土俵 スポーツ
0post
2025.12.14 08:00
:0% :0% (30代/男性)
人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
AI時代の知的財産権検討会の書類を見てAlユーザーが悲鳴あげて「倭国のAlオワタ」とか「また外国に負ける」言うてるけど、そもそも君達が懇意にして使い倒してるAl全部外国産やん
そもそも倭国が土俵に上がってない状態で勝つも負けるもないんだよね。
中国にすら肩並べられてない。 December 12, 2025
10RP
【オードリー若林から学ぶ、35歳からの無理しない生存戦略】
・得意な場所だけで戦う
・評価より持続性を優先する
・疲れを気合で誤魔化さない
・沈黙や距離感を武器にする
・目立つより、長く続く形を選ぶ
・全方位から好かれようとしない
・苦手な土俵からは静かに降りる
・自分に合わないキャラを卒業する
・頑張り続ける前提の働き方を疑う
・自分が壊れない設計を最優先にする
彼がすごいのは、
無理して強くなろうとしなかったこと。
変わるより、合う形に調整した。
前に出るより、壊れない道を選んだ。
私も35歳から、根性や気合いを手放し、
自分をすり減らさずに生き抜く戦略を整えました。
あなたの今の生き方は、
頑張り続けないと成立しない設計になっていませんか? December 12, 2025
2RP
@yfuruse 昔、ある小説家が言っていたが『アイデアは早く最初に書いた奴が勝ち』なのだ。
それは学術研究にも同様で研究発表が早い者に提唱者の権利が与えられる。特許だってそう。人は頭の中は読めない。発表してこそ同じ土俵に立てるのだと理解して欲しい…😥。 December 12, 2025
2RP
現時点で126件の大切なお名前をお預かりしております。ありがとうございます。
彼らが生きる場所は複雑な世界なのだろうと想像出来ます。彼はどんな土俵で何と戦っているのだろう。生配信が続く中、色々な感情が生まれては消えます。彼らの居場所が暖かでありますように。 https://t.co/8SIFrZYigy December 12, 2025
1RP
はい。
療養病院も、在宅医療も、急性期も、すべて実際にやって知り尽くしている私が来ました。
まず大前提として、
療養病院と在宅医療は、同じ土俵には載せられません。
在宅医療で、
医師が患者と直接接する時間は 2週間でせいぜい10分程度 です。
一方、療養病院では
2週間で約2万分、誰かしらが常に患者と接し続ける医療 が行われています。
その患者さんの多くは、
ほぼ寝たきりで、
約8割が がん末期、難病、IVH、人工呼吸器管理 といった、極めて医療依存度の高い方々です。
在宅医療の診療報酬は、
医療保険+介護保険を合わせて1人あたり月10万円前後、介護を含めても30万円程度でしょう。
一方、療養病棟の診療報酬は、
1日あたり高くても約2万円。
月にすると 1人あたり約50万円 です。
では、このレベルの患者を在宅で、24時間、家族の手を煩わせずに診ることが可能か。
結論は明確で、
ほとんどの場合、不可能です。
実際に、
療養病床に長期入院している患者さんを在宅に戻そうと提案すると、
家族からはほぼ確実に罵倒されます。
「忙しい」
「大変すぎる」
「見られるわけがない」
9割9分、文句を言われます。家族は在宅より病院を望んでいる。家族が在宅を望んでいるなんて嘘。本人はそもそも意識がない。
それが現実です。
療養病床の収入、1日2万円の中には,医療費,オムツ代,家賃分、食事代、ちなみに医療費はすべて包括されています。診察、処方、注射、医療材料、採血、レントゲン
緊急対応、看取り対応、
すべてを含めなければならず、
利益を出すのは相当困難です。
一方で、
在宅医療の利益率が異様に高いのは、短時間で、1人あたり月10万円前後が入ってくる構造にあります。
たとえば、昨今問題になった在宅ホスピスでは、
・介護報酬
・家賃
・生活費
などを含めると
1人あたり月130万円程度。そこに医療費が 約10万円 加わり、
合計140万円程度 になると言われています。
重度患者を
純粋に「お金」だけで比較すれば、
療養病床の方が圧倒的に安い。
一方で、
