署名 トレンド
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2025.12.04 09:00
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人気のポスト ※表示されているRP数は特定時点のものです
しかも12万件の署名が集まり国会で取り上げられてもaespaを出場させるって完全にNHKは国民に喧嘩売ったな
韓国通販サイトに同一商品が「核爆発」「広島」「原子爆弾」などと明記されていることが分かった。NHKの「原爆を揶揄する意図がなかった」との説明に疑問が出ている。 https://t.co/sf5mEzHzUE December 12, 2025
208RP
もうNHKは解体して、最低限の税金で運営する国営放送を作るべきだと思いませんか?
aespa、“きのこ雲”騒動のオンライン署名が12万超…国会ではNHKに「公共放送としての信頼を失う」指摘も https://t.co/duyyo69gp0 December 12, 2025
146RP
石井苗子「きのこ雲のライトを『可愛い』と評価した人物が居るグループの紅白出場停止を求めるネット署名が10万人を超えたが、どう出場を判断したのか」
山名専務理事「原爆被害を軽視揶揄する意図はないと確認した」
国会で取り上げられても出場させるのか。NHK最低だな https://t.co/Mle9FT9NG5 December 12, 2025
126RP
あー署名しちゃった。
トランプはん、最近🇨🇳に気兼ねしてたフシがあったからこれ署名拒否するんじゃないかと思ってたけど、最近の🇨🇳の一人相撲を見て「サインしとくか…」なったのかも(笑)
これで🇺🇸が自縛りしていた「台湾要人との交流」が全面解禁となり、より接触がしやすくなる。 https://t.co/l5PVOXrpoI December 12, 2025
76RP
【NHK紅白出場aespa問題】
「ニンニンが"かわいいライトを買ったよ…どう?"と、きのこ雲の形をしたランプの写真を投稿」
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「ネット炎上…出場停止を求めるネット署名は10万人を超える」
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「石井苗子議員が国会で質疑」
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https://t.co/MCHvLaGj8z
「NHKの選考基準である『世論の支持』と矛盾していないか?と追求」
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「NHK専務理事…所属事務所に確認し『原爆被害を軽視・揶揄する意図はなかった』と確認したので問題ない」
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「選考は『今年の活躍』『世論の支持』『番組演出』等を総合的に判断した結果で出場予定に変更はない」
↓
いまココ
これ小野田さんも言ってるけど中国人向けにやってる無料コンテンツアプリの為に、絶対に外せない存在だよね?ニンニンって…倭国人の受信料で成り立ってるのに倭国じゃなくて中国見で運営してるだぁ…へぇ〜 December 12, 2025
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プーチン大統領、中国人旅行者へのビザ免除入国を認める命令に署名
ー>おぉ、中国人はロシアが引き取ってくれる。ロシア人は大変だ・・・
https://t.co/zGJKA9kGJf December 12, 2025
8RP
トランプ大統領が本日、バイデン政権の“グリーン・ニュー・ディール”的な自動車規制を完全にブチ壊す大統領令に署名しました😤
燃費規制、排ガス基準、そしてカリフォルニア州が特別扱いされていた排出ガス免除措置も、すべて❌終了!
しかもトランプ大統領は演説の中で、「バイデンの気候イデオロギーは庶民に高い車代を押し付けてるだけ」ってバッサリ😎
「庶民が欲しいのはEV強制じゃなくて、安くて安全なクルマだろ?」と痛烈に皮肉り、会場は大盛り上がり👏
さらに、カリフォルニア州知事ニューサム氏に与えられていた「排出ガスルールを独自でやっちゃう特権」も、今回は容赦なく打ち切り😮
つまり….全米どこでも、バイデン式エコカー地獄からは脱出できるってわけです🚗💨
自動車業界もSNS上で「ようやく常識が戻ってきた」と歓迎ムード😃
製造現場からは「EV偏重はもう限界だった」との本音も💬
この発表、業界だけでなく、多くのドライバーたちにも強烈に刺さってます😤
バイデン式「地球に優しく、でも財布に厳しい」政策にウンザリしていた全米の運転手たち….
