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2025.12.07 08:00
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日蓮図顕の文字曼荼羅~「我常に此の娑婆世界に在って説法教化する永遠の仏の姿」
日蓮が数多く顕した曼荼羅本尊の中でも特大なのが、静岡県沼津市の岡宮光長寺に所蔵される「弘安元年(1278)太才戊寅十一月廿一日」顕示、「優婆塞藤太夫日長」授与の曼荼羅(御本尊集57)です。寸法は「縦234.9㎝×横124.9㎝」もあり、大小の紙が28枚継ぎとされてきましたが、原井慈鳳氏の論考「二十八紙大漫荼羅に関する研究(一)」(桂林学叢 第27号 平成28年)では29枚継ぎであることが解明されていますので、現在では「二十九枚継曼荼羅」と呼ぶべきでしょうか。
「甲州南津留郡小立村妙法寺に護持せられたもので、同村の渡辺藤太夫に授与したまうところ」の曼荼羅にして、後に岡宮光長寺に納められたと伝承されていますが、大きな持仏堂を擁する在地の有力者が法華経を受持し、その邸宅が地域の弟子檀越等、大人数が集う法華伝道の道場となり、このような大型の曼荼羅が授与されたのでしょう。弘安年間に至る日蓮一門の教線拡大を示しているように思います。
また、弘安元年(1278)11月21日といえば、あの建治年間末(1276)から弘安初期(1278)にかけての大疫病が山を越えた頃でもあります。多くの人々が亡くなり、自らもいつ感染してしまうかもしれない恐怖と不安の日々。妙法を信受し、それらを乗り越えて生きていることを実感する人々の喜びはいかほどのものだったか。そのような一門のこころと祈りの結晶が、大きな曼荼羅として顕されたのではないでしょうか。
二十八(九)紙大漫荼羅の次に大きな曼荼羅は、静岡県三島市玉沢の妙法華寺に伝来する伝法御本尊(御本尊集101)です。「弘安三年(1280)太才庚辰十一月 日」の顕示、「釈子日昭伝之(しゃくし・にっしょう・でんし)」の授与書きがあり、寸法は「197.6×108.8㎝」で12枚継ぎ。
三番目が千葉県松戸市平賀の本土寺にある「二十枚継曼荼羅」(御本尊集18)で「189.4×112.1cm」の寸法、紙が20枚継がれています。顕示年月日は記されていませんが、文永11年(1274)5月24日の「法華取要抄」との関連から、文永11年頃に顕されたのではないかと推測されています。
素朴な疑問として、「日蓮はどのようにして、これら大きな紙に御本尊を顕したのだろうか?」というものがありますが、原井慈鳳氏は前出論考中で、『倭国には古来、大画面を描く絵師が絵画製作時に用いた裁物板にも似た「糊板(のりいた)」(乗板)と称する用具がある。これを応用すれば疑問は解けよう。筆者はその状態を図試してみた』として図面により、日蓮が曼荼羅を顕す様子を示されています。
「二十九枚継曼荼羅」を拝した人によると、あまりに大きすぎて本堂に奉掲しきれず、曼荼羅下部は巻いたままであったそうです。「伝法御本尊」と「二十枚継曼荼羅」は私も拝しましたが、その巨大さと筆勢に圧倒されるというか胸が熱くなる衝撃と共に、『日蓮が顕した曼荼羅は永遠の仏・久遠実成の釈尊が教導する姿そのものではないか』と、ひとり宗教的達観の世界に浸り、法悦に包まれたことが数年たった今でも実に鮮明です。
それは保田妙本寺に所蔵される「文永十一年太才甲戌十二月 日」顕示、万年救護本尊(御本尊集16)を拝した時も同じで、『妙法に照らされ、妙法に包まれた温かみを感ずる時』であったように思います。
法華経・見宝塔品第11から始まる虚空会の儀式に倣ったのが日蓮図顕の文字曼荼羅の相貌ですが、そもそも日蓮は何ゆえに、文字曼荼羅を図顕したのでしょうか?
