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2025.12.12 15:00
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創作という営みを、しばしば人は「物語を作り出す技術」だと考える。だがそれは、本質から少し外れている。創作とは、他でもない自分自身と向き合うことであり、自分の内側に潜むあらゆる声と時に苛烈なまでに交渉を続けることなのだ。
先日、『ヴィンランド・サガ』の作者・幸村誠さんと対話する機会を得た。彼の創作論に触れたとき、僕はあらためてその事実を痛感した。
幸村さんは、キャラクターを自らの脳内に召喚し、「議会」を開くという。議長を務める幸村さんは、登場人物一人ひとりの意見を聞き、全員が納得するまで執筆を始めない。狂気と誠実さが奇妙に同居した、創作者の極北のような作法である。
興味深いのは、彼が「主人公に近い自分」だけを描いているのではない点だ。彼は、トルフィンという理想を投影できる人物と同じだけ、イーヴァルという「嫌悪すべき自分」の一部もまた、正面から物語に据える。それは、自分の醜さを切り捨てずに凝視する覚悟を意味している。
創作者というのは、どうしても自分を良く見せたくなる。「立派な思想」や「正しさ」を、キャラクターの口を借りて語りたくなる。しかし、そこには必ず嘘が混ざる。悪役を「悪」として処理し、倒してしまうのは容易だ。だがそのとき物語は、読者の魂に届くべき震えを失うだろう。
物語が生身の痛みを持つためには、嫌悪し、忌避し、封印してきた自分の闇にも血を通わせなければならない。僕たちはそのとき初めて、読者の痛みとつながることができる。
思い出すのは、『宇宙兄弟』の小山宙哉さんの言葉である。
「キャラと出会う感覚がある」
多くの人は、それを「キャラクターが勝手に動き出す現象」のように理解するだろう。だが、幸村さんの語りを踏まえるならば、それは自分でも気づいていなかった自分との遭遇のことなのだ。
創作とは、自分の中に潜む死角に、恐る恐る光を当てる行為である。見たくなかった自分と出会い、その声に耳を傾ける覚悟の旅である。
……と、ここまで偉そうに言語化してみたけれど、この長文投稿自体が、僕の中の「賢く見られたい、かっこいい自分」だけで構成されているという矛盾については、どうか目をつぶってほしい。
最後に、この学びの場を与えてくださった幸村誠さん、木村さん、ゲンロンカフェの皆さまに心から感謝したい。ありがとうございました。
幸村さんと対談の記念写真を撮り忘れてしまった。 December 12, 2025
編集者の本分とは、「好き」のおすそ分けに尽きる。
自分が心から良いと思えるもの。自分の心が動いたもの。それをもっと多くの人に届けたい。その純粋な気持ちこそが、編集という仕事の原点にある気がしてならない。
才能を惚れ込んだ作家と時間を重ねていく中で、こちらの想像を超えるような作品を仕上げてくる瞬間がある。そのとき、作家への惚れ込みと作品への惚れ込みがピタリと重なり、「好きのおすそ分けをしたい」という感情が一気に湧いてくる。
『宇宙兄弟』の最初のネームが届いた時は、まさにそんな瞬間だった。
そして今、あの時と同じような感情が、再び自分の中に訪れている。そんな瞬間と出会えるのが編集者という仕事の醍醐味であり、その興奮を共有したくて、今週のnoteはそのことを書いてみた。 December 12, 2025
おはつる✨️
落ち込んだ時は、どうするの?
折り鶴の写真選びながら、
「宇宙兄弟」の名言を聞いて
気持ちをあげて
北斗の拳のラオウ様の
「我が生涯に一片の悔い無し」って
天に指さすとだいたい元気になる単純なナカタですが今日もよろしくお願いいたします🙏
今日の写真は
「強くて優しいチタンの夫婦折り鶴と建築板金職人の屋根」 December 12, 2025
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