そこまで手厚い医療を必要としない高齢者が多いのも事実です。
そういう方を在宅で診るのは、合理的だと思います。
問題は、
医療依存度の高い患者まで、在宅に押し出そうとしていることです。
ここからは、
Xでは初めて書きますが、
「訪問診療の交通費を自費にすべきではないか」
という議論があります。
訪問診療医の1日の業務の
半分以上は車の移動時間です。
理屈としては理解できます。
実際、
今の往診料でも 交通費は自由設定が可能 です。
もし、
訪問診療料を半分にし、
交通費を自由に取れるようにすれば、
制度としては整合性が取れます。
しかし、それを実行すれば、
訪問診療は患者にとって極めて高コストな医療となり、
ビジネス目的の在宅クリニックは一気に死にます。
結果として、
在宅医療そのものが衰退する可能性が高い。
それでも、
社会保険料を下げようという機運が高まれば、
最初に狙われるのは在宅医療であることは間違いありません。
国は、
20年以上にわたり
「病院から在宅へ」
と言い続けています。
確かに、
重症患者1人あたりの“医療費”だけを見れば、
在宅の方が安く見える。
しかしそこには、
・家族の介護コスト
・家賃
・食事
・生活負担
・精神的コスト
一切含まれていません。
それは
「国の支出ではないから関係ない」
という理屈なのでしょう。
家族が払えばいいだけ、という話です。
さらに言えば、
ここまで
軽度患者の在宅医療や老人ホームが増えることを、
国は想定していなかったと思います。
老人ホームの訪問診療は、
いずれ確実に制限される。
在宅の軽度患者も、どうなるかは分かりません。施設の要介護2以下は全てオンライン診療にと言うような未来が私にはありありと見えています。
在宅医療も、
いつか必ず梯子を外される日が来ます。現場にいる人間でそれを感じてない人は経営者としてやばいです。
正直なところ、
その先にどんな医療の未来を描いているのかは、私にもはっきりとは見えていません。
見えていたとしても、
しばらくは黙って、真っ先にこっそり対策を練ると思います。
こんな感じで大丈夫? December 12, 2025
1RP
【コメント】中道というのはどうも空気が入らない概念である。中道は「右でもなく、左でもなく」という消極的に規定される概念であり、かつ「真ん中を取りに行く」という単なるポジション取りに受け取られがちだからである。政治には「統治」と「運動」という二つの側面があり、運動にかかわる左右のイデオロギー的政治勢力は活力と熱量を生み出す。それに対して「中道」は現実の統治にかかわる概念であり、したがって調整的、妥協的性格をもつ。とりわけポピュリズム的政治運動が盛んな時期においては、中道という概念はあまりウケそうにない。
だが中道あるいは中庸という概念は、アリストテレスや孔子の時代から東西問わず使われてきた。つまり各々の時代の体制において多数派による統治を収めるうえでは不可欠の概念でありつづけた。そして現代的な意味合いにおいて中道が使われ始めたのは、おそらく20世紀初頭と思われる。
その条件の一つは、参政権の拡大により大衆が政治に参入したことである。もう一つの条件は1917年のロシア革命のインパクトにより共産主義勢力が左派内部で優位を確立し、その反動として右派のファシズム運動が台頭したことだ。つまり政治への大衆参加と左右の政治運動の台頭をうけ、ナショナルな単位における政治闘争がはじまった条件下で、中道概念は現代的な統治を目指すという意味合いをもつことになったと思われる。
第二次世界大戦終結直後の1947年、リベラルなアメリカの政治学者アーサー・シュレジンガーJr.が「活力のある中道」(vital center)という著書を発表している(邦題は『中心』だが意訳した)。シュレジンガーJrは名著「ニューディール三部作」をあらわしたニューディール派の学者であり、戦前にはアナキストの哲学者鶴見俊輔や、戦後非米活動委員会に召喚されることになる革新的経済学者都留重人とも交友と温めていた。
著書「活力のある中道」を著したシュレジンガーJrの狙いは、ルーズベルト政権のニューディール政策を第二次世界大戦後も継承し、アメリカに民主社会主義を定着させることにあった。つまりシュレジンガーのいう中道とは、社会民主主義リベラルのことであった。シュレジンガーは欧州で共産主義に対抗する現実的希望は民主社会主義の強化であると唱えつつ、こう訴えている。
