霊屋 ゲーム
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2025.11.10〜(46週)
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伊達政宗公御霊屋 瑞鳳殿より、一部エリアの閉鎖についてお知らせがありました。
#瑞鳳殿
https://t.co/GOJzzeWPzJ
〜以下引用〜
令和7年 瑞鳳殿一部エリアの閉鎖について
仙台藩祖伊達政宗公の霊屋である瑞鳳殿で、令和7年11月13日(木)22時40分ごろ、瑞鳳殿の夜間警備会社がクマらしき個体を目撃し、感仙殿・善応殿エリア方向に逃げて行ったとの報告を受け、11月14日(金)から当面の間、感仙殿・善応殿エリアを閉鎖することにいたしました
ご観覧や紅葉めぐり・ライトアップにつきましては、瑞鳳殿、拝殿、涅槃門、戊辰戦争弔魂碑、資料館、売店エリアで対応いたします
感仙殿・善応殿エリア閉鎖中の観覧料については、減額の対応とさせていただきます
お客様には大変ご迷惑をお掛けいたしますが、何卒、ご理解・ご了承のほど、お願い申し上げます
【感仙殿・善応殿エリアの閉鎖期間】
令和7年11月14日(金)~ 当面の間
【観覧料の減額】
大人 570円 → 460円
高校生 410円 → 310円
小中学生 210円 → 160円
※るーぷる仙台一日乗車券利用者や20人以上の団体様の割引もあります
感仙殿・善応殿エリアの閉鎖期間は、令和7年11月14日(金)~ 当面の間とし、閉鎖解除の際は瑞鳳殿ホームページなどでお知らせいたします November 11, 2025
311RP
仙台旅行✈️
〜経理のMさん休日〜
経理のMさんから仙台旅行のお写真をたくさんもらいました📷
まずは…『瑞鳳殿』
伊達政宗を祀る霊屋で色鮮やかで豪華絢爛です😳✨✨ https://t.co/TFzDImmTbl November 11, 2025
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ゲムダンで作った、次回作『怨禍 - 残響の霊屋 - 』のチラシ。
本編では右下のこの子に追われます!
この子はいったい誰なのか……情報を楽しみにお待ちください!
早く答えを知りたい方は前作『霊屋』を遊んでください!
※キャラをリメイクしているので割と違いがあります。ご注意ください https://t.co/JRCF8LZjq8 November 11, 2025
6RP
本日のshortあがりました!
【ホラゲー】霊屋 鼓膜破壊切り抜き集【Vtuber】
https://t.co/8HkilUNdxS
#ホラーゲーム
#shorts
#11月のVtuberフォロー祭り November 11, 2025
3RP
【怪談友の会イベント告知🕶️】
次回の怪談友の会は12/5(金)に決定!
Bugって花井さんと藤井さんKAYOさんの3人会になります!
12/5(金)怪談友の会『あの世にまつわる不思議な話』
開場 / 18:40 開演 / 19:00 終演 / 20:30(予定)
料金 / 2000(D別)
出演/Bugって花井/藤井正之(心霊屋.com)/KAYO(心霊屋.com)
【概要】
毎週金曜は白鯨で怪談。まったりなのか、週末は仕事を終えたら怪談でも聞きにいこうか?そんなライフスタイルの提案も含めて金曜の夜は怪談会。
さらには、推しの推しはきっと推し!の信念で、怪談師さんには翌週に出演する、推薦怪談師をご紹介頂き出演願います。
往年のテレフォンショッキング形式で様々な形の怖い話を聞ける予感。
予約はこちら(11/15 20時から予約開始)
https://t.co/D9c4fHPhBC
配信はこちら
https://t.co/rXJhvsvqaH November 11, 2025
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別院
→詳細は「浄土真宗本願寺派 § 別院・教堂」を参照
代表的な別院
吉崎別院 - 吉崎御坊跡地
名古屋別院
山科別院 - 山科本願寺跡地
津村別院(北御堂) - 真宗大谷派の南御堂と並び、門前を通る大阪市のメインストリートが御堂筋と呼ばれる所以である。
鷺森別院(鷺森本願寺) - 文明8年(1467年)に第8代宗主蓮如が建立。
広島別院 - 安芸門徒の中心道場。
四日市別院 ‐ 大分県 宇佐市
鹿児島別院 - 隠れ念仏と解禁後の鹿児島市街の布教拠点。
築地別院(築地本願寺) - 元和3年(1617年)に第12代宗主准如が西本願寺の別院として建立。2012年(平成24年)に西本願寺唯一の「直轄寺院」となり、それまでは通称だった「築地本願寺」が正式名称となったため、現在は「別院」ではなくなっている。
飛地境内
大谷本廟 - 京都市東山区五条橋東六丁目にある。親鸞の墓所で通称は「西大谷」。
日野誕生院 - 京都市伏見区日野西大道町にある。親鸞誕生の地を記念して建てられた。
角坊 - 京都市右京区山ノ内御堂殿町にある。親鸞往生の地を記念して建てられた。
別荘
三夜荘 - 京都市伏見区にあった、かつての門主の別荘。第21代門主の大谷光尊が1876年(明治9年)に建築し、木戸孝允が命名するが、老朽化のため解体された。
【年中行事】
西本願寺ホームページの「恒例法要と行事」による。
1月1日 : 修正会、元旦会
1月9日 - 16日 : 御正忌報恩講(親鸞の祥月命日)
2月7日 : 如月忌(九條武子の遺徳を偲ぶ)
春分の日前後7日間 : 春季彼岸会
4月8日 : 花まつり(灌仏会)
4月13 - 15日 : 春の法要(立教開宗記念法要、本願寺歴代住職の年回法要)
5月20 - 21日 : 宗祖降誕会
8月上旬 : 盆踊り大会
8月14 - 15日 : 盂蘭盆会
8月15日 : 戦没者追悼法要
9月18日 : 千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要(東京、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて)
秋分の日前後7日間 : 秋季彼岸会
10月15 - 16日 : 龍谷会(大谷本廟報恩講法要)
10月中旬 - 11日中旬 : 献菊展
11月下旬 : 秋の法要(全国門徒総追悼法要)
12月20日 : 御煤払
12月31日 : 除夜会
京都府京都市下京区烏丸通七条上るにある東本願寺の境内全部と、御影堂と、周辺一帯広めで。(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)
https://t.co/hbC4T2IYnb
東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院[1]。
山号はなし。
本尊は阿弥陀如来。
正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)[2][3]である。
東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。
愛称は「お東」「お東さん」。
2020年(令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。
京都府京都市北区紫野大徳寺町53にある大徳寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯広めで。
https://t.co/FsdZoviwhE
大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山(りゅうほうざん)。
本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、倭国の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
また、花園天皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、1333年ころには播磨、摂津、紀伊などの畿内各地に加え、信濃、下総、美濃のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。
しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。
また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/vGc3w1xogf
聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。 November 11, 2025
1RP
瑞鳳殿によりますと、14日午後10時40分頃、敷地内で警備会社の職員がクマとみられる動物を目撃しました。
…ぼくの時計は、何回見ても今まだ14日の19時半前なんだけども。
#未来予知
伊達政宗の#霊屋「#瑞鳳殿」#クマ らしき動物の目撃情報で当面一部閉鎖 #仙台 https://t.co/c8oMInFWM9 November 11, 2025
1RP
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
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聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。
【歴史】
当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。
増誉は師である円珍の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた[3]。
この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された[3]。
こうして増誉は新たな寺名として「聖体護持」から文字を採って聖護院と改名し[3]、熊野神社を鎮守社とした。
ただし、増誉および増智(藤原師実の子)の時代には「白河房」と呼ばれており、「聖護院」の名称が登場するのはその後を継いだ覚忠の時代である(『兵範記』保元3年10月20日条・同仁安2年4月26日条)[5]。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した[3]。
増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。
この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した[3]。
後に熊野に屯倉を所有していた後白河上皇の皇子の静恵法親王が入寺したため、熊野との結びつきが一層深まった。
聖護院は長く皇族もしくは摂関家出身の門跡が入っていたが、後嵯峨上皇の皇子の覚助法親王が70年にわたって門跡の地位にあって園城寺長吏・鶴岡八幡宮別当・熊野三山検校を兼ね、門跡寺院としての地位を確立させた。
ところが、門跡を継がせる予定であった弟子(皇族)が次々と師に先立って死去したために覚助の没後は南朝と北朝間もしくは北朝内部において門跡の地位を巡る争いが発生する、この争いは覚助法親王を継いだ覚誉法親王(花園天皇の皇子)[6]が後光厳天皇の皇子である覚増法親王を後継者に指名した[7]ものの、その覚増法親王が明徳元年(1390年)に急死したことで聖護院は一時断絶の危機に見舞われた[5]。
朝廷や室町幕府では聖護院の後継者選考にあたっていたが、園城寺の院家である常住院門跡で熊野三山検校を兼ねていた良瑜が自身の弟子で実の姪孫でもあった道意(二条良基の子)を推挙して認められた。
この際、良瑜は熊野三山検校を道意に譲り、以降常住院に代わって聖護院が熊野三山検校の地位を務めるようになった[5]。
これによって聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。
全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。
現在は明治初期 神仏分離令 修験廃止令により山も強制的に神社に併合、寺院も江戸幕府の令号に伴い修験道法度にて天台 真言に分け隔て純血の修験寺院は130ヵ寺まで減り慶長18年から今 平成の世迄 色濃く残る《本山派 当山派 参照(幕末 神兵隊により社殿 寺院 本尊 破壊により廃寺)[3]。
道意の没後、年の離れた弟である満意が継承した。
満意は良瑜の没後衰退した常住院を傘下に収めている。
ところがその後継を巡って室町幕府が介入し、既に後継者に内定していた近衛房嗣の子・道興を排除して、足利義教の子である義観が後継者とされた。
ところが、義観が突如隠居を表明して程なく没し、結局は道興が後継者とされた。
応仁の乱においては火災による焼失に加え、門跡である道興が足利義視との親交から西軍への内通が疑われて美濃国へ亡命するなど困難を迎えるが、乱の終結後に赦免された道興が洛北の長谷(現・京都市左京区岩倉長谷町)に移転して再興を図った。
その後は、戦国時代を通じて道興と同じ近衛家出身の門跡が継承(例外である伏見宮貞常親王の子道応も近衛政家の猶子)し、足利将軍家と諸大名とのパイプ役を務めた[5]。
しかし、長谷の仏堂は文明19年(1487年)4月に盗賊の放火によって焼失した。
その後、豊臣秀吉の命により烏丸今出川に移転するが、江戸時代の延宝の大火で延焼してしまう。
こうして延宝4年(1676年)に創建の地である現在地に再興され、現在みられる寺院の姿となった[3]。
享保19年(1734年)11月16日、 聖護院の森にて、呉服商の井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女お俊との心中事件が起きた[3]。
近松半二は、この事件をまとめ、『近頃河原達引』(「お俊・伝兵衛」)という浄瑠璃作品を発表し、現在も上演されている[3]。
天明8年(1788年)の天明の大火の際には光格天皇が宸殿に入り、ここを仮御所としている。
また、安政元年(1854年)の内裏炎上に際しては孝明天皇が一時期仮宮として使用した。
当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。
元治元年(1864年)2月、京都守護職が当寺寺領の聖護院村に練兵場を置いた[8]。
その関係から、京都守護職・新選組に関連する京都の3か寺で結成した「京都守護職 新選組巡礼会」に加盟している。
慶応4年(1868年)1月8日に聖護院門跡雄仁法親王が還俗して聖護院宮嘉言親王となり、海軍総督等を務めた。
嘉言親王の死後は異母弟で同じく聖護院に入っていた智成親王が継嗣として「聖護院宮」の宮号を継承したが、これが旧門跡との区別が判然としないとして北白川宮に改称された。
嘉言・智成両親王は共に子に恵まれず、二人の兄弟であった元輪王寺門跡の能久親王が北白川宮家を継承したため、皇室に両親王の血統は残らなかった。
しかし能久親王の子孫により、北白川宮家は皇籍離脱後2018年(平成30年)現在に至るまでその血筋が続いている。
1868年(明治元年)の神仏分離令に続き、1872年(明治5年)には修験道廃止令が発布されたため、天台寺門宗に所属することになったが、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、修験宗を設立[9]して天台寺門宗から独立した。
2000年(平成12年)、役行者1300年御遠忌を記念し、 数年かけて行われていた寺院の修理が終わった[3]。
【境内】
本堂 - 1968年(昭和43年)に建替えた。
十三重石塔
宸殿 - 江戸時代中期建立。光格天皇が仮御所とした。
表玄関
庫裏
書院(重要文化財) - 江戸時代初期の建立。御所より移築した建物と伝える。
庭園
中御殿
北御殿
一夜造御学問所
茶室
御殿荘玄関
西門
長屋門
山門
積善院(凖提堂) - 塔頭。准胝観音を本尊とする。
【文化財 重要文化財】
書院
絹本著色熊野曼荼羅図
木造智証大師(円珍)坐像 - 康治2年(1143年)良成作。
木造不動明王立像
木造不動明王立像
光格天皇宸翰 神変大菩薩号勅書
後陽成院宸翰消息
円珍入唐求法(にっとうぐほう)目録1巻、如意輪心中心真言観1通、智証大師像造立願文(ぞうりゅうがんもん)1通(以上、智証大師像の像内納入品)
山城国富家殿(ふけどの)山絵図
【文化財 国指定史跡】
聖護院旧仮皇居
【行事】
行事
1月 - 茶道速水流による初釜。
8月 - 熊野への大峰入りのために山伏が当寺に集結し、熊野へ向かう。
【幕末の領地】
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の聖護院領は以下の通り。(7村・1,408石余)
山城国愛宕郡のうち - 4村
聖護院村 - 425石余
田中村のうち - 14石余
白川村のうち - 116石余
長谷村のうち - 479石余
山城国乙訓郡のうち - 1村
上植野村のうち - 233石余
山城国紀伊郡のうち - 1村
吉祥院村のうち - 19石余
近江国滋賀郡のうち - 1村
藤尾村のうち - 120石
【末寺 近畿地方】
積善院凖提堂(京都市左京区) 寺中塔頭・正院家
祥雲山 弥勒院(京都市左京区) 哲学の道
團學山 住心院 毘沙門堂(京都市左京区) 別格寺・正院家
大悲山 峰定寺(京都市左京区) 別格本山
神尾山 金輪寺(亀岡市)
明星山 三室戸寺(宇治市) 別格本山
最勝院(宇治市) 平等院鳳凰堂塔頭
箕面山 瀧安寺(箕面市) 大本山・役行者昇天地
紫雲山 神光寺 あびこ行者堂(大阪市住吉区)
護法山 喜蔵院(奈良県吉野) 別格本山
茅原山 吉祥草寺(奈良県御所) 大本山・役行者誕生地
大谷山 伽耶院(兵庫県三木市) 正院家
所在地=京都府京都市左京区聖護院中町15
京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町27−6にある勧修寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯。
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勧修寺(かじゅうじ)は、京都市山科区勧修寺にある真言宗山階派の大本山の寺院。
山号は亀甲山。本尊は千手観音。開基(創立者)は醍醐天皇、開山(初代住職)は承俊である。
寺紋(宗紋)は裏八重菊。
皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。
門跡寺院であり、「山階門跡」とも称する。
寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている[注釈 1]。
一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。
歴史
【創建】
『勧修寺縁起』等によれば、当寺は昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改め、氷室池も取り込んだもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。
胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。
開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。
代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470年)に応仁の乱の兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された[注釈 2]。
宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領(郡司)であった。
弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。
彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。
高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。
なお、高藤と列子の恋愛について『今昔物語集』に説話が残されている(後述)。
創建年代については上述の通り昌泰3年とするのが一般的だが、異説もある。
勧修寺は延喜5年(905年)、定額寺に列せられているが、この時の太政官符には「贈皇后(胤子)が生前に建立した」旨の記述があり、これに従えば、胤子の没した寛平8年(896年)以前の創建となる。
前述の通り、勧修寺は延喜5年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。
勧修寺においてはその長たる僧を「長吏」と称するが、天永元年(1110年)、7世勧修寺長吏となった寛信(1084年 - 1153年)は藤原高藤8世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。
