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真珠湾攻撃
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2025.11.24〜(48週)
:0% :0% (40代/男性)
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倭国人の心にも刺さる。今の世界は四年前のそれとは変わってしまったのだ。そのことに気がついている倭国人は何人いる?いまだにロシアソ連は偉大だ、とか、いい迷惑だとか、いい加減やめたら、諦めたら、とか。いつの世の中に生きているのか。
スマホは使えるが脳内は四年前と変わらない。
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率直に言う。私は3年間、ウクライナ兵を訓練してきたが、「彼らに何の恩義もない」という言葉は、間違っているだけでなく、危険だ。
人はすぐに忘れる。
ウクライナはイラクとアフガニスタンでアメリカと共に戦った。
部隊を送り、我々の兵士の隣で血を流し、見返りを求めることは一度もなかった。
彼らは西側と民主主義を信じていたからだ。自由国家は互いに支え合うという理念を信じていた。
そして今、4年にわたり、ウクライナはアメリカに何度も「死」を願ってきた敵と戦っている。
その敵はいまも、アメリカの主要都市や重要インフラのすべてに核兵器を向け続けている。
そんな敵との戦いが「アメリカとは無関係」だと言う人々がいることが信じられない。
こうした言葉は、第二次世界大戦前のアメリカで聞かれたものと同じだ。
私たちは「これは我々の戦争ではない」と言い、
「ヨーロッパの問題はアメリカの問題ではない」と主張した。
それでも、装備は送った。志願パイロットはイギリスのために戦った。
そして真珠湾攻撃を経てようやく、孤立主義と無関心がどれほどの犠牲を生む誤りだったかを思い知った。
いったい、私たちはいつ学ぶのか。
世界が完全につながっている現代には、孤立など存在しない。
独裁者が力で国境を塗り替え、
戦争犯罪者が核兵器を握り、
民主主義国家が助けられずに一つずつ崩れていく世界で、
「無関係」でいられるはずがない。
宥和は独裁者を止めない。宥和は彼らを増長させる。
私は何千人ものウクライナ兵を訓練してきた。
彼らが自分たちの土地、家族、そして率直に言えば「我々のため」に戦う姿を見てきた。
彼らの闘いがアメリカに影響しないと考えるのは、歴史が教えてきたすべての教訓を無視することだ。
「ここからが我々の問題になる」という一線は、とうの昔に超えている。
それを認めないことこそ、我々が対峙すべき相手を利するだけだ。
こうした思考は「現実主義」ではない。
未来に後悔する新たな悲劇の始まりだ。
アメリカが本当に安定と平和を望むなら、
この世界最前線で戦っている国家を見捨てることはできない。
今助けるか。
それとも、後でもっと大きな代償を払うか。
選択肢はその二つしかない。 December 12, 2025
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「2027年がターゲット」とされているのは、これ以降は大規模な渡海作戦を実行する国力が維持できないのです。軍事力ではまだ米軍に勝てませんから、おそらく解放軍幹部は反対しているのでしょう。それを習政権が政治力で粛清していると見ています。
つまり台湾侵攻は真珠湾攻撃になる可能性が高い🤔 December 12, 2025
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ドクター・中松の戦後80年所感(その39)
そして8月15日、拡声器が鳴って、全員は第二種軍装を付け練兵場に集合すべしというスピーカーが鳴った。第二種軍装とは、夏用の正式な正装である。そして練兵場に集まると、天皇陛下のお言葉が流れてきたが、東京から遠い舞鶴なのでラジオがよく聞こえない。
終わった時も上官が「陛下が今おっしゃったように今後も頑張れ」と、私達全員もこれからもっと頑張るぞということで、倭国が負けたなど一切思ってなかった。
そして翌日からひきつづき猛訓練が続いた。私は海軍に入って関心したことは、その教授陣が立派であるということであった。例えば文学では芥川龍之介が教授だし、理化学についても民間のレベルより遥かに高いレベルの授業だった。しばらくして民間の舞鶴の街の方から、どうやら倭国は戦争に負けたんじゃないかという噂が入ってきた。
そこで海軍機関学校は何をやったかというと、猛烈な勉強を始めたのである。ただちに座学の勉強、物理、化学、国学、地理学その他、すべてに渡って猛烈な量と猛烈な深さで連日の座学が行われた。ここらへんもやはり、海軍の教育レベルの高さであろう。
つまり、これから海軍をやめてシャバに行くには、さらにもっともっと深い教養をつけさせ倭国を支える人材を育成するという方針だったと思う。