今日はちょっとスカッとしたかもしれませんね😎💥 December 12, 2025
8RP
速報です😃
アリゾナでまた信じがたい事実が持ち上がっています。
英語の報道と、動画内で語られていた内容をまとめると、2020年の大統領選で 1万件もの投票が、まったく同じ社会保障番号で行われていたと告発されています。
アリゾナ州の制度では、社会保障番号さえ書けば登録できる仕組みがあり、そこに不法入国者が紛れ込んでいたという指摘です。
「連れてきた不法移民に紙を渡して署名させれば税金を払うと約束した扱いになり、その瞬間に社会保障番号を手にする」
告発者は、そんな実態が1万件規模で起きていたと説明していました😮
動画内でも、こうした登録がそのまま投票へとつながり、ケイティ・ホブスのような候補が当選する構造が作られていると強調されていました。
一方で、アリゾナ州の司法長官はこの告発を即座に否定し、さらにマリコパ郡も独自監査を行い「不正はなかった」と主張しています。
ただ、そのマリコパ郡こそが全米でも最も疑惑の多い地域として知られ、バイデン勝利を強く押し出した場所でもあるため、告発側は「その否定こそが逆に証拠だ」と述べています😶🌫️
数字、制度、そして“誰が否定しているのか”という点が奇妙に噛み合っていて、今回の告発はさらに大きな波紋を広げています。 December 12, 2025
3RP
汐恩のこれからが拓けるモノであって欲しい…
汐恩に餞の心を、匿名⭕️でも大丈夫みたいなので、届けてみませんか?
汐恩に少しでも幸せな気持ちでいて欲しいので送ります🙏
鶴房汐恩のJO1としての活動終了及び契約終了の撤回を求める署名 - Sign the Petition! https://t.co/T4YW07oaPp @change_jpから December 12, 2025
3RP
NHKの判断には重大な疑問が残る。「原爆被害を軽視・揶揄する意図はなかった」という“確認”だけで紅白出場を正当化するのは、公共放送としてあまりにも責任が軽い。問題は“意図”ではなく、“結果として被害者の尊厳を傷つけた”という事実だ。
10万人以上が署名したのは、誰かを攻撃したいからではない。国家的悲劇を扱う感性に、最低限の配慮と節度を求めているからだ。
国会で取り上げられるほどの重大案件にもかかわらず、「内部確認しました」で幕引きを図るのなら、公共放送としての自覚を失っていると疑われても仕方ない。
NHKには説明責任と再検証が不可欠だ。安全保障ではなく“歴史観”に関わる重要な問題だと認識していただきたい。 December 12, 2025
3RP
正直、このポストにはドン引きした。
国際法の基本を丸ごと無視してまで、サンフランシスコ講和条約を否定したいという政治的メッセージだけが先に来ているようにしか見えない。
まず大前提として、カイロ宣言もポツダム宣言も「宣言」であって条約ではない。
署名も批准もなく、国家間の義務を生む国際法上の文書ではない。
国際法の教科書の最初に書いてあるような話で、拘束力はゼロ。
しかもポツダム宣言には「倭国の領土の最終的な決定は後の国際的取り決めに委ねる」と明記されている。
だからこそ戦後処理は、正式な講和条約であるサンフランシスコ講和条約で確定した。
ここを否定している国家も、学者も国際機関も存在しない。
世界が採用している基準はこの条約だけ。
台湾に関しても「倭国が放棄した」とだけ書かれていて、どこに帰属するかまでは書いていない。
ここは国際法学で完全に定着した共通認識です。
逆に「カイロ宣言が上位」「ポツダム宣言こそ法的根拠」という主張は、もはや国際法ではなく政治的プロパガンダでしかない。
宣言は宣言であり、条約を上書きする力など持っていない。
さらに「連合国共同宣言に反するから講和条約は無効」というロジックも、世界のどの国も採用していないし、
国際法の研究でも完全否定されている。
もしこの理屈が通るなら、戦後の講和条約は世界中で全て無効になり、国際秩序が崩壊する。
そんな極端な解釈を真顔で主張するのは中国、中共くらいだ。
結局のところ、自分に都合の良い宣言だけ切り取って、戦後の正式な法的プロセスを無視するという、いつものやり方。
国際法の議論ではなく、国内向けの政治宣伝にすぎない。
宣言は宣言。
条約を上書きする力などない。
これを逆転させて語る大使館の姿勢そのものが、国際社会から見ても相当異様だと思う。
もう貴方がたは、SNSは使わない方が良いと感じますよ…。 December 12, 2025
2RP
今晩、アルカッサーム旅団(ハマス)とアルクドス旅団(イスラム聖戦)が、ガザ停戦合意の一環として、イスラエル人捕虜の遺体を赤十字に引き渡しました。
合意が署名されて以来、エジプトと国際チーム — パレスチナ抵抗勢力とともに — は、残るイスラエル人遺体の捜索を続けています。
一方、10,000人以上のパレスチナ民間人が依然として瓦礫の下に閉じ込められたままです。イスラエル軍がガザへの重機の入場をまだ許可していないためです。ガザ地区最後の行方不明イスラエル人遺体の捜索作業は現在も続いています。
#パレスチナに国家承認を #パレスチナ民族浄化 December 12, 2025
2RP
@nikkei 🇬🇧首相も中国を安全保障上の脅威だと言った。🇺🇸大統領も台湾保証実施法案に署名した。
中国は猛反発しているが、引いたりしない。
🇦🇺も🇰🇷も中国の圧力を受けたが屈しなかった。
すぐに謝ったり圧力に屈したりしてきたのは倭国。
そろそろ恥ずかしいよ。
中国に色々言われるくらいで丁度いいのよ。 https://t.co/2ETe0kCdzA December 12, 2025
1RP
★★★★★★★★
現在 1,111名 の皆様から
ご署名を頂いております!
