1
法隆寺
0post
2025.11.10〜(46週)
:0% :0% (30代/男性)
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
河野純喜さん、
全国高校サッカー選手権で全国大会出場
同志社大学
大学時代法隆寺FCでプレー
PRODUCE 101 JAPAN勝ち抜きJO1のメンバーとしてデビュー
英語堪能
サッカー倭国代表アンバサダー
歌うま
漫画の主人公みたいなすごい人… November 11, 2025
99RP
【近況報告】
慶長19年11月、徳川家康です。
大坂へ進軍中ですが、木津の宿営地がやや手狭だったため、
気晴らしを兼ねて奈良見物に向かうことにしました。義直も同行します。
奈良奉行の屋敷で一泊し、春日大社や法隆寺を見物する予定です。
義直がどんな顔をするのか、少し楽しみです。
私の行動に苛立つ者もいるかもしれませんが、
焦りは失敗のもと。余裕をもって動くことが肝要です。
以上、奈良よりお伝えしました。 November 11, 2025
20RP
仏像の最高作見たいなら
奈良国博の仏像館、東大寺(&東大寺ミュージアム)、興福寺(&国宝館)、法隆寺、中宮寺、薬師寺、唐招提寺、室生寺、聖林寺、飛鳥寺、etc…まで足を伸ばすことお勧めします。
見たけりゃ奈良県まで来るのです。 https://t.co/h17yKs9LeB November 11, 2025
13RP
反応ありがとうございます。そういえば今度、僕が岡倉天心について書いた2万5千字程度の文章がお目見えします。東京/京都/奈良の国立博物館を作ったこの男は、横浜出身で、反対する僧侶たちを押しのけて法隆寺の秘仏・救世観音を開扉させ、「一生の最快事」と述懐した者ですね。
まあ…宣伝でした〜 https://t.co/h5OWWZsBt0 November 11, 2025
9RP
そういうものが必要だと思う。分かりにくく小難しい。特に教育に関わる場では。
それがやがて変化していく。平成館を建てエンタメぽい客寄せをやるようになっていった。収益が施設維持に必要なのは理解するが、真面目な堅物からの脱却は、自分にはどうにも軽薄に見えて足が遠のいた。新築の法隆寺館は November 11, 2025
7RP
@hezuruy 今までのポスト見て奈良の為に頑張ってる方だなぁ。
と感心してましたが。
全員倭国人に対して韓国人だ。
みたいにいう方だとは。
メンバーの河野純喜くんは奈良出身で法隆寺FCに入って活躍してました。
調べもしないで周りに流される方なんですね。
ちゃんと調べて下さい。
発言取り消し求めます。 November 11, 2025
6RP
考古学的には奈良県桜井市の赤坂天王山古墳の1号古墳が崇峻天皇でおそらく間違い無いと考えられている。
赤坂天王山は宮内庁管理ではないため、観光客が石室内を見学できる。
写真の石室と石棺は崇峻天皇のもので間違い無いらしい。
真の崇峻天皇陵に関しては、法隆寺至近の藤ノ木古墳が本物との説も https://t.co/12uJf9VWdH November 11, 2025
6RP
@goshuinchou 銅水瓶、法隆寺献納宝物にあるものと材質以外は酷似している様で。
是非とも見てみたいです。
鏡と銀製刀子は今、橿原考古学研究所附属博物館の藤ノ木古墳展に出てて、見て来たんですがやはり良いですよね...。 https://t.co/56G0O1b13j November 11, 2025
5RP
世界文化遺産の法隆寺がある
古都 斑鳩
並松商店街に昔ながらの
こがし醤油のみたらし団子店
田村みたらし店
オリックスバファローズ
#曽谷龍平 投手の出身地です。
曽谷選手も子供の頃に食べてたはず。
#奈良 #奈良観光 #法隆寺
#みたらし団子 #オリックスバファローズ #オリックス #侍ジャパン https://t.co/iPJGYlt6OG November 11, 2025
4RP
奈良県、法隆寺
御本尊は釈迦如来
推古天皇と聖徳太子が建立した
世界最古の木造建築のお寺です。
説明が不要なくらい有名なお寺ですね。
予想通り、外国人と修学旅行の生徒で
混雑していました。😅
#お寺 #御朱印 #法隆寺 https://t.co/c5o9nokEAq November 11, 2025
4RP
東博はしょっちゅう「運慶展」や「東寺の仏像曼荼羅」や「東北の仏像」などの大規模展をやっている上、「法隆寺国宝館」なる廃仏毀釈のどさくさに皇室が召し上げた金銅仏コレクションまで所有している。これ以上持っていくのは堪忍してほしい。 https://t.co/HmJshITNwS November 11, 2025
3RP
心斎橋の三木楽器(ウインドフォレスト)様にチラシを置かせていただきました✨
ありがとうございます😊
会場は最寄の法隆寺駅(徒歩10分)は快速も止まりますし、車だと西名阪法隆寺ICから2分!意外とアクセスがいいんです✨
https://t.co/pZRDvLssN1
県外からのお客様もこころよりお待ちしております! https://t.co/FFWGEVv62E November 11, 2025
3RP
歴史が長い割には古い建物が少ない中国にとって、これは大きな損失だ。
一瞬、倭国の #法隆寺 を連想してしまった。
木造建築は燃えやすいから。
#世界遺産
1500年以上の歴史を持つ中国の永慶寺「文昌閣」が全焼…名作「#水滸伝」ゆかりの場所との言い伝えも(FNN) https://t.co/NNNmsLaNhE November 11, 2025
2RP
おはようございます🔆
アロー法隆寺店のルカです🌹
最近寒いですけど、今日はめっちゃお天気日和で暖かいね〜!ぽかぽか☀️
そして本日はファン感謝デー最終日!
