釈迦 トレンド
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2025.12.10 05:00
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おはようございます!
皇紀2685年12月10日水曜日の朝
横浜は☀最高気温14℃予報
8日奈良県斑鳩町法隆寺で「お身拭い」
本尊の釈迦三尊像(国宝)や夢殿の本尊の秘仏、救世観音像(国宝)どの諸仏が新年に向けて清められ、金堂の参拝者は外陣から師走らしい光景を見守った。
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釈尊・日蓮の信仰の源流に還ることの大事~「日興門流教学は正統にして正当である」という幻想
「百六箇抄」「本因妙抄」「身延相承書」「池上相承書」「御本尊七箇相承」「産湯相承書」は偽書である。
もうこれだけで、「日興門流の教学を守れ」という主張がいかに虚しいものであるかが十分に理解できることでしょう。一部で言われる「日興門流の教学を守れ」という主張は即ち「偽書を守れ」と同義であり、学的にはもちろん、信仰的にも、常識的にも通用するものではありません。
要するに「日興門流教学の根幹は偽書によって成り立っている」ということであり、「日興門流教学=正統にして正当というのは虚像である」これが正体というべきでしょう。
ここにおいて「釈尊・日蓮の信仰の源流に還ることの大事」というものが理解できるのではないでしょうか。
「日興門流教学」といえども、「日興に関する史実」を認識する必要があります。
1 日興は身延離山前年に著した「原殿御返事」(正応元年[1288]12月16日)で「日蓮聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主・久遠実成の如来の画像は、一・二人書き奉り候えども、いまだ木像をば誰も造り奉らず候に・・・聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主の木像・・・」と記しており、「南無妙法蓮華経こそが日蓮出世の本懐であり、その教主は永遠の仏・久遠実成の釈尊であると理解」していたこと。
2 「我が慈父=久遠実成の釈尊(久遠の本仏)は仏智を以て大本尊を隠し留め末法の為にこれを残された」「後五百歳の末法の時に上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣する」と讃文に書かれ、「日蓮が久遠実成の釈尊を尊信し、自らを上行菩薩と定義していた明証である万年救護本尊」を日興一門が伝持しており、彼らも「上行菩薩・日蓮」と理解、位置付けていたこと。
3 「五人所破抄」
日興、公家に奏し、武家に訴えて云わく「日蓮聖人は、忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり~」
4 波木井実長が「釈迦如来を造立供養して本尊とした」「二所・三島神社に参詣した」「一門の勧進と号して南部の郷内のふくしの塔を供養・奉加した」「一門の仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇を造立し荘厳した」ことを誰よりも知悉している日興が、その波木井実長が亡くなった翌年に
「一、甲斐国南部六郎入道者、日興第一ノ弟子也。仍テ所申与フル如シ件」(弟子分本尊目録)
と、日目等の高弟たる「本六」と同じく波木井実長を「日興第一ノ弟子也」と位置付けたこと。
しかしながら、10年ほど経った延慶2年(1309)、重須の学頭・寂仙房日澄により草された「富士一跡門徒存知の事」では、波木井氏に対して「義絶する」「義絶し畢んぬ」との厳しい表現となっており、「日蓮一弟子六人がそれぞれの門流を確立しつつある時期」となって対応を一変させたこと。
5 「富士一跡門徒存知の事」では、各地で釈迦像が造立されたことに対して「釈迦像を造立するならば一体仏ではなく四菩薩を加えて久遠実成の釈尊であることを示さなければならない」としたものの、肝心の師匠日蓮が伊豆配流以降亡くなるまで釈迦像一体を所持奉安しており、しかもその教示は釈迦像一体でも「此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ」(四条金吾釈迦仏供養事・真蹟断片)、「教主釈尊をつくりまいらせ給ひ候へば、後生も疑ひなし」 (日眼女釈迦仏供養事・真蹟曽存) と讃嘆されていたこと。
6 弘安8年という日蓮一門の宗派の名乗りも定まらない時期に、日昭、日朗らが提出した申状で「天台沙門」と名乗ったことを年月が経ってから批判。晩年には「天台沙門と仰せらる申状は大謗法」(日興上人御遺告、元徳四年(1332)正月十二日)と猛烈に批判したものの、当の師匠日蓮が「立正安国論」を進呈した時の名乗りが「天台沙門日蓮勘之」(日興写本)であったこと。
このような日興と一門の教示・事跡には、今日的な観点からは様々な議論があるでしょうが、まずは上代における「史実」はそれとして認識する必要があると思います。
さて、日興が亡くなってからの、高弟における「広宣流布の時の本尊観」というものも確認しておきましょう。
1333年・元弘3年・正慶2年(日蓮滅後52年)2月7日、日蓮一弟子の一人・日興は重須にて亡くなりますが(88歳)、同年5月21日には新田義貞の軍勢が鎌倉を攻略し、翌22日には早くも北条一族が滅亡。
5月25日には後醍醐天皇が光厳天皇を廃し、年号を元弘に復し、6月5日、後醍醐天皇は京都に還幸して建武の中興が始まります。
このような歴史の歯車が大きく回転したことにより刺激を受けたのでしょう、日興一門の中で「国主が帰伏した時、即ち広宣流布の時の本尊」をめぐっての議論が活発になったようです。