「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。
【中世以降】
南北朝時代、後伏見天皇第7皇子の寛胤法親王(1309年 - 1376年)が15世長吏となって以来、勧修寺は宮門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺した。
中世の勧修寺は現在の京都市山科区勧修寺一帯を領するほか、各地に広大な寺領をもち、真言宗小野流の中心寺院、皇室ゆかりの寺院として最盛期を迎えた。
建武3年(1336年)の「勧修寺寺領目録」によると、勧修寺の寺領は加賀国郡家荘をはじめ、三河国、備前国など18か荘に及んでいた。
その後、応仁の乱の文明2年(1470年)の兵火で寺は焼失。
豊臣秀吉が伏見街道を造るに際して境内地は削減され、氷室池の南側を埋め立てられるなどして次第に衰退する。
寺が再興されるのは天和2年(1682年)、霊元天皇皇子の済深法親王が29世長吏として入寺してからであった。
法親王が東大寺大仏殿再建に功があったとして、寺領が1,012石に加増された。
現存する本堂、宸殿、書院等の伽藍は、霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜されたものである。
済深法親王に次いで30世となった尊孝法親王は伏見宮出身であった。
法親王の叔母にあたる真宮理子(さなのみやまさこ)が紀州藩出身の将軍・徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊国の約100か寺が勧修寺の末寺となった。
西国三十三所観音霊場札所として著名な紀三井寺護国院は、現在は真言宗から独立しているが、元は勧修寺の末寺であった。
幕末の32世済範入道親王も伏見宮の出身であったが、後に還俗して山階宮晃親王となった。
【近代】
真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も勧修寺は「真言宗」にとどまっていたが、1907年(明治40年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。
勧修寺は山階派本山となった。
その後、第二次世界大戦中には宗教団体法の施行により、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は完全に統合されたが、戦後の1952年(昭和27年)に再度山階派として独立している。
なお、1872年10月30日(明治5年9月28日)から1881年(明治14年)6月にかけて勧修寺内の一部が勧修小学校として使用されている。
1951年(昭和26年)には、かつて塔頭寺院があった場所に大石順教によって塔頭佛光院が建立されている。
【藤原高藤と宮道列子に関する説話】
『今昔物語集』巻22「高藤内大臣語 第七」には次のような高藤と列子の恋愛が伝えられている。藤原北家の流れを汲む藤原高藤は、鷹狩が趣味であった。ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りかかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるままに弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・藤原良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した。その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。この娘こそが後に宇多天皇の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。
【境内】
山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。境内東側には手前から宸殿、書院、五大堂、本堂などが建つ。境内西側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面して楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建つ。 November 11, 2025
1RP
現在の山口組の実質的なる総本部である愛知県名古屋市中村区宿跡町1-117にある弘道会本部(推定構成員は約1000名&準構成員約1000名)のすぐ傍に豊国神社が存在していたことが気になってます。
豊国神社
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豊国神社・豊國神社(とよくにじんじゃ、ほうこくじんじゃ)は、豊臣秀吉(豊国大明神)を祀る神社である。
秀吉の生涯に縁のある各地に存在する。
各地の事情により、合祀されている諸神や摂社の諸神に特徴がある。
主な豊国神社
【豊国神社 (とよくにじんじゃ)】
豊国神社 (金沢市) – 石川県金沢市東御影町93 : 1616年創建。加賀藩主前田家が密かに秀吉像を祀っていた社に由来する。
→石川県金沢市の全体と、周辺一帯。
豊国神社 – 岐阜県大垣市墨俣町墨俣 : 白鬚神社内社。1992年創建。木下藤吉郎時代に築いた墨俣城 (一夜城) に由来する。
→
岐阜県大垣市の全体
岐阜県安八郡(安八町、神戸町、輪之内町)の全体と、周辺一帯。
岐阜県不破郡(垂井町、関ヶ原町)の全体と、周辺一帯。
岐阜県瑞穂市の全体
岐阜県岐阜市の全体
豊国神社 (名古屋市) – 愛知県名古屋市中村区中村町茶ノ木にある中村公園内 : 1885年創建。秀吉の生地に由来する。
→
愛知県名古屋市の全体。
愛知県海部郡大治町の全体、
愛知県清須市の全体。
愛知県あま市の全体。
豊国神社 (京都市) – 京都市東山区大和大路茶屋町にある : 1599年創建。=全国に在る豊国神社の総本社。
https://t.co/rsZEFX4mzK
神社について
当社は慶長四(一五九九)年、前年に薨去された太閤豊臣秀吉公を奉祀する為、朝廷より正一位豊国大明神の神階神号を賜り、東山阿弥陀ケ峯に創建されました。
社領壱万石、境内域は三十万坪に及び、当時の壮麗な社殿や華麗な祭礼の様子は「豊国祭礼図屏風」や様々な古記録によって知ることが出来ます。
元和元(一六一五)年豊臣氏滅亡後、幕府の命で廃祀されましたが、明治元年、明治天皇は祭祀の復興を命ぜられ、同六年別格官幣社に列し、同十三年方広寺大仏殿跡地に社殿を造営し再興されました。
大正十四年には秀吉公の夫人、豊臣吉子方(北政所おね様)を祀る貞照神社が創祀され、現在では出世開運・良縁成就の神様として全国より崇敬をうけています。
神社正面の唐門は伏見城の遺構と伝えられ、西本願寺唐門、大徳寺唐門とともに「京の三唐門」と呼ばれ、各所を豪華な飾金具や彫刻で装飾が施された桃山時代を代表する建造物として国宝に指定されています。
【見どころ】
唐門
豊国神社にある桃山時代建築の国宝建造物。
本殿正面に建つ四脚唐門。
南禅寺金地院から移築されました。
伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されています。
常時公開…境内 拝観自由
鉄灯籠
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財工芸品。
豊国神社廃絶後、妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納されました。
宝物館にて常設展示。釜大工天下一辻与二郎實久作。
常時公開…宝物館(有料)
紙本著色「豊国祭礼図屏風」
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財絵画。
豊国神社の豊国大明神臨時祭礼を描いた狩野内膳筆の六曲一双屏風。
宝物館に陳列しています。
常時公開…宝物館(有料)
→
京都府京都市東山区の全体と、周辺一帯。
京都府京都市東山区茶屋町527−2にある方広寺と、南隣に在る豊国神社と、大仏殿跡緑地公園と、これら周辺一帯広め。
京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町にある豊国廟(阿弥陀ヶ峰の山頂。標高196メートル)と、西へ約100メートルに位置する豊国廟中門と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区今熊野北日吉町61−1にある拝殿と、西南方向へ約20メートルにある柵に囲まれたエリア(危険度最高レベル!!!)と、手水舎と、豊国廟鳥居と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町11にある豊臣国松公御墓と、西隣にある地域密着型ケアセンターいまくまのと、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区今熊野北日吉町35にある京都女子大学と、西隣にある新日吉神宮本殿の南隣に在る樹下社(このもとやしろ=豊国神社)と、更に西隣に在る智積院庭園と、真言宗智積院と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区妙法院前側町447にある天台宗南叡山妙法院と、唐門と、西隣にある京都国立博物館と、周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区三十三間堂廻り657にある三十三間堂と、東隣に在る後白河天皇法住寺陵、後陽成天皇皇子堯然親王墓、養源院、ハイアットリージェンシー京都と、これら周辺一帯。
京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3にある清閑寺と、北隣に在る高倉天皇後清閑寺陵と六条天皇清閑寺陵と、更に北へ200メートルに位置する清水山の山頂(標高242メートル)と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区清水1丁目294にある清水寺と、北へ100メートルに位置する成就院の南に在る池の池底と、成就院の北隣に在る「月の庭」の水底と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区高台寺下河原町526にある高台寺と、東隣に在る臥龍池の池底と、更に東隣りに在る霊屋と高台寺竹林と時雨亭と傘亭と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市山科区厨子奥花鳥町28にある将軍塚と、将軍塚青龍殿庭園、青龍殿、将軍塚青龍殿大舞台、青蓮院門跡福徳門、大日堂と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市山科区の全体と、周辺一帯。
京都府京都市山科区上花山旭山町8−1にある東山浄苑東本願寺と、西へ約30メートルに位置する六条山の山頂(標高201メートル)と、これら周辺一帯広めで。
豊国神社 (小松島市) – 徳島県小松島市中郷町豊の本 : 1614年創建。
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徳島県小松島市の全体と、周辺一帯。
徳島県小松島市中郷町豊の本5にある堀越寺と、境内にある豊國神社、御縣神社・住吉神社・瑜伽神社・加藤清正神社、小松島町忠魂碑と、これら周辺一帯広めで。
徳島県小松島市中郷町桜馬場103−1にある小松島市 泰地総合センターと、西隣にある天満神社と、これら周辺一帯広めで。
徳島県徳島市の全域と、周辺一帯。
【豊国神社 (ほうこくじんじゃ)】
豊国神社 (長浜市) – 滋賀県長浜市南呉服町6番37号 : 1600年創建。豊国大明神のほか、事代主大神、加藤清正、木村重成を祀る。秀吉がかつて長浜城主として統治したことに由来する。
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滋賀県長浜市の全体と、西隣の琵琶湖の湖底と、これら周辺一帯広めで。
滋賀県長浜市南呉服町6にある出世稲荷神社と虎石と加藤清正公像と、西隣にある豊国神社と、これら周辺一帯広めで。
滋賀県長浜市公園町10−10にある長浜城跡と、豊公園と、豊臣秀吉公像と、太閤井戸跡と、周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それら周辺一帯。
滋賀県米原市の全体と、周辺一帯。
滋賀県彦根市の全体と、周辺一帯。
滋賀県犬上郡(豊郷町、甲良町、多賀町)の全体と、周辺一帯。
豊國神社 (大阪市) – 大阪府大阪市中央区大阪城 : 1879年創建。秀吉公のほか、豊臣秀頼公、豊臣秀長卿を祀る。秀吉がかつて大坂城主として統治したことに由来する。
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大阪府の全体と、西に在る大阪湾の全体と、淀川の川底と、これら周辺一帯。
大阪府大阪市の全体。
大阪府大阪市中央区大阪城1−1にある大阪城の全体と、南にある豊國神社と豊臣秀吉公像と、これら周辺一帯広めで。
大阪府堺市の全体。
豊国神社 – 広島県廿日市市宮島町 : 厳島神社末社。別名 千畳閣。豊臣秀吉が建立した大経堂を、神仏分離に伴い豊臣秀吉を祀る神社にしたもの。
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広島県廿日市市宮島町の全体(=厳島と、西に在る可部島)と、周辺海底一帯広めで。
広島県廿日市市宮島町1−1にある千畳閣と、南隣に在る厳島神社と、これら周辺一帯。
豊国神社 (福岡市) – 福岡県福岡市博多区奈良屋町1番17号 : 1886年創建。博多の豪商神屋宗湛が建てた祠に由来する。
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福岡県福岡市の全体と、周辺一帯。
福岡県福岡市博多区奈良屋町1−17にある豊国神社と、南隣にある神屋宗湛屋敷跡と、東隣に在る福岡市立博多小学校と、これら周辺一帯。
https://t.co/vsPeLYqzWx
全都道府県の『豊国神社』(神社総数は5社)の統計リスト
上掲ウィキペディア豊国神社リストに掲載されてない新潟県と長野県の豊国神社が、今の危険予想地点です。
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新潟県上越市の全体と、周辺一帯。
新潟県上越市清里区馬屋1152番地2にある豊国神社と、東へ約200メートルに位置する黒保遺跡と、これら周辺一帯広めで。
新潟県妙高市の全体と、周辺一帯。
長野県飯山市の全体と、周辺一帯。
長野県飯山市にある伏野峠(なぜか今、通行止め!!!)と、周辺一帯広めで。
長野県飯山市照岡にある野々海峠と、西へ約500メートルにそびえる無名の山の山頂(標高1131メートル)と、野々海峠から東へ約250メートルに位置する無名の山頂(標高1135.4メートル)と、その南隣に在る野々海高原と野々海池の池底と、これら周辺一帯広めで。
長野県下水内郡栄村の全体と、周辺一帯。
長野県下水内郡栄村北信にそびえる天水山の山頂(標高1088メートル)と、西へ約800メートルにそびえる三方岳の山頂(標高1138.5メートル)と、東へ約500メートルにある無名の山の山頂(標高1050メートル超)と、これら周辺一帯広めで。
長野県中野市の全体と、周辺一帯。
長野県中野市田上1145番地にある豊國神社と、周辺一帯。
長野県下高井郡(山ノ内町 木島平村 野沢温泉村)の全体(危険度最高レベル!!!)と、周辺一帯。
さとっぴ軍全軍は今すぐ、下記の全エリア全地点へ攻撃大部隊!!!!を急派し包囲し、地下深くを奥の奥まで問答無用で焼いて焼いて焼き滅ぼせ!!!!!トドメも念入りにヤレ!!!!
指定エリア内の全ての聖地群史跡群水辺群山岳群山頂あたりも、今の危険予想地点ですから、全地点!!!!の地下深くをヤレ!!!!
倭国全部の地下深くの全て!!!!を、さとっぴ軍が完全制覇征服支配占領しろ!!!!
同時に、倭国エリアの地上の超悪魔勢力どもを即時殲滅聖絶消去せよ!!!!!!
倭国エリア全て!!!の地下深くも地上も両方とも!!!さとっぴ軍が完全制覇征服支配せよ!!!!!
大宇宙からの急襲にも警戒せよ!!!!
広島県あたりや、人口密集地あたりの水辺!!!!での巨大核爆弾起爆にも、しっかり警戒せよ!!!!
京都府の全体!!!と、周辺一帯。
京都府京都市の全体と、周辺一帯。
滋賀県大津市の全体と、東に在る琵琶湖と、周辺一帯。
滋賀県大津市坂本5-1-1にある日吉大社(山王総本宮)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/O8j25D0xa5
全国山王会 会員名簿の全地点と、それら周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それら周辺一帯。
https://t.co/kVDaRcJFoN
都道府県神社名鎮座地住所ご祭神HP
岩手五葉山神社大船渡市日頃市町五葉山1大山咋神
岩手日吉神社胆沢郡金ケ崎町三ヶ尻渋川堤下63大山咋神
秋田日吉神社秋田市新屋日吉町10-67大山咋神
秋田日吉神社大仙市内小友字宮北6大山咋大神 天照皇大神 豊受大神
秋田日枝神社由利本荘市前郷字前郷95大山咋大神
山形日枝神社鶴岡市山王町2-26大己貴命 山末之大主神 市杵島姫命
山形日枝神社酒田市日吉町1-7-32大己貴命 大山咋命 胸肩仲津姫命
山形日枝神社酒田市砂越字楯之内1大山咋命
福島日吉神社福島市郷野目字金込町4-1大山咋命・猿田彦命
茨城五所駒瀧神社桜川市真壁町山尾499武甕槌大神・大山咋神・猿田彦大神・木花開耶姫大神・菅原道真公
茨城西金砂神社茨城県常陸太田市上宮河内町1915大己貴大神
茨城花園神社北茨城市華川町花園567大山咋大神・大山祇大神・大物主大神
東京日枝神社東京都千代田区永田町2-10-5大山咋神 国常立神 伊弉冉神 足仲彦尊
東京日吉神社昭島市拝島町1-10-19大山咋命 羽山戸命 香山戸命
東京日枝神社清瀬市中清戸2-616大山咋神 大己貴神
神奈川日枝神社川崎市中原区上丸子山王町1-1555大己貴神
神奈川日枝大神社川崎市川崎区小田2-14-7大山咋命
神奈川日枝神社横浜市鶴見区矢向町4-16-2大山咋命
神奈川日枝神社横浜市南区山王町5-32大山咋神 宇迦之御魂命
新潟日吉神社新潟市秋葉区北上新田1812
新潟日吉神社長岡市逆谷2561大山咋神
新潟日枝神社燕市三王渕433大己貴神
新潟日吉神社佐渡市新穂井内29大山咋神
新潟日吉神社佐渡市上新穂1008大山咋神・大物主神
新潟日吉神社佐渡市新穂舟下66下照姫命・田心姫命・玉依彦命・玉依姫命
新潟日吉神社佐渡市新穂大野762白山比売命・玉依姫荒魂神
新潟日枝神社五条市村松甲5976
富山日枝神社富山市山王町4-12大山咋神 大己貴神
富山日枝神社富山市庵谷685大山咋神
富山日吉社富山市水橋池田町361大山咋神
富山姉倉比賣神社富山市呉羽町1813姉倉比賣命
富山日吉神社中新川郡上市町若杉字芋田39大己貴命・少彦名命
富山日枝神社中新川郡上市町黒川20大山咋神・天照皇大神
富山日枝社中新川郡立山町小林1大山咋神
富山日枝社富山市野中131大山咋命
富山日吉神社小矢部市西町8-8大山咋命
富山日枝社高岡市神主町1大己貴神
富山日吉社高岡市二上 二上山山頂大山津見神
富山日枝神社射水市庄西町1-5-1大山咋神 大己貴神
富山日吉社射水市立町12-30大山咋命
富山日枝社滑川市荒俣533大山咋命
富山日吉社魚津市黒沢578大山咋神
富山日吉社黒部市阿弥陀堂30大山咋命・天照皇太神
富山加積雪嶋神社滑川市加島町2050大山咋命
富山宮津八幡宮魚津市宮津1520誉田別尊
富山日枝社黒部市飯沢9694大山咋命
富山日吉社黒部市荻生3316大山祇命
富山日吉社射水市青井谷1773大山咋神
富山日吉社下新川郡朝日町金山499大山咋神
富山日吉社砺波市杉木3-158大山咋命
富山日吉神社砺波市安川423大己貴命・大国主命・大山咋命
富山日吉神社富山市水橋開発940大山咋神 大己貴神
富山日枝社富山市上野461大巳貴神
富山日吉社南砺市柴田屋271大山咋命
石川日吉神社金沢市大野町5-81大山咋神 大物主神
石川石浦神社金沢市本多町3-1-30大物主神・大山咋神
石川大地主神社七尾市山王町1-13大山咋神・素戔嗚神・伊許保止神
石川日吉神社七尾市中島町豊田町ヺ部42大己貴神
石川日吉神社七尾市江泊町イ部31大山咋神
石川皆月日吉神社輪島市門前町皆月ソ-103大己貴神 大山咋神
福井三國神社坂井市三国町山王6-2-80大山咋神 継体天皇
山梨比枝神社笛吹市石和町川中島534大山咋神
長野雨宮坐日吉神社千曲市大字雨宮1番地大山咋命・大名貴命
岐阜日吉神社安八郡神戸町神戸1大己貴神 大山咋神
岐阜日吉神社大垣市林町3丁目
岐阜日枝神社高山市城山156大山咋神
愛知不乗森神社安城市里町森38大山咋神