まだ1等が残っております!!
くじはルカが回る予定なのでお席にてお待ちくださいね!💖 https://t.co/s7bbEvobmv November 11, 2025
2RP
「人生にたいする諦観は、内に多くの圧制を許してきたのである」梅原猛 美と宗教の発見
これはこの時代の乗り越え不可能な言説の一つだと思う。裏技の塊たる法隆寺が梅原猛という読み解きの人を待っていたように、小山氏も、この時代の読み解きの人たらんとしているのかしら。京橋着 November 11, 2025
2RP
@gannbattemasenn 安吾、斑鳩とか行ったことないからド田舎ってわからないんじゃないですかね。妄想の中でさぞ立派な街の中にそびえる法隆寺のイメージで語ってるんでしょ笑 November 11, 2025
2RP
聖徳太子ゆかりの法隆寺へ行ってきました。
この空気感なんとも言えませ〜ん👍🏻✨
16時にはほんまに鐘がなるなる法隆寺…
斑鳩を旅するのなら〜♪
色々うたが浮かんできました😁
遅くにすみません。おやすみなさい🙏
#奈良斑鳩・夢殿・五重塔 https://t.co/H144FF8Lkh November 11, 2025
2RP
おはひなたー!☀
11月13日の木曜日!
創作意欲が復活してて、虎視眈々!🐈
きっかけがあればもう一晩で法隆寺建てられちゃうよ
体調との兼ね合い問題もあるけど…
!!たぶん大丈夫!!
今日も一日がんばりましょ~!!💪
#おはようVtuber https://t.co/3QiECof0yG November 11, 2025
2RP
中宮寺
(ちゅうぐうじ)生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2
詳細
朝護孫子寺
(ちょうごそんしじ)生駒郡平群町信貴山2280-1
詳細
長命寺
(ちょうめいじ)近江八幡市長命寺町157
詳細
壷阪寺
(つぼさかでら)高市郡高取町壷阪3
詳細
天龍寺
(てんりゅうじ)京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
詳細
鬪雞神社
(とうけいじんじゃ)田辺市東陽1-1
詳細
唐招提寺
(とうしょうだいじ)奈良市五条町13-46
詳細
東寺
(とうじ)京都市南区九条町1
詳細
東大寺
(とうだいじ)奈良市雑司町406-1
詳細
豊受大神宮
(とようけだいじんぐう)伊勢市豊川町279
詳細
道成寺
(どうじょうじ)日高郡日高川町鐘巻1738
詳細
道明寺天満宮
(どうみょうじてんまんぐう)大阪府藤井寺市道明寺1-16-40
詳細
ナ行
霊場名称住所詳細
中山寺
(なかやまでら)宝塚市中山寺2-11-1
詳細
長田神社
(ながたじんじゃ)神戸市長田区長田町3-1-1
詳細
長濱八幡宮
(ながはまはちまんぐう)長浜市宮前町13-55
詳細
丹生川上神社
(にうかわかみじんじゃ)吉野郡東吉野村小968
詳細
丹生川上神社上社
(にうかわかみじんじゃかみしゃ)吉野郡川上村迫869-1
詳細
丹生川上神社下社
(にうかわかみじんじゃしもしゃ)吉野郡下市町長谷1-1
詳細
丹生官省符神社
(にうかんしょうぶじんじゃ)伊都郡九度山町慈尊院835
詳細
丹生都比賣神社
(にうつひめじんじゃ)伊都郡かつらぎ町上天野230
詳細
西宮神社
(にしのみやじんじゃ)西宮市社家町1-17
詳細
仁和寺
(にんなじ)京都市右京区御室大内33
詳細
根來寺
(ねごろじ)岩出市根来2286
詳細
ハ行
霊場名称住所詳細
長谷寺
(はせでら)桜井市初瀬731-1
詳細
播州清水寺
(ばんしゅうきよみずでら)加東市平木1194
詳細
日牟禮八幡宮
(ひむれはちまんぐう)近江八幡市宮内町257
詳細
百濟寺
(ひゃくさいじ)東近江市百済寺町323
詳細
日吉大社
(ひよしたいしゃ)大津市坂本5-1-1
詳細
枚岡神社
(ひらおかじんじゃ)東大阪市出雲井町7-16
詳細
平野神社
(ひらのじんじゃ)京都市北区平野宮本町1
詳細
廣瀬大社
(ひろせたいしゃ)北葛城郡河合町川合99
詳細
廣田神社
(ひろたじんじゃ)西宮市大社町7-7
詳細
廣峯神社
(ひろみねじんじゃ)姫路市広嶺山52
詳細
毘沙門堂
(びしゃもんどう)京都市山科区安朱稲荷山町18
詳細
平等院
(びょうどういん)宇治市宇治蓮華116
詳細
伏見稲荷大社
(ふしみいなりたいしゃ)京都市伏見区深草藪之内町68
詳細
葛井寺
(ふじいでら)藤井寺市藤井寺1-16-21
詳細
藤白神社
(ふじしろじんじゃ)海南市藤白466
詳細
平安神宮
(へいあんじんぐう)京都市左京区岡崎西天王町97
詳細
宝鏡寺
(ほうきょうじ)京都市上京区寺之内通堀川東入百々町547
詳細
宝厳寺
(ほうごんじ)長浜市早崎町竹生島1664
