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平和記念公園
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2025.12.14 00:00
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ひめゆりの塔と平和記念公園見てきたけど、まぁ酷いもんだったよ。兵隊も民間人も関係なく全戦力注ぎ込んで、中学生が戦車に特攻しに行くんだもんな。そんでガマの中じゃ死臭のする中麻酔なしで手足切断手術とか行われてたんだもんな。
ひめゆり学徒隊の証言とか聞いたけどよくあれで生還したと思う December 12, 2025
沖縄でのワンマンライブの内容と告知が炎上し、
ライブ中止となったバンド「グランギニョル」の件を見て、
「これは他人事ではない、自分も同じことをしてきた側」として、書いた文章です。
(裏アカでもふれましたが、その後一日考え、自分の経験も込めてあらためて書きました)
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汚れた手で聖域にふれること——グランギニョルの炎上に寄せて
■ グランギニョルはかつての僕
僕も、311のあと、震災の歌をつくり、ライブで当時の海の映像を流しながら歌ったことがあります。自分としては、攻めてるつもりでした。その後に、見ていた知人に怒られました。
昔、化粧をするバンドをやっていたときも「不謹慎」と言われることをやったりしました。葬式用の白黒の幕を張ってライブしたり。先輩から精算室で「お前らのやってること、悪ふざけにしか見えないんじゃ」と詰められたこともありました。
いまでも、能登に向けた「歌の千羽鶴」というイベントをやっていますが、きわどいことを歌ったり言ったりすることがあると自覚しています。
■
僕は「バカ」でした。いまでもそうなんですが、バカなりに、バカの立場にたつ……そんなの求められてない! ですが、なんか無視できない……と思うのです。
それで、思ったことをそのまま書いてました。裏アカで。人目につかないところで、こっそり。
こわいから、逃げながら、物議を醸しそうな話題について言及してました。
でも、そんなんじゃだめで、バカをさらして、外からも、バカにされなきゃ釣り合いがとれないだろうと、最近、考えをあらためてきたのです。
■
ひめゆりの塔は、一度行ったことがあります。静謐な場所でした。平和祈念資料館のなかに入って、生徒たちの写真が並ぶコーナーがありました。その写真の下に、コメントが書いてある。クラスの同級生への印象を書いたような、そのコメントが、短く書いてある場合もあれば、それなりに長くコメントがついている場合もある。
ある種のリアルを、そこですごく感じたのです。
当時の、一人ひとりの、人と人、友と友の、仲が良かったり、そうでもなかったりする、人間模様の、集まりだったんだなあって。
語り部の人の映像も流れていて、経過した時間の重みを感じました。語りはじめた当初と、それをつづけていって、きっと、語り口とか、説明のなめらかさとか、変わっていったところがあるんだろうなって思いました。
それだけ、語り継ぐ、そのことに賭けてたんだなと、伝わってきました。
■
沖縄の人の気持ちを逆撫でするの、こわいです。沖縄に行ったとき、ライブだったんですが、レンタカーを借りてほうぼうを回りました。辺野古にも行って、平和祈念公園にも行って。
自分は本土の人間で、加害側なんだ。だから沖縄に行くなら歴史の場所に行かなくちゃ。そう思っていたのは事実です。個人的に関心もありました。
でも、同時に、「辺野古を見てきましたよ」と現地の人に言ってもいました。つまり、通行証にしたかったのです。沖縄の人にたいして、心をすこしでもひらいてもらいたくて。それは、恥じることではないし、いくつかの場所に行けたのはよかったし、行ったことを伝えたことも悪いことではないと思います。でも、そんな自分は、どこかでやっぱり、すこし卑怯な気もしていました。
加害側。沖縄の、平和記念公園でもひめゆりの展示でもそうですが、本土が加害側として描かれていました。そのことが、とても大事で。だからこそ、沖縄が大事だなあ、と感じたのです。自分たちが加害側だと突きつけられる場所は、身近にぜんぜんないように感じたからです。
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今日、一日考えてました。裏アカ(うろじんけたまぬ)に、率直に書きました。感じが悪くて、僕は普段、あんなやつです。異論があったんです。書いたとおりの。
不謹慎な表現を、すぐ排除して、本人たちも中止して、それで本当にいいのか。
よかったっけ。そうだったっけ。ちがうんじゃないの。
上に書いた「沖縄に行って感じたこと」と、分裂しているように聞こえるかもしれませんが、あのバンドの表現したこと、その方法を、怒って批判するのはそりゃそうだろうと思うんです。ですがそれでも、ライブを中止して、それが当然だみたいな風潮や空気には、異和を表明したかったのです。
■
ここまで書いて思いますが、沖縄戦の本当の重み、その悲劇を、僕は本当にはわかってないと思います。沖縄にも、一度行っただけです。「語る資格があるのか」と言われれば、わかりません。沖縄の当事者ではないです。逆に、加害側の、本土の人間です。それで、でも同時に、そういう当事者性の、有資格を問うような、そういう風潮や空気感が、ずっと苦手なんです。なんだか、そんなことばかり言ってたらだめなんじゃないか、と思えてならないのです。だめになるんじゃないか、という感じがするのです。
あのバンドのように、僕自身、歴史を軽くあつかっていると言われれば、そうかもしれません。最悪かもしれません。でも、じゃあ歴史を語れるのは、ふれるのを許されるのは誰なんでしょう。それを決めるのは誰なんでしょう。どこかでそんなことも思ってしまいます。いや、ずっとそのことについて考えてきました。
■
バカが、汚い手で、神聖なものを雑にさわり、自分たちの勝手な表現に利用した——
でも、それは、ガマを物理的に破壊する行為とはちがいます(それは修復不可能です)。表現行為は、どんなときに、どこまでなら許されるのか。その大きな問いを前に、僕はいつも、迷っています。なにが「正解か」なんて、わかりません。でもわからないから、表現して、迷って書いて、ときに否定されることも引き受けながら進むしかないと、いまの僕は思います。
自分の考えが、正しいと信じきってるわけじゃありません。ただ、うずいた考えの軌跡を表明する責を勝手に感じ、記しました。 December 12, 2025
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