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京城
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2025.12.01〜(49週)
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一度は行きたい旨い焼肉
①牛蔵(富士見台)
②京城亭(蒲田)
③喜福世(恵比寿)
④すずめ(新富町)
⑤肉のすずき(浅草)
⑥焼肉 和(茗荷谷)
⑦大福園(浅草)
⑧神戸屋(新宿)
⑨鶯谷園(鶯谷) https://t.co/Pt6RrrFhPq December 12, 2025
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朱莉娅·尼克松·艾森豪威尔夫妇是以普通美国公民的身份,并以中国驻美联络处主任黄镇的私人朋友的身份来中国访问的。 十二月三十一日深夜十一点多钟,已经准备就寝的朱莉娅·尼克松·艾森豪威尔夫妇突然听到一阵急促的敲门声。 已经穿了睡袍的朱莉娅急忙躲到门后,让丈夫戴维去开门。一个中国外交部礼宾 司的官员出现在门口,他激动地宣布说:“朱莉娅·尼克松,毛主席要见你们!”
艾森豪威尔夫妇马上用最快的速度换好衣服。匆忙中,朱莉娅还特意穿上母亲专门借给她的一件黑色的绣花长袖衬衣,并带上父亲尼克松给毛泽东的亲笔信,匆匆登上汽车前往中南海毛泽东的住地。
在门口,他们终于看到“这个被亿万中国人视为上帝的领袖人物”了。毛泽东正坐在书房里等候他们的到来,他的身躯深陷在一个宽大的沙发里,其它五个同样的沙发呈半圆形摆设在毛泽东两侧,每个沙发之间小桌子旁边都放着一个白色的痰盂。在他身边两个年轻女子的协助下,毛泽东吃力地起身和朱莉娅·尼克松·艾森豪威尔夫妇握手并让新闻记者摄影和摄像。
朱莉 娅·尼克松·艾森豪威尔在书中写道,她当时见到的毛泽东,给她的第一印象是: 这是一个极其衰弱的老人,神态里能看出中风后的迹象,目光空泛、两条长臂无力 地垂在身体两侧、下巴垂落,声音颤抖、口中不时流着口水。朱莉娅·尼克松此时 突然感到,尽管当初他们是那么渴望见到这个神秘的巨人,可是此时毛泽东就在他 们面前了,她却深深地感到有些歉意。她突然觉得,在这个时候来会见这样一个风 烛残年的老人,似乎是对他的一种冒犯。
朱莉娅把父亲的亲笔信交给毛泽东。翻译唐闻生立刻将它翻译给毛泽东听。他 非常认真地听着尼克松的信文,并高兴地说:“欢迎尼克松先生来中国”。最后, 他还从唐闻生手中拿过那封信,令人惊讶地用准确的英文发音读出了信文上方标明 的日期:“十二月二十三日,一九七五”。他想借此告诉周围的人们,他肢体上的 衰弱还没有影响到他的脑力的敏捷。
朱莉娅·尼克松注意到,毛泽东和唐闻生看来简直就象是祖父和孙女一样的关系 。黄镇等人在会见时,则漫不经心地环视书房四周,似乎并没有在认真听自己的领 袖讲话。朱莉娅认为,毛泽东此时的宽容,并非故作姿态,这显然与他的年龄以及 目前过度依赖他人的病体有关。
朱莉娅在会谈期间,特别注意到毛泽东身边的两个年轻的女人,“她们小心翼 翼地坐在毛泽东的身后,看上去像是和毛泽东一同呼吸一样,她们对毛的每一个动 作都表现出无微不至的体贴”。当朱莉娅夫妇准备告辞时,其中一位女士在搀扶毛 泽东起身的同时,还急忙用梳子给毛泽东梳理一下有些散乱的头发,这样可以使毛 泽东再次体面地面对摄影师的镜头。朱丽娅注意到,这个女人尽管身着单调的毛式 服装,但她拥有一付极为安详和美丽的面容。朱莉娅以为,“像毛泽东这样一个曾 经身体健壮的男人,在目前衰老到不得不依赖他人服侍的境况下,这些年轻美貌的 女人会在一定意义上舒缓他的精神紧张,并成为他对付与世隔绝的耳目”。
朱莉娅在回忆录中提到,那天深夜在中南海的书房里,毛泽东曾主动开始回答 那些可能在西方社会流传的悬念。毛泽东大概也知道眼前这对美国年轻人所接受的 教育背景,他对朱丽娅说:其实,我们并不像你们想得那样可怕。我们并不杀人。 我们也能宽恕犯过错误的人们。