詳細
宝山寺
(ほうざんじ)生駒市門前町1-1
詳細
法樂寺
(ほうらくじ)大阪市東住吉区山坂1-18-30
詳細
法隆寺
(ほうりゅうじ)生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
詳細
法華寺
(ほっけじ)奈良市法華寺町882
詳細
マ行
霊場名称住所詳細
松尾大社
(まつのおたいしゃ)京都市西京区嵐山宮町3
詳細
松尾寺
(まつのおでら)舞鶴市松尾532
詳細
摩耶山天上寺
(まやさんてんじょうじ)神戸市灘区摩耶山町2-12
詳細
曼殊院
(まんしゅいん)京都市左京区一乗寺竹ノ内町42
詳細
三井寺
(みいでら)大津市園城寺町246
詳細
御上神社
(みかみじんじゃ)野洲市三上838
詳細
水間寺
(みずまでら)貝塚市水間638
詳細
水無瀬神宮
(みなせじんぐう)三島郡島本町広瀬3-10-24
詳細
湊川神社
(みなとがわじんじゃ)神戸市中央区多聞通3-1-1
詳細
三室戸寺
(みむろとじ)宇治市莵道滋賀谷21
詳細
妙法院
(みょうほういん)京都市東山区妙法院前側町447
詳細
室生寺
(むろうじ)宇陀市室生78
詳細
ヤ行
霊場名称住所詳細
薬師寺
(やくしじ)奈良市西ノ京町457
詳細
八坂神社
(やさかじんじゃ)京都市東山区祇園町北側625
詳細
吉田神社
(よしだじんじゃ)京都市左京区吉田神楽岡町30
詳細
善峯寺
(よしみねでら)京都市西京区大原野小塩町1372
詳細
霊場名称住所詳細
霊山寺
(りょうせんじ)奈良市中町3879
詳細
六波羅蜜寺
(ろくはらみつじ)京都市東山区五条通大和大路上ル東
詳細
ワ行
霊場名称住所詳細
海神社
(わたつみじんじゃ)神戸市垂水区宮本町5-1
詳細
役行者霊蹟札所会
https://t.co/GV6ysdkhUX
役行者の遺徳と修験道の世界により多くの人々に触れていただき、その目指す所をご理解いただくべく、役行者ゆかりの寺院が集まって、この「役行者霊蹟札所会」を結成するはこびとなりました。
それは、平成の世における、新たな修験道の出発でもあります。
https://t.co/VCxrcUDOen
札所会について
役行者(えんのぎょうじゃ)とは、大峰山(おおみねさん)においては蔵王権現(ざおうごんげん)を、葛城山(かつらぎさん)においては法起菩薩(ほうきぼさつ)を感得され、山岳抖藪(さんがくとそう)の実践行を通じて得られたという神通力によって、人々を済度した在家の修行者として信仰されてきた人です。
倭国古来の山岳信仰に、役行者に代表される山林修行者たちによって、仏教や道教・儒教など外来の宗教が結びつけられ、次第に組織・体系化されたのが、「修験道(しゅげんどう)」です。
その精神と実践は、理源大師聖宝(しょうぼう)や智証大師円珍(えんちん)をはじめ、累代の修験の祖師と仰がれる仏教者達によって伝承され、今に至る1300年の長きにわたって伝えられてきました。
修験道の開祖としての役行者への信仰は、その長い歴史において、50年ごとに御遠忌法要などを執りおこなうことによって盛り上がってまいりましたが、それがそのまま修験道の歴史でもあったと申せましょう。
ただし、その歴史は、決して平穏なるものであったわけではなく、中世後期以来、修験の組織は、聖護院を中核とする天台系の本山派修験道と、醍醐寺を中核とする真言系の当山派修験道の二つに分かれ、互いに競合して相争うなど円満でない時代もありました。
明治維新を迎えると、明治政府から神仏分離政策にともなう「修験道廃止令」が1872年に発布されたことにより、全国各地の修験道組織は解体を余儀なくされ、修験道寺院も次々と廃寺の憂き目に遭いました。
そして、それにともない人々の修験道への信仰も衰退していったのです。
しかしながら、さる平成13年、役行者神変大菩薩1300年御遠忌を機として、修験教団たる真言宗醍醐派総本山醍醐寺・本山修験宗総本山聖護院・金峯山修験本宗総本山金峯山寺の三つの本山が一堂に会し、御遠忌合同大法要を、山上ヶ岳の大峯山寺本堂において厳修。
さらにこの機会をもって、役行者の遺徳と修験道の世界により多くの人々に触れていただき、その目指す所をご理解いただくべく、役行者ゆかりの三十六寺社が集まって、この「役行者霊蹟札所会」を結成するはこびとなりました。
それは、平成の世における、新たな修験道の出発でもあります。
このサイトで紹介されております「役行者霊蹟札所巡礼」は、その一つの表現であります。
皆様が、役行者ゆかりの寺々、山々を巡り、その遺徳に触れ、大自然を道場とした山岳抖藪の実践行を共有され、霊蹟札所を巡られることは、修験道の長い歴史に新たなる一ページを加えるものと確信しております。
役行者霊蹟札所会
役行者霊蹟札所総会