「闘争を除外した自由社会を考えることはできない。財産の分配に不平等があり、経済的利害に差別が存することが本来の姿である限り、政治は経済問題を中心として行われるし、不満を抱くものの蹶起(けっき)が持てる者の専制に対する最善の保障を提供する」。
この一文からは、シュレジンガーJrが、「統治」をあらわす中道概念に「運動」的な活力を吹き込もうと苦心しているのがわかる。ただこれを読めば「なんだ、シュレジンガーJrやニューディールってサヨクじゃん」と思われるかもしれない。だがニューディール政権を主導したフランクリン・ルーズベルト大統領は保守的な人物であり、その基盤の一角を占めた南部民主党は保守の牙城であった。他方で妻エレノアはリベラル派であり、「ブレーントラスト」といわれたルーズベルトの側近たちのなかには左派の閣僚たちが数多くした。このようにニューディール体制は左右の勢力を包摂しており、シュレジンガーJrはこの広大な土俵のうえで民主社会主義を推進しようとしていた。シュレジンガーJrはケネディ政権では補佐官を務め、晩年にはアメリカ政治の包摂力の衰退を警告した『アメリカの分裂――多元文化社会についての所見』(都留重人訳、1992年)を著している。シュレジンガーJr亡き後の中道は、クリントン政権をはじめとしてリベラルがネオリベラルと多文化主義に傾斜し、20世紀のアメリカ政治がつくりあげた統治能力は衰退していった。
このように、中道は各々の時代の統治の編成により内容が規定される。そして問われているのは、ポジション取りではなく、どのような歴史的経験に裏打ちされた統治を打ち立てるかにある。ポピュリズムが台頭し、右派と左派の極端化がすすみ、両者が歴史を手放そうとしているなかで、アメリカにおいてはニューディール体制がその歴史的経験にあたるかもしれない。では倭国はどうなのだろうか。「統治」と「運動」を架橋するビジョンを描きうる歴史的経験を再構築することが、「力強い中道」をつくりあげるうえでは欠かせないはずだ。自民であろうが立憲、国民であろうが公明であろうがどの勢力であろうが、倭国という国の近代化と進歩の歩みのなかにある経験に裏打ちされた歴史的想像力をわがものにした勢力だけが「力強い中道」を語る資格をもつはずだ。 December 12, 2025
1RP
@FUtiyRFS0lEO0dp うんうん😊
目的はLIVEだけど、息子と二人旅、美味しいもの🍻もオマケでついてきてとても幸せでした🤭 やよいちゃんもいつか息子君と二人旅できるといいね.:*♡ワクワクドキドキだよ😍でも、めめを初めて生で見た息子が、ごめん、めめには敵わんわってꉂ🤣𐤔いや、同じ土俵にあがるなよ(笑) December 12, 2025
【勝てない勝負は避ける】
就活のコミュ力勝負がとにかく苦手だった。
面接官にどう印象を残すか、空気を読むか、そういう戦いは嫌いだし、正直なところ絶対に負けると思っていた。
だから客観的に証明できる専門資格を取ることにした。
自分に不利な土俵で戦わないのは逃げではない。戦略だ! https://t.co/ThQhKixmVO December 12, 2025
こう言う話を聞くのはそこまで嫌じゃないけど旦那や実家、義実家にも子供預けることが可能な環境で同じ土俵扱いされるのがちょっと😅こんな恵まれた環境で愚痴るじゃん、ワンオペしんどい育児しんどいって、実母はもっと公園とか連れてってあげてほしいとか、義実家に預けたらお菓子食べ放題になるとか https://t.co/ZUhZakdcIz December 12, 2025
コメントをアップロードできる環境に置いた人に対して、自己責任にされるのはつらい時代だねぇ‥
ホームページってものは、個人の主張を書くところだと思ってるけど、同じ土俵に魔法のiらんどよろしく他の人がいたらその人に気を使ってコメントとかしんどくね。 December 12, 2025
@Hiroka_hir 正直バランス以前に、高校で勉強量が跳ね上がるから、綺麗に書く?そんなもん勉強量のまえには無意味。
いかにサッカーうまくても、足が遅かったら、抜いても、追いつかれる。フィジカルと技術のバランスとかあるけど、フィジカルなければ土俵にあがれない。
