直江兼続 トレンド
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2025.12.05
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直江兼続に関するポスト数は前日に比べ133%増加しました。男性の比率は100%増加し、前日に変わり40代男性の皆さんからのポストが最も多いです。前日は「モンスターストライク」に関する評判が話題でしたが、本日話題になっているキーワードは「対立」です。
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じつは「関ヶ原の戦い」にまつわる多くの通説は「間違い」か「フィクション」だった!…最新の研究が明かす「新しい関ヶ原」
誰もが知る「関ヶ原の戦い」。
しかし現在語られる「通説」の多くは間違いや創作だった!
発売即重版が決定した『シン・関ヶ原』(https://t.co/nm1ljnf8rz)では、「徳川家康は天下を取るために戦いを起こした」「西軍の首謀者は石田三成だった」「勝敗は小早川秀秋の寝返りで決まった」などのこれまでの通説を、170通余りの書状から覆します。
(※本投稿は高橋陽介『シン・関ヶ原』(講談社現代新書)より抜粋・編集したものです。)
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新しい「関ヶ原」
関ヶ原の戦いに関する研究は近年、長足の進歩をとげている。現在では、従来語られてきた通説は、ほとんどが間違いであること、もしくは後世の創作であることが判明している。もはや関ヶ原の戦いにおいて「通説は不在である」といってもいいだろう。
私たちが知っている、慶長5(1600)年9月15日に美濃(現在の岐阜県)の関ヶ原で東西両軍が合戦に至るまでの経緯は、おおむね以下のような流れであろう。
慶長3(1598)年8月、太閤豊臣秀吉が没すると、次の天下を狙う五大老の筆頭・徳川家康は、豊臣家の安泰をはかる五奉行の筆頭・石田三成との対立を深めた。武断派諸将の襲撃を受けて近江(現在の滋賀県)佐和山の居城に蟄居した三成は、会津(現在の福島県)の上杉家の家老・直江兼続(かねつぐ)と示しあわせ、東西から家康を挟撃する戦争プランを立案。これにもとづき兼続は領内の軍備を増強し、慶長5年4月、家康をおびき出すために、挑発的な書状を送りつけた。いわゆる「直江状」である。家康は自身の反対勢力をあぶり出して一網打尽にするため、あえて誘いに乗り、軍勢を率いて会津討伐に向かう。それを見るや三成は、盟友・大谷吉継の助言にしたがい毛利輝元を名目上の総大将として、上方で挙兵した。三成挙兵の報を受けた家康は、会津攻めに従軍していた諸将を下野(しもつけ)(現在の栃木県)の小山(おやま)に召集し、7月25日、軍議を開いた。この「小山評定」の席上、福島正則をはじめ豊臣恩顧の諸将がこぞって家康を支持したことで、全軍の士気は上がり、三成らを討つべく反転、西上した——。
また、関ヶ原で行われたとされている「天下分け目の戦い」について、私たちが知っている顛末は、およそ次のようなものだろう。
9月14日、関東から反転してきた東軍主力は、美濃の大柿城(現在の大垣城)に籠る西軍主力と対峙した。城攻めを不利とみた家康は、得意の野戦に持ちこむため策をめぐらし、「佐和山城を攻撃する」という風聞を流した。居城を攻められるのは阻止したい三成は、夜のうちに全軍を率いて城を出ると、東軍の進路に先回りして迎え撃つべく関ヶ原に布陣した。合戦は15日早朝に始まり、一進一退の攻防が続いたが、家康と不戦の密約をかわしていた西軍・毛利勢は、傍観したまま動かなかった。やはり家康と離反の密約をかわしていた西軍の小早川秀秋は、松尾山に陣取ったまま東軍への裏切りを躊躇していたが、業を煮やした家康が正午ごろ、大胆にも本陣を前線に移し、松尾山に威嚇射撃(いわゆる「問い鉄砲」)を仕掛けると、秀秋は驚いて山を駆け下り、大谷吉継の陣地へなだれ込んだ。これを契機に西軍は総崩れとなり、午後2時ごろ、東軍の勝利が確定した——。
しかし現在では、家康の「問い鉄砲」はなかったとする見方が、ほぼ結論となりつつある。さらには、「直江状」や「小山評定」の存在も、疑問視されている。そればかりか、関ヶ原で「天下分け目の戦い」というものが本当にあったかどうかさえ、疑われはじめているのだ。
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https://t.co/tkI1pRLs8n
引用元・高橋陽介『シン・関ヶ原』(https://t.co/nm1ljnf8rz)では、現在の関ヶ原合戦研究におけるトップランナーである著者が、1600年9月15日に美濃の関ヶ原で起こった戦闘の経緯について、当時、徳川家康をはじめとする諸将の間でかわされた170通余りの書状を読み解くことで、新説を提起しています。
ぜひお手に取ってみてください! December 12, 2025
4RP
伊達政宗様ではなかった。でも直江兼続も好きな武将だから問題なし😉
私は「直江兼続」タイプでした!"愛"を掲げる猪突猛進の情熱派らしい…!#シンダーン https://t.co/ZfFGdjL21L December 12, 2025
「5」 その他(ということにします)
実は①②③④が全て起こると予想しています。
①は間違いなく三法師を廃嫡して織田信孝が家督を譲り受けることになります。
清須会議での決定事項を反故にします。
暫くは柴田勝家率いる家臣団を中心にして無理矢理合議制にしてしまうと。
賤ヶ岳の合戦では柴田勝家が勝てば、見方をした丹羽長秀・長重親子は討死か打ち首(参戦していますので)。
この世から消え去ることになりますね。
池田恒興・元助親子については分からないですね。
ただ清須会議の経緯から冷遇される可能性もありかな?