去る令和三年六月二十五日、紀州根來寺湊御殿において、役行者霊蹟札所総会が開催されました。
総会では小松新会長・大塚副会長・近藤副会長など新役員の就任等が審議され、承認されました。
また、今期の総会法要は例年行われてきた平和祈願祭ではなく、時勢を鑑みてコロナ感染症疫病退散祈願会として執行し、根來寺一山修法による護摩供で、役行者霊蹟札所会疫病退散の御札を製作し、開眼いたしました。
この御札は、一字院に三体配布し、各加盟寺社で一年間、札所会として疫病退散の祈念することを決定いたしました。
新・旧会長挨拶
今般、以下の通り就任いたしました。
役行者尊の御霊威にあやかり、誠に微力ではございますが、これよりは当札所会の円滑な運営と更なる充実の為に全力を尽くしてまいります。
何卒、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
会長:法樂寺住職 小松光昭
副会長:千光寺住職 大塚静弘
副会長:神峯山寺副住職 近藤孝道
役行者霊蹟札所会 会長 小松光昭
平成二十三年より三期十年間に亘り、皆様のお力添えのもと役行者神変大菩薩顕彰に勤めてまいりましたが、今後は若い世代に引き継いでいただくことと相成りました。
これまでのご懇情いに感謝申し上げと共に、今後も相変わらませず当札所会発展の為にお力添え賜ります様、宜しくお願い申し上げます。
前会長:七宝瀧寺貫主 東條仁哲
前副会長:泉州松尾寺住職 高岡保博
前副会長:金峯山寺長臈 田中利典
役行者霊蹟札所会 旧会長 東條仁哲
三十六寺社紹介
https://t.co/E0T8E6I0oW
ここでは、役行者霊蹟札所となっている三十六の寺社のそれぞれご紹介しております。
以下に挙げている画像、または寺社名をクリックすると、各寺社の簡単な縁起や交通情報、GoogleMapを利用した周辺地図など、個別にご紹介しているべージを表示します。
画像:きんぷせんじ
金峯山寺
奈良県
画像:にょいりんじ
如意輪寺
奈良県
画像:ちくりんいん
竹林院
奈良県
画像:さくらもとぼう
櫻本坊
奈良県
画像:きぞういん
喜蔵院
奈良県
画像:ぜんぷくじ
善福寺
奈良県
画像:だいにちじ
大日寺
奈良県
画像:とうなんいん
東南院
奈良県
画像:ほんざんじ
本山寺
大阪府
画像:おおみねさんじ
大峯山寺
奈良県
画像:りゅうせんじ
龍泉寺
奈良県
画像:すぎょうじ
菅生寺
奈良県
画像:きっしょうそうじ
吉祥草寺
奈良県
画像:せんこうじ
千光寺
奈良県
画像:ほうざんじ
寶山寺
奈良県
画像:りょうせんじ
霊山寺
奈良県
画像:まつおでら
松尾寺
奈良県
画像:ちょうごそんしじ
朝護孫子寺
奈良県
画像:むろうじ
室生寺
奈良県
画像:おおのじ
大野寺
奈良県
画像:しょうごいんもんぜき
聖護院門跡
京都府
画像;だいごじ
醍醐寺
京都府
画像:かぶさんじ
神峯山寺
大阪府
画像:ほうらくじ
法楽寺
大阪府
画像:せんしゅうまつおでら
松尾寺
大阪府
画像:しっぽうりゅうじ
七寶瀧寺
大阪府
画像:ひろかわでら
弘川寺
大阪府
画像:かんしんじ
観心寺
大阪府
画像:てんぽうりんじ
転法輪寺
奈良県
画像:せんじゅうじ
千手寺
大阪府
画像:てんりゅういん
天龍院
大阪府
画像:こうほうじ
興法寺
大阪府
画像:ねごろじ
根来寺
和歌山県
清荒神清澄寺
兵庫県
画像;すまでら
須磨寺
兵庫県
画像;いぶきさんじ
伊吹山寺
滋賀県
三十六寺社マップ
https://t.co/f25ucnW4Ho
ここでは、二府四県にまたがって点在している、役行者霊蹟札所の分布図を、ご紹介しております。
札所それぞれの詳細な位置情報、ならびにアクセス方法などは、三十六寺社紹介の各寺社それぞれを紹介するなかに記載しておりますので、そちらをご参照下さい。
修験道とは何か
https://t.co/TwzOkxiyCc
修験道とは
修験道は、山を聖域と見、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得、その力によって自他の救済を目指そうとする山岳信仰の宗教です。
このようなことから、修験を「山伏(やまぶし)」と言うこともあります。
修験との名称は、その字の如く、「修行して験力を顕す道」であるということから名づけられたものです。
修験道は、自然の中でも特に「山」を神聖視してきた倭国人古来の山岳信仰に、インドの宗教である仏教や、中国の宗教である道教や儒教など、外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道や陰陽道、民間信仰などまでが取り入れられ、次第に形成されてきました。
修験道の教義や世界観、修行方法は、ほとんどの場合仏教、とりわけ密教のものが取り入れられており、そのため仏教や密教についての知識がなければ、まず修験道を理解することは出来ません。