②やらないのが一番速い。意識しないと December 12, 2025
「選挙制度のあり方は民主主義の土俵である。定数も含め、与野党の幅広い合意を得て決めるべきものだ。そうした手続きを軽んじれば、立法府の権威を貶めることになりかねない。」
結論が出なくても自動的に削減、というやり方は、国会の軽視であり民主主義を愚弄しています。
https://t.co/CeSK0Fg24c December 12, 2025
沈黙って、感情がない状態だと思われがちだけど、実際はその逆で、感情を使い切った末の選択だったりします。
怒鳴ることも、言い返すことも、説明することもできるのに、それをしない。そこには「もうこのやり取りに自分のエネルギーを使わない」という判断が入っています。
人は本当にどうでもいい相手には、そもそも感情を動かしません。
でも沈黙が生まれる場面って、たいてい一度は向き合おうとした後なんですよね。
分かってもらおうとした。伝えようとした。線を守ろうとした。
それでも通じなかったときに、言葉を重ねる代わりに距離を取る。
それは逃げではなく、これ以上踏み込ませないための現実的な防衛です。
言葉で反論する行為って、実は相手の土俵に乗ることでもあります。
相手の価値観やルールの中で勝ち負けをつけようとする限り、関係性は切れません。
沈黙は、その土俵そのものから降りる行為です。
勝とうともしないし、負けを認めるわけでもない。
ただ「この場所にはもう立たない」と決めるだけ。
だから沈黙は、感情的な拒絶よりもずっと明確です。
怒りは時間が経てば薄れるけど、距離はそのまま残る。
言い合いは関係を続ける余地を残すけど、沈黙は境界線を固定します。
相手にとって一番理解しにくく、一番効いてしまうのはそこです。
沈黙を選べる人は、衝動よりも判断を優先できる人です。
その場でスッキリするより、後悔しない選択を取る。
自分の尊厳を守るために、あえて何も言わない。
これは冷たさではなく、感情の扱い方が成熟している証拠でもあります。
もちろん、沈黙は万能ではありません。
向き合う価値のある関係では、言葉が必要な場面もあります。
でも、何を言ってもすり減るだけの相手に対しては、沈黙が最も誠実な答えになることもある。
沈黙は無関心ではなく、選別です。 December 12, 2025
正直に言うと、
イケメンを越えるために「筋肉」で勝負するのは無理がある。
てか、不可能
筋肉は、まあまあ強い。
でもそれは、結局見た目の土俵の話。
顔が良くて、体も仕上がってるイケメンが現れた瞬間、
その勝負は一瞬で終わる。
でも
発想力や想像力の土俵なら、イケメンは普通に負ける。
なぜなら、
多くのイケメンは「与えられる側」で生きてきたから。
・会話を広げなくてもモテる
・工夫しなくても人が集まる
・考えなくても評価される
結果、世界が浅くなる。
一方、創造的な男は違う。
・話の切り口が独特
・視点が少しズレてる
・世界の見え方が面白い
・一緒にいると退屈しない
この“脳内の広さ”が、そのまま魅力になる。
女性が惹かれるのは、
顔よりも
「この人といると、新しい景色が見えるかどうか」。
創造的な男は、空気を作れる。
何もない場所で会話を生み、
普通の出来事をネタに変え、
ありふれた時間を特別にする。
これができる男は強い。
なぜなら、
女性は感情で恋に落ちるから。
感情を動かせる男が、最終的に勝つ。
筋肉は“静的な魅力”
発想力と想像力は“動的な魅力”
静的な魅力は、すぐに見慣れる。
でも動的な魅力は、会うたびに更新される。
だから飽きられない。
だから記憶に残る。
イケメンを越えたいなら、
体を鍛える前に、頭を遊ばせろ。
・物事を別角度から見る
・普通を疑う
・自分だけの視点を持つ
創造的な男は、
顔の勝負から降りて、
別の次元で無双できる。
イケメンに勝てる数少ないルート。
それが、発想力と想像力 December 12, 2025
@asadorabakebake 酷評コメントする程の器で無いと思う。だから、聞いていて気分が悪くなるんだと思いました。
ダメ出しなら後で自分の土俵ですれば良いのに。笑いたくて観てたのに、笑えなくなって観るの止めました。 December 12, 2025
