感性や直感、あるいは「憑依」といった言葉で語られることの多い芝居・踊りの世界。しかし、再現性が厳しく求められるプロフェッショナルの現場において、不確かな内面の動きだけにすべてを委ねるのは危ういこともある。調子の悪い日も、心が動かない瞬間も、幕は上がるからだ。ここで必要となるのが、「芝居を科学する」という姿勢である。それは感覚を否定することではない。身体という楽器のメカニズムを解剖生理学のレベルで理解し、そこに起きる現象を客観的に捉えることで、行き場のない緊張や不調に対する「具体的な処方箋」を持つことだ。

その一例として、瞑想よりも即効性があり、舞台袖のような極限状態でも実践可能な「ハミング」という行為を、書いてみる。神経を落ち着かせる方法として瞑想は有効だが、出番を待つ数分前や、夜になっても神経だけが覚醒してしまったとき、静かに座って内観する余裕はほとんどない。そんなときに残されている選択肢のひとつが、微細な発声であるハミングだ。

ヨーガ呼吸法では「Bhramari」と呼ばれるこの呼吸は、単なるウォーミングアップではない。近年の生理学研究は、この行為が身体内部の環境に物理的・化学的な変化をもたらす可能性を示唆している。まず注目すべきは、呼吸の質を変える化学的変化だ。口を閉じてハミングを行うと、鼻腔および副鼻腔内の一酸化窒素（NO）濃度が、通常の静かな呼気時に比べて劇的に上昇することが確認されている。

重要なのは、ここで生成された高濃度の一酸化窒素が、続く吸気によって肺へと運ばれる点にある。生理学的には、この一酸化窒素が肺胞周辺の血管をわずかに拡張させ、酸素の取り込み効率を助ける可能性が提唱されている。つまり、ハミングは気合や精神論ではなく、ガス交換というミクロなレベルで身体の前提条件を効率的な状態へチューニングする技術と言えるだろう。

さらに見逃せないのが、自律神経との関係だろう。
ハミングを行うと呼気は自然に延長され、振動が頭部や胸部へと伝わる。この呼吸様式が心拍変動（HRV）を高め、副交感神経活動を優位にする傾向がヒトにはある。これを「迷走神経を直接刺激するスイッチ」と断定するにはまだ証拠が足りない。だが、より慎重に解釈するならば、ゆっくりとした呼吸リズムと、骨格を伝わる物理的な振動が、神経系に対して「ここは安全である」というフィードバックを送っていると捉えられる。過剰な興奮で「闘争・逃走反応」に陥りかけた神経系に対し、身体操作を通じて「安全だ」と知らせる。これは、感情に飲み込まれずに役を生きるための、極めて論理的な自己制御のプロセスなのだ。

そして、科学の領域を一歩出ると、そこには表現者だけが知覚できる「内界」がある。ハミングの振動は、声帯から頭蓋骨、鎖骨、胸骨へと物理的に伝播する。医学的なエビデンスとは異なる次元だが、この微細な振動を「内側からのマッサージ」として味わうことは、ソマティクスの視点から有効だ。身体が固まっているとき、意識はしばしば「外側（見られ方）」に向く。しかし、ハミングの音が骨や体液を震わせる感覚に意識を向けると、注意のカーソルが「内側（在り方）」へと移動する。自分の輪郭を内側から確かめるこの作業は、舞台上で「地に足をつける」ためのアンカーとなる。

やり方は驚くほどシンプルだ。鼻から深く息を吸い、口を閉じたまま、低く、無理のない音を長く出し続ける。音を大きくする必要はない。むしろ、その振動が唇、鼻の奥、頭蓋骨のどこで響いているかを探索するように意識すればいい。1分か2分。この行為によって、劇的な集中力が手に入るわけでも、感情が完全にコントロールできるわけでもない。ただ、確かな声が出やすくなったり、身体がふわっとする感覚を得ることにおいては即効性があるので効果を感じやすいので是非試してほしい。

「なぜその音が効くのか」という生理学的な裏付けを知っていることは、表現者にとって大きな強みとなる。沈黙できないとき、思考が止まらないとき、ただの精神統一としてではなく、身体というシステムをハッキングする「技術」としてハミングを使う。それこそが、芝居を科学することの意義であり、感性を守り抜くための知性であると思う。 December 12, 2025

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