我们最近就原谅了一些国民党分子。毛泽东指的是一九七五年夏天前后刚刚被 特赦释放的一批在国共内战期间被俘的国民党高级军官。不过,毛泽东的话并没有 打消朱莉娅脑子里的疑问。相反,她倒觉得毛的话充满了滑稽和讽刺意味。她不知 道从哪里听说,“大约有两千六百万人在毛泽东领导下的红色中国遭到镇压”。
在访问中国的日子里,朱莉娅几乎完全不能理解中国人对家庭生活和亲情关系 的忽略。在欢送他们去上海访问的宴会上,黄镇主任对朱莉娅夫妇说:“毛主席很 关心你们的旅行,他把你们当成自己的家庭成员一样”。然而,朱莉娅却对这句足 以使任何一个中国人热泪盈眶的话语充满疑虑。她觉得,这句话并不真实。在美国 人看来,“家庭成员”这个字眼是不可以随意使用的,其中一定要包含足够的亲情 。她在回忆录中质疑说,既然你把我视为你的家庭成员,那你总应该把你家里的其 他家庭成员介绍给我吧!可是在访问中国期间,包括和毛泽东本人见面时,没有任 何人提及毛泽东的家庭中妻子儿女。当她在私下询问王海容女士:“听说你和毛泽 东是亲戚,是吗”?王海容一脸的不高兴,她表情冷淡,未置可否地回答说:“有人是这么说的!”
在酒会上,黄镇大使回忆起六个月前他在加州拜会辞职后的尼克松时的情景。 他提到尼克松当时讲过的一句话:“当我离开(白宫)办公室后,我才发现谁是我 真正的朋友”。黄镇然后动情地对朱莉娅说,“我们是不会忘记老朋友的”。朱莉 娅注意到,中方译员在翻译这句话时眼睛里似乎含着泪水。经历了片刻感动后,朱 莉娅又“清醒”了。
她在书中写道:“对于我父亲这个老朋友,估计中国人大概不会忘记了。可是 对于他们自己的老朋友呢?比如一九五一年的高岗;一九六六年的刘少奇和一九七 一年的林彪。这些毛泽东的老朋友,今天都在哪里呢”?
朱莉娅在回忆录中写到,在中国旅行的日子里,她和她的丈夫这两个美国人像 是被空降到了另一个星球上一样:这是一个与世隔绝的、沉闷而毫无幽默感的国度 。每天晚上九点半左右,几乎所有的中国人都关门睡觉了。和芝加哥的规模相当大小的北京城,在黑黑的夜幕中,静谧得像一个中世纪的农场。尽管当时的毛泽东还 主张不停地“斗争”(一个月前他还说,“八亿人,不斗行吗”?),不过,在朱 莉娅夫妇一路访问过的中国城市里,他们当时没有发现毛泽东所执意要坚持的“继续革命”还可能再次引发一九六六年时的紧张气氛。朱莉娅的感觉是准确和细腻的 。的确,在这场文化大革命的后期,即便是当初最激进的人们,也似乎感到疲惫了 。再这样“斗”下去,大家都要去喝西北风了。
朱莉娅问黄镇大使,在美国首都华盛顿,他喜欢哪一家中国餐馆的菜?从黄镇 大使的回答中,她吃惊地发现,这些中国外交官们几乎从来没有去大使馆以外的中 国餐馆吃过饭。朱莉娅无法想象,黄镇大使这些外交官当时在西方世界中行动的极 不自由。当然,其中还有中国外交官们由于外汇短缺带来的拘谨和尴尬。不过,朱 莉娅却注意到,在中国政府每天的宴席上却常常了摆满了太多的美味食品。作为一 个从美国来的贵族小姐,她和她的丈夫都感到有点太挥霍浪费了。
据其他相关资料记载,毛泽东一边看尼克松的信一边问道:“总统先生的腿怎 样了?”“好好保养他的腿。他说过还要爬长城呢。把这话转告总统先生。”尼克 松已经在一九七四年辞职下台,但毛泽东还执拗地称呼尼克松为“总统”。
“他已经不是总统了。”戴维·艾森豪威尔插进话说。这位尼克松的女婿的插话坦诚得令人吃惊,不过倒是很符合美国年轻人的个性。
“我乐意这么叫他,你管得着?”毛泽东不容分辩地说:“不就是两卷录音带吗?有什么了不起?”有点儿书生气的戴维不能同意这话,他说:“这个问题很复杂,关系到西方的政治……”毛泽东有点不耐烦了,又抢过话来:“西方政治?那是假的。简直假死了,也脆弱死了。两卷录音带就能把一个帝国搅得天翻地覆,不是纸糊的是什么?” 尼克松由于水门丑闻下台,毛泽东完全不能理解。他无论如何想不通,怎么几 盘录音带就能把一个世界大国的总统赶下台了呢?说实话,当时包括毛泽东在内的大多数中国人都很难想象到,尼克松的下台和美国宪法之间有什么关系。
