後白河法皇 トレンド
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2025.11.17〜(47週)
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三十三間堂夜間特別公開、圧巻でした。
後白河法皇もこんな景色を見ていたのかな。
写真撮影可なのも大変ありがたい。
恒例行事になるといいですね。 https://t.co/0ILp9H8xg7 November 11, 2025
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"後白河法皇が見た観音浄土"
見るしかないので蓮華王院に拝観行きました
泣きました🥹
#三十三間堂夜間特別拝観 https://t.co/kohjp2ElfJ November 11, 2025
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さあ、今晩も楽しみな時間が。
#後白河法皇 は、武士に付かず離れずを繰り返して保身をしていた印象、大河では、義経の平幹二朗さんと鎌倉殿の13人の西田敏行さんの演技が印象的です。
どんな教訓でしょうか?
#BS11
#偉人・敗北からの教訓
#伊東潤
#中西悠理
#平清盛
#源頼朝
#蒼き海の涯に
#琉球警察 https://t.co/riInoZXvPr November 11, 2025
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偉人・敗北からの教訓
後白河法皇(1127年〜1192年)
平安時代末期、武士が台頭してきた激動の時代を生き抜いた後白河法皇が今回の主人公です。
1.敗北のテーマ
・平清盛の怒りを買い、幽閉生活を余儀なくされたこと。
2.登場人物
❶後白河法皇
・鳥羽上皇の4番目の息子として生まれる。兄に優秀な崇徳天皇がいて、弟には近衛天皇がいた。
・皇位につける可能性はなかったので若い頃は今様という流行歌にドハマリした。宴会、カラオケみたいなもの。
仏教への関心も強い。
・28歳の頃に次の天皇の中継ぎとして天皇の地位になった。
・保元の乱、平治の乱などを経験した後で、平清盛のバックアップを受けて息子の二条天皇との権力争いや平清盛の義妹の滋子との間に生まれたもう一人の息子を高倉天皇にすることで権力を握った。
❷平清盛
・平家の棟梁で武士として初めて太政大臣まで上り詰めた。
・日宋貿易などで栄華を極める。
❸源頼朝
・初の武家政権となる鎌倉幕府を開いき、後白河法皇を倭国一の大天狗と例えた。
3.平清盛との対立
・1177年にそれまで持ちつ持たれずの関係が続いたが、後白河法皇の側近が平家を倒そうとしているという鹿ケ谷の陰謀が発覚し、関係悪化。
・清盛の息子の平重盛が亡くなり後白河法皇のために働いていた知行地を勝手に後白河法皇が処分したこと、人事も勝手にして清盛の怒りを買い、幽閉させられてしまう。
4.その後
・源平合戦が起こり、清盛が亡くなり平家は滅亡してしまう。
・平家が滅亡したことで再び院生か行えると期待したが、源頼朝に守護と地頭の権限を認めたことで鎌倉幕府が誕生する。
・1192年に65歳の生涯を閉じる。
5.学び
・今さえ良ければ良い、問題を先送りにする思考や行動は、結果的に自分の首を苦しめる。
・後白河法皇は自分さえ良ければ良いと考えて、行き当たりばったりで先のことを考えるのが苦手な人だった。
うまくまとめられませんでしたが、自分さえ良ければ良い、今さえ良ければそれで良いのだという考えることは大変危険なことだと再認識しました。 November 11, 2025
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そして、前に「ブラタモリ」でやってて見たいと思ってた三十三間堂の夜間特別拝観に、呼ばれたとしか思えないグッドタイミングで行けました⭐︎
後白河法皇マジ半端ねぇ! https://t.co/oPUaBq6eDj November 11, 2025
(´・ω・)この景色が、後白河法皇、足利義教、豊臣秀吉がみた極楽浄土•••
(´・ω・)人 拝観出来ない人の為に、Xで見せて頂きありがとうございます😭 https://t.co/JjFMSs4YYq November 11, 2025
三十三間堂夜間特別公開、圧巻でした。
後白河法皇もこんな景色を見ていたのかな…。
写真撮影可なのも大変ありがたい。
恒例行事になるといいですね。 https://t.co/qIVVnwY9fB November 11, 2025
自分にとってシスの復讐は、公開同年に放映されてた大河ドラマ「義経」(タッキーの奴)とセットという認識だったんだよね
というか、源義経って、あまりにもアナキン過ぎないか?
