横溝正史 トレンド
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2025.12.07 20:00
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杉本一文『公式 角川文庫横溝正史カバー画集』角川書店を読む。著者が描いた横溝正史の角川文庫の装画については、前に『杉本一文『装』画集〜横溝正史ほか、装画作品のすべて』が刊行されているため、どうしても内容は重複する。でも本書は全作品を1頁の大きさで鑑賞できるのが素晴らしい。 https://t.co/SnXPtuwWWJ December 12, 2025
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#折原一 さん『#六つ首村』(#光文社)を私も拝読しました。
令和の時代に横溝正史のようなミステリー作品が新刊として発売されることに驚いています。
あの世界観を現代にマッチさせるのは、なかなか至難の技と言えるのではないでしょうか……。→ https://t.co/p7xRYUIeYG https://t.co/emKq4zJ5nT December 12, 2025
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この原稿用紙に、物語の魂が宿る。
文房堂 復刻版原稿用紙は、横溝正史が『鬼火』を書き上げた当時の仕様を忠実に再現。
歴史を感じる紙に万年筆で文字を綴る時間は、格別です。
書くことへの情熱を刺激してくれる特別なアイテムです!
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#原稿用紙 #ペンハウス #横溝正史 https://t.co/PCFERSSHVJ December 12, 2025
『#都市伝説解体センター』レビュー②(ダイジェスト版)
Ⅱ. 探偵の変容:「治療」から「虚無」へ
本作の探偵役である廻屋渉は、都市伝説解体センターの所長にして熱心な都市伝説マニアだ。普段は冷静沈着でありながら、都市伝説の話題になると堰を切ったように語り出す。その姿は『ビブリア古書堂の事件手帖』の篠川栞子を彷彿とさせる(車椅子を使用している点も共通する)。
論理と事実を重んじる探偵が怪異を好むという一見矛盾した設定は、実はミステリ作品では決して珍しくない。古くはコナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』(1901年)に始まり、倭国では芥川龍之介、江戸川乱歩、横溝正史へと続く系譜がある。近年では綾辻行人『Another』(2009年)や城平京『虚構推理』(2011年)など、ミステリと怪異の接点を描く作品は枚挙に暇がない。そして、この関係性の転換点となったのが、京極夏彦の「百鬼夜行」シリーズである。第一作『姑獲鳥の夏』(1994年)は記録的ベストセラーとなり、最新作『鵼の碑』(2023年)で10作目を数える。
「百鬼夜行シリーズ」は1950年代の倭国を舞台に、古書店主で陰陽師の中禅寺秋彦(通称:京極堂)が不可解な事件を解明する物語だ。各巻のタイトルには妖怪の名が冠され、伝奇小説の体裁を取るが、意外にも実体を伴う怪異は一切登場しない。京極堂の関わる事件はすべて人間の仕業であり、誰が/どのようにして/なぜ 殺人を犯したかが論理的に解明される。「この世には不思議なことなど何もないのだよ」という決め台詞が示すように、怪異の実在そのものが否定される点が最大の特徴である。
『都市伝説解体センター』の開発者の一人、ハフハフ・おでーん氏は「百鬼夜行シリーズ」からの影響を明言(出典はこちら)している。確かに京極堂と廻屋渉には多くの共通点がある。
まず、京極堂と廻屋渉は、現場へ赴かずに推理を進める安楽椅子探偵である。京極堂が友人からの報告を聞きながら思考を巡らすように、廻屋も事務所から福来あざみとの通話を介して推理する。
そして妖怪や都市伝説といった怪異は実在はしないとしつつも、概念として深い敬愛を持って取り扱う。彼らにとって怪異とは、〈それがなぜ信じられているのか〉、〈なぜ人々がその信仰を必要とするのか〉という知的好奇心の対象なのだ。
さらに重要なのは、事件を怪異に見立てる手法である。京極堂は事件を妖怪になぞらえ、その成り立ちや特徴を語ることで事件の本質を浮かび上がらせる。廻屋も同様に、怪奇現象を都市伝説に見立てることで、フラグメント化した証言や証拠を再配置し、新たな仮説を導き出す。
クライマックスでの謎解きも似た構造を持つ。京極堂の「憑き物落とし」は、事件関係者の無意識的な思い込みを「憑き物」に見立て、それを論理的に説明することで深刻な固定観念から解放する。廻屋の「都市伝説解体」も、怪異と思われた現象が人為的なものであることを明らかにし、事件の真相を暴く。
ただし、ここから両者は分岐する。京極堂の「憑き物落とし」は抑圧された感情を解放し、事実を客観的に再解釈させる。これは一種のリフレーミングであり、心理的治療行為とも言える。実際、『姑獲鳥の夏』の刊行後、作者・京極夏彦のもとには読者から「怖いというよりも救われた」という感想が多く寄せられたという。
京極堂は「この世には不思議なことなど何もないのだよ」という決め台詞とともに、世界を再び合理の光で照らし、共同体の秩序を回復する。彼の物語は、理性への信仰がまだ可能だった時代の、最後の輝きと言えるだろう。
一方、廻屋渉の「都市伝説解体」は暴露と冷笑に帰結する。廻屋は怪奇現象の真相を暴き、都市伝説の裏に隠されていた金銭欲、承認欲求、復讐心、支配欲、陰謀論的妄想といった人間の醜い感情を冷ややかに見つめる。事件の真相は意外なほど凡庸で、炎上騒ぎの虚しさだけが残る。
廻屋の探偵行為は、事実も論理も信仰を失った廃墟の上で行われる。彼は真相をすべて知りながらも、それをフェイクを織り交ぜた真偽不明の都市伝説として動画配信する。真実は“エンタメ”の中に埋没し、社会には何の変化も起こらない。廻屋渉の「都市伝説解体」は、炎上に水を差し、燃え尽きた真実を情報の海へと還す、虚無的な後始末なのだ。
つまり、廻屋渉は京極堂のポスト・トゥルース時代的変奏だと言えよう。京極堂が理性の光で妖怪を祓い、秩序を回復する探偵だとすれば、廻屋は真実が無力化された時代に、なお探偵であろうとする者の変容した姿である。同じ安楽椅子探偵のスタイル、同じ怪異への愛、同じ事件解決の手法を持ちながら、時代の変化によって、その意味は「治療」から「虚無」へと反転してしまったのである。
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全文はこちら(ネタバレあり)
https://t.co/wysFTojT8h December 12, 2025
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