---“朱莉娅·尼克松的访华回忆录” ·周大伟·
图:1975年12月31日晚上,毛泽东接见美国前总统尼克松的女儿朱莉与她的丈夫戴维。 December 12, 2025
56RP
低能左翼は、
「これから南京城は戦場となります」
って事が市民側にもハッキリ解ってても、
【それでも一人たりとも逃げる人間など居なかった】
と思いこめるキチガイだからな
当時の米国大使館とかが、南京から逃げる市民の大群を目撃してるのに、
彼らは蜃気楼でも見たと思ってるのだろう https://t.co/qCOh9NjWuf December 12, 2025
11RP
徐景贤还记述了李先念对邓小平告御状的事,他说“到现在为止,我看了很多文章,从来没有人提到过李先念也向毛泽东汇报过邓的问题,而这是王洪文亲口告诉我的……
他(李先念)对毛说:‘最近,有一些讲话,我觉得有问题,味道不对 ,似乎是否定文化大革命。’李先念对邓小平讲话的反映,引起了毛的高度重 视。 ”
其实,在“文革”中,高层领导中这类相互揭发的举动是屡见不鲜,不然就很难自保。这也就是所谓的,与人斗,其乐无穷吧。
在批邓中,为改变政治局里沉闷的空气,加强批邓火力,毛泽东调兵遣将,“ 决定召开政治局扩大会议,从外面调进一些年轻人列席政治局会议,让他们发言, 加强火力。这些年轻人是:从清华和北大调去的迟群和谢静宜;从外交部调去的王 海容和唐闻生……同时,毛泽东又委派他的侄子毛远新担任他和政治局之间的联络 员,……把毛的指示带回政治局传达……他们都是毛泽东身边的人。”这些“年轻 人”不负重托,在政治局扩大会议上把邓小平批得狼狈不堪。在“文革”中,毛泽 东可以随心所欲的指定“身边的人”参加作为全党的最高决策机构政治局的会议, 可见在毛泽东眼里,任何游戏规则都是摆设而已。
---"读徐景贤《十年一梦》" ·京城孤魂· December 12, 2025
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この毎日新聞の記事、1945年10月当時の映像も掲載されいる。旧倭国軍には戦争末期まで降伏する考えはなかったという字幕があったけど、先日読んだ『朝鮮植民者』にも8月19日の時点に「京城」の師団で、隊長が「本土決戦のための新たな編成を行う」と言ったという回想があった。 https://t.co/Sn6uYpMuqQ December 12, 2025
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提供された画像は、1938年(昭和13年)1月1日、南京陥落(1937年12月13日)の直後に撮影されたとされる新年祝賀の写真をカラー化したものです。倭国の兵士を中心に、多数の日章旗を振る人々が写っており、中央付近には青い長衣を着た幼い少女が立っています。背景は中国風の伝統的な門構え(おそらく南京城内の建築物)です。
この写真は、当時の倭国側が制作したプロパガンダ資料(例:東宝映画『南京』1938年公開、または『朝日版支那事変画報』1938年1月27日号など)に頻繁に掲載されたもので、倭国軍の「秩序回復」と「民衆の歓迎」を強調するために意図的に演出・撮影されたものです。実際には、南京陥落後から1938年2月頃にかけて、倭国軍は市民に対して日章旗や腕章の着用を強制し、これを拒否した者や着用していない者は「便衣兵(ゲリラ)」とみなして即座に銃殺するケースが多発していました(国際安全地帯委員会の報告、極東国際軍事裁判記録など)。