義経=アナキン
後白河法皇=パルパティーン
源平合戦= クローン戦争
頼朝=オビワン
で、完全にパラレルで当時解釈してた November 11, 2025
明日11/24まで!
【国宝 三十三間堂 夜間特別拝観】
〜後白河法皇が見た観音浄土〜
三連休の中日で、一番人が多いと思われる人波の中だったが、後白河法皇と(たぶん)同じ観音浄土を観ることができた。
観音浄土の撮影目的で来ていた方々も多いようだった。
#仏像 #butsuz https://t.co/JeP1ygjWKw November 11, 2025
明日11/24まで!
【国宝 三十三間堂 夜間特別拝観】
〜後白河法皇が見た観音浄土〜
夜間拝観ということで(?)、黒地の限定御朱印もあり。
#御朱印 https://t.co/MwSnPNBUwu November 11, 2025
小説 新人間革命 26巻 勇将の章より引用
伸一は、四国総合長の森川一正に言った。
「はい。明るければ、左手に、源平・屋島の戦いの舞台となった屋島も見えます。
また、この辺りは『船隠』と呼ばれ、岬の陰になって見えないことから、平氏がたくさんの船を隠したところだそうです」
「屋島の戦いか。勇将・源義経の勇気と英知が光る戦いだったね。
武士から公卿となって、″平家″を名乗り、『平家にあらずんば人にあらず』というほどの権勢を誇った平氏が、最後は滅ぼされてしまう。
当時の人たちの多くは、思いもしなかったことだろう。
まさに、『驕る平家は久しからず』だ。平氏敗北の根本要因は、民衆の心を忘れた驕りと油断にあったといえるだろう。
権勢を手に入れ、それに慣れてしまうと、わがまま、贅沢になり、民衆の苦しみがわからなくなってしまう。
その時に人心は離れ、基盤が崩れ始めていく。だが、それに気づかない。実は、そこに、慢心の落とし穴がある」
森川は、真剣な顔で頷きながら言った。
「それは、遠い昔のことではなく、すべてに通じる話だと思います」
「そうなんだよ。リーダーというのは、常に民衆の心を忘れず、民衆のために自分を捧げていかなくてはならない。
そして、常に、一人立って、率先垂範の姿勢を示していくことだ。
源氏が平氏打倒に立ち上がる突破口を開いたのは、平氏への忍従の末に決起した七十代半ばの老武将・源頼政だ」
治承四年(一一八〇年)、源頼政は後白河法皇の皇子・以仁王の令旨を得て平氏討伐の兵を挙げた。
頼政は果敢に戦うが、宇治平等院の戦いに敗れ、自害する。
しかし、命を懸けた彼の決起によって、伊豆国(静岡県東部)に流されていた源頼朝、頼朝の従弟で信濃国(長野県)木曾にいた源義仲などが、次々と挙兵する。
平氏の横暴に対して、武士をはじめ、人びとの不満はつのり、討伐の機は熟していたのだ。
しかし、源氏の蜂起には、発火点が必要であった。
その役割を果たしたのが頼政であった。一人の勇気ある決断が、時代転換の導火線に火をつけ、歴史の流れを変えたのだ。
翌治承五年(八一年)に平氏の総帥・平清盛が病死する。義仲は、平氏を破り、京の都を手中に収めると、傍若無人の限りを尽くす。
やがて征夷大将軍となるが、頼朝の命を受けた義経らによって討たれてしまう。
源氏には、後白河法皇から平氏追討の院宣が下り、義経は平氏が陣を構える摂津国福原(神戸市兵庫区内)を攻める。
そして、寿永三年(一一八四年)の二月、摂津の一ノ谷の合戦で、「鵯越の逆落とし」といわれる奇襲で平氏を破ったのである。
西国に逃れ、讃岐国(香川県)の屋島に本拠地を置いた平氏は、瀬戸内海を押さえ、大軍をもって海の防備を固めていた。
海上での戦いとなれば、義経に勝算はない。
そこで彼は、まず四国に渡って、陸路、屋島に迫り、背後から平氏を討とうと考えたのだ。