康永3年(1344)8月13日、日興の新六の一人・重須を継いだとされる日代(翌年には重須を退出させられており、後に西山本門寺を開創)が日目の弟子・日尊が開創した京都・上行院の日印に書状を送り、国主が帰伏した時に本門寺が建立され、そこには日蓮の本尊を図表とする仏像が造立安置されることを説いています。
西山日代上人より日印に贈り玉ふ御返事に云はく ~中に仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し国主御帰伏の時三ケの大事一度に成就し給はしむべき御本意なり、御本尊図は是なり~ 康永三(1344)甲申八月十三日 日代在判
(富要 5-50 )
(日代状は、京都要法寺・日辰の著「祖師伝」の中に記述されている)
日代状から5年後の正平4年(1349)5月には重須2代学頭の日順が「本門心底抄」を著し、広宣流布の時の「本門の戒壇」には、やはり日蓮本尊を図表とする仏像を安置する旨を説いています。
行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定(じじょう)後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず。
(富要 2-34)
このように、日興の膝下にあって薫陶を受け重須談所の2代学頭という要職を務めた日順、さらに日興の最側近ともいえる新六の一人たる日代が「広宣流布の時の本門寺の戒壇には仏像が造立安置される」と説いたのには、そのような日興の思想があったのでしょうか?
それとも弟子達独自の考えだったのでしょうか?
それを解くヒントと思われるのが、暦応3年(1340)5月付の「日尊実録=尊師実録」です。
(尊師実録・弟子の日大が師匠である日尊の教示を記したもの)
一、久成釈迦造立有無の事 日興上人の仰せに云く、末法は濁乱也、三類の強敵之有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶う可から不、広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉るべし。
「末法は五濁悪世で三類の強敵が充満しており、いつ不足の事態が起きるか分からない。いざという時に立派な仏像では移動が容易ではなく、崇敬するにはためらわれるものがある。広宣流布の時までは曼荼羅を安置しなさい、というのが日興上人の教えである」
というものですが、ここからは日興の曼荼羅中心思想が読み解けるものの、「では、広宣流布の時の本尊はどうする?」というものが明示されていません。
現存文献をもとにした「日興の常の教示」を前提にすれば、彼は広宣流布の時の本尊も曼荼羅としていたのではないかと考えられるのですが、ここにおいて注目したいのが「観心本尊抄」の本尊相貌段です。
その本尊の為体は、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士たる上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸の菩薩は万民の大地に処して雲客月卿を見るがごとく、十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表する故なり。
かくのごとき本尊は在世五十余年にこれ無し。八年の間にもただ八品に限る。正像二千年の間は、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士となし、権大乗ならびに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等をもって脇士となす。これらの仏をば正像に造り画けども、いまだ寿量の仏有さず。末法に来入して始めてこの仏像出現せしむべきか。 問う。正像二千余年の間は四依の菩薩ならびに人師等、余仏、小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども、本門寿量品の本尊ならびに四大菩薩をば三国の王臣ともにいまだ崇重せざるの由、これを申す。
文中の「寿量の仏」「この仏像」をそのまま「形として顕される仏の像」と読めば、全体が「本尊としての仏像群を示している」との理解も可能とはいえます。
『日蓮は、紙本の多くの文字曼荼羅を顕して門下に授与したが、それは日興が教示するように「末法濁乱、三類強敵有り」の故である。国主が信伏して広宣流布の時となれば不測の事態も起こりえず、かつ王臣が拝するに相応しい本尊となれば「観心本尊抄」に示される「仏像」ではないか。広宣流布の時に建てられる本門寺・本門の戒壇には、本尊段に示される仏菩薩像を造立しよう』
これが日順、日代の理解であった故に、彼らは「広宣流布の時の本門寺の戒壇には仏像が造立安置される」と説いたのではないでしょうか。ここではそのような考えの「正否」は横に置きますが、日興の側にあった日順、日代がかような思考であったということは、その教示を受けた多くの日興一門が同様な考えであったことでしょう。
『広宣流布の時の本尊は仏像である、というものが日興門流教学の基軸にあった』
今日、「日興門流教学を守れ」と主張する人々は、この「史実」を認識すべきでしょう。 December 12, 2025
【奈良・東大寺/誕生釈迦仏立像(天平)】大仏開眼の頃に作成されたといわれている。丸顔のかわいらしい釈尊の生まれたばかりの姿である。東大寺ではフィギュアの通販も行っている人気者。 https://t.co/tahToxaJp7 December 12, 2025
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