したがって、写真に写る「喜んで旗を振る南京市民」の姿は、強制と恐怖の下で演出されたものであり、南京事件(南京大虐殺)直後の実態を正確に反映したものではありません。歴史研究では、この種の画像は倭国軍の占領統治を正当化するための典型的なプロパガンダ写真として扱われています。
(参考文献:
- 南京事件資料集(青木書店)
- 極東国際軍事裁判判決文
- 笠原十九司『南京事件論争史』
- John Rabe 日記、Minnie Vautrin 日記など当時の外国人証言) December 12, 2025
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これは江口圭一が1993年に出してきた写真。清水潔も同じものを『南京事件を調査する』で出所を明らかにせず出している。撮影者不明。
出処は毎日新聞社らしく、読者提供。戦時中の中国を旅行した倭国人に中国人の写真屋が売りつけたものとされる。揚子江の対岸の地形から南京城北西と推定されてます。 https://t.co/xBrvkEkRV1 December 12, 2025
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吉田町京城苑の若旦那とツーショット😊✌️
以前、福富町にお店を構えていた時にはビートたけしさんが東京からここにお肉を食べに来たというお話も有名。
BGMはサザン🎵
店内ではボリュームが抑えられていますが、トイレに入るとガンガンなっています。思わず聴き込んでしまう〜🤣
#大森隆志 https://t.co/CmWukIiy1h December 12, 2025
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倭国軍は12/19には南京城の外に出て転進し、残ったのは4000人程の警備兵だけでした。
東京裁判で虐殺の有無は争われてませんし、公式謝罪を求めるなら中国側が、具体的な虐殺事件を一件ぐらい立証してください。
ところで、その映画って、731部隊の石井中将が和服で仕事してる例の映画の事ですか? https://t.co/pE9HG12s3w https://t.co/1SJuv3z9Oj December 12, 2025
4RP
確かに倭国は台湾総督府が台北帝国大学(1928年)、朝鮮総督府が京城帝国大学(1924年)を設立した。しかし、倭国人子弟のための高等教育機関として作られた。台北帝大の初年度倭国人入学定員240人に対して台湾人定員はわずか24人(10%)。京城帝大も同様で、朝鮮人学生は常に1割以下だった。「植民地支配を円滑に行うためのエリート養成機関」であって、現地人のためのものではなかった。
ダムなどインフラ倭国本土の工業化・戦争遂行のためのものだった。烏山頭ダム→台湾のサトウキビ生産を爆増させ、倭国本土への砂糖供給を目的 水豊ダム→鴨緑江に建設され、満州・朝鮮北部での重工業(特に軍需産業)に電力を供給
現地住民の生活向上は副次的で、むしろ強制労働で多数の犠牲者が出ている(水豊ダム建設では朝鮮人・中国人労務者数万人が過酷労働で死亡)。
「植民地ではなく統治である」
これは単なる言葉遊び。倭国は1910年の韓国併合条約で大韓帝国を「滅亡」させ、天皇の「直轄地」とした。台湾も1895年の下関条約で清から割譲され「倭国領土」とした。要するに国際法上も完全に植民地である 「統治」と言い換えたところで、現地の自治は皆無、総督は軍人、言論・集会は弾圧、土地は収奪、現地語教育は制限・禁止された事実は変わらない。
「大東亜戦争は倭国の領土を守るため」「侵略戦争と言うのは英霊に無礼」
- 倭国はすでに1931年満州事変、1937年日中戦争で中国大陸を侵略中だった
- 1941年7月南部仏印進駐→アメリカが石油禁輸
- その対応として「石油を確保するため」に真珠湾攻撃+東南アジア全域侵攻
これのどこが「倭国の領土を守るため」なのか?