勝利への執念は、あらゆる知恵を生み出す。執念あるところ、知恵の泉は枯れ果てることはない。
暴風が吹き荒れる夜半であった。海は猛り、激浪は白い牙をむいていた。
しかし、追い風である。義経は、直ちに、用意した船で四国に渡ろうと決断する。
「敵は用心を怠る。この好機を逃すな!」
強風に尻込みする者たちを叱りつけ、わずか五艘の船で荒波に向かった。
若き闘将の勇敢な行動が、武士たちの勇気を鼓舞した。
烈風のなか、源義経の軍は、四国の阿波国(徳島県)方向に船を進めた。激浪にもまれながらの渡海であった。
苦しい航路ではあったが、強風が幸いし、六時間ほどで、阿波に着くことができた。
だが、そこにも、平氏の赤旗が翻っていた。
五艘の船に分乗した義経軍の馬は、五十余頭にすぎなかった。
しかし、平氏を蹴散らし、陸路、屋島へと向かった。途中、地元の武士も義経軍に加わり、陣容を増していった。
勢いと団結は、人を魅了し、加勢を引き付ける。
彼らは、夜間も行軍を続け、阿波と讃岐の国境の大坂峠を越え、屋島南部の対岸に迫った。ここで、辺り一帯に火を放った。
もうもうと煙が立ち上り、火が燃え上がるのを見て、平氏の武将たちは、″源氏の奇襲だ!″と驚き、慌てた。
平氏は御所を放棄し、安徳天皇を守りながら船に乗って、蜘蛛の子を散らすように、沖合へ逃げ始めた。
平氏は、″源氏は瀬戸内海を渡って攻めて来る″と思い込んでいた。船の数も多く、海上での戦いには自信があった。
その自信が弱点となった。背後からの攻撃に意表を突かれて、冷静さを欠いてしまったのである。
戦いには、変化に次ぐ変化が待ち受けている。その時に、慌てふためき、狼狽するところにこそ、敗北の要因がある。 November 11, 2025
先週はお休みでしたので、楽しみです。
後白河法皇についてはあまり知識ありません。
正直、どんな人だったかあまり記憶にない。
勉強します。 https://t.co/xEEDLPlgRw November 11, 2025
歴史の表舞台に名前を残した法皇でさえ、一個人として免れない死を意識していることを感じる歌。
時代が下るけれど、中世に蓮如が「白骨の御文」を書いた背景にはこうした後白河法皇や後鳥羽上皇(無常講式)が記した言葉の裏にある死の哀しみと怖れ、無常観からの影響を想像する。 November 11, 2025
律音階は雅楽に使われる音階で、当時の最先端だった唐から来た音楽(後白河法皇が好んだ「今様」はこれに歌を付けたもの) 都節音階(=陰旋)は江戸時代に好まれた音階で、寂し気で危うい感じの色気と奥ゆかしい風情がある、都会の旋律(箏曲とか芸事の音楽に多く使われる) 琉球音階は島んちゅの心🌺 November 11, 2025
@y4frtdSwW49bF26 三度読み返して納得しました😅
倭国人は古代や中世のネットなどのない時代から縦読みとかしていた気がします
後白河法皇が梁塵秘抄の編纂に関わった際に
音や姿の残せないのを惜しんだ話が残されていますが
現代人のアドバンテージはそれだけで、倭国人の内面は
さほど変わっていないのです November 11, 2025
そうですね😂
あたしが思うのは、義経は、いちびりの、いいかっこしい、いかにも関西の人間ぽい感じ。
頼朝は、人間が小さくてビビリで意気地なし。
清盛は、家族思いで、思い過ぎて身内びいき、マザコンなんじゃないかな。
後白河法皇は、混乱の時代の倭国を守る為に、あえて時代に流されて、阿呆のふりをして、乗り越えた賢い人。 November 11, 2025
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