ゾロ目番の方はおめでとうございます!
温かいご支援に心より御礼申し上げます。
★★★★★★★★
引き続き、
「埼玉医大総合医療センター・岡教授の名誉を守るため、秘匿解除を求める」
署名活動を行っております。
▼署名はこちら
https://t.co/Gk0DHZ5Ek7
(※匿名での署名も可能です。匿名希望の方は、署名時のチェックを外してください)
なお、署名活動の妨害行為を行っている方々について、【私が】依頼している担当の弁護士等との対応を進めております。
また、
・私の名前を模倣した方
・それを元に𝕏 上で揶揄している方
・憶測でデマを流している方
・憲法第16条で認められた請願権を否定し続ける方
などはその対象になりますので、ご注意ください(何名かは既にリストに入れさせて頂きました)
changeの仕様上、同一人物による投票はしづらく、その不正署名をした人は規約にも違反します。
皆様からの一つひとつのご署名が、制度見直しへの大きな後押しになります。
何卒、ご協力をお願いいたします。 December 12, 2025
1RP
拡散希望
秘匿取り消しはそもそも本訴ではなく、本訴を決定する上での過程でしかありません。本訴は1審私の完全勝訴であり、相手は敗訴であり、現時点では相手の請求に理由はないことは裁判所が認めた事実です。
その訴訟を「不当訴訟」と思うのは私の感想でしかありません。
本来は秘匿取り消しは本訴の流れで1回の審議で判断されるのもであるところ、それが1年近く判断に相当の時間を要したことからも裁判所はかなり微妙な秘匿であると判断したものと推定されます。
かねてより私に対する名誉毀損を行なった反ワク過激派の謝罪文を、私が公開投稿で提示した際に、誤って短時間、謝罪文に記された名前が投稿されたことがあり、速やかに削除したものの、反ワク集団に証拠を共有され、秘匿取り消し判断において証拠提示がされました。
また
弁護士判断により本秘匿訴訟について記者会見を行い、記事化されたこともあり、相手側は実名報道をされる恐れを主張したところ、裁判所はそのプライバシーを最終的に守る判断をしただけです。
本訴訟は長い中断のあと再開されましたが、この時点で反訴の提起を予定していたものの、相手側が同時に敗色濃厚と感じたのか、すでに行なっていた請求項目よりも、さらに同定可能性や違法性の乏しいと感じた大量の私の投稿を請求追加してきました。裁判官は訴訟を長引かせる行為と判断したのか相手弁護人と議論をへて請求追加を認めなかったと私は代理人より報告を受けました。
故にこの時点での反訴を提起することはすでに概ね相手の請求が棄却される予想からは行わないほうが良いという判断となり、現在の判決に至っています。
つまり秘匿の維持は本訴判決前に決定されたものであることから事情が変わっていること、さらに控訴審では相手が受け入れない限り反訴ができない状況であるうえに、別訴は秘匿ゆえ相手がわからず訴状送達が行えず、さらに損害賠償や裁判費用を今後請求する相手の名前もわからない状況は、私の防御に支障をきたしています。
訴訟の公平性を失うものであることから、私としては社会にこの問題を知っていただきたいと投稿しております。
署名に関しては有志の方が行なってくださっていることであり、私としてはありがたく感じております。
このような秘匿訴訟を受ける方が今後、出ないよう法改正を望むものです。
よろしくお願い致します。 December 12, 2025
