ウィーン トレンド
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2025.12.14 17:00
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🇫🇷クロワッサンは、いつパリに登場したの?
① 最初の出会いは19世紀のパリ
1837年から1839年ごろ、パリ9区・リシュリュー通り92番地に、オーストリア人のアウグスト・ツァングと
エルネスト・シュヴァルツァーが「ウィーン風ベーカリー(ブーランジュリー・ヴィエノワーズ)」を開きました。
そこで売られていたのが、今のクロワッサンの祖先ともいえる「キプフェル」。
まだ「クロワッサン」という名前ではなく、
生地もブリオッシュのようなパンでした。
1850年、辞書の中で初めて「日常的に食べられるパン」として紹介されます。
② 今のクロワッサンになるまで
食文化史の研究者たちによると、現在のクロワッサンが
「フランスを代表するパン」になったのは20世紀以降。
パリのパン職人たちが、キプフェルのブリオッシュ生地をやめ、フランス特有の発酵折り込み生地へと変えたことで、
私たちの知るクロワッサンが誕生しました。
発酵折り込み生地を使った最も古いクロワッサンのレシピは、1906年、オーギュスト・コロンビエの『新・料理百科事典』に記されています。
③ 朝食の定番へ
1950年代以降、
クロワッサンはフランスの朝食に欠かせない存在になります。外国から来たパンが、
いつの間にか「フランスらしさ」の象徴へ。
食の歴史って、本当におもしろいですね。 December 12, 2025
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オーストリア観光大使は一年延長
この前のヨーロッパツアーの時、秘密の仕事でウィーンに行ってたそうです
秘密の仕事ってなんでしょう?
楽しみですね❤️
#黑ミサ2025inFurano December 12, 2025
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『シベリウスの交響詩とその時代』を読むとフィンランド人はウィーンでふつうに差別されていて、ベルリンではカラヤンが積極的に取り上げた後も田舎者音楽の扱いを受けていたという話もある December 12, 2025
オーストリアのウィーン風もウインナーワルツとかウィンナーコーヒー、ウィンナーソーセージと言いますよね
倭国人はウィンナー イコール ソーセージと使っていて、ウィンナーコーヒーはコーヒーにソーセージが入っていると思っている人も多いです
#ちきゅうラジオ December 12, 2025
出張を理由に仕事を
人に押し付けて
管理人2号と日光東照宮に行って
最後はプリソを食べた人です。
仕事をサボってるので
見ざる・言わざる・聞かざるで
お願いします🙇♂️
来週からは岡山に帰って
真面目に働きます。
#日光東照宮 #ウィーン
#瀬戸内海の森キャンプ場 https://t.co/Co01VPohui https://t.co/R63TqbMjtP December 12, 2025
ウィーン・スタイル ビーダーマイヤーと世紀末@パナソニック美術館,
昔ドイツでビーダーマイヤー様式のホテルに泊まったことがあり、
思い入れのある同様式。
後の時代の物と見比べることが出来、良かった。
家具や服飾品も展示されていて楽しめた。
クリムトのパステル画を見られたのも良かった。 December 12, 2025
@Takuma__Ishii ダノールさんとの2台コンサートin東京終演お疲れ様でした🙌✨
🇦🇹ウィーンで知り合い、お互いの国で素敵なコンサートを🇨🇱🇯🇵開催出来るのは素敵な友情🫶ですね😊🍀
明後日の通訳🇩🇪→🇯🇵楽しんで下さいね😊 December 12, 2025
これは🧓もうっかりしてたんだけど、最近のスマホは大抵イヤホンジャックがなくてワイヤレスやタイプCのイヤホン使ってない?
だから昔は持ち歩いてたイヤホンジャック用のイヤホン持ってない。
でも海外観光地だとまだ旧タイプも必要なことがあるから1つは持っとくほうがいいね。
#HIROウィーン2025 https://t.co/4XNGq3jlm6 December 12, 2025
というわけで次はシェーンブルン宮殿の広大な庭園へ。
いちばん南端&高台にあるグロリエッテまでは、歩くと結構な上り坂を20分ほど。
昨年の北ドイツ旅では歩きすぎて最後に足裏が腫れちゃったので、今回は用心してこのパノラマバーンで行きます(写真に写ってるのは🧓じゃないよ)。
#HIROウィーン2025 https://t.co/gOHUqg2NK7 December 12, 2025
マリア・テレジアが夏の暑さを避けるために過ごした地上階のその部屋部屋を紹介してくださってる動画。
今回の旅で見られなかったので拝借します🙏
#HIROウィーン2025 https://t.co/xED56l77CO December 12, 2025
食べてみたいミラノのパネットーネのメモ(クラシックではないものを中心に)。
1. Martesana (マルテザーナ)
ザッハトルテ味パネットーネ(Panetùn de l’Enzo)48€。アプリコットとチョコが入った生地をチョコでコーティング。ウィーン菓子ザッハトルテがそのままパネットーネに(続く) https://t.co/qSI4r8dXFR December 12, 2025
「中古ショップでBlu-rayプレイヤー買った!ん?なんか中にDVD入ってるな」ウィーン → 超絶レアな〇〇が出てきて話題にwwwww #雑談・その他の話 https://t.co/3Sf3Mm03so December 12, 2025