愛知日吉神社豊橋市石巻萩平町字大門27大山咋命
愛知日吉神社清須市清洲2272大己貴命・素戔嗚命・大山咋神
愛知日吉山王社知立市八橋町寺内65-1大山咋命
滋賀日吉大社大津市坂本5-1-1大己貴神 大山咋神
滋賀日吉神社東近江市建部日吉町4大山咋神 大己貴神
滋賀山王神社東近江市建部北町394玉依比賣命 大己貴命
滋賀牛尾神社東近江市建部瓦屋寺町341-2大山咋神
滋賀長等神社大津市三井寺町4-1須佐之男神 大山咋神
滋賀早尾神社大津市山上町736建速素戔嗚尊
滋賀樹下神社大津市山中町889鴨多々須玉依姫命
滋賀樹下神社大津市北小松914鴨玉依姫
滋賀樹下神社大津市木戸680-1玉依姫命
滋賀樹下神社大津市南比良98玉依姫命
滋賀八所神社大津市八屋戸1074大己貴神・白山菊理姫神
滋賀天皇神社大津市和邇中146素戔嗚尊
滋賀粟津神社大津市中庄1-21-17大國主命他
滋賀日吉神社彦根市里根町277大山咋命
滋賀新神社彦根市岡町156.157大物主大神
滋賀日吉神社彦根市正法寺町168
滋賀福満神社彦根市西今町621-1
滋賀日吉神社長浜市元浜町16-10
滋賀日枝神社長浜市宮司町470天津児屋根命・大山咋命
滋賀日枝神社近江八幡市杉森町130
滋賀野々宮神社東近江市八日市金屋1-5-12瓊瓊杵尊・大己貴命・少彦名神
滋賀日吉神社東近江市上平木町1999
滋賀兵主神社野洲市五条566八千矛神
滋賀野蔵神社野洲市南桜1木之花佐久夜比売・大山咋命
滋賀日吉神社野洲市小篠原140大山咋神
滋賀勝部神社守山市勝部1-8-8宇麻志摩遅命・物部經津主神・火明命
滋賀八尾神社守山市千代町141八王子
滋賀樹下神社守山市今浜町146
滋賀樹下神社守山市水保町289玉依姫命
滋賀樹下神社守山市水保中野1549
滋賀日枝神社湖南市下田3259
滋賀日枝神社甲賀市水口町中畑516
滋賀日吉神社甲賀市甲賀町神保1649
滋賀久保神社甲賀市土山町野上野143大己貴命
滋賀日吉神社高島市勝野2166大山咋神
滋賀大國主神社高島市新旭町饗庭619大己貴神
滋賀日吉二宮神社高島市新旭町深溝1460-1大山咋神
滋賀日吉神社高島市新旭町針江578鴨玉依姫命
滋賀日吉神社高島市今津町椋川708大山咋神
滋賀日吉神社近江八幡市安土町石寺1239
滋賀日枝神社彦根市上西川町251-1大山咋命
滋賀押立神社東近江市北菩提寺町356火産霊神・伊邪那美神
滋賀八坂日吉神社東近江市祇園町15須佐之男神 大山咋命
滋賀山王大宮神社犬上郡甲良町池寺37
滋賀岡本神社長浜市小谷丁野町810大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町小今77大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町二俣192大山咋命
滋賀日吉神社長浜市下山田1927大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町河毛1271大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町沢98大山咋命
滋賀小谷神社長浜市湖北町伊部329大山咋命
滋賀日吉神社長浜市高月町井口122
滋賀(この123番目のスペースを空白にする所も・・・・呪い咒術的な意味を感じました)
京都新日吉神宮京都市東山区妙法院前側町451-1大山咋神 大己貴神
京都日吉神社舞鶴市長谷小字森86大山咋神
京都日吉神社宮津市宮町1408大山咋神 大己貴神
大阪鶴見神社大阪市鶴見区鶴見3-13-76大山咋神荒魂
大阪日吉神社大阪市旭区赤川4-19-13大山咋神
大阪比枝神社大阪市鶴見区今津中5-5-23天照皇大神 大山咋神 大己貴神
大阪日吉神社高槻市古曽部町3-14-16大山咋神
大阪日吉神社羽曳野市西浦5-376大山咋命
兵庫日吉神社加西市池上町7大山咋神 大物主神
兵庫三王神社神戸市東灘区田中町2-2-1大山咋命
兵庫日吉神社姫路市大津区勘兵衛町2-62猿田彦命
兵庫日吉神社加西市段下町250大山祇神・大歳神
兵庫日吉神社神埼郡神河町比延245大山咋神 大汝命 少彦根命
鳥取日吉神社米子市淀江町西原767大巳貴神
島根日吉神社出雲市今市町1765大己貴命 大山咋神
広島日吉神社神石郡神石高原町高蓋592山末王主之神
広島山王神社尾道市因島中庄町463-2大穴牟遅神
山口日吉神社美祢市秋芳町嘉万大国主尊 大山咋命
香川日枝神社三豊市三野町大見甲2875大山咋命
香川日吉神社丸亀市飯山町川原1907大物主神・大山咋神
香川日枝神社三豊市高瀬町上勝間135大山咋大神・大己貴神
愛媛綾延神社西条市丹原町田野上方1443-1
福岡日吉神社久留米市日吉町106大山咋神
福岡日吉神社北九州市若松区東二島2-16-6大山咋神・大物主神
福岡日吉神社福岡市博多区山王1-9-3山王二十一社
福岡日吉神社嘉麻市上臼井1180
福岡日吉神社宮若市下1150大國主命 大山咋命
福岡日吉神社柳川市坂本町6大山咋神
福岡日吉社田川市糒632大山咋神 大己貴神
福岡日吉神社朝倉市杷木久喜宮1510国常立命・大物主命
佐賀仁比山神社神埼市神崎町的1692大山咋命
愛知県清須市の全体と、周辺一帯。
愛知県清須市清洲 2272番地にある清洲山王宮日吉神社と、周辺一帯。
https://t.co/cSamJEoMcz
愛知県愛知県清須市清洲2268‐1にある山王霊苑と、周辺一帯。
愛知県北名古屋市の全体と、周辺一帯。
愛知県北名古屋市鍛冶ヶ一色北襟地内にある山王五条川霊苑と、周辺一帯。
https://t.co/V2gpaoBEPB
当神社の宮司の管理する兼務社の鎮座地一覧です→この全地点と周辺聖地群史跡群水辺群山岳群山頂あたりが、今の危険予想地点です。
字名神社名鎮座地
西新町若宮八幡社北名古屋市西之保青野東
弥勒寺日吉社北名古屋市弥勒寺郷北
弥勒寺天神社北名古屋市弥勒寺北出
鍛冶ヶ一色八幡社北名古屋市鍛冶ヶ一色村内南
鍛冶ヶ一色素戔鳴社北名古屋市鍛冶ヶ一色高塚
北野神明社北名古屋市北野天神
法成寺八劔社北名古屋市法成寺蚊帳場
山之腰天神社北名古屋市山之腰五条
宇福寺天神社北名古屋市宇福寺天神
石橋八幡社北名古屋市石橋寺前
中之郷八幡社北名古屋市中之郷南
下之郷春日八幡宮清須市春日冨士塚
上之切縣社清須市春日県
中之切神明社富士社清須市春日神明
下之切天神社清須市春日天神
野田町神明社清須市春日野田町
朝日愛宕社清須市朝日小市場
朝日津島社清須市朝日河原
朝日厳島社清須市朝日河原
一場御園神明社清須市一場御園
一場浅間社清須市一場福島
西田中神明社清須市西田中本城
永安寺津島社清須市清洲永安寺
廻間八幡社清須市廻間郷裏
西市場迦具豆知社清須市西市場下傳馬
枇杷島八幡社名古屋市西区枇杷島
枇杷島神明白山相殿名古屋市西区東枇杷島町柳場
西清洲水天宮清須市清洲
田中町豊受神社清須市清洲
上本町津島社清須市清洲
中本町三社前清須市清洲
下本町山之神清須市清洲
https://t.co/WbD60ewIvR
「山王」を含む地名— 123 件
「山王」を含む町域名
赤崩山王浦(あかくずれさんのううら) 山形県米沢市
阿波町山王(あわちょうさんのう) 徳島県阿波市
上丸子山王町(かみまるこさんのうちょう) 神奈川県川崎市中原区
北嵯峨山王町(きたさがさんおうちょう) 京都府京都市右京区
甲陽園山王町(こうようえんさんのうちょう) 兵庫県西宮市
子生和山王町(こうわさんのうちょう) 愛知県稲沢市
山王堂(さんおうどう) 茨城県筑西市
山王(さんのう) 福岡県福岡市博多区
山王(さんのう) 新潟県三条市
山王(さんのう) 富山県下新川郡朝日町
山王(さんのう) 茨城県稲敷郡美浦村
山王(さんのう) 大阪府大阪市西成区
山王(さんのう) 秋田県秋田市
山王(さんのう) 福岡県北九州市八幡東区
山王(さんのう) 千葉県佐倉市
山王(さんのう) 茨城県取手市
山王(さんのう) 新潟県胎内市
山王(さんのう) 東京都大田区
山王(さんのう) 愛知県名古屋市中川区
山王(さんのう) 宮城県多賀城市
山王(さんのう) 福井県吉田郡永平寺町
山王(さんのう) 茨城県猿島郡五霞町
山王(さんのう) 茨城県結城市
山王(さんのう) 新潟県新潟市南区
山王下(さんのうした) 東京都多摩市
山王新田(さんのうしんでん) 新潟県新潟市南区
山王新田(さんのうしんでん) 茨城県つくばみらい市
山王新町(さんのうしんまち) 秋田県秋田市
山王島(さんのうじま) 長野県上高井郡小布施町
山王台(さんのうだい) 静岡県沼津市
「山王」を含む地名— 123 件
「山王」を含む町域名
山王町正面通三ノ宮東入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 神奈川県横浜市南区
山王町(さんのうちょう) 京都府京都市上京区
山王町(さんのうちょう) 青森県弘前市
山王町(さんのうちょう) 群馬県伊勢崎市
山王町正面通木屋町西入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 千葉県千葉市稲毛区
山王町(さんのうちょう) 兵庫県神戸市兵庫区
山王町正面通三ノ宮西入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 兵庫県豊岡市
山王町正面通二ノ宮西入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 岩手県盛岡市
山王町正面通木屋町東入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 愛知県江南市
山王町室町通高辻上る(さんのうちょうむろまちどおりたかつじあがる) 京都府京都市下京区
山王町室町通仏光寺下る(さんのうちょうむろまちどおりぶっこうじさがる) 京都府京都市下京区
山王堂(さんのうどう) 埼玉県本庄市
山王通(さんのうどおり) 岐阜県関市
山王通西(さんのうどおりにし) 岐阜県関市
山王中島町(さんのうなかじままち) 秋田県秋田市
山王中園町(さんのうなかぞのまち) 秋田県秋田市
山王沼田町(さんのうぬまたまち) 秋田県秋田市
山王前(さんのうまえ) 福井県小浜市
山王町(さんのうまち) 富山県砺波市
山王町(さんのうまち) 石川県金沢市
山王町(さんのうまち) 群馬県前橋市
山王町(さんのうまち) 富山県滑川市
山王町(さんのうまち) 富山県富山市
山王町(さんのうまち) 山形県鶴岡市
山王町(さんのうまち) 石川県七尾市
「山王」を含む地名— 123 件
「山王」を含む町域名
山王山(さんのうやま) 茨城県猿島郡五霞町
山王臨海町(さんのうりんかいまち) 秋田県秋田市
聖護院山王町(しょうごいんさんのうちょう) 京都府京都市左京区
大雄山王(たいゆうさんのう) 秋田県横手市
大雄山王西(たいゆうさんのうにし) 秋田県横手市
大東町山王寺(だいとうちょうさんのうじ) 島根県雲南市
中野山王(なかのさんのう) 東京都八王子市
永田山王台(ながたさんのうだい) 神奈川県横浜市南区
永田町山王パークタワー(ながたちょうさんのうぱーくたわー) 東京都千代田区
南外山王台(なんがいさんおうだい) 秋田県大仙市
西山王町(にしさんのうまち) 富山県富山市
東九条西山王町(ひがしくじょうにしさんのうちょう) 京都府京都市南区
東九条東山王町(ひがしくじょうひがしさんのうちょう) 京都府京都市南区
東九条南山王町(ひがしくじょうみなみさんのうちょう) 京都府京都市南区
丸岡町野中山王(まるおかちょうのなかさんのう) 福井県坂井市
三国町山王(みくにちょうさんのう) 福井県坂井市
「山王」を含む地名— 123 件
「山王」を含む町域名
美郷山王(みさとさんのう) 徳島県吉野川市
水橋山王町(みずはしさんのうまち) 富山県富山市
渡田山王町(わたりださんのうちょう) 神奈川県川崎市川崎区
鳥取県西伯郡日吉津村(さいはくぐんひえづそん) の全体と、周辺一帯。
https://t.co/fvzoSLvU7u
「日吉」を含む地名— 90 件
「日吉」を含む町域名
新屋日吉町(あらやひよしまち) 秋田県秋田市
阿波町日吉谷(あわちょうひよしだに) 徳島県阿波市
厳原町日吉(いづはらまちひよし) 長崎県対馬市
今熊野北日吉町(いまぐまのきたひよしちょう) 京都府京都市東山区
今熊野日吉町(いまぐまのひよしちょう) 京都府京都市東山区
今熊野南日吉町(いまぐまのみなみひよしちょう) 京都府京都市東山区
小浜日吉(おばまひよし) 福井県小浜市
上尻毛日吉(かみしっけひよし) 岐阜県岐阜市
北日吉町(きたひよしちょう) 愛媛県今治市
五個荘日吉町(ごかしょうひよしちょう) 滋賀県東近江市
新日吉町(しんひよしちょう) 京都府京都市下京区
建部日吉町(たてべひよしちょう) 滋賀県東近江市
千代川町日吉台(ちよかわちょうひよしだい) 京都府亀岡市
鶴来日吉町(つるぎひよしまち) 石川県白山市
常呂町日吉(ところちょうひよし) 北海道北見市
那加日吉町(なかひよしちょう) 岐阜県各務原市
中日吉町(なかひよしちょう) 愛媛県今治市
西日吉町(にしひよしちょう) 岐阜県関市
日吉津(ひえづ) 鳥取県西伯郡日吉津村
東日吉町(ひがしひよしちょう) 岐阜県関市
日吉(ひよし) 富山県下新川郡入善町
日吉(ひよし) 愛知県新城市
日吉(ひよし) 福岡県八女郡広川町
日吉(ひよし) 北海道夕張市
日吉(ひよし) 新潟県小千谷市
日吉(ひよし) 熊本県熊本市南区
日吉(ひよし) 神奈川県横浜市港北区
日吉(ひよし) 福岡県古賀市
日吉ケ丘(ひよしがおか) 京都府福知山市
日吉倉(ひよしくら) 千葉県富里市
「日吉」を含む地名— 90 件
「日吉」を含む町域名
日吉台(ひよしだい) 広島県福山市
日吉台(ひよしだい) 宮城県富谷市
日吉台(ひよしだい) 大阪府高槻市
日吉台(ひよしだい) 滋賀県大津市
日吉台(ひよしだい) 福岡県北九州市八幡西区
日吉台(ひよしだい) 千葉県東金市
日吉台(ひよしだい) 千葉県富里市
日吉町(ひよしちょう) 群馬県前橋市
日吉町(ひよしちょう) 高知県南国市
日吉町(ひよしちょう) 岐阜県瑞浪市
日吉町(ひよしちょう) 兵庫県小野市
日吉町(ひよしちょう) 東京都府中市
日吉町(ひよしちょう) 埼玉県東松山市
日吉町(ひよしちょう) 愛知県名古屋市中村区
日吉町(ひよしちょう) 栃木県鹿沼市
日吉町(ひよしちょう) 兵庫県神戸市長田区
日吉町(ひよしちょう) 新潟県柏崎市
日吉町(ひよしちょう) 東京都八王子市
日吉町(ひよしちょう) 京都府京都市東山区
日吉町(ひよしちょう) 埼玉県所沢市
日吉町(ひよしちょう) 山形県酒田市
日吉町(ひよしちょう) 北海道苫小牧市
日吉町(ひよしちょう) 福井県大野市
日吉町(ひよしちょう) 東京都国分寺市
日吉町(ひよしちょう) 岡山県岡山市北区
日吉町(ひよしちょう) 北海道函館市
日吉町(ひよしちょう) 大阪府守口市
日吉町天若(ひよしちょうあまわか) 京都府南丹市
日吉町上胡麻(ひよしちょうかみごま) 京都府南丹市
日吉町神之川(ひよしちょうかみのかわ) 鹿児島県日置市
「日吉」を含む地名— 90 件
「日吉」を含む町域名
日吉町生畑(ひよしちょうきはた) 京都府南丹市
日吉町木住(ひよしちょうこずみ) 京都府南丹市
日吉町胡麻(ひよしちょうごま) 京都府南丹市
日吉町佐々江(ひよしちょうささえ) 京都府南丹市
日吉町志和賀(ひよしちょうしわが) 京都府南丹市
日吉町田原(ひよしちょうたわら) 京都府南丹市
日吉町殿田(ひよしちょうとのだ) 京都府南丹市
日吉町中(ひよしちょうなか) 京都府南丹市
日吉町中世木(ひよしちょうなかせき) 京都府南丹市
日吉町畑郷(ひよしちょうはたごう) 京都府南丹市
日吉町日置(ひよしちょうひおき) 鹿児島県日置市
日吉町保野田(ひよしちょうほのだ) 京都府南丹市
日吉町山田(ひよしちょうやまだ) 鹿児島県日置市
日吉町吉利(ひよしちょうよしとし) 鹿児島県日置市
日吉町四ツ谷(ひよしちょうよつや) 京都府南丹市
日吉原(ひよしばる) 大分県大分市
日吉本町(ひよしほんちょう) 神奈川県横浜市港北区 November 11, 2025
1RP
兵庫県
■ 五代目神戸博労会
https://t.co/d5T0YYXgpd
五代目神戸博労会総本部(こうべばくろうかいそうほんぶ)は兵庫県神戸市に本部を置く的屋系暴力団。
【略歴】
大阪博労組二代目分家・博労周造の系統。
昭和36年の資料に神戸神農商業協同組合理事長代理・仁村末吉と記載あり。
【神戸博労系譜】
初 代 - 博労周蔵
二代目 - 仁村末吉
三代目 -
四代目 -
五代目 - 鹿野 昇
■ 姫路中井組
https://t.co/j16U6KmNGB
十代目姫路中井組(ひめじなかいぐみ)は兵庫県姫路市に本拠を置き、大阪府貝塚市に本家を置く的屋系暴力団。
■ 六代目木村組
https://t.co/0SKKa8chQ9
六代目木村組(きむらぐみ)は兵庫県に本拠を置く的屋系暴力団。
奈良県
■ 十二代目三尺組
https://t.co/8pDvSBKU0m
十二代目三尺組(さんしゃくぐみ)は奈良県大和郡山市に本部を置く的屋系暴力団。
鳥取県
■ 岸田興業
https://t.co/2l4MdW4KCw
岸田興業(きしだこうぎょう)は鳥取県倉吉市西倉吉町468−5に連絡所を置く的屋系暴力団。
岡山県
■ 九代目西崎会
https://t.co/8NYhJCxjJ7
九代目西崎会(にしざきかい)は岡山県に本部を置く的屋系暴力団。
広島県
■ 四代目中国高木会
https://t.co/KTZsJzomQn
四代目中国髙木会(ちゅうごくたかぎかい)は広島県広島市安佐北区口田4-6-4-29-306に本部を置く的屋系暴力団。
【概要】
旧本部:広島市安佐南区西原4-35-5
三代目本家:広島県広島市安芸区中野4-56-2
【概要】
村上組
1945年8月頃、広島の大親分であった渡辺長次郎の一門で、神農会秋月一家の流れをくむ祐森松男の身内であった村上三次が村上組を結成。
戦後広島駅前に闇市を開いた。
また広島駅付近の商店や飲食店からみかじめ料を徴収し、土建業にも手を伸ばした。
1946年11月、広島市の博徒・岡組と抗争。
この抗争により組長・村上三次と次男で行動隊長・村上正明が逮捕。
村上組は活動停止に陥った。
1949年4月、団体等規正令により解散。
1951年7月、村上三次が引退。村上正明が後見人となり髙木達夫が二代目となる。
1952年、団体等規正令が廃止され村上組が再興。
1964年5月、山村組、山口(英)組と共政会を結成。村上正明は副会長に就任。
中国髙木会
1965年、二代目・髙木達夫は村上組から独立し新たに中国髙木会を結成。会長に就任。
初代・髙木達夫と二代目・北山昭男が共政会の顧問に就いていたが、独自の代紋を持つ一本独鈷。
2023年8月、三代目・大源秀吉が四代目中国髙木会執行部一同より破門。
【系譜】
村上組系譜
初 代 - 村上三次
二代目 - 髙木達夫(初代共政会相談役)
中国高木会系譜
初 代 - 髙木達夫(初代共政会相談役)
二代目 - 北山昭男(四代目共政会顧問・五代目共政会最高顧問)
三代目 - 大源秀吉
四代目 -
■ 二代目金神津村總本家
https://t.co/zndVLsG9j1
二代目金神津村總本家(こんじんつむらそうほんけ)は広島県広島市中区光南2-7-25 ツムラに本部を置く的屋系暴力団。
旧・津村組。
【略歴】
資料には沢村組とも(誤記か)。
今神中原正之助一家秋月四郎乾兒津村一家。
1921年(大正10年)頃、津村是義が広島県一円を縄張りにする今神中原正之助一家秋月四郎の子分となり、演歌師の仲間になる。
1928年(昭和3年)、秋月四郎亡き後、その配下を集めて一家を築く
1929年(昭和4年)、津村是義は広島市神農会会長に就任。配下は増え200名を超す。
1946年(昭和21年)、津村興行部を経営。
終戦後、広島相互援護会を結成。
1950年(昭和25年)、団体等規正令により解散。
津村是義は初代広島共政会顧問で、共政会発足に貢献した人物。
1990年(平成2年)、四代目共政会会長・沖本勲が後見人をし、津村是義の実子・津村義輔が二代目を継承。
二代目の頃、総裁・津村義太郎、総長・津村義輔とする資料あり。
【金神津村總本家系譜】
初 代 - 津村是義
二代目 - 津村義輔
【二代目金神津村總本家組織図】
総 長 - 津村義輔
若 中 - 上田義雄
香川県
■ 六代目土原会
https://t.co/al9Ca45mFI
六代目土原会(どはらかい)は香川県丸亀市に本部を置く的屋系暴力団。
【略歴】
全盛期は全土原連合会を組織した。
特別後見人を五代目山口組組長秘書・四代目豪友会会長・山内鐘吉、取持人を四代目森会会長・郡山哲夫、親族総代を四代目豪友会副会長・三代目坂井組組長・高橋隆行、媒酌人を小西一家本部長・四代目岡西会会長・栗本博、推薦人を四代目共政会顧問・二代目中国高木会会長・北山昭男、中国六代目公田会会長・谷静夫、四代目森会副会長・津田組組長・津田聡などが務めた。
北海道にも系列があった。
【土原系譜】
初 代 - 土原 某
二代目 -
三代目 -
四代目 -
五代目 - 中條 徹
六代目 - 有光逸郎
【六代目土原会組織図】
会 長 - 有光逸郎
跡目実子分 - 佐々木剛?