しかし、では「修験道=仏教」かというと、そうとは言えません。
これは、中世より修験道を伝えたのが、役行者のような在俗の者だけではなく、仏教僧のなかでもとりわけ密教僧が主体であったためです。
よって、「修験道は仏教の一部」と見なされる場合が多く、修験道を仏教の修行法の一つとして考えられています。
修験道とは、倭国古来のきわめて漠然とした宗教的心情を、主に仏教の思想体系によって整理し、さらにその他の宗教をも換骨奪胎して形成されてきた「倭国独自の宗教」である、と捉えるのが妥当かもしれません。
修験道の歴史
修験道は、7~8世紀に大和葛城山で活動していた呪術者、「役小角(えんのおづの)」によって開創されたと伝承されています。
もっとも、現実には、役小角が当初、具体的にどのような思想を持ち、どのような修行を行っていたかは、ただ葛城山の中に住んで呪術を駆使していることが知られているだけで、詳しいことはわかっていません。
そして、そのような役小角は、弟子の讒言により島流しに処されたことが伝えられています(『続倭国記』)。
又、奈良中期から末期にかけて、仏教僧の中に山林修行を行う者が多数現れます。
平安期初頭に密教が倭国に伝えられると、修験道は、主に密教の僧侶による主導のもと、仏教のなかでも特に密教の体系的な思想と修行法を導入した、「仏教の一派」「仏教の修行法の一つ」とも言い得るものになっていきます。
現在、修験道の当山派と本山派という二大流派の派祖として崇められている聖宝と増誉は、それぞれ真言密教僧と天台密教僧なのです。
奈良時代には、国家から危険視されて規制の対象となり、社会からも賤民(せんみん)として扱われさえしていた山林修行者の一部は、真言密教を初めて倭国に伝えた空海や、天台宗の密教を伝えるために唐に渡った、円仁(えんにん)・円珍(えんちん)などによって、密教が隆盛を迎えるようになった平安期になると、貴族達などからむしろその験力、呪力などによる現世利益が期待される存在となり、ある程度の社会的地位が約束されるようになったようです。
鎌倉初期には、必ずしも僧侶でない一般の山林修行者達が、修験道独自の集団を形成していき、次第に神道や陰陽道などさまざまな宗教の思想を取り込みつつ、民衆の支持を集めていったようです。
そしてその修行や活動拠点は、葛城山・大峰山・金峯山・熊野三山だけでなく、富士山・羽黒山・彦山・御嶽山・大山・白山など全国各地に広がりを見せ、それぞれが独自の教義や一定の組織を持つに至ります。
しかし、江戸幕府が開かれると、それら全国各地に展開していた修験者たちは、一部を除いて、真言系の当山派か天台系の本山派の、何れかの派に所属させられることになります。
明治維新を迎えると、国家神道の(「神道とは宗教のような低俗なものでなく、より普遍的科学的な人の道」とする)建前上、神道を含んだ様々な宗教の混淆である修験道は、容認できるものでなかったため、明治元年(1868)から明治5年(1872)にかけての太政官達によって、公式には廃止されます。
しかし、それまで修験道を支持していた人々の信仰や、祭祀などの慣習まで廃することは出来ず、また修験道側も、組織として真言宗醍醐派や天台宗寺門派に属してその命脈を保とうとするなど、なんらかの形で存続します。
そして、昭和の大戦後、修験道諸流は、それぞれが宗教法人格を取得するなどして、一個の独立した宗教として復活することになります。
修験道大結集
年号変わって平成の世となった平成16年7月1日、大峯山・熊野三山・高野山の三つの霊場と、大峯奥駆道・熊野古道・高野山町石道の三つの参詣道が、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界遺産に登録されます。
これを期に、全国各地の修験道諸派を集結して「修験道大結集(しゅげんどうだいけつじゅう)」が催され、世界の平和を祈ると共に、今後も修験道が社会で活動を展開し、共に発展していくことを確認しあいました。
修験道は、倭国古来の、そして現代にも息づく宗教であり、倭国文化の一端を担う存在でもあるのです。
開祖 役行者(えんのぎょうじゃ)
https://t.co/fOKpTDudkj
役行者とは
写真:役行者坐像(大峯山寺蔵)
「役行者(えんのぎょうじゃ)」とは、7~8世紀に奈良を中心に活動していたと思われる、修験道の開祖とされている人物です。
「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われ、またほかに「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの呼び名があります。