そして、私はハンモックNo.1の証明書と学習証明書をもらって舞鶴駅から東京に向かったのであるが、残念ながら貨車しかなくて、貨車に乗って、しかも運悪く雨が降ってきて、一晩中、雨に濡れながら東京に着いた。
そして、久しぶりの我が家について、玄関をノックすると私の母が出てきた。私は母に言った。「ただいま帰りました。」と敬礼すると母は驚いた顔で私を見上げて「どなたさまですか」と言った。
それもそうだろう。出発の時に75cmしかなかった胸囲が108cm以上の巨大な体になって、大男となって、ヌッと玄関から入ってきたのであるから。
家に入って廊下を甲板掃除と見立てて、一生懸命、縁側を磨いて綺麗にした。しかし舞鶴から東京まで貨車で一晩中雨に打たれたせいもあって、赤痢にかかったらしく、急遽、近くの海軍病院に入院することになった。
これが私の終戦の日の、終戦の頃の、そして故郷に復員した日の状況である。
ところで私の家のそばの柿の木坂にアメリカ帰りの祖父が家を建てたのである。この祖父は私のためにボートを浮かべる池を庭に作ってくれたり、それから私のつくった飛行機を一緒に飛ばしに行ったりしてくれたのだが、真珠湾攻撃で親戚全員が祖父の家に集まって、勝った勝ったと言って、喜んだときにその祖父はぽつりと「倭国は負けるよ」ということを言った。祖父が長年アメリカに住んでいた経験から言ったのだろう。
その後、祖父が亡くなり、私の復員後祖母が亡くなった。終戦の後で霊柩車もなく、私が祖母の遺体をリヤカーに積んで、私がリヤカーをひいて火葬場まで祖母を運んで行った。そして、昔から飛行機を一緒に飛ばしに行ってたい従兄弟の文也ちゃん(東大医学部卒業の医師)も一緒についてきた。そうすると向こうから水兵が五、六人、ざわざわと話しながら歩いてきた。そして、すれ違おうとしたとき、私はとっさに「敬礼せんか」とその水兵たちにかけ声をかけて、その水兵たちは一斉に挙手の敬礼をした。その時、私の胸には将校生徒の錨のマークが光っていた。
つまり、何を私が言わんとするかというと、終戦後、何か月も経っているのに、倭国の軍律、軍の規律はまだ残っていて、いかに倭国の軍隊は規律があったかということを私はしっかりと感じたのである。
(つづく) December 12, 2025
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84年前の今日、倭国に対してアメリカのハル国務長官によりハル・ノートが提示されました。太平洋戦争開戦直前における日米交渉でのアメリカ側の提案。当時の倭国は日独伊三国同盟で米国との関係が悪化しており、第2次近衛内閣から継続してきた開戦回避方針のため、東條内閣の外務大臣・東郷茂徳を中心に交渉を行ってきました。
が、米国側の中国・北部仏印からの全面撤退と満州国の別途交渉という条件に対して、陸軍からの圧力もあり妥協できず難航。独ソ戦の開始に触発され交渉期間中にも関わらず倭国は南部仏印進駐を強行し、これに対してアメリカは在米倭国資産凍結、対日石油輸出禁止という措置を取り、日米交渉は暗礁に乗り上げた状況となります。
実はこの時点で11月末までに日米交渉がまとまらない場合は開戦に踏み切ることが決定されていました。
そして、アメリカ国務長官ハルはアメリカ側の提案としてハル・ノートを提示。あくまで提案であったものの内容は倭国にとって厳しいものであり、東郷茂徳はじめ倭国側の多くの要人はこれを最後通牒と受け取り交渉を打ち切り。
12月1日の御前会議にて米英蘭に対する開戦が決定。翌2日には開戦となる真珠湾攻撃の命令として「ニイタカヤマノボレ」の電報が打電され、8日より太平洋戦争が始まることとなります。 December 12, 2025
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笠原十九司disってるけど、啓蒙された点も多いんだよ。例えば56が真珠湾攻撃着想した「伝説的神話」がホラなのは笠原で知ったからね。1936年に伏見宮が海大に「対米用兵作戦」検討諮問。海大側「飛行艇、大型攻撃機、空母機を使用して劈頭真珠湾空襲」なので、伏見宮ラインである軍令部は理解してる。 December 12, 2025
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【倭国の機動部隊 真珠湾攻撃に向けた出航から84年】
1941年11月26日、択捉島単冠湾に集結していた海軍の機動部隊が、ハワイの真珠湾に向け出航。
その直前、択捉島に住んでいた桜井和子さんは、艦隊が集まる様子を隠れて見ていました。
証言は▼
https://t.co/O7vZLip0Qv
#戦争証言アーカイブス https://t.co/jkRBmMjWZk December 12, 2025
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【太平洋戦争と銀行】身柄拘束、船は沈没…ニューヨークやロンドンで銀行員に起きたこと
なぜ倭国は「無謀な戦争」ができたのか?