ここで目を転じて、「平家物語」の「巻第十 熊野参詣」を確認してみましょう。
寿永3年(1184)2月、一ノ谷の戦い前後に逃亡した平維盛(たいらのこれもり・平清盛の嫡孫、平重盛の嫡男)は高野山で出家した後、熊野三山(くまのみやま)に参詣します。その模様が次のように描写されています。
維盛(これもり)一行は歩みを進めるうちに日数も重なり、岩田河へとさしかかった。
川の流れを見ていると、「この川の流れを一度でも渡る者は、悪業・煩悩、無始以来の罪障が消えるのであろう」と、頼もしく思われる。
一行は本宮に参詣し、証誠殿(しょうじょうでん)の御前で端座して長い読経を捧げ、お山の様を眺めていると、心にも言葉にも尽くせぬ有りがたいものに感じられた。神仏の衆生擁護の大慈悲は霞のように熊野山にたなびき、並ぶことなき霊験あらたかな神明は音無河の宮に垂迹されている。法華経を修行するこの地では神仏の感応は月の輝きのように遍く、六根より起こる罪を懺悔するこの庭では妄想が露ほども生じない。証誠殿で祈念をするうちに浄土への往生は確かなものとなり、どうして頼もしくないということがあろうか。
実に「古典文学の真髄を顕している名文」だと思いますが、熊野本宮の主神は家都美御子神(けつみこのかみ)で、その本地は阿弥陀如来。平維盛は証誠(阿弥陀如来の真実・誠であることを証明する)殿で、阿弥陀如来に祈願していたわけです。
このように平安から鎌倉時代にかけて、ある人は釈迦如来像、ある人は薬師如来像、ある人は大日如来像、そして千手観音像、如意輪観音像、弥勒菩薩像、阿弥陀如来像へと手を合わせる・・・
仏菩薩像が常識であった鎌倉時代の仏教界にあって、明恵や親鸞の名字本尊以来というべきか、日蓮は文字で書かれた曼荼羅を本尊としたのですから、まさに「本尊を文字で顕したことは仏教界の常識を打ち破る宗教的一大画期」ではなかったでしょうか。
さて、日蓮が文字曼荼羅を図顕した動機ですが、「法華勧奨・妙法弘通のかたちとして」「一切衆生皆成仏の大願を曼荼羅に込めた」等色々と思い浮かびますが、日蓮は永遠の仏にして根本仏たる久遠実成の釈尊を尊信して弟子檀越を教導した「久遠仏直参信仰の導師・日蓮」ですから、日蓮が曼荼羅を顕したのは、末法の世における『我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり』(法華経如来寿量品第十六)の当体として曼荼羅を顕した。また、曼荼羅は『我常に此の娑婆世界に在って説法教化する永遠の仏の姿を示すもの』ではなかったか、と考えるのです。
写真左は伝法御本尊の授与書き「釈子日昭伝之_______」
右は熊野三山の那智大社 December 12, 2025
1RP
本件については、明白な攻撃意思を示すものである。
中国側の挑発的な軍事行動は日毎にエスカレートの一途を辿っている。
これは明らかに戦争をしたがっている。
中国側が。
抗議だけではなく、今後の自衛隊の陸、海、空警備行動の範疇での攻撃力の行使や、威嚇射撃の基準見直しなどを行い、これ以上好きにはさせないと毅然とした対応を取る姿勢を見せるべきである。
戦争は避けなければならない。
誰も戦争は望んでいない。
それは再前提だ。
しかしながら、今現在この国は確かに中国からの武力挑発を受けている。
倭国が仕掛けているのではない。
そもそも、存立危機自体は台湾有事が起きた場合に考えうるという高市総理の言葉は答弁の状況の中で発せられたものであって中国を挑発する目的で発したものではない。
それを拡大解釈した中国が勝手に騒いでいるだけのこと。
一切謝罪する必要はない。
おかしいのは向こうであるのだから。
教育の行き届いていない、品位も品性も、人としての常識やマナーのない、あるとすれば強欲さと身勝手さしかない人民を世界各国に送り込んでいるのは中国だ。
内容が逸れてしまったが、倭国はいい加減に中国は敵勢国であると言う認識を宣言するべきであり、中国に媚び諂い私腹を肥やす政治家をはじめとした有力者、政党や組織に対して外患誘致罪の適応を辞さないとするような強い姿勢をとってほしい。
このままでは本当に、戦争となる。
戦争はするべきではない。
しかしながら、外交や綺麗事では国や国民は守らないから。 December 12, 2025
@tangesyazen いつの時代にも面白さだけを追求した作家はいたのでしょうが、やはり民衆の教育に良いと(当時の有力者の)目にとまったものが後の世まで残れた、ということだろうと思います。
