鼈 ラーメン
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2025.12.20 08:00
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三大秘法義
「無作三身とは始めて修顕したる三身には非ず、我等身口意の三業、本来無作として三身円満の体なるを無作の三身と云うなり(中略)円教の三身とは第五時の法華に取っても本迹二門の教相之を打ち破って、本迹不二の観心の一大円教より之を立つるなり。是を無作の三身とも云い、円教の三身とも習うなり」(同四九二頁)と示すのも、その特徴としての教相遊離の本覚論が滔々として流れていたことが明らかである。その三身とは、要するに、法界の真如法性を無作の法身とし、その法身に冥ずる智を無作の報身とし、法界森羅万象の事々物々に約して無作の応身として三身相即する。ここに本覚としての最高の極理があり、真の仏であると言うのである。しかし、これはそれを説く学者達自身が法界を証得したのではない。法界というその実体が、学者達の六識の頭脳に描かれた影像であり、言うなれば思想の遊戯であって、帰するところ凡夫の一念の範慮を出でない。口先や筆端で「円融無作法界一如」と言っても、頭脳のみで考察し、真の悟りだと早合点しているのである。しかし、実際には法界そのものを事の上に証得していないから、九識真如はもちろん、七識、八識はおろか、六識の範囲に過ぎない。故に、本覚と言うものの、理の上の談義であり、これを理性本覚と言う。法界を事実に知らない者の妄想妄見である。さて、これを大聖人の御法門においての真実の本覚法門に比するとき、天地月鼈の相違がある。それを世間の学者達は、日蓮の法門は中古天台の亜流だと、厚かましく無智傲慢に述べている。これは、理談と事行との差別が全く判っていないのである、事行とは、法華経の文々、特に勧持品二十行の偈の身読より、竜口の未曾有の大難を超克あそばされ、寿量品の本因妙の文の至極を身に当てて読まれ、大漫荼羅を顕された宗祖御一人のお振る舞いを言うのである。真実無上の実体ある本覚法門は、古往今来、宗祖大聖人ただ一人が結要の大法受持という大資格を持ち給うところに存する。すなわち、その実体は、「一念三千の法門をふりすゝぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(草木成仏口決・御書五二三頁)と喝破された大漫荼羅御本尊に尽きるのである。
三大秘法義
日蓮正宗
第六十七世日顕上人
https://t.co/SxaaBqfSwy December 12, 2025
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