歴史的建造物 トレンド
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2025.12.11 17:00
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神戸、最後の日に「フロインドリーブ」(友愛)本店を再訪したのは、戦前にドイツ人ハインリヒ・フロイントリープの創業したこの店のお菓子やパンが大好きだから、というだけではない。いまでは1929年にウィリアム・メリル・ヴォーリズ事務所の設計で建てられた旧・ユニオン教会の建物がそのまま店とカフェに使われているからだ。明日から白金台の明治学院大学で行う連続講演の第3回目は、同大学にのこるヴォーリズ設計のチャペルの中に入ってヴォーリズのことも語るし、このユニオン教会にも触れるからだ。講演の前にすこしだけ、みごとに保存・再利用されているこの歴史的建造物を見なおしておこう。★ December 12, 2025
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#FUKたび プノンペン編
歴史と街並みが美しく調和した都市・プノンペン
王宮などの歴史的建造物を巡り、
優しい味のカンボジア料理や世界一のジンを堪能しました😋
今回はベトナム経由でプノンペンへ🛫
主要な経由地のタイやベトナムには #福岡空港 から毎日運航中!
次の旅行先にいかがしょうか? https://t.co/VA5Vsm9De0 December 12, 2025
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歴史的建造物に人気声優集結!
朗読劇「READING WORLD」2026年公演情報解禁✨
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2025年は緑川光さん、佐倉綾音さん、Snow Manの佐久間大介さんら出演でも話題
2026年は沖縄首里城を舞台にした公演や、「約束の果て」再演も👍
※各公演の出演者は追って発表
#READINGWORLD https://t.co/rFNP4mAfqH December 12, 2025
新宿三丁目。高層ビルが林立し、若者が行き交うこの街の一角に、今も変わらず佇む紀伊國屋書店の本店ビルがあります。1964年に完成した地上9階、地下2階のこの建物は、東京都選定歴史的建造物にも指定され、新宿という街の歴史を体現する存在となっています。
この書店を創業したのが、田辺茂一という一人の男でした。「夜の市長」と呼ばれ、「倭国一働かない社長」と揶揄されながらも、倭国最大級の書店チェーンを築き上げた異色の経営者。彼の人生は、単なる商売の成功物語ではありません。それは、本と文化を愛し、人との出会いを大切にし、「そこへ行けば何かがある」という都会の本質を追い求めた、一人の文化人の軌跡でした。
炭屋の跡取りとして生まれ、21歳で書店を開業し、戦災で全てを失いながらも立ち上がり、やがて倭国の出版文化に大きな足跡を残した田辺茂一。その波瀾万丈の生涯を辿れば、昭和という時代の文化史が浮かび上がってきます。
田辺茂一は、1905(明治38)年2月12日、東京府(現・東京都新宿区)の新宿に生まれました。本名の読みは「しげいち」ですが、後に「もいち」と名乗るようになります。この洒落た読み方からも、彼の遊び心が垣間見えるようです。
田辺家は紀州和歌山を出身とする家系で、先祖は紀伊徳川家の江戸藩邸に勤める足軽でした。商売を始める際、出身地にちなんで「紀伊國屋」という屋号をつけたのが始まりとされています。江戸時代の豪商・紀伊國屋文左衛門とは関係がないのですが、その響きの良さは、後の書店経営においても大きな資産となりました。
最初は材木問屋を営んでいた田辺家でしたが、茂一の代には紀州備長炭を扱う炭問屋となっていました。当時の新宿は、まだ江戸の面影を残しながらも、近代化の波が押し寄せる変革期にありました。そんな時代の空気を吸いながら、少年・茂一は育っていったのです。
茂一の人生を決定づける出来事が起こったのは、私立高千穂小学校在学中の1915(大正4)年のことでした。大正天皇の即位大典という記念すべき日、父に連れられて丸善を訪れた10歳の茂一は、そこで洋書の世界と出会います。美しい装丁、見たこともない文字、異国の香りを纏った書物たち。少年の心は一瞬で虜になりました。
「書店を経営したい」この日、茂一の胸に芽生えた夢は、以後一生を通じて彼を導く北極星となります。裕福な炭屋の跡取りという安泰な道が約束されていながら、彼の目は別の世界を見つめていたのです。