未曾有の戦争の「舞台裏」には、銀行員たちの奮闘があった。注目の新刊『太平洋戦争と銀行( https://t.co/Sz3aOLsx19 )』では、植民地経営から戦費調達、戦争の後始末まで、お金から「戦争のからくり」を解き明かす。
(本投稿は、小野圭司『太平洋戦争と銀行――なぜ倭国は「無謀な戦争」ができたのか( https://t.co/Sz3aOLsx19 )』の一部を抜粋・編集しています)
■資産凍結から引き揚げへ:ニューヨーク・ロンドン
昭和16年12月7日(現地時間)に倭国が米英蘭に宣戦を布告すると、米国でも日系銀行は接収され営業許可は取り消しとなり、行員たちは連邦捜査局(FBI)に検束された。住友銀行ニューヨーク支店は、閉鎖の準備中に接収となった。もちろん香港やマニラのように、倭国軍が占領して彼らが「解放」されることはない。
ニューヨークで検束された銀行員のほとんどは、自由の女神像に近いエリス島の宿舎をあてがわれた。翌年2月には、彼らはエリス島の東100キロのところにあるキャンプ・アプトンに移された。米陸軍の徴募兵入隊センターとして使われていた場所で、倭国人のほかに拘束されたドイツ人、イタリア人もいた。ここには真珠湾攻撃に特殊潜航艇乗組員として参加して米軍に捕らえられ、太平洋戦争で初めて捕虜となった酒巻和男少尉も、他の倭国人収容者とは隔離して収容されていた。
米国らしいというか、収容所では新聞を読めた。その頃は倭国軍が優勢で、紙面には倭国の勝利や連合国敗戦の記事も掲載されたが、読むのを制限されることはなかった。
昭和17年3月にドイツ人、イタリア人と共に首都ワシントンに近いキャンプ・ミードに移送される。
彼らは昭和17年6月(第1次)と翌年9月(第2次)の交換船で帰国した。交換船は2回ともニューヨーク港発だが、ハワイや西海岸の支店・現地法人に勤務していて抑留された銀行員たちも、これで帰国している。
帰国に際して米国は、収容者による自炊・収容所の清掃は「労役」であるとして、「俘虜の待遇に関する条約」(1929年)に基づいた賃金を収容者たちに支払った。「敵国に労務を提供したのではない」と反発する熱血漢もいたが、ほぼ全員が「賃金」を受け取り、それを残留する倭国人に寄付した。なお倭国は本条約を批准していない。
第1次日米交換船の帰国者たちはニューヨークを出港すると、リオデジャネイロで南米各地からの帰国者と合流する。その後アフリカ南東部のモザンビークに向かい、そこで倭国郵船の交換船「浅間丸」に乗り換えた。昭南(シンガポール)経由で横浜に帰ったのが昭和17年8月だ。第2次交換船はリオデジャネイロや南アフリカを経由後、インドのゴアで倭国郵船の「帝亜丸」に乗船して昭和18年11月に横浜に入港した。
交換船は交戦国間の協定で安全航行が保障されているが、交換船の任務が終了すると攻撃対象となる。「帝亜丸」は昭和19年8月にルソン島北西沖で、「浅間丸」は同年11月にバシー海峡で、それぞれ米潜水艦により撃沈された。
倭国は英国にも宣戦布告をした。加納久朗ら正金銀行ロンドン支店の行員は、日英間で戦争が始まって3ヵ月ほど経った昭和17年3月に身柄を拘束される。彼らは他の在英倭国人たちと共に、大ブリテン島とアイルランドの間にあるマン島に収容された。ここは第1次大戦でも敵性外国人の収容地として使われ、第2次大戦では倭国人のほかにドイツ人、イタリア人、オーストリア人、ハンガリー人、フィンランド人らが収容された。
正金銀行の行員は昭和17年7月の日英交換船・第一系統でリバプールを出港、モザンビークからは交換船「龍田丸」に乗って横浜に帰った。
「浅間丸」と「龍田丸」は、昭和4~5年より太平洋航路に投入された豪華客船だ。船内には住友銀行横浜支店の出張所があり、外貨両替、旅行者小切手(トラベラーズ・チェック)売買、預金の受け入れ・払い出し、外国送金などを扱った。大西洋航路では米英などの銀行が船内店舗を開設している例はあったが、太平洋航路では「浅間丸」「龍田丸」(それと「秩父丸」)の住友銀行が初めてだった。この船内出張所は、太平洋戦争勃発前の昭和16年8月に閉鎖となっている。
「龍田丸」は昭和18年2月に伊豆諸島の御蔵島東方沖で、米潜水艦により撃沈された。また交換船ではないが、日欧間最終定期便に運航された「伏見丸」も、昭和18年2月に御前崎沖で米潜水艦の攻撃により沈没した。
引用元『太平洋戦争と銀行――なぜ倭国は「無謀な戦争」ができたのか』では、どのように「国力の水増し」を行ったのか、植民地経営から戦費調達、敗戦後の「清算」まで担っていた銀行員(バンカー)たちの「知られざる血と汗と涙の奮闘記」を描いている。
https://t.co/Sz3aOLsx19 December 12, 2025
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ウクライナもロシアが正しい、台湾も中国の主張が正しい