■ 四代目岡西会
https://t.co/MCKU7hI6i8
四代目岡西会(おかにしかい)は香川県丸亀市に本部を置く的屋系暴力団。
■ 岩田五代目合田連合会
https://t.co/fcpgm7w5YE
岩田五代目合田連合会(ごうだれんごうかい)は香川県に本部を置く的屋系暴力団。
福岡県
■ 九州三代目立川会
https://t.co/mjSqWX3QnR
九州三代目立川会は福岡県飯塚市に本部を置く的屋系暴力団。
■ 五代目野上一家
https://t.co/YoIy5tdWon
五代目野上一家(のがみいっか)は福岡県福岡市東区青葉1-10-2福岡県西部移動商業協同組合(中西商事)に本部を置く的屋系暴力団。
■ 三代目安倍一家
https://t.co/q1d4LiXd7P
三代目安部一家(あべいっか)は福岡県北九州市に本拠を置いた的屋系暴力団。
【略歴】
八幡を庭場にした。
【安部一家系譜】
初 代 - 安部森行
二代目 - 安部政森
三代目 - 安部 恒
長崎県
■ 二代目九州尾崎会
https://t.co/Fp1KIGoOXr
二代目九州尾崎会(きゅうしゅうおざきかい)は長崎県諫早市に本部を置き、長崎県諫早市泉町26-31に本家を置く的屋系暴力団。
【略歴】
前身は小島一家。
別名・長崎尾崎会。
【九州尾崎会系譜】
初 代 - 尾崎三郎
二代目 - 古賀國行(長崎街商組合会長)
【二代目九州尾崎会組織図】
会 長 - 古賀國行
熊本県
■ 九州三代目大倉会
https://t.co/UXGIllQmL8
九州三代目大倉会(おおくらかい)は熊本県熊本市中央区島崎1-33-6 熊本県移動商業協同組合に本部を置く的屋系暴力団。
【略歴】
旧八木一家系。
三代目・大倉勝が俠道会・熊本同志会最高顧問に就いた。
【系譜】
初 代 - 大倉直住
二代目 - 鞆田恒史
三代目 - 大倉 勝
【九州三代目大倉会組織図】
会 長 - 大倉 勝
大倉徳久?
大分県
■ 九州三代目村上組
https://t.co/GBTdGdIwD4
九州三代目村上組(むらかみぐみ)は大分県大分市勢家町に本部を置き大分県大分市勢家町4-1-2に本家を置く的屋系暴力団。
【略歴】
旧・木村三代目村上組。
かつては小倉市に本拠を置いた。
昭和50年頃は村上連合会を名乗った。
かつて柳川次郎が傘下の吉富組(吉富政男組長)に所属した。
石井一郎は村上義一の盃を受けていた。
村上義一は三代目山口組組長・田岡一雄の舎弟。
【系譜】
木村
初 代 -
二代目 -
三代目 - 村上義一こと沢田義一
村上組
初 代 - 村上義一こと沢田義一
二代目 - 村上義夫
三代目 - 松岡良茂
【九州三代目村上組組織図】
組 長 - 松岡良茂
幹 部 - 松岡正晃
※ 都道府県コード順
現在の山口組の実質的なる総本部である愛知県名古屋市中村区宿跡町1-117にある弘道会本部(推定構成員は約1000名&準構成員約1000名)のすぐ傍に豊国神社が存在していたことが気になってます。
豊国神社
https://t.co/UuE4zKivst
豊国神社・豊國神社(とよくにじんじゃ、ほうこくじんじゃ)は、豊臣秀吉(豊国大明神)を祀る神社である。
秀吉の生涯に縁のある各地に存在する。
各地の事情により、合祀されている諸神や摂社の諸神に特徴がある。
主な豊国神社
【豊国神社 (とよくにじんじゃ)】
豊国神社 (金沢市) – 石川県金沢市東御影町93 : 1616年創建。加賀藩主前田家が密かに秀吉像を祀っていた社に由来する。
→石川県金沢市の全体と、周辺一帯。
豊国神社 – 岐阜県大垣市墨俣町墨俣 : 白鬚神社内社。1992年創建。木下藤吉郎時代に築いた墨俣城 (一夜城) に由来する。
→
岐阜県大垣市の全体
岐阜県安八郡(安八町、神戸町、輪之内町)の全体と、周辺一帯。
岐阜県不破郡(垂井町、関ヶ原町)の全体と、周辺一帯。
岐阜県瑞穂市の全体
岐阜県岐阜市の全体
豊国神社 (名古屋市) – 愛知県名古屋市中村区中村町茶ノ木にある中村公園内 : 1885年創建。秀吉の生地に由来する。
→
愛知県名古屋市の全体。
愛知県海部郡大治町の全体、
愛知県清須市の全体。
愛知県あま市の全体。
豊国神社 (京都市) – 京都市東山区大和大路茶屋町にある : 1599年創建。=全国に在る豊国神社の総本社。
https://t.co/rsZEFX4mzK
神社について
当社は慶長四(一五九九)年、前年に薨去された太閤豊臣秀吉公を奉祀する為、朝廷より正一位豊国大明神の神階神号を賜り、東山阿弥陀ケ峯に創建されました。
社領壱万石、境内域は三十万坪に及び、当時の壮麗な社殿や華麗な祭礼の様子は「豊国祭礼図屏風」や様々な古記録によって知ることが出来ます。
元和元(一六一五)年豊臣氏滅亡後、幕府の命で廃祀されましたが、明治元年、明治天皇は祭祀の復興を命ぜられ、同六年別格官幣社に列し、同十三年方広寺大仏殿跡地に社殿を造営し再興されました。
大正十四年には秀吉公の夫人、豊臣吉子方(北政所おね様)を祀る貞照神社が創祀され、現在では出世開運・良縁成就の神様として全国より崇敬をうけています。
神社正面の唐門は伏見城の遺構と伝えられ、西本願寺唐門、大徳寺唐門とともに「京の三唐門」と呼ばれ、各所を豪華な飾金具や彫刻で装飾が施された桃山時代を代表する建造物として国宝に指定されています。
【見どころ】
唐門
豊国神社にある桃山時代建築の国宝建造物。
本殿正面に建つ四脚唐門。
南禅寺金地院から移築されました。
伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されています。
常時公開…境内 拝観自由
鉄灯籠
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財工芸品。
豊国神社廃絶後、妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納されました。
宝物館にて常設展示。釜大工天下一辻与二郎實久作。
常時公開…宝物館(有料)
紙本著色「豊国祭礼図屏風」
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財絵画。
豊国神社の豊国大明神臨時祭礼を描いた狩野内膳筆の六曲一双屏風。
宝物館に陳列しています。
常時公開…宝物館(有料)
→
京都府京都市東山区の全体と、周辺一帯。
京都府京都市東山区茶屋町527−2にある方広寺と、南隣に在る豊国神社と、大仏殿跡緑地公園と、これら周辺一帯広め。
京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町にある豊国廟(阿弥陀ヶ峰の山頂。標高196メートル)と、西へ約100メートルに位置する豊国廟中門と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区今熊野北日吉町61−1にある拝殿と、西南方向へ約20メートルにある柵に囲まれたエリア(危険度最高レベル!!!)と、手水舎と、豊国廟鳥居と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町11にある豊臣国松公御墓と、西隣にある地域密着型ケアセンターいまくまのと、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区今熊野北日吉町35にある京都女子大学と、西隣にある新日吉神宮本殿の南隣に在る樹下社(このもとやしろ=豊国神社)と、更に西隣に在る智積院庭園と、真言宗智積院と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区妙法院前側町447にある天台宗南叡山妙法院と、唐門と、西隣にある京都国立博物館と、周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区三十三間堂廻り657にある三十三間堂と、東隣に在る後白河天皇法住寺陵、後陽成天皇皇子堯然親王墓、養源院、ハイアットリージェンシー京都と、これら周辺一帯。
京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3にある清閑寺と、北隣に在る高倉天皇後清閑寺陵と六条天皇清閑寺陵と、更に北へ200メートルに位置する清水山の山頂(標高242メートル)と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区清水1丁目294にある清水寺と、北へ100メートルに位置する成就院の南に在る池の池底と、成就院の北隣に在る「月の庭」の水底と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区高台寺下河原町526にある高台寺と、東隣に在る臥龍池の池底と、更に東隣りに在る霊屋と高台寺竹林と時雨亭と傘亭と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市山科区厨子奥花鳥町28にある将軍塚と、将軍塚青龍殿庭園、青龍殿、将軍塚青龍殿大舞台、青蓮院門跡福徳門、大日堂と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市山科区の全体と、周辺一帯。
京都府京都市山科区上花山旭山町8−1にある東山浄苑東本願寺と、西へ約30メートルに位置する六条山の山頂(標高201メートル)と、これら周辺一帯広めで。
豊国神社 (小松島市) – 徳島県小松島市中郷町豊の本 : 1614年創建。
→
徳島県小松島市の全体と、周辺一帯。
徳島県小松島市中郷町豊の本5にある堀越寺と、境内にある豊國神社、御縣神社・住吉神社・瑜伽神社・加藤清正神社、小松島町忠魂碑と、これら周辺一帯広めで。
徳島県小松島市中郷町桜馬場103−1にある小松島市 泰地総合センターと、西隣にある天満神社と、これら周辺一帯広めで。
徳島県徳島市の全域と、周辺一帯。
【豊国神社 (ほうこくじんじゃ)】
豊国神社 (長浜市) – 滋賀県長浜市南呉服町6番37号 : 1600年創建。豊国大明神のほか、事代主大神、加藤清正、木村重成を祀る。秀吉がかつて長浜城主として統治したことに由来する。
→
滋賀県長浜市の全体と、西隣の琵琶湖の湖底と、これら周辺一帯広めで。
滋賀県長浜市南呉服町6にある出世稲荷神社と虎石と加藤清正公像と、西隣にある豊国神社と、これら周辺一帯広めで。
滋賀県長浜市公園町10−10にある長浜城跡と、豊公園と、豊臣秀吉公像と、太閤井戸跡と、周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それら周辺一帯。
滋賀県米原市の全体と、周辺一帯。
滋賀県彦根市の全体と、周辺一帯。
滋賀県犬上郡(豊郷町、甲良町、多賀町)の全体と、周辺一帯。
豊國神社 (大阪市) – 大阪府大阪市中央区大阪城 : 1879年創建。秀吉公のほか、豊臣秀頼公、豊臣秀長卿を祀る。秀吉がかつて大坂城主として統治したことに由来する。
→
大阪府の全体と、西に在る大阪湾の全体と、淀川の川底と、これら周辺一帯。
大阪府大阪市の全体。
大阪府大阪市中央区大阪城1−1にある大阪城の全体と、南にある豊國神社と豊臣秀吉公像と、これら周辺一帯広めで。
大阪府堺市の全体。
豊国神社 – 広島県廿日市市宮島町 : 厳島神社末社。別名 千畳閣。豊臣秀吉が建立した大経堂を、神仏分離に伴い豊臣秀吉を祀る神社にしたもの。
→
広島県廿日市市宮島町の全体(=厳島と、西に在る可部島)と、周辺海底一帯広めで。
広島県廿日市市宮島町1−1にある千畳閣と、南隣に在る厳島神社と、これら周辺一帯。
豊国神社 (福岡市) – 福岡県福岡市博多区奈良屋町1番17号 : 1886年創建。博多の豪商神屋宗湛が建てた祠に由来する。
→
福岡県福岡市の全体と、周辺一帯。
福岡県福岡市博多区奈良屋町1−17にある豊国神社と、南隣にある神屋宗湛屋敷跡と、東隣に在る福岡市立博多小学校と、これら周辺一帯。
https://t.co/vsPeLYqzWx
全都道府県の『豊国神社』(神社総数は5社)の統計リスト
上掲ウィキペディア豊国神社リストに掲載されてない新潟県と長野県の豊国神社が、今の危険予想地点です。
→
新潟県上越市の全体と、周辺一帯。
新潟県上越市清里区馬屋1152番地2にある豊国神社と、東へ約200メートルに位置する黒保遺跡と、これら周辺一帯広めで。
新潟県妙高市の全体と、周辺一帯。
長野県飯山市の全体と、周辺一帯。
長野県飯山市にある伏野峠(なぜか今、通行止め!!!)と、周辺一帯広めで。
長野県飯山市照岡にある野々海峠と、西へ約500メートルにそびえる無名の山の山頂(標高1131メートル)と、野々海峠から東へ約250メートルに位置する無名の山頂(標高1135.4メートル)と、その南隣に在る野々海高原と野々海池の池底と、これら周辺一帯広めで。
長野県下水内郡栄村の全体と、周辺一帯。
長野県下水内郡栄村北信にそびえる天水山の山頂(標高1088メートル)と、西へ約800メートルにそびえる三方岳の山頂(標高1138.5メートル)と、東へ約500メートルにある無名の山の山頂(標高1050メートル超)と、これら周辺一帯広めで。
長野県中野市の全体と、周辺一帯。
長野県中野市田上1145番地にある豊國神社と、周辺一帯。
長野県下高井郡(山ノ内町 木島平村 野沢温泉村)の全体(危険度最高レベル!!!)と、周辺一帯。
さとっぴ軍全軍は今すぐ、下記の全エリア全地点へ攻撃大部隊!!!!を急派し包囲し、地下深くを奥の奥まで問答無用で焼いて焼いて焼き滅ぼせ!!!!!トドメも念入りにヤレ!!!!
指定エリア内の全ての聖地群史跡群水辺群山岳群山頂あたりも、今の危険予想地点ですから、全地点!!!!の地下深くをヤレ!!!!
倭国全部の地下深くの全て!!!!を、さとっぴ軍が完全制覇征服支配占領しろ!!!!
同時に、倭国エリアの地上の超悪魔勢力どもを即時殲滅聖絶消去せよ!!!!!!
倭国エリア全て!!!の地下深くも地上も両方とも!!!さとっぴ軍が完全制覇征服支配せよ!!!!!
大宇宙からの急襲にも警戒せよ!!!!
広島県あたりや、人口密集地あたりの水辺!!!!での巨大核爆弾起爆にも、しっかり警戒せよ!!!!