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@nihonpatriot @cheeky0822 この人散々悪いことして売国も散々してきてアメリカからIR疑惑で捜査対象にもなって、ネット署名ですごい数の人に辞職を求められたのに今だに倭国を破壊しようとしている。そろそろFBIか東京地検特捜部あたりに逮捕して欲しいな。叩けばホコリがざくざくでるでしょ?岩屋毅を国民の前から消し去ろう。 December 12, 2025
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「ラスティ」のコールサインを持つアゾフの戦闘員は、2年半をロシアの捕虜として過ごした。その場所はオレニフカ、タガンログ、ドネツク、マキイウカだ。
わずか26歳で、彼は拷問、飢餓、そしてでっち上げの懲役29年に耐えたが、戦うために戻ってきた。
ロシア軍がマリウポリを包囲したとき、彼は機動偵察部隊に所属していた。彼のグループは毎日5〜15の陣地を移動し、戦車の突破に対応し、襲撃を行い、砲撃の照準を修正した。アゾフスタリの防衛最終日には、ロシアの航空機が1日に最大110回も出撃し、その工場一つだけを標的にした。
捕虜になった後、彼は自分のいる階で毎日拷問を受けた唯一の捕虜だった。尋問は最長12時間続き、あまりに激しく殴られたため、あるFSB(ロシア連邦保安庁)の士官は彼を殴って自分の指を折った。度重なる暴行と疲労の後、彼は「自白」への署名を強いられた。
彼の「裁判」はたった一度の公聴会で終わった。70歳の弁護士はセッション中にViberで妻とメールをしており、最後に、拷問下で得られた「心からの告白」を考慮に入れるよう裁判所に求めた。彼は予想されていた懲役48年ではなく、29年を言い渡された。
2024年9月、捕虜たちは予期せず交換の準備をするように告げられたが、彼らの誰もそれを信じなかった。
10月18日、彼は交換の際に、人生で初めて飛行機に乗った。国境で、ベラルーシの治安担当官は彼に**「ルカシェンコからの贈り物」**として、ゆでたジャガイモ2個、サンドイッチ、キュウリ、トマトを手渡した。
バスがウクライナ領土に入り、SBU(ウクライナ保安庁)の軍人に「スラヴァ・ウクライニ(ウクライナに栄光あれ)」という言葉で迎えられたとき、彼は2年半ぶりに真に故郷に帰ってきたと感じた。
リハビリ中、彼は週に12〜13回の訓練を行った。ランニング、クロスフィット、水泳だ。交換から2週間後、彼は指揮官に**「準備ができた」**と伝えた。
現在、トレツク方面で再びアゾフ偵察隊に所属している彼は、5回のFPVドローン攻撃を生き延び、負傷者を避難させ、8人の兵士のグループを率いて戦闘に入り、全員を無損失で連れ戻した。
彼は今、新兵の訓練にあたっている。彼の部隊は、彼をこれまで見た中で最も回復力の高い戦闘員の一人だと評している。 December 12, 2025
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再審法改正を議員立法でもとめる署名です。 https://t.co/WADDYcUs1v
ご協力お願いいたします。
#マジでやばいぞ法制審 #再審法改正は議員立法で December 12, 2025
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#殺傷武器輸出反対
署名を12月15日(月)に提出することが決まりました。5類型撤廃が狙われ、先んじてミサイル輸出が計画され、また次期戦闘機開発や護衛艦輸出も進められています。
これは人を殺傷するための武器です。世論で!輸出を止めましょう!
