福建省
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2025.12.13 13:00
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残波岬。金城実先生が作られた大獅子像があります。彫刻ならではの筋骨隆々とした大獅子は、この場所から交易が始まった福建省の方向と、そして沖縄戦時に米軍が上陸した海岸を見込むという2つの意味を持っているそうです。読谷村の大部分は、沖縄戦中は倭国陸軍の飛行場、そして戦後は米軍に接収されていたところ、村長をされていた山内徳信先生が奪還したという経緯があります。今は売店などが立ち並ぶ観光地になっています。 December 12, 2025
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~侵略国家倭国による
琉球・朝鮮・台湾侵攻の歴史~
當是時,倭国方強,有吞滅之意。琉球外御強鄰,內修貢不絕。四十年,倭国果以勁兵三千入其國,擄其王,遷其宗器,大掠而去。浙江總兵官楊宗業以聞,乞嚴飭海上兵備,從之。已而其王釋歸,復遣使修貢,然其國殘破已甚,禮官乃定十年一貢之例。明年修貢如故。又明年再貢,福建守臣遵朝命卻還之,其使者怏怏而去。四十四年,倭国有取雞籠山之謀,其地名台灣,密邇福建,尚寧遣使以聞,詔海上警備。
『明史』外国伝 琉球
“当時、倭国は強大な国であり、琉球を併合する野望を抱いていました。
琉球は(中国への)継続的な朝貢を維持しながら、強大な隣国(倭国)から自国を守っていました。
万暦四十(1612)年、倭国は精鋭部隊3000人を琉球に派遣し(1609年、薩摩藩による奄美・琉球侵略)、
琉球国王を捕らえ(1610年尚寧王は、薩摩藩主島津忠恒によって江戸に連行された)、
王室の遺物を押収し、撤退前に広範囲に略奪しました。
浙江の総司令官である楊宗業は、皇帝にこのことを報告し、海軍の準備を強化するよう厳命を要請し、これは認められました。
後に国王は釈放されて帰国し、琉球は再び使者を派遣して朝貢しました。
しかし、琉球は大きな被害を受けていたため、礼部官吏は10年間の朝貢制度を設けました。
翌年も以前と同じように朝貢が行われました。
その翌年も再び朝貢が送られましたが、皇帝の命令を受けた福建省の知事がそれを返還したため、使者は失望して帰国しました。
万暦四十四年、倭国は福建省に近い台湾(雞籠山は台湾を意味する古名)を占領しようと企てた。
商寧は使者を派遣してこれを報告し、海軍の備えを強化する勅令を発布した。”
🤔琉球は明に朝貢する独立国であったが、
豊臣秀吉の朝鮮出兵(朝鮮を侵略し、さらに明、天竺まで侵略する予定であった)によって、
当時の明は朝鮮半島での倭国との戦闘に多大な出費と負担を強いられ国力が疲弊しており、
とうてい琉球支援のために渡海遠征を行える状態ではなかった。
・倭国の琉球侵略
薩摩軍は総勢3000人、80余艘で奄美・琉球へ軍事侵攻し、征服した。
島津藩は家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。
1611年、尚寧王と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた偽りの起請文に署名させられた。
これを拒んだ三司官の一人、謝名利山は斬首されている。
また、琉球王国の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。
尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、
また琉球王国と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が掌握するようになった。
明の付庸国であった琉球は、
倭国と中国に両属することとなる。
・倭国の台湾領有計画
1616年には長崎代官の村山等安が2000〜3000人の兵員を乗せた13隻の艦隊を台湾へ向け侵攻させるが、
琉球沖で暴風雨に遭い壊滅。
台湾にたどり着いたのは一隻で、到着直後、船は即座に現地人に取り囲まれて逃げられず、乗員たちは切腹して全滅した。
豊臣秀吉は、積極的な海外進出を目指しており、
朝鮮、琉球、台湾の植民地化し、中国インド征服を視野に入れていた。
徳川家康も1609年には台湾出兵を示唆し、
村山等安の後に長崎代官となった末次平蔵もオランダに対し、倭国が台湾を領有していると主張していた。
江戸幕府はその後、一転して海禁政策(鎖国)に転換したが、
1630年に平蔵が江戸で不審タヒするまで、倭国による台湾領有計画は継続した。
明治維新後、倭国は再び
琉球、朝鮮、台湾を完全な支配下とし、
中国、東南アジアを征服する野望を実行に移した。
倭国では、このような二度に亘る大規模な民衆へのジェノサイドを伴う過去の侵略の歴史を国民に教育していない。
🤔倭国が軍事大国化すれば、必ず三たび、朝鮮台湾中国を侵略するであろう。
これは天皇氏と倭国支配層(渡来系中国人=奈良高市郡の住民の八~九割は今来漢人)の悲願である。
正四位下近衛員外中將兼安藝守勳二等坂上大忌寸苅田麻呂等言。以桧前忌寸。任大和國高市郡司元由者。先祖阿智使主。輕嶋豊明宮馭宇天皇御世。率十七縣人夫歸化。詔賜高市郡桧前村而居焉。凡高市郡内者。桧前忌寸及十七縣人夫滿地而居。他姓者十而一二焉。
『續倭国紀/卷第卅二』
天宗高紹天皇〈光仁天皇〉
寶龜三年夏四月 庚午
高市郡(古代における飛鳥の中心的地域)
には帰化中国人十七県の民が多数居住し、
他姓(非中国人)は十人に一人か二人しかいなかった。
飛鳥時代からヤマト、倭国(奈良、京都)の支配層は中国人が中心であった。
(DNAにより証明済) December 12, 2025
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