倭国がアジアで行ったことは、欧米列強とまったく同じ植民地支配・侵略戦争でした。それを「統治」「解放」「アジアの共栄」と言い換えても、犠牲になった数百万のアジア民衆の苦しみは消えません。
英霊への敬意は必要ですが、それは「戦争を美化する免罪符」にはなりません。むしろ正しい歴史認識を持った上でこそ、真に慰霊ができるのです。 December 12, 2025
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テクノデリックを聴き込みました。「京城音楽」のフクチキパーの口ずさみはもうお馴染みで笑楽しい。「新舞踊」の
ダッダツダダ~のリズムにノリノリになり「PURE JAM」の
「ジャムでしょ」のつぶやきも一緒に笑「エピローグ」は聴き惚れて…とにかくのめり込むように聴きました。 https://t.co/PvdFtFDb4Z December 12, 2025
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如果倭国不欢迎,那么中国人不去也罢。樱花武大有,红叶到处都有,只是没倭国密集。实在没有,不是有钱了吗,大家以后家家户户种!寺庙哪里没有看?刘姥姥进大观园被人取笑捉弄,但刘姥姥终究不是坏人,最后知恩图报救人的是刘姥姥,忘恩负义害人的是贾雨村!
反正我以后是绝对不去倭国旅游了,在倭国,每天都会想到侵华战争中满目疮痍的家园,南京城内满地乱滚的头颅!
历史是一场噩梦,我试图从中醒来,但倭国只会让我想起那场噩梦。
陪孩子去过一趟,够了。 December 12, 2025
それにしても朝晩の冷え込みがヤバス。
本来の12月の冷え込みなのだろうが、1937年であれば、そろそろ倭国軍が上海から300kmほどの行軍を終えて南京に到着し、南京城を包囲するはず。
南京城の中では蒋介石が重慶撤退に備え、食料などを住民から強奪して拒否した住民を漢奸として処刑している頃か?蒋介石による南京大虐殺だな。唐司令官はどう思ってたんだろうね。
https://t.co/xdxmLsBRxv
『1937年11月に倭国軍が南京に進攻した際、彼は死守を強く主張し、自ら志願して首都警備司令官の長官となり、中国側の南京防衛戦の最高指揮官となった。』
倭国軍は上海戦での3か月間の戦闘が片付いた後、11月に南京侵攻を決定したんだよね?8月から南京空爆は始まっていて人口流出も起きていた。
『彼は首都と共に存亡を共にすることを公言し、南京から長江以北に通じる道路を封鎖するよう命令を下し、渡し船を破壊して市民の多くが避難できないようにした。』
「首都と存亡を共にすると公言」みたいな脚色をどうして入れようとするんだろね。市民を巻き添えにする気満々だね。みんな安全区に避難してたろうけど。
『唐司令官による首都防衛戦は当初の計画どおりに進まなかっただけではなく、混乱の中、組織的な退却がなされるはずが無秩序の逃走になってしまった。』
wikiの記載が前後の文脈で矛盾だらけだね。組織的な退却なんて考えてなかっただけじゃん。誰の文献を引っ張ってきたんだろ。
『多くの指揮官は、何ら退却命令を下すことなく単に彼らの軍隊を放棄して勝手に逃げてしまった。10万人の首都防御隊と数千以上の中国人部隊は、前戦から逃げて市内に立ち戻った。2つの連隊のみが当初の計画に従ってなんとかうまく退却できた。』
『陥落当時の南京防衛軍司令部の状況については、笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」に詳しい。』
(本当か?作り話混ぜてない?)