お広げください↓
https://t.co/8L661v3bCb December 12, 2025
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官媒凤凰网,中新社记者报道:2019年9月25日,中国驻倭国大使馆,隆重为倭国老军人颁发纪念章,感谢三万侵华日军,加入解放军四野,帮助共产党打败国民党,创建中共国。倭国军人的血,染红了中共五星红旗!倭国军人劳苦功高,历史不容抹杀! 截图,网址,全文转发如下:
9月25日,中国驻倭国大使馆在馆内为倭国籍解放军老战士举行“庆祝中华人民共和国成立70周年”纪念章颁发仪式。
中国驻倭国大使孔铉佑、公使郭燕以及数十名倭国籍解放军老战士和老战士代理出席。 中新社记者 吕少威 摄
这是一个巨大的进步,说明三万日籍解放军,不再是禁区,这事现在可以大大方方地说了。国家层面的认可,让这些倭国军人,有了安慰。以下文章值得一读。
中国人民解放军曾收编三万倭国兵,这是一段几乎被湮没的历史。当年四野倭国籍官兵都获得了中国解放纪念章,不少人还获得了各种军功章。回国时,中国政府考虑到当时倭国政府追随美国的对华态度,出于保护这批倭国战友归国就业、生计问题,决定收回这些各种纪念章、军功章,并说明将来条件允许时发还。1972年中日邦交正常化当天,有日籍老兵给周恩来写信,要求补发或归还这些奖章。中国方面经过慎重研究,决定补发。本文选自2006年第26期《凤凰周刊》,作者傅乐平。
“我们很感激一部分倭国人,他们在解放战争时期,作为医生、护士、技术员参加了解放战争,这些更增强了我们与倭国人民缔结友好关系的信心。倭国的军国主义确实是残酷的,但协助我们的倭国人民有很多。”
上述讲话是国务院总理周恩来1956年6月27日在接见倭国代表团时说的。不过,它曾很长时间几乎不见诸国内报端,沉寂近30年后,这段话背后的历史逐渐为人所知。而我则无意中扮演了这一历史进程的见证者,并与部分当年四野的倭国老兵成为朋友。
四野原来曾有倭国兵
1990年4月,我时任陕某师政治处主任,一天接到上级通知,要我参加接待从倭国来的“第四野战军日籍战友回娘家访问团”。
倭国人到中国回娘家,而且是回解放军的“娘家”,我当时一头雾水,不得其解。我虽然喜欢阅读部队战史和报纸,但从来还不知道有倭国籍官兵参加解放战争。
当时一起参加接待工作的有集团军政治部秘书处长吕兴元,还有原中国人民解放军三十三医院院长张宝林,副院长尚兴禄。接待的代表团成员名单是:团长中村义光,副团长福山三利、平野丹通、秘书长、若生爱子,团员本间雅子、幅敬信等,共17人。
原来他们几乎全是在第四野战军10纵工作过的医生、护士、宣传队员。代表团的成员大都参加了四平血战,三保临江,四下江南,林海雪原剿匪,黑山阻击战,锦州战役。尔后四野百万雄师入关,他们又参加平津战役,百万大军下江南,一直随队打到海南岛。而张宝林和尚兴禄当年就曾和日籍战友一起工作过。
1953年起,这些四野日籍老兵陆续开始以日侨身份归国,37年后第一次踏上中国国土,当年老部队的番号早已变更,四野10纵野战医院二所演变成中国人民解放军三十三医院。我所在的部队即是10纵前身,这些日籍官兵到我们部队,当然算是回娘家。
我们负责接待的代表团,是自1972年中日邦交正常化后第一次由原第四野战军原日籍官兵自费组成的旅行团。因此史称“第一次回娘家访问团”。
据有关史料载:东北光复后,在东北的倭国侨民大部分被遣送回国,但还有一部分倭国人留在东北解放区,据当时东北9省14个市的调查统计,粗略知道的倭国人数有12016人,加上遗漏的共计有31030人到33000人。其中,卫生部、军工部、军需部内的技术工人和技术人员较多。具体分布在各部门的倭国人数是:军区卫生部7200人,军区军工部2000人,军区军需部900人,军区其他系统1500人。据辽宁省档案馆馆藏的有关资料记载,到1949年,东总军工部留用的技术人员186人中,倭国人就有103人,超过50%。
梦中常被惨烈的战斗惊醒
访问团从上海入境,探访路线首先是四野南下时征战的旧地:长沙、宜昌、荆门、襄樊、沅陵等旧战场。然后再北上转到东北的白山黑水,那里是他们当年战斗最激烈的地方:四平、沈阳、长春、敦化、大连、开原、锦州、黑山。
这些离开中国几十年的日籍老战友尽管都仍操一口流利的中文,但分别近40年,他们身上倭国民族含蓄、内向和彬彬有礼的节制,是很容易一眼把他们与周围的中国人分出来的。