②は織田・徳川連合軍の問題で、徳川が怖いのは信長であって勝家・信孝ではないので、連合軍としては徐々に形骸化していくことでしょうし、三河で力をためていたこともあり、織田信雄を頭にして対立する構図もあり。
また北条と組んで旧武田領攻略(天正壬午の乱)の拡大も視野に入れているかも。
第一次上田合戦にてボロボロにされた真田昌幸を討つ前に、織田家乗っ取りを企むことでしょう、
武田信玄のやり方を真似ることになるかも?
成功すれば、対立から衝突・合戦になるでしょうね。
そのまま柴田軍を破れば上洛ということもあり得る話です。
③はもうこの時点で上杉景勝と衝突しているので、和睦をすることは出来ない。
上杉方も和睦には応じない姿勢を貫くために、体制を立て直しては衝突することになるでしょう。
これは避けられないですが、柴田勝家が魚津城以東を、
すなわち春日山城を目指して進軍しなければ戦闘は停滞することになるでしょう。
ただあの勝家の血の気の多い家臣団なので、
何らかのちょっかいを出してくることでしょうが、
そうなれば、上杉景勝・直江兼続の思うつぼにハマることでしょう(笑)
④は言わずともいいと思います。
まとめ上げられる訳がありません!
秀吉の家臣団は子飼いの武将が多くいるので勝家になびくことはありません。
また黒田官兵衛が毛利方に話し合いというか策略を持ちかけて、織田家への恨みを持つ毛利本家(特に吉川元春・元長)を誘って、織田家を継いだ信孝や柴田勝家らを挑発して困らせることになるでしょう。
勝家にとっては一番の難関であり、一番敵に回してはいけない連中。
内部対立を通り超えて、徳川・上杉・毛利の三国での包囲網が組まれる可能性あり。
また秀吉家臣団は手取川の合戦では上杉謙信との戦いを避けていますし(戦略の違いから離脱している)、上杉景勝と手を結んで孤立させて、最後に北庄城攻略に繋がることになるでしょう。
いずれにしても賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が勝っても、
天下は収まることはないというのが結論ですね。
柴田勝家の家臣団にも外交担当の武将はいますが、
当時の前田利家では負担は重く、また若輩者故に、
晩年のイメージからは程遠いと思います。
人材の育成に関しては秀吉が「一枚も二枚も上」だったと思います。 December 12, 2025
@365nitiyasou 戦国時代を生きた直江兼続公の知恵を上杉鷹山公が拝借した感じかと。
直江兼続公は米沢に厳封された元凶となった事もあり、墓参りも禁止されていましたが、上杉鷹山公がその知恵を借りた事で名誉を回復したとか。 December 12, 2025
【上杉景勝と関ヶ原合戦】
1600年9月15日の関ヶ原合戦までの時系列🫨
①6/10 秋まで上洛を延期したいと豊臣奉行衆に通達したところ、逆心ありと讒言があった。当方から申し入れた讒言者の糾明は行われず、誓紙は反故とされた。上方勢が東下してきたら、迎え撃つ🫨
②8/10 上杉方には徳川勢が小山から引き返したという風聞は伝わっていたが、家康の居所など詳細は把握できず🫨
③8/25 家康が小山から江戸に戻ったと聞き、関東へ出兵しようとしたところ、伊達と最上が敵対してきたので、始末したら佐竹と相談し関東へ乱入する用意だった🫨
④9/2 徳川秀忠が信州に着陣し、真田と交戦状態となり、上杉と上方との情報経路が遮断された🫨
⑤9/9 家康が江戸から西上したことを知らないまま直江兼続は約三万兵を率いて最上領へ侵攻🫨
「東国の雄 上杉景勝」
今福 匡氏
真田領は上杉領と接しているので、徳川が真田を押さえるべき理由の一つがわかるね🫨 December 12, 2025
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