高千穂小学校を卒業後、茂一は慶應義塾専門部予科に進学しました。同級生には、後に演出家として活躍する大江良太郎がいました。この時期の人脈が、後の文化事業への布石となっていきます。1926(大正15)年3月、茂一は慶應義塾高等部(現・慶應義塾大学)を卒業しました。
1927(昭和2)年1月22日。この日、22歳になったばかりの田辺茂一は、家業の炭問屋を継がず、新宿三丁目の現在地に紀伊國屋書店を開業しました。売場面積はわずか38坪、木造2階建ての小さな店舗でした。従業員は茂一本人を含めて6名という、ささやかな船出でした。
父親は激怒したといいます。何代も続いた家業を捨て、先の見えない書店業に身を投じる息子。しかし、茂一の決意は固く、10歳の時に心に刻んだ夢を実現させることを選びました。
若き書店主・田辺茂一は、単なる本の販売だけでは満足しませんでした。彼の店には、2階にギャラリーやカフェが併設され、ある種のサロンのような雰囲気が醸し出されていました。文化学院の学生たちに2階のスペースを無償で開放し、「B・G・C」と名付けられた社交場は、若者たちの雑談や討論、恋愛の場となりました。
1928(昭和3)年、茂一は小学校時代の同級生だった舟橋聖一らと共に、同人誌『文芸都市』を創刊します。この雑誌は1932(昭和7)年8月まで続き、若き文学者たちの重要な発表の場となりました。茂一自身も、単なる商人ではなく、文学を愛し、文化を創造する一員でありたいという強い願望を持っていたのです。
1930年代に入ると、紀伊國屋書店は銀座にも支店を出します。銀座東六丁目に設けられた店舗の2階は、やがて紀伊國屋ギャラリーへと改装され、美術展示の場として活用されました。詩人・北園克衛が編集を担当した『紀伊國屋月報』(1931年創刊)は、9号で終刊したものの、当時の文化的雰囲気を色濃く反映した刊行物として記憶されています。
書店としての実績も着実に積み重ねられていきました。単なる本の販売所ではなく、「そこへ行けば何かがある」という期待を抱かせる場所。茂一が目指したのは、そんな文化の発信基地だったのです。
順調に見えた紀伊國屋書店の歩みは、1945(昭和20)年5月、一夜にして潰えました。太平洋戦争の空襲により、店舗は焼失。18年かけて築き上げてきた全てが、灰燼に帰したのです。
焼け跡に立ち尽くす茂一の姿を、誰が想像できたでしょうか。 December 12, 2025
@saram_taka @puppypetsachi •江戸期の古い建物である
•池田屋の変の建物ではない
•池田屋の変の建物の部材の利用の可能性はある。
•構造に問題がありそう。
•観光名所としては良し
•維新の歴史的建造物としては△
こんな所ですかね December 12, 2025
茂一は「茂一のひとり歩き b/w 茂一音頭」という曲まで吹き込み、レコードリリースしています。経営者としての枠を超え、文化人として、エンターテイナーとして、自由に生きた男の姿がそこにあります。
2017(平成29)年、紀伊國屋ビルディングは東京都選定歴史的建造物に選定されました。地域のランドマークとして、東京都の景観づくりにおいて重要であるとの評価を受けたのです。茂一が前川國男と共に創り上げた建物は、半世紀以上が経過した今も、新宿の街を見守り続けています。
デジタル化の波が押し寄せ、リアル書店が厳しい状況に置かれている現代。しかし紀伊國屋書店は、茂一のDNAを受け継ぎながら、新しい時代への挑戦を続けています。村上春樹『職業としての小説家』を9万冊買い切って話題となったように、積極的な戦略を展開しています。
Amazonにできなくて、リアル書店にできることは何か。それは、まさに茂一がこだわった「そこへ行けば何かがある」という不確実な出会いへの期待です。偶然の発見、予期せぬ出会い、空間の持つ文化的雰囲気。これらは、デジタルでは決して代替できない価値です。
田辺茂一という男は、炭屋の跡取りとして生まれながら、書店という夢を選びました。10歳の時の出会いを忘れず、21歳で夢を実現し、戦災で全てを失っても立ち上がり、経営を任せられる相棒を得て、文化事業に尽力し続けました。
「倭国一働かない社長」「夜の市長」と呼ばれながらも、彼が創り上げたものは確かに残っています。本を愛し、人を愛し、文化を愛した男の生き様は、今も私たちに問いかけています。 December 12, 2025
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