『それによれば、「唐生智司令官は、蔣介石の撤退命令を受け、最高幕僚・指揮官会議において、死守を断念し、12月12日午後5時半頃までに撤退命令を出していた。しかし、当時、敗戦の混乱の中、この撤退命令は末端まで行き届かず、持ち場を固守せよとする前命令を信じた部隊と撤退をしようとする部隊の間に一部同士討ちを行うような混乱が生じたり、独自行動を採った部隊もあった」[1]。』
挹江門事件の名称をどうして出さないの?全然首都防衛する気なかったじゃん。超矛盾じゃん。そのくせ1970年まで生存?
『一方、唐は12月12日20時に部下を見捨てて南京から逃亡したとする見解もある[2]。翌日南京は陥落し、翌年1月には南京自治委員会が発足した。』
いい加減な記録なんだな。日中戦争中は南京司令官の話しか出てきてないじゃん。ウィキにも載せる価値がないんか?朝日の誤報と批判が続けて書いてあるね。唐司令官もダメな方の人間か。
真珠湾攻撃は8日だっけ? December 12, 2025
昨日もテクノデリックを聴き込みました。「京城音楽」のフクチキパーは幸宏さんと教授が楽しんで吹き込んでいる
様子にニンマリ。「新舞踊」ではダダダダダッという独特のリズムを堪能。「PURE JAM」の最初のビートルズの様なコーラスワークに感心し「エピローグ」にすっかり魅了され…さすがです。 https://t.co/zmHb89uVkw December 12, 2025
南京大虐殺(Nanjing Massacre、またはRape of Nanjing)は、1937年12月13日から1938年1月にかけて、第二次日中戦争(支那事変)中に倭国軍が中国の当時の首都南京を占領した際に発生した大規模な戦争犯罪です。倭国軍の侵攻により、中国軍が敗走した後、残された民間人、降伏した兵士、非戦闘員に対して組織的な虐殺、強姦、略奪、放火が行われました。この事件は、第二次世界大戦中の最悪の残虐行為の一つとして国際的に認識されており、推定犠牲者数は20万〜30万人以上とされていますが、正確な数は議論の対象です。
事件の経緯
• 背景: 1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。倭国軍は上海を占領後、南京に向かって進撃しました。中国国民党政府の蒋介石は首都を重慶に移し、南京防衛を命じましたが、中国軍は崩壊。12月13日、倭国軍(上海派遣軍と第10軍、総勢約20万人)が南京城を陥落させました。
• 虐殺の開始: 占領直後、倭国軍は「掃討作戦」の名目で、敗残兵の捜索を口実に民間人を巻き込んだ大量殺戮を開始。捕虜や民間人が大量に射殺、刺殺、斬首、生き埋め、溺死、焼殺されました。例えば、揚子江沿岸で数万人が機銃掃射で殺害されたケースが報告されています。
• 強姦と性的暴行: 数万人の女性(少女から高齢者まで)が強姦され、多くの被害者が殺害されました。これは「南京の強姦」とも呼ばれ、国際的な非難を浴びました。
• 略奪と破壊: 家屋や店舗が焼き払われ、財産が略奪。南京の街は荒廃し、生存者は飢餓や病気に苦しみました。虐殺は約6週間続き、1938年2月頃に収束。
犠牲者と規模
• 中国側の推定: 民間人・兵士合わせて30万人以上。中国政府の公式見解で、南京軍事法廷(1946-1947年)で認定されました。
• 国際的な推定: 東京裁判(極東国際軍事裁判、1946-1948年)では20万人以上とされ、松井石根大将ら責任者が処刑されました。ただし、犠牲者数は4万〜20万人とする研究もあり、正確な数字は不明瞭です。南京の人口は陥落時約50万〜60万人で、多くが避難していましたが、周辺地域からの流入も考慮されます。
• 原因分析: 倭国軍の軍紀崩壊、上層部の黙認、復讐心、資源不足が指摘されます。