安全保障とはそう言う物
倭国の真珠湾攻撃も倭国が先に攻撃したから悪いとはなりません https://t.co/NXKw4AkZum December 12, 2025
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なぜ「小倭国」なのか
嘘、奇襲、そして詭弁
真珠湾奇襲の前日(1941年12月6日)、倭国の「和平特使」は、なおアメリカのハル国務長官と日米和平・友好について交渉を続けていた。
写真の中央を歩いているのがアメリカ国務長官のコーデル・ハル、左が倭国駐米大使・野村吉三郎、右が倭国の和平特使・来栖三郎である。
しかしその翌日、ワシントン時間1941年12月7日13時、ハワイ時間12月8日午前8時に、倭国聯合艦隊の第一波・計183機の爆撃機が、ハワイのアメリカ軍基地を激しく空爆した。米軍および民間人の死傷者は3,581人、そのうち死亡者は2,403人に上った。
ハル国務長官が、この二人の倭国外交官から宣戦布告文書を受け取ったのは、ワシントン時間12月7日14時20分(ハワイ時間9時20分)であり、その時にはすでに真珠湾への奇襲が開始されて80分が経過していた。
倭国の外務当局は、本来であれば開戦の2時間前にアメリカ政府へ通告文を手渡す予定だったと言われている。
しかしその時刻は何度も前倒しされ、最終的には開戦の30分前に通告する方針となった。
(奇襲と何も変わらない)
倭国の操作ミスで結果としてこの通告文書は真珠湾攻撃の30分前までにアメリカ政府へ届けられなかった。
宣戦布告文書を受け取ったハル国務長官は、激しい怒りをあらわにし、通告に訪れた2名の倭国外交官に向かってこう言った。
「私はこれほど厚顔無恥で、虚偽と詭弁に満ちた文書を見たことがない。これまで私は、地球上にこれほど牽強付会で、これほど多くの嘘を並べ立てる国が存在するとは、夢にも思わなかった。」 December 12, 2025
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というか全てシナリオどおりに進行しているだけだと思います。先の大戦も真珠湾攻撃の44年前にアメリカでは倭国の植民地化計画、倭国を経済制裁し倭国から攻撃させハワイ占領の際のシミュレーション、占領後の統治方法などのオレンジ計画がすでに作成されていました。
問題は気付かない倭国人が多すぎることですね。特にエリート層が知識ありの知恵無しというロボット人間にされてしまっていることです。
正義を論じ政治に没頭している人々はまさかシナリオがあり決定したシナリオ通りに動いていることに気付けないのです。124年前に決定したシナリオどおりに80年前に倭国は消滅しています。人々を騙すために如何にも主権があるように見せかけているだけで事実はアメリカの占領地域に過ぎません。アメリカが海外から撤退することは決定済み、これには倭国も含まれます。すなわち倭国の占領放棄です。タダで植民地を放棄することはありません。それは過去の植民地の歴史を見れば明らかです。
全て見えないところで決定し取引されています。ただ人々を騙すためにイベントが必要です。そのイベントは人民の反発や暴動を抑えるための反日映画上映など着々と進めており間近に迫っています。気づいた人々は如何にサバイバルするか真剣に考えましょう。 December 12, 2025
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「トラトラトラ」🎬️
リチャード・フライシャー、深作欣二、日米合作戦争映画の大傑作。
太平洋戦争の発端となった“真珠湾攻撃”を正確に描いた本作は物語の内容により本国では興行的に不評、逆に倭国では大ヒット(笑)
子供のころTVで観て大興奮、模型好きになった原点かも😁
#映画好きと繋がりたい https://t.co/9pIYdQwDNh December 12, 2025
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アメリカ市民はナチスが欧州主要国を侵略しても欧州参戦には反対だった。
イギリスはロンドンを爆撃されてやっと戦闘態勢に入った。
それでも米国の民意は動かず、真珠湾攻撃のあとでやっと戦意高揚映画を作った。
それが彼ら一般市民の自然状態での「愛国心」。
イギリスは戦争で凋落した。 https://t.co/KfRun4NAPl December 12, 2025
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@Cannot_Kaba 銀座にキリスト教専門出版の教文館があり日米開戦と同時に米人宣教師を拘束、倭国人教徒が慰問に行ったら