京都府の全体!!!と、周辺一帯。
京都府京都市の全体と、周辺一帯。
滋賀県大津市の全体と、東に在る琵琶湖と、周辺一帯。
滋賀県大津市坂本5-1-1にある日吉大社(山王総本宮)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/O8j25D0xa5
全国山王会 会員名簿の全地点と、それら周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それら周辺一帯。
https://t.co/kVDaRcJFoN
都道府県神社名鎮座地住所ご祭神HP
岩手五葉山神社大船渡市日頃市町五葉山1大山咋神
岩手日吉神社胆沢郡金ケ崎町三ヶ尻渋川堤下63大山咋神
秋田日吉神社秋田市新屋日吉町10-67大山咋神
秋田日吉神社大仙市内小友字宮北6大山咋大神 天照皇大神 豊受大神
秋田日枝神社由利本荘市前郷字前郷95大山咋大神
山形日枝神社鶴岡市山王町2-26大己貴命 山末之大主神 市杵島姫命
山形日枝神社酒田市日吉町1-7-32大己貴命 大山咋命 胸肩仲津姫命
山形日枝神社酒田市砂越字楯之内1大山咋命
福島日吉神社福島市郷野目字金込町4-1大山咋命・猿田彦命
茨城五所駒瀧神社桜川市真壁町山尾499武甕槌大神・大山咋神・猿田彦大神・木花開耶姫大神・菅原道真公
茨城西金砂神社茨城県常陸太田市上宮河内町1915大己貴大神
茨城花園神社北茨城市華川町花園567大山咋大神・大山祇大神・大物主大神
東京日枝神社東京都千代田区永田町2-10-5大山咋神 国常立神 伊弉冉神 足仲彦尊
東京日吉神社昭島市拝島町1-10-19大山咋命 羽山戸命 香山戸命
東京日枝神社清瀬市中清戸2-616大山咋神 大己貴神
神奈川日枝神社川崎市中原区上丸子山王町1-1555大己貴神
神奈川日枝大神社川崎市川崎区小田2-14-7大山咋命
神奈川日枝神社横浜市鶴見区矢向町4-16-2大山咋命
神奈川日枝神社横浜市南区山王町5-32大山咋神 宇迦之御魂命
新潟日吉神社新潟市秋葉区北上新田1812
新潟日吉神社長岡市逆谷2561大山咋神
新潟日枝神社燕市三王渕433大己貴神
新潟日吉神社佐渡市新穂井内29大山咋神
新潟日吉神社佐渡市上新穂1008大山咋神・大物主神
新潟日吉神社佐渡市新穂舟下66下照姫命・田心姫命・玉依彦命・玉依姫命
新潟日吉神社佐渡市新穂大野762白山比売命・玉依姫荒魂神
新潟日枝神社五条市村松甲5976
富山日枝神社富山市山王町4-12大山咋神 大己貴神
富山日枝神社富山市庵谷685大山咋神
富山日吉社富山市水橋池田町361大山咋神
富山姉倉比賣神社富山市呉羽町1813姉倉比賣命
富山日吉神社中新川郡上市町若杉字芋田39大己貴命・少彦名命
富山日枝神社中新川郡上市町黒川20大山咋神・天照皇大神
富山日枝社中新川郡立山町小林1大山咋神
富山日枝社富山市野中131大山咋命
富山日吉神社小矢部市西町8-8大山咋命
富山日枝社高岡市神主町1大己貴神
富山日吉社高岡市二上 二上山山頂大山津見神
富山日枝神社射水市庄西町1-5-1大山咋神 大己貴神
富山日吉社射水市立町12-30大山咋命
富山日枝社滑川市荒俣533大山咋命
富山日吉社魚津市黒沢578大山咋神
富山日吉社黒部市阿弥陀堂30大山咋命・天照皇太神
富山加積雪嶋神社滑川市加島町2050大山咋命
富山宮津八幡宮魚津市宮津1520誉田別尊
富山日枝社黒部市飯沢9694大山咋命
富山日吉社黒部市荻生3316大山祇命
富山日吉社射水市青井谷1773大山咋神
富山日吉社下新川郡朝日町金山499大山咋神
富山日吉社砺波市杉木3-158大山咋命
富山日吉神社砺波市安川423大己貴命・大国主命・大山咋命
富山日吉神社富山市水橋開発940大山咋神 大己貴神
富山日枝社富山市上野461大巳貴神
富山日吉社南砺市柴田屋271大山咋命
石川日吉神社金沢市大野町5-81大山咋神 大物主神
石川石浦神社金沢市本多町3-1-30大物主神・大山咋神
石川大地主神社七尾市山王町1-13大山咋神・素戔嗚神・伊許保止神
石川日吉神社七尾市中島町豊田町ヺ部42大己貴神
石川日吉神社七尾市江泊町イ部31大山咋神
石川皆月日吉神社輪島市門前町皆月ソ-103大己貴神 大山咋神
福井三國神社坂井市三国町山王6-2-80大山咋神 継体天皇
山梨比枝神社笛吹市石和町川中島534大山咋神
長野雨宮坐日吉神社千曲市大字雨宮1番地大山咋命・大名貴命
岐阜日吉神社安八郡神戸町神戸1大己貴神 大山咋神
岐阜日吉神社大垣市林町3丁目
岐阜日枝神社高山市城山156大山咋神
愛知不乗森神社安城市里町森38大山咋神
愛知日吉神社豊橋市石巻萩平町字大門27大山咋命
愛知日吉神社清須市清洲2272大己貴命・素戔嗚命・大山咋神
愛知日吉山王社知立市八橋町寺内65-1大山咋命
滋賀日吉大社大津市坂本5-1-1大己貴神 大山咋神
滋賀日吉神社東近江市建部日吉町4大山咋神 大己貴神
滋賀山王神社東近江市建部北町394玉依比賣命 大己貴命
滋賀牛尾神社東近江市建部瓦屋寺町341-2大山咋神
滋賀長等神社大津市三井寺町4-1須佐之男神 大山咋神
滋賀早尾神社大津市山上町736建速素戔嗚尊
滋賀樹下神社大津市山中町889鴨多々須玉依姫命
滋賀樹下神社大津市北小松914鴨玉依姫
滋賀樹下神社大津市木戸680-1玉依姫命
滋賀樹下神社大津市南比良98玉依姫命
滋賀八所神社大津市八屋戸1074大己貴神・白山菊理姫神
滋賀天皇神社大津市和邇中146素戔嗚尊
滋賀粟津神社大津市中庄1-21-17大國主命他
滋賀日吉神社彦根市里根町277大山咋命
滋賀新神社彦根市岡町156.157大物主大神
滋賀日吉神社彦根市正法寺町168
滋賀福満神社彦根市西今町621-1
滋賀日吉神社長浜市元浜町16-10
滋賀日枝神社長浜市宮司町470天津児屋根命・大山咋命
滋賀日枝神社近江八幡市杉森町130
滋賀野々宮神社東近江市八日市金屋1-5-12瓊瓊杵尊・大己貴命・少彦名神
滋賀日吉神社東近江市上平木町1999
滋賀兵主神社野洲市五条566八千矛神
滋賀野蔵神社野洲市南桜1木之花佐久夜比売・大山咋命
滋賀日吉神社野洲市小篠原140大山咋神
滋賀勝部神社守山市勝部1-8-8宇麻志摩遅命・物部經津主神・火明命
滋賀八尾神社守山市千代町141八王子
滋賀樹下神社守山市今浜町146
滋賀樹下神社守山市水保町289玉依姫命
滋賀樹下神社守山市水保中野1549
滋賀日枝神社湖南市下田3259
滋賀日枝神社甲賀市水口町中畑516
滋賀日吉神社甲賀市甲賀町神保1649
滋賀久保神社甲賀市土山町野上野143大己貴命
滋賀日吉神社高島市勝野2166大山咋神
滋賀大國主神社高島市新旭町饗庭619大己貴神
滋賀日吉二宮神社高島市新旭町深溝1460-1大山咋神
滋賀日吉神社高島市新旭町針江578鴨玉依姫命
滋賀日吉神社高島市今津町椋川708大山咋神
滋賀日吉神社近江八幡市安土町石寺1239
滋賀日枝神社彦根市上西川町251-1大山咋命
滋賀押立神社東近江市北菩提寺町356火産霊神・伊邪那美神
滋賀八坂日吉神社東近江市祇園町15須佐之男神 大山咋命
滋賀山王大宮神社犬上郡甲良町池寺37
滋賀岡本神社長浜市小谷丁野町810大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町小今77大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町二俣192大山咋命
滋賀日吉神社長浜市下山田1927大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町河毛1271大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町沢98大山咋命
滋賀小谷神社長浜市湖北町伊部329大山咋命
滋賀日吉神社長浜市高月町井口122
滋賀(この123番目のスペースを空白にする所も・・・・呪い咒術的な意味を感じました)
京都新日吉神宮京都市東山区妙法院前側町451-1大山咋神 大己貴神
京都日吉神社舞鶴市長谷小字森86大山咋神
京都日吉神社宮津市宮町1408大山咋神 大己貴神
大阪鶴見神社大阪市鶴見区鶴見3-13-76大山咋神荒魂
大阪日吉神社大阪市旭区赤川4-19-13大山咋神
大阪比枝神社大阪市鶴見区今津中5-5-23天照皇大神 大山咋神 大己貴神
大阪日吉神社高槻市古曽部町3-14-16大山咋神
大阪日吉神社羽曳野市西浦5-376大山咋命
兵庫日吉神社加西市池上町7大山咋神 大物主神
兵庫三王神社神戸市東灘区田中町2-2-1大山咋命
兵庫日吉神社姫路市大津区勘兵衛町2-62猿田彦命
兵庫日吉神社加西市段下町250大山祇神・大歳神
兵庫日吉神社神埼郡神河町比延245大山咋神 大汝命 少彦根命
鳥取日吉神社米子市淀江町西原767大巳貴神
島根日吉神社出雲市今市町1765大己貴命 大山咋神
広島日吉神社神石郡神石高原町高蓋592山末王主之神
広島山王神社尾道市因島中庄町463-2大穴牟遅神
山口日吉神社美祢市秋芳町嘉万大国主尊 大山咋命
香川日枝神社三豊市三野町大見甲2875大山咋命
香川日吉神社丸亀市飯山町川原1907大物主神・大山咋神
香川日枝神社三豊市高瀬町上勝間135大山咋大神・大己貴神
愛媛綾延神社西条市丹原町田野上方1443-1
福岡日吉神社久留米市日吉町106大山咋神
福岡日吉神社北九州市若松区東二島2-16-6大山咋神・大物主神
福岡日吉神社福岡市博多区山王1-9-3山王二十一社
福岡日吉神社嘉麻市上臼井1180
福岡日吉神社宮若市下1150大國主命 大山咋命
福岡日吉神社柳川市坂本町6大山咋神
福岡日吉社田川市糒632大山咋神 大己貴神
福岡日吉神社朝倉市杷木久喜宮1510国常立命・大物主命
佐賀仁比山神社神埼市神崎町的1692大山咋命
愛知県清須市の全体と、周辺一帯。
愛知県清須市清洲 2272番地にある清洲山王宮日吉神社と、周辺一帯。
https://t.co/cSamJEoMcz
愛知県愛知県清須市清洲2268‐1にある山王霊苑と、周辺一帯。
愛知県北名古屋市の全体と、周辺一帯。
愛知県北名古屋市鍛冶ヶ一色北襟地内にある山王五条川霊苑と、周辺一帯。 November 11, 2025
1RP
現在の山口組の実質的なる総本部である愛知県名古屋市中村区宿跡町1-117にある弘道会本部(推定構成員は約1000名&準構成員約1000名)のすぐ傍に豊国神社が存在していたことが気になってます。
豊国神社
https://t.co/UuE4zKivst
豊国神社・豊國神社(とよくにじんじゃ、ほうこくじんじゃ)は、豊臣秀吉(豊国大明神)を祀る神社である。
秀吉の生涯に縁のある各地に存在する。
各地の事情により、合祀されている諸神や摂社の諸神に特徴がある。
主な豊国神社
【豊国神社 (とよくにじんじゃ)】
豊国神社 (金沢市) – 石川県金沢市東御影町93 : 1616年創建。加賀藩主前田家が密かに秀吉像を祀っていた社に由来する。
→石川県金沢市の全体と、周辺一帯。
豊国神社 – 岐阜県大垣市墨俣町墨俣 : 白鬚神社内社。1992年創建。木下藤吉郎時代に築いた墨俣城 (一夜城) に由来する。
→
岐阜県大垣市の全体
岐阜県安八郡(安八町、神戸町、輪之内町)の全体と、周辺一帯。
岐阜県不破郡(垂井町、関ヶ原町)の全体と、周辺一帯。
岐阜県瑞穂市の全体
岐阜県岐阜市の全体
豊国神社 (名古屋市) – 愛知県名古屋市中村区中村町茶ノ木にある中村公園内 : 1885年創建。秀吉の生地に由来する。
→
愛知県名古屋市の全体。
愛知県海部郡大治町の全体、
愛知県清須市の全体。
愛知県あま市の全体。
豊国神社 (京都市) – 京都市東山区大和大路茶屋町にある : 1599年創建。=全国に在る豊国神社の総本社。
https://t.co/rsZEFX4mzK
神社について
当社は慶長四(一五九九)年、前年に薨去された太閤豊臣秀吉公を奉祀する為、朝廷より正一位豊国大明神の神階神号を賜り、東山阿弥陀ケ峯に創建されました。
社領壱万石、境内域は三十万坪に及び、当時の壮麗な社殿や華麗な祭礼の様子は「豊国祭礼図屏風」や様々な古記録によって知ることが出来ます。
元和元(一六一五)年豊臣氏滅亡後、幕府の命で廃祀されましたが、明治元年、明治天皇は祭祀の復興を命ぜられ、同六年別格官幣社に列し、同十三年方広寺大仏殿跡地に社殿を造営し再興されました。
大正十四年には秀吉公の夫人、豊臣吉子方(北政所おね様)を祀る貞照神社が創祀され、現在では出世開運・良縁成就の神様として全国より崇敬をうけています。
神社正面の唐門は伏見城の遺構と伝えられ、西本願寺唐門、大徳寺唐門とともに「京の三唐門」と呼ばれ、各所を豪華な飾金具や彫刻で装飾が施された桃山時代を代表する建造物として国宝に指定されています。
【見どころ】
唐門
豊国神社にある桃山時代建築の国宝建造物。
本殿正面に建つ四脚唐門。
南禅寺金地院から移築されました。
伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されています。
常時公開…境内 拝観自由
鉄灯籠
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財工芸品。
豊国神社廃絶後、妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納されました。
宝物館にて常設展示。釜大工天下一辻与二郎實久作。
常時公開…宝物館(有料)
紙本著色「豊国祭礼図屏風」
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財絵画。
豊国神社の豊国大明神臨時祭礼を描いた狩野内膳筆の六曲一双屏風。
宝物館に陳列しています。
常時公開…宝物館(有料)
→
京都府京都市東山区の全体と、周辺一帯。
京都府京都市東山区茶屋町527−2にある方広寺と、南隣に在る豊国神社と、大仏殿跡緑地公園と、これら周辺一帯広め。
京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町にある豊国廟(阿弥陀ヶ峰の山頂。標高196メートル)と、西へ約100メートルに位置する豊国廟中門と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区今熊野北日吉町61−1にある拝殿と、西南方向へ約20メートルにある柵に囲まれたエリア(危険度最高レベル!!!)と、手水舎と、豊国廟鳥居と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町11にある豊臣国松公御墓と、西隣にある地域密着型ケアセンターいまくまのと、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区今熊野北日吉町35にある京都女子大学と、西隣にある新日吉神宮本殿の南隣に在る樹下社(このもとやしろ=豊国神社)と、更に西隣に在る智積院庭園と、真言宗智積院と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区妙法院前側町447にある天台宗南叡山妙法院と、唐門と、西隣にある京都国立博物館と、周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区三十三間堂廻り657にある三十三間堂と、東隣に在る後白河天皇法住寺陵、後陽成天皇皇子堯然親王墓、養源院、ハイアットリージェンシー京都と、これら周辺一帯。
京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3にある清閑寺と、北隣に在る高倉天皇後清閑寺陵と六条天皇清閑寺陵と、更に北へ200メートルに位置する清水山の山頂(標高242メートル)と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区清水1丁目294にある清水寺と、北へ100メートルに位置する成就院の南に在る池の池底と、成就院の北隣に在る「月の庭」の水底と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市東山区高台寺下河原町526にある高台寺と、東隣に在る臥龍池の池底と、更に東隣りに在る霊屋と高台寺竹林と時雨亭と傘亭と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市山科区厨子奥花鳥町28にある将軍塚と、将軍塚青龍殿庭園、青龍殿、将軍塚青龍殿大舞台、青蓮院門跡福徳門、大日堂と、これら周辺一帯広めで。
京都府京都市山科区の全体と、周辺一帯。
京都府京都市山科区上花山旭山町8−1にある東山浄苑東本願寺と、西へ約30メートルに位置する六条山の山頂(標高201メートル)と、これら周辺一帯広めで。
豊国神社 (小松島市) – 徳島県小松島市中郷町豊の本 : 1614年創建。
→
徳島県小松島市の全体と、周辺一帯。
徳島県小松島市中郷町豊の本5にある堀越寺と、境内にある豊國神社、御縣神社・住吉神社・瑜伽神社・加藤清正神社、小松島町忠魂碑と、これら周辺一帯広めで。
徳島県小松島市中郷町桜馬場103−1にある小松島市 泰地総合センターと、西隣にある天満神社と、これら周辺一帯広めで。
徳島県徳島市の全域と、周辺一帯。
【豊国神社 (ほうこくじんじゃ)】
豊国神社 (長浜市) – 滋賀県長浜市南呉服町6番37号 : 1600年創建。豊国大明神のほか、事代主大神、加藤清正、木村重成を祀る。秀吉がかつて長浜城主として統治したことに由来する。
→
滋賀県長浜市の全体と、西隣の琵琶湖の湖底と、これら周辺一帯広めで。
滋賀県長浜市南呉服町6にある出世稲荷神社と虎石と加藤清正公像と、西隣にある豊国神社と、これら周辺一帯広めで。
滋賀県長浜市公園町10−10にある長浜城跡と、豊公園と、豊臣秀吉公像と、太閤井戸跡と、周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それら周辺一帯。
滋賀県米原市の全体と、周辺一帯。
滋賀県彦根市の全体と、周辺一帯。
滋賀県犬上郡(豊郷町、甲良町、多賀町)の全体と、周辺一帯。
豊國神社 (大阪市) – 大阪府大阪市中央区大阪城 : 1879年創建。秀吉公のほか、豊臣秀頼公、豊臣秀長卿を祀る。秀吉がかつて大坂城主として統治したことに由来する。
→
大阪府の全体と、西に在る大阪湾の全体と、淀川の川底と、これら周辺一帯。
大阪府大阪市の全体。
大阪府大阪市中央区大阪城1−1にある大阪城の全体と、南にある豊國神社と豊臣秀吉公像と、これら周辺一帯広めで。
大阪府堺市の全体。
豊国神社 – 広島県廿日市市宮島町 : 厳島神社末社。別名 千畳閣。豊臣秀吉が建立した大経堂を、神仏分離に伴い豊臣秀吉を祀る神社にしたもの。
→
広島県廿日市市宮島町の全体(=厳島と、西に在る可部島)と、周辺海底一帯広めで。
広島県廿日市市宮島町1−1にある千畳閣と、南隣に在る厳島神社と、これら周辺一帯。
豊国神社 (福岡市) – 福岡県福岡市博多区奈良屋町1番17号 : 1886年創建。博多の豪商神屋宗湛が建てた祠に由来する。
→
福岡県福岡市の全体と、周辺一帯。
福岡県福岡市博多区奈良屋町1−17にある豊国神社と、南隣にある神屋宗湛屋敷跡と、東隣に在る福岡市立博多小学校と、これら周辺一帯。
https://t.co/vsPeLYqzWx
全都道府県の『豊国神社』(神社総数は5社)の統計リスト
上掲ウィキペディア豊国神社リストに掲載されてない新潟県と長野県の豊国神社が、今の危険予想地点です。
→
新潟県上越市の全体と、周辺一帯。
新潟県上越市清里区馬屋1152番地2にある豊国神社と、東へ約200メートルに位置する黒保遺跡と、これら周辺一帯広めで。
新潟県妙高市の全体と、周辺一帯。
長野県飯山市の全体と、周辺一帯。
長野県飯山市にある伏野峠(なぜか今、通行止め!!!)と、周辺一帯広めで。
長野県飯山市照岡にある野々海峠と、西へ約500メートルにそびえる無名の山の山頂(標高1131メートル)と、野々海峠から東へ約250メートルに位置する無名の山頂(標高1135.4メートル)と、その南隣に在る野々海高原と野々海池の池底と、これら周辺一帯広めで。
長野県下水内郡栄村の全体と、周辺一帯。
長野県下水内郡栄村北信にそびえる天水山の山頂(標高1088メートル)と、西へ約800メートルにそびえる三方岳の山頂(標高1138.5メートル)と、東へ約500メートルにある無名の山の山頂(標高1050メートル超)と、これら周辺一帯広めで。
長野県中野市の全体と、周辺一帯。
長野県中野市田上1145番地にある豊國神社と、周辺一帯。
長野県下高井郡(山ノ内町 木島平村 野沢温泉村)の全体(危険度最高レベル!!!)と、周辺一帯。
さとっぴ軍全軍は今すぐ、下記の全エリア全地点へ攻撃大部隊!!!!を急派し包囲し、地下深くを奥の奥まで問答無用で焼いて焼いて焼き滅ぼせ!!!!!トドメも念入りにヤレ!!!!