但是,随着这批老兵离自己的娘家越来越近,他们身上当年打下的中国烙印就开始一点点泛上来。部队安排他们到工作、战斗过的原四野10纵野战医院二所,现在的中国人民解放军三十三医院进行40年后的回访。成员个个事先郑重其事地准备一番,身挂奖章、勋章、衣着整齐、精神抖擞。当走进医院,看到数百名身着白衣的医生、护士手挥鲜花、彩带热烈欢迎老战友高呼“欢迎老战友回娘家”时,访问团成员个个热泪盈眶,有几位女团员扑到欢迎队伍中的女战士怀中,抱头痛哭。
爆发的顶点则是在某部钱树根军长、宫永丰政委主持的欢迎宴会上。当时主客突然放下酒杯,集体起立,情绪激昂泪花滚滚地唱起当年最熟悉的《中国人民解放军进行曲》、《没有共产党就没有新中国》、《解放区的天是明朗的天》。幅敬信和几位女团员还干脆离席在空地扭起了东北大秧歌。
代表团的伤心地是黑山阻击战烈士纪念陵园。黑山阻击战是辽沈战役中最关键的战场,也是他们生涯中最激烈最残酷的战斗。当年,仅二所三天三夜就抢救医治了2000多伤员,许多倭国藉医生、护士三天三夜没合眼,吃饭都在手术台上。
代表团中的本间雅子永远面带微笑,举止优雅,像是演员或大学教授出身。她当时除了做手术外,还多次为危重伤员输血,被称为“万能输血者”。据介绍,医院几乎所有的倭国医生和护士都给伤员输血。
雅子回忆说:“那时三天三夜下来,每个人躺下就不省人事,人累得像死人一样,看着断肢少腿,鲜血淋漓、生命垂危的伤员,马上又挣扎着起来也要去抢救生死与共的战友”。几十年后,这些日籍老兵与当年幸存的老战友重聚这无数战友长眠之地,相拥号啕大哭。
代表团的老战友向我这后辈介绍说,只要一想起黑山阻击战,耳边就响起子弹炮弹的呼啸轰鸣。团长中村义光说:“我一辈子也忘不了那些惨烈的战斗场面,回倭国后,睡觉常常梦中惊醒”。
中村义光与“四野回想会”
代表团中给我印象最深的是团长中村义光,这个温和朴素的小老头,在中国期间总是精神矍铄,充满昂扬的精气神,从未见他疲倦过,在代表团成员中非常有号召力。所以对他的经历特别好奇。
和中村先生熟悉并保持常年通信往来后,逐渐了解了他的经历:1944年3月,中村被征召入日军,1945年8月,任倭国关东军7352部队的少尉,听到倭国投降消息,中村与10多名不愿向苏军投降的倭国兵逃亡到吉林敦化,寄身于一股流亡日军与当地土匪合伙组成的武装,1946年3月,“八路军”(民主联军)进驻当地剿匪,这股流亡的倭国人再次面临选择,经交涉,决定交出武器,并留在队伍中。
中村不懂医务,所以在四野的卫生部门长期担任会计工作,但在战争中却立了3次大功、3次小功,这即使在一线作战部队也不多见。全国解放时,中村因表现优异,上级一度准备发展动员中村入党,后因考虑到中村将来要回国而作罢。
1949年,只是连级(大尉)干部的中村,在组织关照下与同在卫生系统的近藤清结婚,当时部队中只允许大校以上才可结婚,所在的医院破格提供了中村夫妇结婚的一切方便。
1954年5月,中村夫妇携两个在中国出生的女儿返回倭国,在县政府谋到一份公职安顿下来后,中村开始力所能及地为那些回到倭国谋生不便的老战友提供帮助。
1967年,鉴于当时回国的倭国老兵生活都已安定,但留恋在四野时期形成的团队认同感却越来越强烈,中村率先开始联系散落在倭国各地的四野老战友,发起组织了“回想四野会” 1970年3月,在富士宫市举行第1次正式成立会议后,“回想四野会”便每年1次地在倭国各地轮番召开。
“回想四野会”最初会员达600余人,由于病、亡,现在只有120余人。1980年以后,为确认会员及报道中国老战友的消息,中村义光创办并发行了1年4次的“回想四野会报”季报,成为紧密联系往昔战友的纽带。
“回想四野会报”不但记叙会员们的活动和战争回忆,还积极评论时事热点新闻,尤其是关注如何加强中日两国的友谊。
中村义光除了发起“回想四野会”外,还组织了中日友好会、解放奖章授给事务局,并长期义务从事倭国在华遗孤的寻找救济工作。
倭国司机被选去为毛泽东专列开车
四野战史第一次正式提到日籍战友,是1998年10月第一版的《中国人民解放军第四野战军战史》,在第三章第五节“加强军队后勤建设”的138页—141页上,记载了四野初进东北时后勤系统留用日籍工人、日籍职员、日籍医生、护士的情况,含注解,总计876字。
他们当中最多的是医疗行业人员,东北1946年初就发生内战,急需医护人员,当时国共双方有倭国侨民移送协定,后来发现,共产党方面移送过去的倭国侨民不少被国民党军队留用,于是当时的东北民主联军也开始大规模留用倭国人。《中国人民解放军第四野战军卫生工作史》记载说,当时卫生部门表彰的立功者有四分之一是倭国人。