20年くらい前にウィーンで <バグダードを忘れろ>という記録映画を見た。英語 アラビア語 ヘブライ語入り乱れ、ドイツ語字幕も当時よく読めず。その中の挿話で、イラク出身ニューヨーク在住のユダヤ人女性学者のインタビューがあった。初めは英語で話していた彼女が、幼児期の記憶の叙述に突然↓ https://t.co/zRA8fk3aCX December 12, 2025
ベートーベン〈逆境を勝ち越えた英雄たち〉
「第九」として世界中で愛される「交響曲第9番」。今年(2024年)は、このベートーベンの傑作が初演されて 200年の節目に当たる。最終楽章の「歓喜の歌」は、倭国でも親しまれる“年末の風物詩”だ。「難聴」という、音楽家にとって致命的ともいえる過酷な現実と向き合い、「第九」を完成させたベートーベン。苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!─楽聖の魂の響きは今なお、民衆を鼓舞してやまない。「ベルリンの壁」の崩壊を記念して演奏されたのも、この曲だった。彼は綴っている。「困難な何ごとかを克服するたびごとに私はいつも幸福を感じました」「どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。─おお、生命を千倍生きることは全くすばらしい!」
ベートーベンは、1770年 12月、ドイツのボンに誕生。歌手だった父はひどい酒飲みで、一家の生活は貧しかった。父の苛烈な音楽数育もあり、幼い頃から才能を発揮し、11歳でオーケストラの一員に。父の代わりに家計を支え、弟たちの面倒を見るようになる。16歳の時、最愛の母が肺病で他界。失意の底に沈むが、周囲の支援を受けながら、オーストリアの作曲家ハイドンに師事するため、音楽の都ウィーンへ。22歳を目前にした 92年11月のことであった。彼は貴族の屋敷で演奏し、ピアノを教えて、生計を立てた。その中でさまざまな曲を作り、「新しいモーツァルト」として注目を浴びるようになっていく。
後年に記した「この世にはなすべきことがたくさんある、すぐになせ!」との言葉は、一瞬一瞬に生命を燃焼させて音楽に打ち込んだ姿勢の表れといえよう。だが 20代後半、人生最大の試練がベートーベンを襲う。耳の異変に気付き、だんだん音が聞き取れなくなってしまったのだ。音楽家にとって聴力を失うことば“死”にも等しい。彼は世間に知られないよう、こっそりと治療を続けた。いつしか人前に出ることも少なくなっていった。
多くの治療法を試したベートーベンだったが、結果は芳しくなかった。それでも「僕の芸術は貧しい人々に最もよく役立たねばならぬ」と作曲を続け、民衆のための音楽を生み出していく。31歳の時には、日常会話に困るほど聴力が落ちていた。弟子にもその事実を知られ、絶望の淵に突き落とされる。1802年10月に書いた「ハイリゲンシュタットの遺書」には、難聴の苦しみがつづられ、「絶望がもう少しでも大きければ、私は自らの生命を断っていた」と記されている。
しかし、彼は運命に屈しなかった。遺書の中で「芸術だけが私を引き止めた。ああ、私は、自分のなかにあると感じているものすべてを生み出すまでは、この世を去ることはできない」「忍耐、それを今、私は自分の道しるべとして選ばなければならない」と決意をしたためている。有名な交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」などは、遺書を書いた数年以内に作り上げた作品だ。後にベートーベンは「秀でた人間の主たる特徴──それは厳しい逆境のなかでの忍耐」とも書き残している。
難聴以外の病にも苦しんだ。愛する人との別れや家族の死、経済苦にも悩まされた。その中でも、創作の手を休めることはほとんどなかった。40代半ばになると、補聴器を使い、その後は会話帳を用いてコミュニケーションを取るようになった。「交響曲第9番」を完成させたのは晩年の24年。耳はもう、ほとんど聞こえなくなっていた。
初演は同年5月、ウィーンの劇場で開催され、ベートーベンは周りの反対を押し切り、指揮台に立った。演奏が終わると、聴衆の割れるような拍手が会場を包んだ。アンコールは実に5回に及んだ。「第九」の初演の頃から、ベートーベンの体は著しく衰弱していった。亡くなる前年から数回手術を受けたが、体調が良くなることはなかった。命尽きるまで音楽への情熱を燃やし続けたベートーベンは、病床でこう言ったという。“私は、やっと少しばかり音符を書いたにすぎない”と。そして27年3月、56歳で人生の幕を閉じたのである。
ベートーベンの生涯を書いた作家として知られるロマン・ロランは、彼をこう評する。「まるで悩みそのもののような人間、世の中から歓喜を拒まれたその人間がみずから歓喜を造り出す─それを世界に贈りものとするために。彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛え出す」 December 12, 2025
#児童文学100冊マラソン
#読了
最後のドラゴン
ガレット・ワイヤー
三辺律子訳/あすなろ書房
83/100
〈黒い森〉で生まれた特別なドラゴン、グリシャ
何をなしとげるのかもわからないまま、魔法でティーポットにさせられて100年と少し後
紆余曲折を経て、20世紀のウィーンで少女マギーと出会う↓ https://t.co/fMANu9GjyF December 12, 2025
今日は初めて7人揃ってサラトガ組曲を吹きました!
途中で何かあっても立て直せるこの感じは、このメンバーだからだなぁという信頼感ありますね…しみじみ。
来週12/20がひとつめの本番です!
よろしければウィーンホールへ聴きに来てください✨
その次の本番は1/10のシュテープス祭りです。 https://t.co/2JrVuXqOlL December 12, 2025
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