12月議会一般質問が
いつのまにかYouTubeにアップされました☺️
https://t.co/zjBgFgHpV5
#採用試験について
#有機農業について
職員の採用試験は、早期化のイタチごっこになってしまいますが、
遅すぎて町の試験を受けられないということがないように、なんとか受験者の選択肢の土俵にのせたいです🤔
有機農業は、確実に増えています。
町が把握する仕組みづくり、
農福連携、
お米について、
前回2年前に一般質問したときよりもかなり具体的な話ができたと思います。
が、まだまだまだまだです。
もちろん後継者不足への取り組みも必須。
幸田町の自然と田畑が好きなので、
50年後、100年後も続いていける農業を
これからも考えます。 December 12, 2025
(2/2)
■ このポストのフレーム構造
さて、フレームを紐解きましょう。
① 「戦犯国倭国」というフレームの再確認
ポストは東京裁判に加え南京軍事法廷を並べて、国際社会(11カ国)と中国が、倭国軍の加害を「反論の余地のない事実」として確定したという物語を再提示しています。
これは倭国が歴史認識を論じることが、国際的合意に挑戦することであるという位置付けに押し込めるのが狙いと解釈できます。こうすることで、敗戦国としての位置を固定し直す狙いがあります。
② 「勝者・被害者・裁く側」というポジションの上書き
このポストをはじめ、中国側の公式ナラティブでは自国を「侵略の被害者」であると同時に、「戦争犯罪を裁いた勝者・正義の側」であると常に描きます。
国共内戦から続く中華人民共和国/中華民国の断絶をぼかすことで、現在の共産党政権が倭国を裁く主体、正統な後継者であるというイメージを補強するためです。
つまり、
🇯🇵倭国は永続的に監視されるべき加害者
🇨🇳中国は歴史的正義の担い手
という対比構図を作っています。
③ 現在の対日政策の正当化ストックを積む
これは「単発の歴史教育」というよりも、いざ安全保障や台湾・尖閣の話になったときに、「倭国はかつてこういう罪を犯した国だ」と、すぐに引き出せる材料を積み上げているイメージに近いものです。
倭国側が軍事・安全保障上の発言力を強めようとするとき、「戦犯国の軍事的復活」というラベリングに使えます。「戦犯イメージを常に再起動できる状態に保つ」ことが目的に近いかもしれません。
■ このポストは誰向けか
倭国語で書かれていますから、表向きはもちろん倭国の世論に訴えるポストという建付けです。しかし内容は、
・中国の「抗日戦争」の勝利
・戦犯裁き
・南京大虐殺の「反論の余地のない事実化」
という、中国国内の教科書とまったく同じ歴史ナラティブになっています。つまり、倭国人に新しい情報を届けるというより、「いつもの対日歴史物語を、X上で再演している」感じが強いと言えるかもしれません。
また、こうすることで「中国大使館公式アカウントがこう発信した」として、親中派インフルエンサーが取り上げやすくなります。
対日強硬アピールの側面も
「倭国に対して歴史問題で譲らず、きちんと正義を主張している」という政権の姿勢を、国内世論に見せる役割。特に記念日や節目(南京、対日戦勝記念日など)の前後は、こういうポストを出しておくと「やるべきことはやった」と示せるからです。
ですから、倭国語で書かれてはいますが、引用あるいはスクショされて中国語圏で拡散される前提でも作られている、と見ると納得しやすいと思います。
■ 倭国向けには何をしているか
とはいえ、倭国向けの役割もゼロではありません。歴史認識の話が出るたびに「東京裁判・南京・戦犯」というセットを投げることで、倭国側が別の枠組み(冷戦構造、SFPT、国共内戦など)で語り出しにくくしています。
一部の倭国のメディア/論者が「国際社会がこう認定した」「反論の余地のない事実」といったフレーズを引用して自論を展開するのと同じような「テンプレ」を提供しているとも言えます。
🗣️ ところで、なぜ倭国のメディアやSNSは、こうしたテンプレに、毎回似たパターンで反応してしまうのでしょうか。教育・メディア構造・歴史への距離感のどこに、情報戦上の弱点があるのでしょう。
これを別の角度から見ると、
この種のポストに対して「想定された反応」とは何で、「想定されていない反応」とは何か?