四野日籍官兵中功勋显著者,无疑是原倭国关东军第二航空军团第四练成大队的林弥一郎部,这支关东军的王牌集体加入东北民主联军时,计有飞行员20名、机械师24名、机械员72名以及其他各类地面保障人员近200人。以这些日籍官兵为骨干组成的东北老航校成为中国空军的摇篮。这里共培养出飞行员160人,其中23人参加过开国大典的阅兵。当年的空军司令员王海、空军副司令员林虎、北京军区空军司令员刘玉堤,以及曾经击落美军王牌飞行员戴维斯的张积慧等人都是从这里走出的。
事实上,共产党进入东北后,被吸收进来的倭国侨民并非全部从军追随四野一路征战,还有一部分技术人员因解放区建设急需被分散到中国各地,规模最大的一支是1950年秋,800名倭国铁路技术人员及其家属被送抵甘肃天水,负责修建兰州到天水的铁路。1951年春,天兰线正式开始建设,1952年10月1日,在建国3周年时,天兰线提前8个月通车。抵达天水的这批日籍铁路技术人员,除了修建天兰线外,还有部分人员被抽调修建兰新铁路和山西铁路修建改造的工程中。
在日籍铁路技术人员中,最具传奇色彩的是四野29后方医院的日籍炊事员吉冈宽,吉冈以前是技术高超的火车司机,解放战争结束后,吉冈转业至地方,在衡阳铁路局当火车司机。1953年毛泽东南巡,吉冈被上级交代一项意外的重大任务,为毛泽东返回北京时,担任长沙至岳阳段的专列司机。吉冈宽当时惊得目瞪口呆,今天,他依然将之视为此生最大荣誉。
我们为青春留在中国而自豪
中村先生在自述中坦承最初留下来并非情愿,只是因为别无选择的临时之计。尤其是并未打消对共产党的疑虑和恐惧。中村和那批加入中日混合武装集团的倭国人被四野收留不久,因朝鲜族战友的揭发,那位曾担任土匪头目的前倭国军官被枪决,不熟悉共产党政策的中村和另外两名倭国人因恐惧而一起逃跑,但很快被追回。
民主批判会上,朴素的中国战友们纷纷主张应将他们作为反革命处决,但当时的机关卫生部的首长伊海的一番话救了他们的命,也彻底改变了中村等人的看法,伊海说:“倭国同志是不同国家的人,人情,风俗,习惯也不同,在语言不通的环境里和我们一起工作,生活,稍有误解便会给他们带来不安。指责他们的同时,更应该给他们反省的机会,让他们为中国革命发挥更大的力量。”
当年留下来参与新中国建设的倭国籍官兵,像中村一样非情愿的恐怕在多数。建设天兰线的铁路技术人员在中国刚解放时,就曾强烈要求回国,甚至发起了联合署名的“归国运动”。后来开出有固定住处、设立倭国人子弟学校的保证,他们才安下心来。
但是,随着成为新中国建设者的一员,日籍官兵的情感完全与他们中国的战友融为一体。参加天水铁路建设的日籍人士回国后的第二年,便成立了“天水会”。
一位名叫小木曾博子的护士回忆,朝鲜战争暴发,她所属的部队奉命从湖南开赴丹东,但所有倭国籍战士一律在原地待命或转到地方建制,14岁就参加四野征战全国的博子想不通为什么她就不允许跟随部队转移。
几乎所有归国倭国老战友都会在回忆中强调当年解放军的纪律给他们留下的深刻印象,无论是对中国人还是对倭国媒体。
中村义光今天还能熟练地背诵“三大纪律八项注意”,他说,旧倭国军队也有类似的纪律规定,但从来不像共产党军队这样当真。而且,经历过倭国军队中森严的等级制度和严厉的体罚的人,再加入共产党军队,会有异常巨大的反差感受。
与中国相似,当年大量倭国人参加解放军的历史也是近些年才被正面关注,2002年,中日建交30周年,倭国NHK电视台播放了一部《被留用的倭国人》专题片,被采访到的当年解放军老兵们,在被问到如何看待自己的那段历史时,几无例外的回答是:现在我为参加了中国革命而骄傲,为青春奉献给了中国而自豪。
对一生的影响,最具有代表性的说法是:“在留用的过程中,我的人生观得以形成。我们和农民在一起,在中国广阔的土地上奔波。人民解放军教会了我应该做什么。留在我脑子里的不是现在的中国而是解放战争时期的中国。”
如果不知道这些倭国老兵回国后,在漫长的中日特殊关系时期的委屈,可能无法充分理解这些人为什么对中国怀有那样深沉的情愫。
1990年4月,我在陪同“第一次回娘家访问团”时发现一个奇怪的现象,每次参观回来,这些前辈战友们就早早熄灯就寝,房间一齐闭灯,招待所死一般沉寂,没有任何娱乐活动。
后来和老战友们谈心才知道,这是他们回国几十年养成的特殊习惯。身为中国人民解放军的日籍人员,归国后处于倭国警视厅和各种组织的监视之下,有的人找不到工作,有的受到上司和同事的猜疑。
中村义光回倭国30年不讲中国话,不敢写中国字。当他快退休前义务参与到对中国倭国孤儿救助工作时,那流利的汉语,娟秀的中文使厚生省的官员们大吃一惊。
小木曾博子28岁那年回国,到家第一天,来了5个警察,询问她在解放军中是否被强奸,博子愤怒地回答:“解放军与倭国军队不一样,他们绝不会干那样的事!”