どうしても読者層や流通・出版の手段が限られるから、強い後ろ盾が無ければ残らなかったのかと。 December 12, 2025
「主がダビデに誓われたことを、わたしがダビデのために行わないなら、神がこのアブネルを幾重にも罰してくださるように。 わたしは王権をサウルの家から移し、ダビデの王座をダンからベエル・シェバに至るイスラエルとユダの上に打ち立てる。」」
サムエル記下 3:9-10 新共同訳
アブネルは、イシュ・ボシェテを王位に就けたのは、サウルとその一族に対してヘセド、すなわち最大の無償の親切と恩恵を示したに過ぎないと続けます。しかし、アブネルはその後、さらに驚くことを言っています。彼は(多くの人が知っていたように)主がダビデを全イスラエルの王にするつもりであることを知っていたからです。9節でアブネルは、エホバがダビデをユダとイスラエル、そしてダン(当時ヘルモン山の麓に住んでいた)からベエル・シェバ(南ネゲブ)に至る全領土の王として選んだという有名な宣言をしたことを知っていたと述べています。さらにアブネルは、今やダビデ・イシュ・ボシェテの王国を与えるつもりであると述べています。イシュ・ボシェテはひどく脅かされたため、一言も言い返せていません。アブネルが、自分の脅したことをすべて実行できること、そして自分には何もできないことを彼は十分に理解していたのです。
この章と後の章では、ダビデが全イスラエルの王となるという主の勅令を人々が知っていたことが何度か出てきます。しかし、聖書にはそのような勅令が公にされた記録はなく、ダビデに直接与えられた記録さえありません。だから、何らかの理由で、この神の勅令はガドかサムエルによって告げられ、当時はよく知られていたものの、歴史の中で忘れ去られた文書(ヤシャル書など)に記されたと考えられます。アブネルもイシュ・ボシェテもそれを知っていたことはここで分かります。そして、ユダとイスラエル双方の民(少なくとも長老たち)の間では、それが周知の事実だったのです。それでは、なぜダビデはサウルの死後すぐに王位に就かなかったのでしょうか。それは、人々が必ずしも神の御心と同じことを望んでいるわけではないからです。
私たちには、それぞれ独自の目標や計画、予定があり、時には主の道や神のタイミングが邪魔になることがあります。私たちは、避けられない事態を先延ばしにしたり、神の予定を早めたり、あるいは神が見て見ぬふりをして私たちに例外を設けてくれるかもしれないと、非合理的に考えたりするからです。
ダビデを王位に就ける権限を持つ者は皆、この神の定めを知っていたようで、すぐにそれを果たさなかった罪悪感を抱きました。一方、もちろんそれを知っていたダビデは、たとえ主が定めたとしても、権力を握るために極端な手段に出るべきではないと悟っていました。むしろ、主が定めたのであれば、主は必ず成し遂げてくださるとダビデは考えていたのです。そして、この姿勢こそが、ダビデの数々の特質の一つです。とはいえ、常にダビデに備わっていたわけではありませんが、父なる神は、ダビデを慕われたのです。
これは、神の御心が明らかにされているのに、私たちが受動的であることを要求する聖書の原則などではありません。つまり、ただ祈った後、同じように祈りの手を握り、神の働きを待つだけではないということです。ダビデは、決して受動的な人ではありません。天国は、私たちの未来かもしれませんが、地上は私たちが今いる場所であり、地上では物理的な行動が求められます。ダビデが王になるには、統治のために多くの準備を整えなければなりませんでした。サウル王は、ダビデの死を望んでいたので、まず生き残る必要がありました。そこでダビデは、生き残るために各地を転々とし、同盟を結び、連合を築き、いくつかの関係を断ち切り、戦争の術を学び、それを軍隊に教え、条約を仲介し、彼を支持する有力者の支持を得ています。また、比較的小規模な集団を公平かつ毅然と統治しました。これらはすべて、彼が王となるための準備です。しかし、彼は現王を退位させたり、王を殺して自分の地位を奪ったりすることは決してしていません。王座が空位となり、最終的に彼がその王座に就くに至った状況は、主の摂理によるものなのです。ですから、ダビデが私たちに示す原則は、祈り、積極的に備え、静まり、常に準備を整え、そして神が扉を開かれた時に、大胆に敷居をまたぐことです。 December 12, 2025
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