役行者が、7~8世紀に実在したことは確かなようですが、生没年など詳しいことは不明です。
もっとも、伝説の多くは、舒明天皇六年(634)1月1日に大和国茅原にて生まれ、大宝元年(701)、68歳の時に「没した」のでなく、「昇天した」としています。
いずれにせよ、この世の人でなくなった、ということでしょう。
「役優婆塞」とは、平安初期に成立したと目されている『倭国霊異記』における役行者の呼び名です。
優婆塞(うばそく)とは、サンスクリット「upāsaka(ウパーサカ)」の音写語で、「在家仏教信者」を意味する言葉です。
役行者は、僧侶ではなく、在家仏教信者として修行した人です。
このサイトでもっぱら使っている「役行者」という呼称は、平安期に入ってから使用されだしたもののようです。
それ以前の奈良時代には、「役君小角」と一般に呼ばれていたようですが、詳細は不明です。
「神変大菩薩」とは、盈仁(えいにん)法親王がつとめられた「役行者一千百年御遠忌」を機に、聖護院門跡に三年間仮御所を置かれいた光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)です。
諡号とは、僧侶や貴人などの死後に、その生前の行いを尊んで朝廷から贈られる名です。
さて、役行者にまつわる伝説は、大変多く残されており、それらが記された書物なども数多く伝わっています。
それら伝説のなかで、役行者は、不思議な力を駆使して空を、野山を駆けめぐり、鬼神を自在にあやつった人とされています。
伝説には、奇想天外にすぎて、現代的には到底信じがたいようなものが多くあります。
しかし、いずれにせよ、役行者とは、数々の不可思議な事績をのこした偉大な修行者、修験道の開祖として崇められてきた存在です。
しかし、そのように伝説に彩られた役行者ですが、それが実在の人物であったことを確認できる正史と言われる史料は、非常に限られています。
いや、たった一つで、しかもわずか数行でしかありません。平安初期に編纂された、『続倭国紀(しょくにほんぎ)』にある記述がそれです。
『続倭国紀』にみる役行者
「文武天皇三年五月丁丑」
役君小角(えんのきみ しょうかく) 伊豆島ニ流サル。
初メ小角葛城山(かつらぎさん)ニ住シ呪術ヲ以テ称サル。
外ノ従五位下韓国連廣足(からくにのむらじ ひろたり)焉ヲ師ト為ス、後其ノ能ヲ害(そね)ミ、讒(ざん)スルニ妖惑ヲ以テス。
故ニ遠島ニ配セラル。
世ニ相イ伝エ言ク。
小角能ク鬼神ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用ヒザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス。(原漢文)
〈訳文〉
文武天皇3年(699)5月24日、役君小角が伊豆島に流された。
小角は葛城山に住み、呪術をよくすると、世間の評判であった。
従五位下の韓国連廣足という者が、当初この小角を師と仰いでいたが、その能力をねたんで、(役小角が)人々に妖言を吐き惑わしていると朝廷に誹謗中傷した。
そのため、(小角は)遠島の刑に処せられたのである。
世間の噂では、小角は巧みに鬼神を使役して、水を汲んだり薪を採らせ、もし(鬼神が)命令に背くようならば、たちまち呪術によって身動きがとれないようにしてしまう、などと言われている。
ここからわかることは、「鬼神を使役できると世間で噂されている、葛城山に住む行者の役君小角が、従五位下というかなり高い官位にあった弟子の告発で島流しにあった」ということだけです。
正史からは、役行者の人となり、生い立ちや思想などはまったく知ることが出来ません。
しかも、役行者が流刑に処せられたのは事実としても、その業行は、あくまで「世間の噂」でしかありません。
宗教者が社会を「妖惑」するのは、いつの世も為政者にとって、とても危険なことです。
例えば「僧尼令」でも、社会を妖惑する行為を第一条にて禁じています。
正規の僧尼でも、これを行うものは処罰されたのです。
役行者のように、山に住んでいる「在俗の者」がこれを行うのは、なおさら危険とされて配流されたのは当時として当然と言えるでしょう。
役行者に関連して、正史から知られることは、ただこれだけのことです。
『倭国霊異記』にみる役行者
次に挙げるのは、史料ではなく、あくまで説話集です。
同じく平安初期に、『続倭国紀』にやや遅れて成立したとされる、薬師寺の僧景戒(きょうかい)によって編纂された倭国最古の説話集、『倭国現報善悪霊異記』いわゆる『倭国霊異記(にほんりょういき)』です。
この上巻に、当時の世間一般が流通していたであろう、役行者にまつわる説話が収録されています。
ここでは、『続倭国紀』に見られなかった、役行者の出自についてなどが若干記されており、いかなる修行を行っていたかを多少描かれています。