指定エリア内の全ての聖地群史跡群水辺群山岳群山頂あたりも、今の危険予想地点ですから、全地点!!!!の地下深くをヤレ!!!!
倭国全部の地下深くの全て!!!!を、さとっぴ軍が完全制覇征服支配占領しろ!!!!
同時に、倭国エリアの地上の超悪魔勢力どもを即時殲滅聖絶消去せよ!!!!!!
倭国エリア全て!!!の地下深くも地上も両方とも!!!さとっぴ軍が完全制覇征服支配せよ!!!!!
大宇宙からの急襲にも警戒せよ!!!!
広島県あたりや、人口密集地あたりの水辺!!!!での巨大核爆弾起爆にも、しっかり警戒せよ!!!!
京都府の全体!!!と、周辺一帯。
京都府京都市の全体と、周辺一帯。
滋賀県大津市の全体と、東に在る琵琶湖と、周辺一帯。
滋賀県大津市坂本5-1-1にある日吉大社(山王総本宮)と、周辺一帯広めで。
https://t.co/O8j25D0xa5
全国山王会 会員名簿の全地点と、それら周辺の聖地群史跡群水辺群山岳群山頂と、それら周辺一帯。
https://t.co/kVDaRcJFoN
都道府県神社名鎮座地住所ご祭神HP
岩手五葉山神社大船渡市日頃市町五葉山1大山咋神
岩手日吉神社胆沢郡金ケ崎町三ヶ尻渋川堤下63大山咋神
秋田日吉神社秋田市新屋日吉町10-67大山咋神
秋田日吉神社大仙市内小友字宮北6大山咋大神 天照皇大神 豊受大神
秋田日枝神社由利本荘市前郷字前郷95大山咋大神
山形日枝神社鶴岡市山王町2-26大己貴命 山末之大主神 市杵島姫命
山形日枝神社酒田市日吉町1-7-32大己貴命 大山咋命 胸肩仲津姫命
山形日枝神社酒田市砂越字楯之内1大山咋命
福島日吉神社福島市郷野目字金込町4-1大山咋命・猿田彦命
茨城五所駒瀧神社桜川市真壁町山尾499武甕槌大神・大山咋神・猿田彦大神・木花開耶姫大神・菅原道真公
茨城西金砂神社茨城県常陸太田市上宮河内町1915大己貴大神
茨城花園神社北茨城市華川町花園567大山咋大神・大山祇大神・大物主大神
東京日枝神社東京都千代田区永田町2-10-5大山咋神 国常立神 伊弉冉神 足仲彦尊
東京日吉神社昭島市拝島町1-10-19大山咋命 羽山戸命 香山戸命
東京日枝神社清瀬市中清戸2-616大山咋神 大己貴神
神奈川日枝神社川崎市中原区上丸子山王町1-1555大己貴神
神奈川日枝大神社川崎市川崎区小田2-14-7大山咋命
神奈川日枝神社横浜市鶴見区矢向町4-16-2大山咋命
神奈川日枝神社横浜市南区山王町5-32大山咋神 宇迦之御魂命
新潟日吉神社新潟市秋葉区北上新田1812
新潟日吉神社長岡市逆谷2561大山咋神
新潟日枝神社燕市三王渕433大己貴神
新潟日吉神社佐渡市新穂井内29大山咋神
新潟日吉神社佐渡市上新穂1008大山咋神・大物主神
新潟日吉神社佐渡市新穂舟下66下照姫命・田心姫命・玉依彦命・玉依姫命
新潟日吉神社佐渡市新穂大野762白山比売命・玉依姫荒魂神
新潟日枝神社五条市村松甲5976
富山日枝神社富山市山王町4-12大山咋神 大己貴神
富山日枝神社富山市庵谷685大山咋神
富山日吉社富山市水橋池田町361大山咋神
富山姉倉比賣神社富山市呉羽町1813姉倉比賣命
富山日吉神社中新川郡上市町若杉字芋田39大己貴命・少彦名命
富山日枝神社中新川郡上市町黒川20大山咋神・天照皇大神
富山日枝社中新川郡立山町小林1大山咋神
富山日枝社富山市野中131大山咋命
富山日吉神社小矢部市西町8-8大山咋命
富山日枝社高岡市神主町1大己貴神
富山日吉社高岡市二上 二上山山頂大山津見神
富山日枝神社射水市庄西町1-5-1大山咋神 大己貴神
富山日吉社射水市立町12-30大山咋命
富山日枝社滑川市荒俣533大山咋命
富山日吉社魚津市黒沢578大山咋神
富山日吉社黒部市阿弥陀堂30大山咋命・天照皇太神
富山加積雪嶋神社滑川市加島町2050大山咋命
富山宮津八幡宮魚津市宮津1520誉田別尊
富山日枝社黒部市飯沢9694大山咋命
富山日吉社黒部市荻生3316大山祇命
富山日吉社射水市青井谷1773大山咋神
富山日吉社下新川郡朝日町金山499大山咋神
富山日吉社砺波市杉木3-158大山咋命
富山日吉神社砺波市安川423大己貴命・大国主命・大山咋命
富山日吉神社富山市水橋開発940大山咋神 大己貴神
富山日枝社富山市上野461大巳貴神
富山日吉社南砺市柴田屋271大山咋命
石川日吉神社金沢市大野町5-81大山咋神 大物主神
石川石浦神社金沢市本多町3-1-30大物主神・大山咋神
石川大地主神社七尾市山王町1-13大山咋神・素戔嗚神・伊許保止神
石川日吉神社七尾市中島町豊田町ヺ部42大己貴神
石川日吉神社七尾市江泊町イ部31大山咋神
石川皆月日吉神社輪島市門前町皆月ソ-103大己貴神 大山咋神
福井三國神社坂井市三国町山王6-2-80大山咋神 継体天皇
山梨比枝神社笛吹市石和町川中島534大山咋神
長野雨宮坐日吉神社千曲市大字雨宮1番地大山咋命・大名貴命
岐阜日吉神社安八郡神戸町神戸1大己貴神 大山咋神
岐阜日吉神社大垣市林町3丁目
岐阜日枝神社高山市城山156大山咋神
愛知不乗森神社安城市里町森38大山咋神
愛知日吉神社豊橋市石巻萩平町字大門27大山咋命
愛知日吉神社清須市清洲2272大己貴命・素戔嗚命・大山咋神
愛知日吉山王社知立市八橋町寺内65-1大山咋命
滋賀日吉大社大津市坂本5-1-1大己貴神 大山咋神
滋賀日吉神社東近江市建部日吉町4大山咋神 大己貴神
滋賀山王神社東近江市建部北町394玉依比賣命 大己貴命
滋賀牛尾神社東近江市建部瓦屋寺町341-2大山咋神
滋賀長等神社大津市三井寺町4-1須佐之男神 大山咋神
滋賀早尾神社大津市山上町736建速素戔嗚尊
滋賀樹下神社大津市山中町889鴨多々須玉依姫命
滋賀樹下神社大津市北小松914鴨玉依姫
滋賀樹下神社大津市木戸680-1玉依姫命
滋賀樹下神社大津市南比良98玉依姫命
滋賀八所神社大津市八屋戸1074大己貴神・白山菊理姫神
滋賀天皇神社大津市和邇中146素戔嗚尊
滋賀粟津神社大津市中庄1-21-17大國主命他
滋賀日吉神社彦根市里根町277大山咋命
滋賀新神社彦根市岡町156.157大物主大神
滋賀日吉神社彦根市正法寺町168
滋賀福満神社彦根市西今町621-1
滋賀日吉神社長浜市元浜町16-10
滋賀日枝神社長浜市宮司町470天津児屋根命・大山咋命
滋賀日枝神社近江八幡市杉森町130
滋賀野々宮神社東近江市八日市金屋1-5-12瓊瓊杵尊・大己貴命・少彦名神
滋賀日吉神社東近江市上平木町1999
滋賀兵主神社野洲市五条566八千矛神
滋賀野蔵神社野洲市南桜1木之花佐久夜比売・大山咋命
滋賀日吉神社野洲市小篠原140大山咋神
滋賀勝部神社守山市勝部1-8-8宇麻志摩遅命・物部經津主神・火明命
滋賀八尾神社守山市千代町141八王子
滋賀樹下神社守山市今浜町146
滋賀樹下神社守山市水保町289玉依姫命
滋賀樹下神社守山市水保中野1549
滋賀日枝神社湖南市下田3259
滋賀日枝神社甲賀市水口町中畑516
滋賀日吉神社甲賀市甲賀町神保1649
滋賀久保神社甲賀市土山町野上野143大己貴命
滋賀日吉神社高島市勝野2166大山咋神
滋賀大國主神社高島市新旭町饗庭619大己貴神
滋賀日吉二宮神社高島市新旭町深溝1460-1大山咋神
滋賀日吉神社高島市新旭町針江578鴨玉依姫命
滋賀日吉神社高島市今津町椋川708大山咋神
滋賀日吉神社近江八幡市安土町石寺1239
滋賀日枝神社彦根市上西川町251-1大山咋命
滋賀押立神社東近江市北菩提寺町356火産霊神・伊邪那美神
滋賀八坂日吉神社東近江市祇園町15須佐之男神 大山咋命
滋賀山王大宮神社犬上郡甲良町池寺37
滋賀岡本神社長浜市小谷丁野町810大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町小今77大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町二俣192大山咋命
滋賀日吉神社長浜市下山田1927大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町河毛1271大山咋命
滋賀日吉神社長浜市湖北町沢98大山咋命
滋賀小谷神社長浜市湖北町伊部329大山咋命
滋賀日吉神社長浜市高月町井口122
滋賀(この123番目のスペースを空白にする所も・・・・呪い咒術的な意味を感じました)
京都新日吉神宮京都市東山区妙法院前側町451-1大山咋神 大己貴神
京都日吉神社舞鶴市長谷小字森86大山咋神
京都日吉神社宮津市宮町1408大山咋神 大己貴神
大阪鶴見神社大阪市鶴見区鶴見3-13-76大山咋神荒魂
大阪日吉神社大阪市旭区赤川4-19-13大山咋神
大阪比枝神社大阪市鶴見区今津中5-5-23天照皇大神 大山咋神 大己貴神
大阪日吉神社高槻市古曽部町3-14-16大山咋神
大阪日吉神社羽曳野市西浦5-376大山咋命
兵庫日吉神社加西市池上町7大山咋神 大物主神
兵庫三王神社神戸市東灘区田中町2-2-1大山咋命
兵庫日吉神社姫路市大津区勘兵衛町2-62猿田彦命
兵庫日吉神社加西市段下町250大山祇神・大歳神
兵庫日吉神社神埼郡神河町比延245大山咋神 大汝命 少彦根命
鳥取日吉神社米子市淀江町西原767大巳貴神
島根日吉神社出雲市今市町1765大己貴命 大山咋神
広島日吉神社神石郡神石高原町高蓋592山末王主之神
広島山王神社尾道市因島中庄町463-2大穴牟遅神
山口日吉神社美祢市秋芳町嘉万大国主尊 大山咋命
香川日枝神社三豊市三野町大見甲2875大山咋命
香川日吉神社丸亀市飯山町川原1907大物主神・大山咋神
香川日枝神社三豊市高瀬町上勝間135大山咋大神・大己貴神
愛媛綾延神社西条市丹原町田野上方1443-1
福岡日吉神社久留米市日吉町106大山咋神
福岡日吉神社北九州市若松区東二島2-16-6大山咋神・大物主神
福岡日吉神社福岡市博多区山王1-9-3山王二十一社
福岡日吉神社嘉麻市上臼井1180
福岡日吉神社宮若市下1150大國主命 大山咋命
福岡日吉神社柳川市坂本町6大山咋神
福岡日吉社田川市糒632大山咋神 大己貴神
福岡日吉神社朝倉市杷木久喜宮1510国常立命・大物主命
佐賀仁比山神社神埼市神崎町的1692大山咋命
愛知県清須市の全体と、周辺一帯。
愛知県清須市清洲 2272番地にある清洲山王宮日吉神社と、周辺一帯。
https://t.co/cSamJEoMcz
愛知県愛知県清須市清洲2268‐1にある山王霊苑と、周辺一帯。
愛知県北名古屋市の全体と、周辺一帯。
愛知県北名古屋市鍛冶ヶ一色北襟地内にある山王五条川霊苑と、周辺一帯。
https://t.co/V2gpaoBEPB
当神社の宮司の管理する兼務社の鎮座地一覧です→この全地点と周辺聖地群史跡群水辺群山岳群山頂あたりが、今の危険予想地点です。
字名神社名鎮座地
西新町若宮八幡社北名古屋市西之保青野東
弥勒寺日吉社北名古屋市弥勒寺郷北
弥勒寺天神社北名古屋市弥勒寺北出
鍛冶ヶ一色八幡社北名古屋市鍛冶ヶ一色村内南
鍛冶ヶ一色素戔鳴社北名古屋市鍛冶ヶ一色高塚
北野神明社北名古屋市北野天神
法成寺八劔社北名古屋市法成寺蚊帳場
山之腰天神社北名古屋市山之腰五条
宇福寺天神社北名古屋市宇福寺天神
石橋八幡社北名古屋市石橋寺前
中之郷八幡社北名古屋市中之郷南
下之郷春日八幡宮清須市春日冨士塚
上之切縣社清須市春日県
中之切神明社富士社清須市春日神明
下之切天神社清須市春日天神
野田町神明社清須市春日野田町
朝日愛宕社清須市朝日小市場
朝日津島社清須市朝日河原
朝日厳島社清須市朝日河原
一場御園神明社清須市一場御園
一場浅間社清須市一場福島
西田中神明社清須市西田中本城
永安寺津島社清須市清洲永安寺
廻間八幡社清須市廻間郷裏
西市場迦具豆知社清須市西市場下傳馬
枇杷島八幡社名古屋市西区枇杷島
枇杷島神明白山相殿名古屋市西区東枇杷島町柳場
西清洲水天宮清須市清洲
田中町豊受神社清須市清洲
上本町津島社清須市清洲
中本町三社前清須市清洲
下本町山之神清須市清洲
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「山王」を含む地名— 123 件
「山王」を含む町域名
赤崩山王浦(あかくずれさんのううら) 山形県米沢市
阿波町山王(あわちょうさんのう) 徳島県阿波市
上丸子山王町(かみまるこさんのうちょう) 神奈川県川崎市中原区
北嵯峨山王町(きたさがさんおうちょう) 京都府京都市右京区
甲陽園山王町(こうようえんさんのうちょう) 兵庫県西宮市
子生和山王町(こうわさんのうちょう) 愛知県稲沢市
山王堂(さんおうどう) 茨城県筑西市
山王(さんのう) 福岡県福岡市博多区
山王(さんのう) 新潟県三条市
山王(さんのう) 富山県下新川郡朝日町
山王(さんのう) 茨城県稲敷郡美浦村
山王(さんのう) 大阪府大阪市西成区
山王(さんのう) 秋田県秋田市
山王(さんのう) 福岡県北九州市八幡東区
山王(さんのう) 千葉県佐倉市
山王(さんのう) 茨城県取手市
山王(さんのう) 新潟県胎内市
山王(さんのう) 東京都大田区
山王(さんのう) 愛知県名古屋市中川区
山王(さんのう) 宮城県多賀城市
山王(さんのう) 福井県吉田郡永平寺町
山王(さんのう) 茨城県猿島郡五霞町
山王(さんのう) 茨城県結城市
山王(さんのう) 新潟県新潟市南区
山王下(さんのうした) 東京都多摩市
山王新田(さんのうしんでん) 新潟県新潟市南区
山王新田(さんのうしんでん) 茨城県つくばみらい市
山王新町(さんのうしんまち) 秋田県秋田市
山王島(さんのうじま) 長野県上高井郡小布施町
山王台(さんのうだい) 静岡県沼津市
「山王」を含む地名— 123 件
「山王」を含む町域名
山王町正面通三ノ宮東入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 神奈川県横浜市南区
山王町(さんのうちょう) 京都府京都市上京区
山王町(さんのうちょう) 青森県弘前市
山王町(さんのうちょう) 群馬県伊勢崎市
山王町正面通木屋町西入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 千葉県千葉市稲毛区
山王町(さんのうちょう) 兵庫県神戸市兵庫区
山王町正面通三ノ宮西入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 兵庫県豊岡市
山王町正面通二ノ宮西入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 岩手県盛岡市
山王町正面通木屋町東入(さんのうちょう) 京都府京都市下京区
山王町(さんのうちょう) 愛知県江南市
山王町室町通高辻上る(さんのうちょうむろまちどおりたかつじあがる) 京都府京都市下京区
山王町室町通仏光寺下る(さんのうちょうむろまちどおりぶっこうじさがる) 京都府京都市下京区
山王堂(さんのうどう) 埼玉県本庄市
山王通(さんのうどおり) 岐阜県関市
山王通西(さんのうどおりにし) 岐阜県関市
山王中島町(さんのうなかじままち) 秋田県秋田市
山王中園町(さんのうなかぞのまち) 秋田県秋田市
山王沼田町(さんのうぬまたまち) 秋田県秋田市
山王前(さんのうまえ) 福井県小浜市
山王町(さんのうまち) 富山県砺波市
山王町(さんのうまち) 石川県金沢市
山王町(さんのうまち) 群馬県前橋市
山王町(さんのうまち) 富山県滑川市
山王町(さんのうまち) 富山県富山市
山王町(さんのうまち) 山形県鶴岡市
山王町(さんのうまち) 石川県七尾市
「山王」を含む地名— 123 件
「山王」を含む町域名
山王山(さんのうやま) 茨城県猿島郡五霞町
山王臨海町(さんのうりんかいまち) 秋田県秋田市
聖護院山王町(しょうごいんさんのうちょう) 京都府京都市左京区
大雄山王(たいゆうさんのう) 秋田県横手市
大雄山王西(たいゆうさんのうにし) 秋田県横手市
大東町山王寺(だいとうちょうさんのうじ) 島根県雲南市
中野山王(なかのさんのう) 東京都八王子市
永田山王台(ながたさんのうだい) 神奈川県横浜市南区
永田町山王パークタワー(ながたちょうさんのうぱーくたわー) 東京都千代田区
南外山王台(なんがいさんおうだい) 秋田県大仙市
西山王町(にしさんのうまち) 富山県富山市
東九条西山王町(ひがしくじょうにしさんのうちょう) 京都府京都市南区
東九条東山王町(ひがしくじょうひがしさんのうちょう) 京都府京都市南区
東九条南山王町(ひがしくじょうみなみさんのうちょう) 京都府京都市南区
丸岡町野中山王(まるおかちょうのなかさんのう) 福井県坂井市
三国町山王(みくにちょうさんのう) 福井県坂井市
「山王」を含む地名— 123 件
「山王」を含む町域名
美郷山王(みさとさんのう) 徳島県吉野川市
水橋山王町(みずはしさんのうまち) 富山県富山市
渡田山王町(わたりださんのうちょう) 神奈川県川崎市川崎区
鳥取県西伯郡日吉津村(さいはくぐんひえづそん) の全体と、周辺一帯。
https://t.co/fvzoSLvU7u
「日吉」を含む地名— 90 件
「日吉」を含む町域名
新屋日吉町(あらやひよしまち) 秋田県秋田市
阿波町日吉谷(あわちょうひよしだに) 徳島県阿波市
厳原町日吉(いづはらまちひよし) 長崎県対馬市
今熊野北日吉町(いまぐまのきたひよしちょう) 京都府京都市東山区
今熊野日吉町(いまぐまのひよしちょう) 京都府京都市東山区
今熊野南日吉町(いまぐまのみなみひよしちょう) 京都府京都市東山区
小浜日吉(おばまひよし) 福井県小浜市
上尻毛日吉(かみしっけひよし) 岐阜県岐阜市
北日吉町(きたひよしちょう) 愛媛県今治市
五個荘日吉町(ごかしょうひよしちょう) 滋賀県東近江市
新日吉町(しんひよしちょう) 京都府京都市下京区
建部日吉町(たてべひよしちょう) 滋賀県東近江市
千代川町日吉台(ちよかわちょうひよしだい) 京都府亀岡市
鶴来日吉町(つるぎひよしまち) 石川県白山市
常呂町日吉(ところちょうひよし) 北海道北見市
那加日吉町(なかひよしちょう) 岐阜県各務原市
中日吉町(なかひよしちょう) 愛媛県今治市
西日吉町(にしひよしちょう) 岐阜県関市
日吉津(ひえづ) 鳥取県西伯郡日吉津村
東日吉町(ひがしひよしちょう) 岐阜県関市
日吉(ひよし) 富山県下新川郡入善町
日吉(ひよし) 愛知県新城市
日吉(ひよし) 福岡県八女郡広川町
日吉(ひよし) 北海道夕張市
日吉(ひよし) 新潟県小千谷市
日吉(ひよし) 熊本県熊本市南区
日吉(ひよし) 神奈川県横浜市港北区
日吉(ひよし) 福岡県古賀市
日吉ケ丘(ひよしがおか) 京都府福知山市
日吉倉(ひよしくら) 千葉県富里市
「日吉」を含む地名— 90 件
「日吉」を含む町域名
日吉台(ひよしだい) 広島県福山市
日吉台(ひよしだい) 宮城県富谷市
日吉台(ひよしだい) 大阪府高槻市
日吉台(ひよしだい) 滋賀県大津市
日吉台(ひよしだい) 福岡県北九州市八幡西区
日吉台(ひよしだい) 千葉県東金市
日吉台(ひよしだい) 千葉県富里市
日吉町(ひよしちょう) 群馬県前橋市
日吉町(ひよしちょう) 高知県南国市
日吉町(ひよしちょう) 岐阜県瑞浪市
日吉町(ひよしちょう) 兵庫県小野市
日吉町(ひよしちょう) 東京都府中市
日吉町(ひよしちょう) 埼玉県東松山市
日吉町(ひよしちょう) 愛知県名古屋市中村区