ということです。
中国は「南京カード」を何十年も打ち続けています。対して倭国は、どんな史実・枠組み・物語を、10年・20年単位で蓄積していくべきなのか。
感情的な反論ではなく、相手のシナリオを理解した上で、どう「別の土俵」を用意できるか。研究者・メディア・民間シンクタンク、そして僕たち個人が、一つひとつのストックとしてどこが担えるか?だと思います。 December 12, 2025
(2/2)
■ このポストのフレーム構造
さて、フレームを紐解きましょう。
① 「戦犯国倭国」というフレームの再確認
ポストは東京裁判に加え南京軍事法廷を並べて、国際社会(11カ国)と中国が、倭国軍の加害を「反論の余地のない事実」として確定したという物語を再提示しています。
これは倭国が歴史認識を論じることが、国際的合意に挑戦することであるという位置付けに押し込めるのが狙いと解釈できます。こうすることで、敗戦国としての位置を固定し直す狙いがあります。
② 「勝者・被害者・裁く側」というポジションの上書き
このポストをはじめ、中国側の公式ナラティブでは自国を「侵略の被害者」であると同時に、「戦争犯罪を裁いた勝者・正義の側」であると常に描きます。
国共内戦から続く中華人民共和国/中華民国の断絶をぼかすことで、現在の共産党政権が倭国を裁く主体、正統な後継者であるというイメージを補強するためです。
つまり、
🇯🇵倭国は永続的に監視されるべき加害者
🇨🇳中国は歴史的正義の担い手
という対比構図を作っています。
③ 現在の対日政策の正当化ストックを積む
これは「単発の歴史教育」というよりも、いざ安全保障や台湾・尖閣の話になったときに、「倭国はかつてこういう罪を犯した国だ」と、すぐに引き出せる材料を積み上げているイメージに近いものです。
倭国側が軍事・安全保障上の発言力を強めようとするとき、「戦犯国の軍事的復活」というラベリングに使えます。「戦犯イメージを常に再起動できる状態に保つ」ことが目的に近いかもしれません。
■ このポストは誰向けか
倭国語で書かれていますから、表向きはもちろん倭国の世論に訴えるポストという建付けです。しかし内容は、
・中国の「抗日戦争」の勝利
・戦犯裁き
・南京大虐殺の「反論の余地のない事実化」
という、中国国内の教科書とまったく同じ歴史ナラティブになっています。つまり、倭国人に新しい情報を届けるというより、「いつもの対日歴史物語を、X上で再演している」感じが強いと言えるかもしれません。
また、こうすることで「中国大使館公式アカウントがこう発信した」として、親中派インフルエンサーが取り上げやすくなります。
対日強硬アピールの側面も
「倭国に対して歴史問題で譲らず、きちんと正義を主張している」という政権の姿勢を、国内世論に見せる役割。特に記念日や節目(南京、対日戦勝記念日など)の前後は、こういうポストを出しておくと「やるべきことはやった」と示せるからです。
ですから、倭国語で書かれてはいますが、引用あるいはスクショされて中国語圏で拡散される前提でも作られている、と見ると納得しやすいと思います。
■ 倭国向けには何をしているか
とはいえ、倭国向けの役割もゼロではありません。歴史認識の話が出るたびに「東京裁判・南京・戦犯」というセットを投げることで、倭国側が別の枠組み(冷戦構造、SFPT、国共内戦など)で語り出しにくくしています。
一部の倭国のメディア/論者が「国際社会がこう認定した」「反論の余地のない事実」といったフレーズを引用して自論を展開するのと同じような「テンプレ」を提供しているとも言えます。
🗣️ ところで、なぜ倭国のメディアやSNSは、こうしたテンプレに、毎回似たパターンで反応してしまうのでしょうか。教育・メディア構造・歴史への距離感のどこに、情報戦上の弱点があるのでしょう。
これを別の角度から見ると、
この種のポストに対して「想定された反応」とは何で、「想定されていない反応」とは何か?
ということです。
中国は「南京カード」を何十年も打ち続けています。対して倭国は、どんな史実・枠組み・物語を、10年・20年単位で蓄積していくべきなのか。
感情的な反論ではなく、相手のシナリオを理解した上で、どう「別の土俵」を用意できるか。研究者・メディア・民間シンクタンク、そして僕たち個人が、一つひとつのストックとしてどこが担えるか?だと思います。 December 12, 2025
<ポストの表示について>
本サイトではXの利用規約に沿ってポストを表示させていただいております。ポストの非表示を希望される方はこちらのお問い合わせフォームまでご連絡下さい。こちらのデータはAPIでも販売しております。