むろんこれは説話集ですから、それが事実であったかどうかは別の話です。
「孔雀王の咒法を修持し、異しき験力を得て、現に仙と作りて天に飛ぶ縁 第二十八」
役優婆塞(えんのうばそく)は、賀茂役公(かものえのきみ)、今の高賀茂朝臣(たかかものあそん)といふ者なり。
大和国葛木上郡茅原(ちはら)村の人なり。
生(うまれながら)知り博学一なり。
三宝を仰ぎ信(う)けて業とす。
毎(つね)に庶(ねが)はくは、五色の雲に挂(かか)りて、仲虚(なかぞら)の外に飛び、仙宮の賓と携り、億載(おくさい)の庭に遊び、蘂蓋(すいがい)の苑に臥伏(ふ)し、養性(ようじょう)の気を吸ひ、くらふことをねがふ。
所以(ゆえ)に晩年四十余歳を以て、更に巌窟に居り、葛を被、松を飲み、清水の泉を沐み、欲界の垢を濯ぎ、孔雀の咒法を修習し、奇異の験術を證し得たり。
鬼神を駆使得ること自在なり。(以下略:後述)〈*原漢文〉
〈訳文〉
「孔雀明王の呪法を修め、不思議な力を得て、現世で仙人となって天に飛んだ話 第二十八」
役優婆塞は、賀茂役公、今の高賀茂朝臣の出身である。
大和国葛木の上郡茅原村の人であった。
生まれつき博学でぬきんでており、仏法僧の三宝を深く信じていた。
いつも(彼が)心に願っていたのは、五色の雲に乗って、果てしない空を飛び、仙人の宮殿にいる客人と一緒になって、永遠の楽園や、華の満ちた苑起居してその「気」を得、身心生命を養う事を心掛けていた。
(若い頃からそのようにねがっていたので、)四十歳を過ぎるころには、洞窟で生活するようになり、葛で作った着物を羽織り、松の実を食べ、清らかな湧き水で沐浴するなどして、俗世間の垢を落とし、孔雀明王の呪法を修行して、不思議な力を得たのである。
鬼神を使役することは自由自在であった。(以下略:後述)
原文の全てとその訳文を掲載するのは長くなりすぎるため、省略いたしました。
以上に述べられているのは、役行者は、三宝に帰依する優婆塞あり、その上に道教的、密教的な苦修練行によって不思議な修験の術を得たというのです。
ここでは道教と仏教とが混在しており、なんとも奇妙ですが、これが『倭国霊異記』当時の倭国民族宗教に対する一般的な見方とも考えられます。
これは、いまだ弘法大師空海によって、悟りをその第一目的とする「純密(じゅんみつ)」が、唐からもたらされる以前に行われていた、悟りを第一目的にするのでなく、超自然的能力の獲得をこそ主目的とする「雑密(ぞうみつ)」を、役行者が行っていたとする伝承と見ることが出来るでしょう。
また、修験がまだ正統な密教の影響を多分にうけて「修験道」として成立していない時代の反映とも見ることも出来るでしょう。
さて、以下に、先ほどは長きに過ぎて省略した箇所の、概要だけを示しておきます。
<概要>
この後、孔雀明王の呪法を習得した役行者は、鬼神達に、「金峯山(きんぷせん)と葛城山(かつらぎさん)の間に橋を架けろ」と、(途方もない無理難題を)言いつけます。
鬼神達はそんなことは到底出来ない、と悩み、困り果てます。
そこで、葛城山の一言主(ひとことぬし)という神は、(役行者の無理難題から逃れるため、人にとりついて)「役行者が、文武(もんむ)天皇を抹殺しようとしている」という託宣をさせます。
当然、文武天皇は、役行者を捕縛しようとしますが、役行者は不思議な力があるため容易に捕まりません。
そこで、天皇が役行者の母を捕らえると、役行者は母のために自ら捕縛され、伊豆に流されます。
役行者は、昼は刑罰どおり伊豆でおとなしくしているも、夜になると富士山に飛んで行き、そこで修行する日々を送っていました。
しかし、何者かが再び天皇へ讒言(ざんげん)したため、役行者は今度こそ極刑に処されかけます。
ところが、不思議な出来事があって助かるのでした。
伊豆での生活も3年を過ぎた大宝元年(701)正月、役行者は恩赦(おんしゃ)によって許され、大和に帰ります。
そして、役行者はついに仙人となって、どこか天高く飛んでいってしまうのでした。
この後、倭国の道照(どうしょう)という高僧が、天皇の命によって唐に渡り、そこで五百人の中国僧を前に『法華経』を講義していると、倭国語で問い掛けてくるものがあります。
道照が「誰だ」とその名を問うと、「役優婆塞」という返答があります。
道照は、倭国の聖人に違いないとおもってその声の主を探しますが、ついに見つけることは出来ませんでした。
さて、役行者を讒言(ざんげん)によって流罪にさせた一言主は、いまだに役行者によって呪縛されたまま(『倭国霊異記』編纂当時)だといいます。
以上が、『倭国霊異記』に掲載される役行者の説話です。
この説話の最後は、「役行者があらわした奇瑞はあまりに多く、それらを逐一挙げることは面倒である。ほんとうに仏法の不思議な力は広大で、信仰した者は必ずそれを知ることになるだろう」と結んでいます。