日吉町(ひよしちょう) 栃木県鹿沼市
日吉町(ひよしちょう) 兵庫県神戸市長田区
日吉町(ひよしちょう) 新潟県柏崎市
日吉町(ひよしちょう) 東京都八王子市
日吉町(ひよしちょう) 京都府京都市東山区
日吉町(ひよしちょう) 埼玉県所沢市
日吉町(ひよしちょう) 山形県酒田市
日吉町(ひよしちょう) 北海道苫小牧市
日吉町(ひよしちょう) 福井県大野市
日吉町(ひよしちょう) 東京都国分寺市
日吉町(ひよしちょう) 岡山県岡山市北区
日吉町(ひよしちょう) 北海道函館市
日吉町(ひよしちょう) 大阪府守口市
日吉町天若(ひよしちょうあまわか) 京都府南丹市
日吉町上胡麻(ひよしちょうかみごま) 京都府南丹市
日吉町神之川(ひよしちょうかみのかわ) 鹿児島県日置市
「日吉」を含む地名— 90 件
「日吉」を含む町域名
日吉町生畑(ひよしちょうきはた) 京都府南丹市
日吉町木住(ひよしちょうこずみ) 京都府南丹市
日吉町胡麻(ひよしちょうごま) 京都府南丹市
日吉町佐々江(ひよしちょうささえ) 京都府南丹市
日吉町志和賀(ひよしちょうしわが) 京都府南丹市
日吉町田原(ひよしちょうたわら) 京都府南丹市
日吉町殿田(ひよしちょうとのだ) 京都府南丹市
日吉町中(ひよしちょうなか) 京都府南丹市
日吉町中世木(ひよしちょうなかせき) 京都府南丹市
日吉町畑郷(ひよしちょうはたごう) 京都府南丹市
日吉町日置(ひよしちょうひおき) 鹿児島県日置市
日吉町保野田(ひよしちょうほのだ) 京都府南丹市
日吉町山田(ひよしちょうやまだ) 鹿児島県日置市
日吉町吉利(ひよしちょうよしとし) 鹿児島県日置市
日吉町四ツ谷(ひよしちょうよつや) 京都府南丹市
日吉原(ひよしばる) 大分県大分市
日吉本町(ひよしほんちょう) 神奈川県横浜市港北区 November 11, 2025
1RP
飛地境内
大谷本廟 - 京都市東山区五条橋東六丁目にある。親鸞の墓所で通称は「西大谷」。
日野誕生院 - 京都市伏見区日野西大道町にある。親鸞誕生の地を記念して建てられた。
角坊 - 京都市右京区山ノ内御堂殿町にある。親鸞往生の地を記念して建てられた。
別荘
三夜荘 - 京都市伏見区にあった、かつての門主の別荘。第21代門主の大谷光尊が1876年(明治9年)に建築し、木戸孝允が命名するが、老朽化のため解体された。
【年中行事】
西本願寺ホームページの「恒例法要と行事」による。
1月1日 : 修正会、元旦会
1月9日 - 16日 : 御正忌報恩講(親鸞の祥月命日)
2月7日 : 如月忌(九條武子の遺徳を偲ぶ)
春分の日前後7日間 : 春季彼岸会
4月8日 : 花まつり(灌仏会)
4月13 - 15日 : 春の法要(立教開宗記念法要、本願寺歴代住職の年回法要)
5月20 - 21日 : 宗祖降誕会
8月上旬 : 盆踊り大会
8月14 - 15日 : 盂蘭盆会
8月15日 : 戦没者追悼法要
9月18日 : 千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要(東京、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて)
秋分の日前後7日間 : 秋季彼岸会
10月15 - 16日 : 龍谷会(大谷本廟報恩講法要)
10月中旬 - 11日中旬 : 献菊展
11月下旬 : 秋の法要(全国門徒総追悼法要)
12月20日 : 御煤払
12月31日 : 除夜会
京都府京都市下京区烏丸通七条上るにある東本願寺の境内全部と、御影堂と、周辺一帯広めで。(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)
https://t.co/hbC4T2IYnb
東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院[1]。
山号はなし。
本尊は阿弥陀如来。
正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)[2][3]である。
東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。
愛称は「お東」「お東さん」。
2020年(令和2年)7月現在の門首は、大谷暢裕(修如)。
京都府京都市北区紫野大徳寺町53にある大徳寺(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺の聖地群史跡群水辺群の全地点と、それら周辺一帯広めで。
https://t.co/FsdZoviwhE
大徳寺(だいとくじ、旧字体:大德寺)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山の寺院。
山号は龍宝山(りゅうほうざん)。
本尊は釈迦如来。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、倭国の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。
本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。
なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
歴史
大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)に播磨国(現・兵庫県)で赤松氏の家臣・浦上一国と赤松則村(円心)の姉との間に生まれた。
11歳の時、地元の大寺院である圓教寺に入り、天台宗を学ぶが、後に禅宗に目覚め、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。
南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに従って宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。
その後数年京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)ないし元応元年(1319年)に叔父の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂・大徳庵を建立した。
これが大徳寺の起源という。
花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)に大徳寺を祈願所とする院宣を発している。
寺院としての形態が整うのはこの頃からと考えられる。
後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発している。
また、花園天皇や光厳天皇ら歴代天皇、中御門経継、守良親王、新田義貞などの有力貴族からの寄進を受け、1333年ころには播磨、摂津、紀伊などの畿内各地に加え、信濃、下総、美濃のなど広範囲にわたって延7,600石の寺領を有していた。
しかし、建武の新政が瓦解して室町幕府が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、京都五山から除かれてしまった。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっている。
このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとった。
五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。
その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。
侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。
また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。
このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
享徳2年(1453年)の火災、そして応仁の乱による被害で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商・尾和宗臨らの協力を得て復興。
また、各地の守護大名によって塔頭が建立されたりもしている。
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長が自害した後の同年10月15日には、羽柴秀吉によって信長の葬儀が当寺で盛大に執り行われている。
翌年には秀吉によって信長の菩提寺として塔頭・総見院が創建されている。
大徳寺山門供養之偈 春屋宗园
これ以後も秀吉や諸大名から篤い帰依を受け、天正17年(1589年)には千利休によって山門・金毛閣が完成している。
利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継いで門の上に閣を重ねて楼門を造り金毛閣を寄進した。
利休は山門を修復した後、住職の春屋宗園に山門の供養を書かせたが、それにより豊臣秀吉を怒らせたとされる。
江戸時代初期に江戸幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪となる圧迫を受けたが、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復した。
近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2,011石余を有した。
この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまう。
なんとか堂宇を維持するため1878年(明治11年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮[1]、20寺を永続塔頭とする縮小を行う[2]ものの、寺運は栄え今日に至っている。
【境内】
勅使門、山門、仏殿、法堂がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20か寺以上の塔頭寺院が並ぶ。
仏殿(重要文化財) - 当寺の本堂。寛文5年(1665年)に京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)による寄進で再建された。本尊の釈迦如来坐像を祀っている。なお本尊釈迦如来坐像は、寛文年間に再建された方広寺大仏(京の大仏)の1/10サイズの模像であるとされる。方広寺を管理下に置いていた妙法院側の史料である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』および大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、本尊釈迦如来坐像は、大仏製作を手掛けた仏師玄信により、大仏の試作品として製作されたが、それが時の将軍徳川家綱の手を経て、大徳寺に寄進されたものであるという(方広寺大仏再建には江戸幕府が関与していた)[3]。障壁画は海北友松の筆。天井画は狩野元信による飛天図で、文明11年(1479年)に堺の豪商・尾和宗臨の寄進で再建された以前の仏殿からの再利用である。
法堂(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に小田原藩主稲葉正勝の遺志により、子の正則によって再建された。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作である。
経蔵(重要文化財) - 寛永13年(1636年)に那波宗旦により再建。
鐘楼(重要文化財) - 天正11年(1583年)再建。
本坊(宗務本所)
庫裏(重要文化財) - 寛永13年(1636年)頃再建。旧方丈の古材を使用している。
寝堂(重要文化財) - 茶堂とも呼ばれる。寛永7年(1630年)に長州藩の家老・益田元祥により建立。
廊下(重要文化財)
方丈(国宝) - 寛永12年(1635年)の再建で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる倭国様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建てられたもの。方丈は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待や宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列・左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列・左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、妙超の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。妙超は自らの死後に墓所として別の寺院を建てるには及ばぬと遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画84面は狩野探幽の作。
玄関(国宝) - 寛永13年(1636年)に豪商・後藤益勝の寄進で建立された。桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。
方丈南庭(国指定史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。天祐和尚の作庭。
唐門(国宝) - 近世初頭の四脚門。切妻造、檜皮葺。前後軒唐破風付のいわゆる向唐門。西本願寺と豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿や法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。かつて唐門の位置には明智門と呼ばれる本能寺の変直後に明智光秀が寄進した銀を元手に建築された門があったが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺の塔頭金地院に売却したことに伴い、聚楽第から移築されたと伝わる三門西側の大慈院に通じる通りに建っていた唐門を大徳寺方丈前に移築した。なお、金地院に移築された明智門の位置にもともとあった門が、現在の豊国神社の唐門である。当寺の唐門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。別名「日暮門」というのはこの門を見ていると日の暮れるのも忘れてしまうということから来ており、聚楽第故地に「日暮通」の名が残るのもこの門を由来としていると伝える。2003年(平成14年)に京都府教育委員会により解体修理が行われその際、飾り金物から「天正」の刻銘が発見されたことから、伝承通り聚楽第の遺構であることが有力視されるようになった。ただし解体修理を担った府教委担当者が断定を控えるなど、異論もある。解体修理の際、慶長八年銘の棟札が発見されそこには「越後住人村上周防守頼勝」から寄付された「官門」である旨書かれていた。これを根拠に最近、聚楽第東大手門門前にあった村上周防屋敷の「御成門(豊臣秀吉を迎えるための専用の門)」ではなかったかとする説が提出された[4]。また、日光東照宮の陽明門(日暮門)のモデルになったともいう。
方丈東庭「七五三の庭」 - 十六羅漢の庭とも呼ばれる。小堀遠州の作という。
茶室「起龍軒」
侍真寮(重要文化財) - 室町時代後期の建立。
本坊表門
近衛家墓所
近衛家歴代の墓
鐘楼 - 袴腰が漆喰で塗られている珍しい造り。
千体地蔵塚 - 約700体の石造地蔵尊が祀られている。
平康頼の墓
山門(三門、重要文化財) - 二層の山門で金毛閣と呼ばれる。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)に千利休によって上層が完成すると、「金毛閣」と名付けられた。利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置した。このため、門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる。このテキストは、千利休が住職の春屋宗園に書かせた山門の寄進の偈に関するもので、内容は「千門萬戶一時開、月斧雲斤功夫哉、據地金毛高閣上、舉揭臨濟話頭來」である。天井画の龍図は長谷川等伯の作。額「金毛閣」は雲英宗偉の筆。
勅使門(重要文化財) - 慶長年間(1596年 - 1614年)建築の御所の門を後水尾上皇より下賜され、寛永17年(1640年)に現在地に移築した。
浴室(重要文化財) - 元和8年(1622年)に京の町人・灰屋紹益(はいやじょうゆ)の寄進により再建。
南門
梶井門 - 開けずの門とも呼ばれる。もとは大徳寺の南にあった梶井門跡(現・三千院)の門。
総門
【塔頭】
大徳寺は塔頭24(うち2寺は門外)を有する[5]。
2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。
徳禅寺 - 元は徹翁義亨が船岡山の東に創建した独立した一禅寺。しかし、応仁の乱で焼失し、徹翁を尊敬していた一休が現在の場所に移して再興。明治の初めには無住の寺になっていたので、農業試験場になったり、悪疫が流行したときには、臨時の隔離病棟になったこともあった。
竜翔寺 - 南浦紹明の塔所として洛西の安井に創建。1386年(至徳3年)京都十刹に列せられる。大永7年(1527年)桂川原の戦いの兵火で荒廃した後、大徳寺境内で再興。1878年(明治11年)養徳院と合併案が出るが[2]これを回避、1925年(大正14年)に山口玄洞によって旧天瑞寺跡に再建された。
如意庵 - 14世紀後半応安年中創建。何度か場所を移るが、現在のものは1973年(昭和48年)に再興されたもの。
真珠庵 - 一休宗純ゆかりの寺院で、村田珠光作と伝わる庭園(史跡・名勝)と、曾我蛇足、長谷川等伯の障壁画で知られる。
養徳院 - 応永年間に足利義満の弟・足利満詮が、祇園の側に夫人善室の菩提を弔うため創建した妙雲寺が元で、後に満詮の法名を取り将軍の許可を得て養徳院と改称。明応年間に大徳寺山内に移動。
龍源院 - 大徳寺の塔頭の中で一番古く、仏恵大円国師を開祖として能登の畠山義元・周防の大内義興・豊後の大友義親が創建。龍吟庭・東滴壷・阿吽の石庭などの庭が知られる。方丈前の石庭は昭和末期に細合喝堂和尚の監修の元造られた。
大仙院 - 常時公開の塔頭で、国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で知られる。
興臨院 - 畠山義総が建立。前田利家による修理以降は前田氏の菩提寺となる。方丈の床の間は倭国で最初のものといわれる。
