣サポーター限定の“お気持ちで特典
全国各地の協力寺社にお参りして、「ホトカミサポーター会員証」を見せると、その寺社ならではの「お気持ちで特典」を頂けます🎁
4️⃣バナー広告の非表示🙅♀️
より快適にホトカミをご利用頂けます。
今月のホトカミサポーターさんの「幸せ」と「健康」のご祈祷は、
大阪府にある星田妙見宮さんにお願いしました⭐️
星田妙見宮の皆さま、本当にありがとうございました🙏
【ホトカミサポーター参加方法はこちら👇】
① ホトカミに登録・ログイン
②「ホトカミ サポーター」で検索🔍 November 11, 2025
映画”もしも徳川家康が総理大臣になったら”をプライムビデオで鑑賞。とても面白かったので、チャットGPTに歴史上の人物だと誰が総理大臣として適任か教えてもらったら、”聖徳太子”だった。更に、記者を”空海”として、聖徳太子に辛辣な質問をする空海にしたら、とんでもない創作ができて興味深かった。 November 11, 2025
シャティエルさんはまず、
空海さんがイェソド(基礎)、
という時点で
ひっくり返ってしまっているのかも
しれない。
『地球の全アセンデッドマスターの
頂点、そんなサクッと決める?!』
というあたりで。
『他ないじゃん』
『と、途中式とかは』
『そういう係はガルガリエルだよ』
『 』 November 11, 2025
めんどそうだからさっさと退散したんだけど、逆に、あんたはどっから来たの?って聞けば良かった。
よく覚えてないけど薄着だった気がするし、靴もボロかった気がする。修行しに来たキチガイかもしれんけど、ワンチャン山の化身か空海の可能性がある。
確認しそびれたのが残念だ。 November 11, 2025
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