さて、以上はあくまで説話、いわゆる「お話」でありますが、例えば、唐で役行者の声を聞いたという道照は、白雉四年(653)から斉明天皇五年(660)にかけ唐に渡り、かの玄奘三蔵に師事して学んだ高僧で、文武四年(700)に没した人です。
しかし、そうすると、『続倭国紀』の記事にある「699年に役小角が伊豆に流された」と、『倭国霊異記』の「701年(以降)に役小角がどこか天高く飛んでいった」「その後、道照が役行者の声を唐で聞いた」とする話とでは、半世紀ほどの年代的ずれが生じていることがわかるのです。
役行者が「どこかに飛んでいった」ときには、道照はすでに没してこの世に無かったのですから、この話は虚構に過ぎないと言えるでしょう。
また、別の側面から一言すると、そもそも役行者が流罪に処されたのは、鬼神達に対して全く理不尽と言える要求をしたことに起因しており、よって自業自得であったとも言えます。
しかし、役行者は一言主神(ひとことぬしのかみ)を呪縛して放置するなど、仏教者として意外とも思える行動に出ていることが描かれています。
が、それでも『倭国霊異記』の中で尊敬の対象とされ描かれているのは、『倭国霊異記』の編者景戒が、役行者の「不思議な力を獲得していた」という伝承をこそ重く見たためでしょうか。
しかし、この『倭国霊異記』の説話が、後代まで語り継がれることとなる、伝説的存在としての役行者の姿を描いた原型となったことは間違いないと見て良いでしょう。
役行者を「役優婆塞(えんのうばそく)」と仏教の在家信者としていること。
仏教と道教との混同がみられること。
『孔雀王呪経』という密教経典に基づくと考えられる、孔雀明王の呪法を行ったとしていること。
富士山で修行したとすること。
仙人となって中国に渡った、などといった点がそれです。
このような『倭国霊異記』に見られる、伝説的存在としての役行者像の原型は、幾多の書物の中に踏襲され、鎌倉・室町・江戸と時代が下るごとに、さらに超人的能力を持った者として描かれていきます。
そしてまた、『倭国霊異記』ではある観点からすると、むしろ「不思議な力で鬼神をも使う呪術者」とも捉えうる人であったのが、後代になるに従い前鬼後鬼を改心させた、あるいは雨乞いの民衆を助けた等の民話が出てきて「人格的にも優れた立派な人であった」と描かれるようになっていき、全国各地で民衆の信仰をより集める存在となっていきます。
当山派祖 聖宝(しょうぼう)
https://t.co/r5Qzi65WGb
聖宝とは
画像:聖宝(愛知 林昌院蔵)
聖宝(しょうぼう)とは、平安初期(832-909)に活躍した真言宗の僧侶で、修験道中興の人とされ、当山派修験の祖と仰がれる人物です。
また、「小野流(おのりゅう)」と言われる、真言密教における事相(じそう)の二大流派の一つの基礎を築いた人としても、仰がれています。
俗名は、「恒蔭王(読み不明)」といい、天智天皇の後裔であったと言われています。
聖宝には、宝永四年(1707)に、第113代東山天皇から贈られた、「理源大師(りげんだいし)」との諡号(しごう)があります。
聖宝が生まれたのは天長九年(832)、出生地は諸説あって、はっきりとわかっていません。
大和国(奈良)説がよく挙げられますが、讃岐国(香川)であるとしている伝記(『元亨釈書(げんごうしゃくしょ)』)もあります。
聖宝は、14才で空海の実の弟で十代弟子の一人にも挙げられる、東大寺の真雅(しんが)に従って出家。
いわば空海の孫弟子となります。
以降、南都の諸大寺にて、三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)など顕教を学び、真雅や金剛峰寺の真然(しんぜん)、東寺の源仁(げんにん)から密教を受けて、56才で真言密教の正統な継承者となっています。
また、聖宝は、貞観十六年(874)に、京都山科は笠取山上で、准貞観音(じゅんてい かんのん)と如意輪観音(にょいりん かんのん)を祀る小堂を建立しています。
のちの醍醐寺です。
そして、貞観十七年(875)には、東大寺大仏殿の東南に、薬師堂を創建。
のちの東大寺東南院です。
これら両寺は後代それぞれの地で、政治的に大変な権勢を誇る大寺院となっていきます。
そして、聖宝は、寛平二年(890)に貞観寺(じょうがんじ)座主、同じく寛平六年(894)には、当時の真言宗の最高位たる東寺長者となり、朝廷より僧正位を賜っています。 November 11, 2025
1RP
<ポストの表示について>
本サイトではXの利用規約に沿ってポストを表示させていただいております。ポストの非表示を希望される方はこちらのお問い合わせフォームまでご連絡下さい。こちらのデータはAPIでも販売しております。