証拠と目撃証言
• 一次資料: 外国人の目撃者による記録が豊富。ドイツ人実業家ジョン・ラーベ(「南京のシンドラー」と呼ばれる)の日記では、毎日数百人の虐殺を記述。アメリカの宣教師ミニー・ヴォートリンや外科医ロバート・ウィルソンらの報告書も残っています。これらは南京安全区(国際委員会が管理した避難区域)で保護された20万人以上の命を救った証言です。
• 写真と文書: 倭国軍の兵士が撮影した写真、新聞記事、中国側の埋葬記録(赤十字や慈善団体が5万体以上を埋葬)。UNESCOの「世界の記憶」に登録された資料(1937-1945年)には、裁判記録や生存者証言が含まれます。
• 生存者証言: 中国の生存者(例: 強姦被害者や家族を失った人々)の口述史が多数。Yale Divinity Schoolのデジタルアーカイブでは、アメリカ宣教師の写真と文書が公開されています。
否定論と議論
一方で、倭国の一部では事件の規模や事実性を否定する見解が存在します。例えば、犠牲者数を数千人〜数万人に過小評価したり、中国のプロパガンダだと主張。理由として、証拠写真の捏造疑惑、人口統計の矛盾、戦時中の混乱を挙げます。これらの意見は歴史修正主義者や右翼団体から出され、教科書問題や政治家の発言で国際摩擦を生んでいます。ただし、国際歴史学界ではこれらは少数派で、証拠の圧倒的多数が虐殺の実在を支持します。
X(旧Twitter)上の最近の議論では、肯定派が証言や資料を共有する一方、否定派が犠牲者数の誇張や中国教育の偏りを指摘する投稿が見られます。例えば、ある投稿では「倭国軍は民間人を攻撃しなかった」とする高齢者の証言を挙げ、別のものは「数字が膨張している」と主張。こうした対立は、ナショナリズムや歴史教育の文脈で続いています。
この事件は、戦争の残虐性を象徴し、平和教育の重要性を教えてくれます。戦後、倭国は公式謝罪を繰り返しましたが、日中関係の緊張要因として残っています。 December 12, 2025
おっしゃるとおりです。まだましだったころのNHKで
観たドキュメント。当時まだ子供だった方が南京城の近所に住んでいて、倭国軍が来る前までは城から悲鳴が聞こえていた、だからあの辺りは危険なので近寄らないように親に言われていた、しかし倭国軍がきてからは、そんなこともなく、安心して城のあたりにも行けたと。当時、朝日新聞や本多勝一ばかり読んでいたので、倭国は極悪非道なはずなのに🤔おかしいなあと思ったから、よく覚えています。 December 12, 2025
@arumu006 まぁソウルもとい漢陽/京城は朝鮮半島全体で見たらめちゃくちゃ中心部かつ沿岸地域で首都として最適な立地ではあったんですよなぁ…
まさか倭国から独立出来たと思ったら東のアカと西のアオに分断されるとは思わないじゃないですか… https://t.co/dB5VQUgbAU December 12, 2025
@KNS7573 都合の悪い事実を直視した方が良い
南京大虐殺の理由は補給を軽視した作戦によって倭国軍ですら食糧が乏しかったのに、何万という捕虜を養えなかったから(暴動が起きる前に処刑)。
倭国兵が南京城内で便衣兵(ゲリラ)に苦しめられたという公式報告はありません。
https://t.co/UpGNxaYLUr December 12, 2025
> それは半島の側から見れば「近代以後の朝鮮文学が、初めて持った国際的同志意識」に触れ直すことでもあるし...
読もうかな
吉川凪「京城のダダ、東京のダダ」書評 日韓の若さの輝きと悲しさ
https://t.co/GSi5jEvAOj December 12, 2025
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