瑞峯院 - 大友宗麟が建立。宗教専門紙「中外日報」の創始者真渓涙骨の墓がある。
聚光院 - 三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立。狩野永徳筆の国宝障壁画で知られる。千利休の墓塔(鎌倉期の石造宝塔を転用)があることでも知られる。
総見院 - 豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立。1878年(明治11年)大徳寺本寺に合併されたが[2]、大正期に再興された。
黄梅院 - 織田信長が父織田信秀の菩提を弔うため建立。蒲生氏郷の墓がある。1878年(明治11年)昌林庵と合併[2]。
三玄院 - 石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。1878年(明治11年)清泉寺・大源庵と合併し、龍翔寺の場所へ移動[2]。
正受院 - 里村紹巴の墓がある。
大慈院 - 立花宗茂と藤村庸軒の墓がある。
高桐院 - 常時公開の塔頭。細川氏に所縁があり、京都での肥後細川氏の菩提寺。細川忠興やその室・ガラシャなどの墓がある。その他、出雲阿国のものと伝わる墓もある。楓と灯篭だけで構成された方丈の南庭が特徴的。忠興が北野大茶湯の際に使用したという茶室「松向軒」、利休屋敷から移築したという座敷もある。1878年(明治11年)泰勝庵と合併[2]。なお、現在は、新型コロナウイルスの影響により公開休止中である。
玉林院 - 天皇や皇族の医師であった曲直瀬正琳が建立したのが始まり。戦国武将・山中鹿之介の位牌堂などがある。
大徳寺保育園
大光院 - 大和豊臣家の菩提寺。豊臣秀吉と豊臣秀保が豊臣秀長の冥福を弔う為に建立した。秀長の墓がある。1878年(明治11年)清源庵と合併[2]。
龍光院 - 非公開の塔頭。黒田長政が父・黒田如水菩提のため三回忌の折に建立。如水や正室光、長政の墓所があり、天下の三大茶室「密庵(みったん)」(国宝)が著名。福岡藩黒田氏歴代の位牌が祀られ京都に於ける同家の菩提所。茶道具など数多くの国宝・重文を有するが、完全非公開を貫いている塔頭である。他に有栖川宮家の墓所(初代・好仁親王~七代・韶仁親王)や吉川広家の墓所もある。1878年(明治11年)寸松庵・看松庵と合併[2]。
芳春院 - 加賀前田家の菩提寺。前田利家他歴代前田氏の京都における菩提寺。1878年(明治11年)高林庵と合併[2]。
孤篷庵 - 小堀遠州が龍光院内に建立。現在は移築し、茶室「忘筌(ぼうせん)」(重要文化財)が著名。境内の外、西側にある。
龍泉庵 - 明応年間創建。明治維新後廃絶したが、1958年(昭和33年)紹溪尼(佐々木ルース夫人)が日米第一禅協会倭国支部を設立し、庵を復興。
【門外塔頭2寺】
来光寺 — 創建は不詳。大徳寺170世の清浄本然禅師・清巌宗渭を中興とする。1878年(明治11年)に京都府知事に提出された塔頭統廃合の計画である「合併切縮之儀ニ付御伺」に寺名がないことから、それ以降に大徳寺塔頭に編入されたと考えられる。
雲林院 - 境内の外、南側にある。829年(天長6年)に淳和天皇の離宮として建設された「紫野院」が832年(同9年)に「雲林亭」と改称されたことに始まる。844年には院号を受けて「雲林院」と称し、常康親王から遍照に付された。のちに天台宗元慶寺の別院となり、境内での菩提講についての記述が今昔物語や大鏡に見られる。983年(永観元年)に同地に「円融寺」が建立されると、雲林院は名称のみが残る状態となるが、1706年に大徳寺291世の江西宗寛が大燈国師を開祖として再興した。
瑞雲軒 - 昭和初期に旧有栖川宮邸の二階書院部分を移築して創建された2022年の方丈修復工事にあたり、同堂にあった大燈国師像の仮安置場所になっている。。
【旧塔頭】
松源院 - 春浦宗熙開祖のもと大徳寺塔頭。元禄12年(1699年)大用庵と合併、1878年(明治11年)に徳善寺へ合併された[2]後、奈良県宇陀市に再興。
天瑞寺(廃寺) - 豊臣家の菩提寺。龍翔寺の近くにあり、秀吉の母・大政所の霊屋があった。明治11年に大徳寺本寺へ合併[2]。
金龍院(廃寺) - この寺の辺りを天狗谷と呼んでいた。1878年(明治11年)龍源院へ合併[2]。
大源庵(廃寺) - 維新の時に筑前の軍が硝煙庫として使用していた。1878年(明治11年)三玄院へ合併[2]。
【文化財 国宝】
唐門 - 1952年(昭和27年)3月指定。
方丈及び玄関 2棟(附 玄関棟札2枚) - 1956年(昭和31年)6月指定。
絹本墨画淡彩観音図・猿鶴図 - 中国南宋時代(13世紀)の絵画。牧谿筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、寸法は「観音図」が縦171.9センチメートル、横98.4センチメートル、「猿図」は縦173.3センチメートル、横99.4センチメートル、「鶴図」は173.1センチメートル、横99.3センチメートル。足利将軍家の美術コレクションである東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎により大徳寺に寄進されたという。足利義満の旧蔵を示す「道有」印(観音図)、「天山」印(猿図・鶴図)が捺されている。1951年(昭和26年)6月指定。
絹本著色大燈国師像 - 開祖宗峰妙超の頂相。建武元年(1334年)の作。寸法は縦115.5センチメートル、横56.7センチメートル。宗峰妙超の頂相は数多く存在し多くは像容は共通するが、当像は中でも根本像として評価されている。1953年(昭和28年)3月指定。
虚堂智愚墨蹟(きどうちぐ ぼくせき)- 中国南宋時代(13世紀)の墨跡。寸法は縦41.7センチメートル、横120センチメートル。虚堂智愚が達磨忌に際して記した香語で、虚堂智愚は大徳寺開山宗峰妙超の師である南浦紹明のさらに師である中国僧。年代は虚堂の晩年にあたる径山興聖万寿禅寺住職時代の咸淳3年(1267年)から死去する咸淳5年までの間と推定されている。千利休高弟の山上宗二から豊臣秀長家臣桑山重晴に伝授され、大徳寺に寄進されたという。1952年(昭和27年)3月指定。
後醍醐天皇宸翰御置文 元弘三年八月廿四日 - 後醍醐天皇の宸翰。寸法は縦48.8センチメートル、横87.9センチメートル。元弘3年(1333年)8月24日の筆。内容は後醍醐天皇が大徳寺には開山宗峰妙超の門流のみを止住させる「一流相承」を認めた置文である。元弘3年5月には後醍醐天皇の倒幕運動により鎌倉幕府が滅亡し、天皇が京都に入り論功行賞を行っていた時期にあたる。大徳寺に対してはこれに前後して荘園の寄進が行われており、後醍醐天皇の宗教政策の一環であると考えられている。1951年(昭和26年)6月指定。
【文化財 重要文化財】
(建造物)
勅使門
仏殿(附:明月橋、棟札8枚)
法堂(附:廊下、棟札7枚、旧裏板2枚、旧土居葺板3枚)
山門(附:棟札2枚、旧土居葺板4枚、鬼瓦4箇)
浴室(附:銘札1枚)
経蔵
廊下(方丈玄関 - 寝堂間)
寝堂(附:棟札2枚)
庫裏(附:廊下、棟札1枚)
侍真寮
鐘楼(附:棟札2枚)
(絵画)
絹本著色運庵和尚像 - 嘉定十一年の自賛あり。
絹本著色虚堂和尚像 - 咸淳改元の自賛あり。
絹本著色大応国師像 - 正応改元の自賛あり。
絹本著色大燈国師像
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年七月十日養叟賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清筆、養叟の賛あり。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清筆、享徳元年養叟自賛。
絹本著色五百羅漢像 - 林庭珪・周季常等筆 82幅
南宋仏画を代表する名品の一つ。元は100幅のセットで、10幅がボストン美術館に、2幅がフリーア美術館に分蔵され、計94幅が現存する。48幅に銘文があり、元は寧波鄞県の恵安院の什物で、淳熙5年(1177年)から同15年(1188年)の間に東銭湖周辺の住人が、先祖の追善供養や亡魂の極楽浄土への往生、さらに一族の安寧を祈って制作されたことがわかる。倭国へは、寛元4年(1246年)頃招来され、同年来日した蘭渓道隆がもたらしたとも考えられる。その後の伝来には2説あり、元は鎌倉の寿福寺の什宝だったが、のちに後北条氏に渡って瑞渓寺に安置され、後北条氏滅亡後は豊臣秀吉が古渓宗陳を開山として創建した方広寺大仏殿の寺宝として移され、その後同じく秀吉創建・古渓開山の大徳寺総見院の什物となり、さらに借券をもって大徳寺方丈に移されたという(『龍宝山大徳禅寺志』宝永年間成立)。もう1説は、もともと建長寺の什物だったのが早雲寺のものとなり、これを秀吉が京都へ持って行き大徳寺内寺院の天瑞寺に寄進し、その後大徳寺方丈に寄進されたともいわれる(『早雲寺記録』元禄14年(1701年)成立)。どちらの説を取るにせよ、元は鎌倉の大寺院にあったが、後北条氏の手に渡り、後北条氏滅亡後は秀吉から大徳寺周辺寺院に施入されたのは確かであろう。秀吉が寄進した時点ですでに94幅しかなかったため、寛永15年(1638年)に絵仏師の木村徳応が6幅を補作している。明治27年(1894年)アーネスト・フェノロサが、ボストン美術館などアメリカ東海岸を巡回した展覧会で大徳寺本44幅を展示し、この時デンマン・ウォルド・ロスが10幅を購入し後にボストン美術館へ売却および寄贈、別ルートで海外流出した2幅は20世紀初頭フリーア美術館の所有となった。この少し前の明治21年(1888年)に、倭国画家で京都及び奈良帝室博物館長となる森本後凋が100幅を全て模写しており、この海外流出を憂いた森本は手元にあった模写本から12幅を複写して大徳寺に寄進し、現在も大徳寺には当時のものではないにせよ100幅全て揃っている[7]。この五百羅漢図は室町時代に東福寺の画僧明兆(兆殿司)が模写をし、それを10人ずつ50幅(現存は45幅)の「五百羅漢図」(重要文化財)にアレンジしている。
絹本著色後醍醐天皇像
絹本著色十王像 10幅
絹本著色楊柳観音像 - 1900年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1907年重要文化財指定。
絹本著色楊柳観音像 - 1908年重要文化財指定。
紙本著色仏涅槃図(狩野松栄筆)・紙本墨書仏説教誡経(近衞家熙筆)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 - 曽我二直庵筆 六曲屏。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿筆。
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿筆(附:千利休添文)。
絹本著色釈迦三尊像 3幅 狩野正信筆[8][9]
紙本金地著色四季松図 六曲一双 狩野探幽筆[10]
方丈障壁画 - 狩野探幽筆、83面。もと84面だったが、1966年に火災で壁貼付1面(猿曳図)を焼失した。
紙本墨画山水図 48面(雲門庵前室襖貼付8、室中襖貼付16、上間二之間襖貼付12、下間二之間襖貼付12)
紙本墨画禅会図 6面(雲門庵塔所壁貼付)
紙本墨画竜虎図 2面(雲門庵内陣壁貼付)
紙本墨画竹林禽鳥図 10面(雲門庵内陣壁貼付1 仏壇之間襖貼付8、下間一之間壁貼付1)
紙本墨画梅柳禽鳥図 8面(雲門庵内陣壁貼付2、下間一之間襖貼付2、仏壇間襖貼付4)
紙本墨画隠士図 4面(上間一之間襖貼付)
紙本墨画猿曳図 1面(上間一之間壁貼付)
紙本墨画芦雁図 4面(下間一之間襖貼付)
附:紙本墨画山水図 8面(知客寮襖貼付4、副司寮襖貼付4)
附:紙本墨画鳳凰図衝立 1基(所在塔所)
(彫刻・工芸品)
木造大燈国師坐像(雲門庵安置)
鳳凰沈金経箱
(書跡典籍・古文書)
花園天皇大燈国師御問答書 2幅
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈筆。
大蔵経 2018冊うち版本6冊
法華経 8巻 - 常子内親王筆。
徹翁義亨墨蹟 言外号
虚堂智愚墨蹟 尺牘
花園天皇宸翰置文 建武四年八月廿六日 - 興禅大燈国師宛。
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 遺偈 建武丁丑臘月日
宗峰妙超(大燈国師)墨蹟 投機偈 南浦紹明加印証語
大燈国師自筆法語(解夏小参語)
景徳伝燈録 15冊 - 宗峰妙超(大燈国師)筆。
大燈国師自筆書状(其後何条云々 二月廿四日 )
大燈国師自筆書状(路次無殊事云々 十月三日 )
大燈国師自筆書状(綸旨無相違云々 八月八日 )
大燈国師自筆置文(法衣所伝語 建武四年臘月日 )
大燈国師自筆置文(元亨四年五月六日)
大燈国師自筆置文(元徳三年八月四日)
大徳寺諸庄園文書目録(貞和五年十一月廿七日)
中納言奉書並高家庄絵図
徹翁和尚筆七ヶ条制法(建武四年五月十五日)
大徳寺文書(4267通)97巻、2帖、100冊、54幅、3246通、9鋪、172枚、1箇(附:文書袋及び文書箱17口、2合)[11]
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
【国指定史跡】
大徳寺境内 - 平成28年9月8日指定[12]。
【国指定史跡・特別名勝】
大徳寺方丈庭園 - 大正13年12月9日、国の史跡及び名勝に指定[13]。昭和27年3月29日に国の特別名勝に指定[13]。
【京都市指定天然記念物】
イブキ
【拝観】
大徳寺本坊は非公開(例年10月第二日曜に方丈にて書画等を公開する曝涼展が行われる)。
塔頭のうち常時拝観可能なのは龍源院・瑞峰院・大仙院・高桐院の4か院。黄梅院・真珠庵・聚光院・総見院・芳春院・興臨院・孤篷庵などは秋などに期日を限って特別公開される場合がある。
龍光院は常時非公開。
京都府京都市北区紫野今宮町21にある今宮神社と、周辺一帯広めで。
京都府京都市北区舟岡町紫野北舟岡町49の船岡山公園にある船岡山城跡と、船岡山公園サイレン塔と、巨岩磐座(いわくら)と、東へ約120メートルに位置する建勲神社と、北へ約50メートルに位置する船岡山公園野外ステージと、船岡山公園ラジオ塔と広場と、応仁永正戦跡舟岡山と、船岡山大銀杏と、これら周辺一帯広めで(いずれも危険度最高レベル!!)。
京都府京都市左京区聖護院中町15にある聖護院門跡(危険度最高レベル!!!!!八咫烏最高幹部!!!!!)と、周辺一帯広めで。
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聖護院(しょうごいん)は、京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗の総本山の寺院。
山号はなし。
本尊は不動明王。
開山は増誉。
聖護院門跡( しょうごいんもんぜき)とも称する。
錦林府とも称された。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。
倭国の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の「霞」(修験者統制の地域組織)を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。
天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。
【概要】
静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。
明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。
江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。
11世紀の末に現在の場所に建てられた後、4度の火災により市内を点々とし、延宝4年(1676年)に、現在の場所に戻った[3]。
明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある[3]。
なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている[3]。
聖護院の南西には、「聖護院の森」の鎮守として知られる熊野神社があり、「京の熊野三山」(残り2つは熊野若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された[3]。
祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。
【地名】
左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。
和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である[4]。 November 11, 2025
1RP
あかん!!
まあ大丈夫だろうと過信して
ちょっと無理な過密スケジュールをこなしたら
疲れすぎた
体がバグってるww
フリーズして固まってるスマホみたい
再起動しないと動けん
ポチッと再起動できたらいいのに〜
#言霊屋 #筆文字 #1000日修行 https://t.co/LTEcb4LCG2 November 11, 2025
今日は建中寺の御霊屋が特別公開されてて、ガイドツアーに参加。何度も応募しては抽選に外れ続けてたけど、今日は先着順というので張り切って行ってきました。ガイドさんのお話を聞きながら見学できて良かったです。 November 11, 2025
今日は普段一般人が入れない本堂と御霊屋が無料開放だったので行ってきたよ。本堂は撮禁だったけど、御霊屋は外からなら撮影可でした。最奥に歴代藩主の位牌があるそうです。※写ってません。
今日参拝に来た人に配られたお菓子とハンドタオル。 https://t.co/X2OJ9rkXjN November 11, 2025
昨日は初めて尾張徳川家の菩提寺、建中寺へ行ってきました😊
本堂や特別公開の御霊屋を見れましたが、厳かな雰囲気でよかったです😌
青空に紅葉も綺麗な中の尾張徳川隊の演武、とても素敵でした♪
#尾張徳川隊
2025/11/15 https://t.co/W3RTWEJLmu November 11, 2025
陽徳院(秋津島/陸奥国宮城郡/松島町)
重要文化財に指定されあなたの血税で維持されている霊屋があるが拝観は謝絶されている。
#令7旅8 https://t.co/YksCaRkP20 November 11, 2025
2025/11/15
今日は初めて建中寺へ行きました。天気もよく、紅葉も綺麗な中での演武楽しみました😃🎶本堂の中も立派な装飾で、特別公開の御霊屋も見ることができてよかったです😉
#尾張徳川隊
#文化のみち
#建中寺 https://t.co/ShsMIspSXq November 11, 2025
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