中村义光希望周总理帮助兑现诺言
当年四野倭国籍官兵都获得了中国解放纪念章,不少人还获得了各种军功章。回国时,中国政府考虑到当时倭国政府追随美国的对华态度,出于保护这批倭国战友归国就业、生计问题,决定收回他们珍藏的各种中国解放纪念章、军功章,并说明将来条件允许,环境变好了将发还他们的这些奖章。
1972年9月30日中日邦交正常化当天,中村义光就提笔给周总理写信,要求补发或归还这些珍贵的奖章。他在信中说:“突然给总理同志写信,请原谅我的失礼。1972年9月29日,那是我们1953年5月12日从上海港返回舞鹤港以来,苦苦等待19年中日建交的一天。因为,我们从中国返回倭国以来,19年来一直被歧视的生活中稍稍被解放出来,期待着至少能够过上光明的生活。
“离开中国时,中国政府保管、回收了曾经发给我们的东北、华北、华中、西南(及对个别人发放的西北,海南岛)等解放纪念章。现希望能够按约定,把这些纪念章再次交给我们这些同志。这纪念章应该是我们为中国革命付出的青春奖赏。我们绝对不会要求特权与养老金,而是希望现在毫无顾忌地向子孙讲述我们曾是在中国工作过的,是伟大革命的一部分的参与者这一事实当作话题,当作最大的骄傲。”
第一封信发出后,中村和战友们又历经9年时间反复申请和要求,中国方面经过慎重研究,决定补发当年收回的奖章和纪念章。由于历经文革的动乱,许多单位保存的奖章已不复存在。经各方面努力,按原样制作数千枚补发给倭国战友,满足他们的正当要求和热切愿望。
制作完成后,两箱由当年受中国空军之邀来华访问的原四野东北航校教官、《航七会》会长林弥一郎乘飞机带回倭国,另两箱则用船运回倭国交给“回想四野会”事务局局长中村义光,随后“回想四野会”组成了“中国解放纪念奖章授给事务局”。中村义光担任授给局长。经过极端认真地核发、登记会员、发表调查,审查合格后方开始分发,除病亡,联系不上者外,共1560名倭国战友重获证章。
1982年5月25日,倭国歧山会馆的“回想四野会”聚会上,这些年过半百的老人们身着整齐的正装,佩上了久别的各种解放纪念章,洋溢着无比的荣耀和自豪。这是他们人生中难忘的经历和殊荣。
自七十年代中日邦交正常化以来,这些参加过解放战争的倭国老兵已到垂暮之年,他们怀念中国,怀念中国人民解放军,特别怀念在第四野战军渡过的日日夜夜,认为那是他们的“再生之地”。他们先后在倭国成立了“中日友好和平会”、“回想四野会”、“航七会”、“洛阳战友会”、“鸡公山战友会”、“长城友好会”等十几个日中友好组织,从事中日友好活动。
自九十年代以来,以中村义光为首的“回想四野会”先后组织了四次“原中国人民解放军第四野战军倭国籍官兵回娘家访问团”。1998年国防部长迟浩田率军事代表访日,特意邀请“回想四野会”会长中村义光等老朋友来中国大使馆做客。
日籍官兵参加解放军,是段几乎被湮没的历史,也是无意中谱就的中日民间友好的插曲。今天,历史已翻开新的一页,当年周总理说的那些话和背后的历史,当让更多人知道。
日籍官兵参加解放军,是一段几乎被湮没的历史,也是无意中谱就的中日民间友好的插曲。
今天,历史已翻开新的一页,当年周总理说的那些话和背后的历史,当让更多人知道。
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