私は戦前ハワイに行ったら水兵たちは乱れ過ぎ、現地で説教した「こんな事をしてたら神の怒りが下される」
真珠湾攻撃は神の愛の鞭だ
いや、まぁ、話の筋は通ってるけど、開いた口が塞がらない。 December 12, 2025
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笠原和夫『倭国人の戦争 ─戦争映画ノート』、真珠湾攻撃の12/8に全国書店にて発売です。
どうせ戦争するなら、何が悪かったかがわからないと勝てません(というかそもそも本当に勝とうとはしないのが倭国人の戦争の特徴である気も)。なので戦争したくて仕方ない方も、もちろん戦争が嫌いな方もぜひ https://t.co/xfiw0N4nGF December 12, 2025
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@samuraihiroshi 我々の祖先は、子孫が怒り、悲しみを残さぬよう全て背負って死んで行ったんだ。 合掌、藤岡弘、
🐣👑真珠湾攻撃って知ってるかな?🤣🤭他国を侵略したことを知ってるかな?🤣🤭 December 12, 2025
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亡くなった母は小学生で真珠湾攻撃のニュースを聴いて、あんなに大きな国と。ぜったい負けると思ったが黙っていたと。叔父が戦死、祖母はずっと泣いていた。自分達に食べ物はなかったが、どこぞから流れてくるものがたまにあり、どこかでちゃんと食べてる人達がいる、と思っていたと。いつも話していた https://t.co/N64N23I71W December 12, 2025
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**笹原俊氏の著作『第二次世界大戦の真実』**で提示されている歴史観は、通説とは異なる独自の解釈が多く含まれており、これらのテーマは歴史学界で長年にわたり議論されている複雑なものです。
『第二次世界大戦の真実』への評価と批判
笹原氏の著書は、従来の歴史教育とは異なる視点を提供するものとして、一部の読者からは「新たな視点を持つことができた」と評価されています。一方で、その内容については、通説から大きく外れるため、学術的な批判や懐疑的な見方も存在します。特に「倭国が勝利していた」という主張は、歴史的事実として一般に受け入れられている敗戦という結果とは対照的です。
東京裁判と歴史観
東京裁判(極東国際軍事裁判)は、戦勝国主導で行われたため、その正当性については設立当初から批判や議論の的となっています。
•批判の論点: 事後法(裁判のために後から制定された法)の適用や、戦勝国による一方的な裁きであった点などが批判されます。
•東京裁判史観: 戦後の倭国の歴史認識に大きな影響を与えたとされる、この裁判に基づいた歴史観(東京裁判史観)に対しては、「何が倭国人の歴史観を歪めたのか」といった批判的な書籍も出版されています。
•多様な見解: 世界の識者や倭国の研究者の間でも、東京裁判の評価は定まっておらず、歴史的貢献と負の側面を総合的に見る必要があるという見解もあります。
東條英機の歴史的評価
東條英機元首相の評価もまた多面的です。
•一般的な見方: 首相として真珠湾攻撃を決定し、倭国を対米戦争へと導いた責任者の一人とみなされています。戦後、A級戦犯として処刑されました。
•異なる視点: 一部では、天皇の信任が厚かった人物であり、家族の前では公事を口にしないといった誠実な一面もあったとする見方もあります。また、トップリーダーとしての戦略的ビジョンを欠いていた、国民の意向を恐れていたといった分析もされています。
大東亜戦争と太平洋戦争
この二つの呼称は、どちらが適切かという点もしばしば議論になります。
•大東亜戦争: 倭国政府が公式に定めた呼称で、「大東亜新秩序を建設するための戦争」という意味合いが込められています。
•太平洋戦争: GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が使用を推奨し、戦後に一般化した呼称で、主に太平洋地域における日米間の戦争を指します。
•現代の傾向: 現在では、アジア全域を含む戦域と性格をより適切に表現するため、「アジア太平洋戦争」という呼称が用いられることもあります。
これらの歴史認識や解釈には、様々な視点や資料に基づく多様な意見が存在します。一つの決まった「真実」ではなく、多角的な情報源に触れることが、これらの出来事を深く理解する鍵となります。 December 12, 2025
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